クローズアップ現代 メニューへ移動 メインコンテンツへ移動
2019年4月11日(木)

熊本 復興めぐる“脆弱さ“ 避難続ける人たちの訴え

熊本 復興めぐる“脆弱さ“ 避難続ける人たちの訴え

熊本地震から3年。武田キャスターによる、故郷・熊本からのルポ。益城町の被災者1558世帯のその後の暮らしを追跡したビッグデータの分析からは、通称「みなし仮設」(行政が費用負担し、アパートなどに仮すまい)に暮らす「現役世代」の深刻な実態が見えてきた。首都直下地震や南海トラフ巨大地震においても、被災者支援の大きな柱として位置づけられている「みなし仮設」。熊本地震で浮かび上がった課題をどう克服していけばよいのかを探る。

出演者

  • 武田真一 (キャスター)

今も避難… 現役世代に驚きのデータ

武田:地震から3年がたつ熊本は私のふるさとであり、アナウンサーとして仕事を始めた原点でもあります。熊本地震の後、毎年取材してきましたが、今回、復興に向けた重大な盲点があることを初めて知りました。
きっかけは、被災した人たちがどこでどのように暮らしてきたのかを示すビッグデータ。住み慣れた土地を離れ、バラバラになった人たちが孤立している現実。本来は復興の担い手となる50代や60代の人たちが、とりわけ厳しい生活を余儀なくされていることも分かりました。
熊本の現実は、復興を巡る法律や仕組みのぜい弱さを浮き彫りにしています。

2度にわたって震度7の激しい揺れに襲われた熊本。住宅の被害が特に大きかった益城町。およそ1万1,000戸のうち6割が全半壊しました。

地震直後、家を失った人などが車に寝泊まりする「車中泊」が、至る所で見られました。そうした被災者がその後、どこでどのように生活しているのか。益城町で被災し、プレハブの仮設以外に避難した1,558世帯のデータを、個人情報が伏せられた形で独自に入手。生活の状況や健康状態などを、専門家と共に分析しました。
1つの丸は1つの世帯を示します。地震発生直後から周辺の熊本市や大津町などに、次々と避難が始まっていました。

益城町で初めてプレハブの仮設住宅が完成したのは6月14日。それまでに712世帯が、別の形で避難していたことが分かりました。

最も遠い人は、実に64キロ離れた天草市にまで避難していました。

熊本市内にある避難先の一つを訪ねました。

武田:ここに避難している方がいらっしゃるというんですけれど、本当にごく普通のアパートにしか見えません。

一見、普通の部屋ですが、実は通称「みなし仮設」と呼ばれる避難場所です。

みなし仮設は、災害の後に建てられるプレハブの仮設住宅とは異なります。もともとあるアパートや戸建ての住宅を自分で探し、避難します。家賃は熊本県が6万円まで負担。期限は原則2年ですが、状況に応じて延長が判断されます。プレハブの仮設住宅に比べて住環境がよく、プライバシーも守られます。熊本地震では、避難した4万7,000人の実に7割以上が、みなし仮設を利用しました。

現役世代でなぜ多い? “生活状況が悪化”

武田:データをさらに分析すると、避難の常識を覆す事実も見えてきました。赤くなっているのは、みなし仮設に転居後、通勤の距離が伸びたり、経済的に苦しくなったなど、生活の状態が悪くなった世帯。全体の17%に上ります。

しかも、分析では働き盛りの50代や、まだ元気な60代で生活状況が悪化している人が多いとはじき出されたのです。

みなし仮設に入居後、一家の大黒柱に体調の異変が起きたという家族がいます。中野誠士さん、51歳です。

地震直後、家族で車中泊をしていましたが、2か月後、益城町から7キロ離れた熊本市の今の家に避難しました。中野さんが体調を崩すようになった背景には、一緒に暮らす母のキミ子さんが引きこもりがちになったことがあります。益城町では、近所の人との交流が深かったキミ子さん。見知らぬ土地に移ったことで、そのつながりが断ち切られてしまったのです。今では、物忘れや判断力の低下も現れ始めているといいます。

中野誠士さん
「以前だったら、ちょっと隣にまで行ったりとか、日常生活で当たり前のことをやっていたが、お隣さんにも行かないから。こっち(みなし仮設)に来てからは、要支援から要介護になってきて、実際、水の出しっぱなしだったり、ガスのつけっぱなしもあったので。」

中野さんは福祉関係の仕事をしていますが、日中一人で過ごす母のことが気になり、仕事にも影響が出ています。

(職場)

中野誠士さん
「じゃあ出ますんで、お願いします。」

母のデイサービスがない日は仕事を中断し、車で20分かけ、様子を見に帰ります。

中野誠士さん
「昼飯は食べた?お昼ご飯は食べた?」

近所に、母の見守りを頼めるような人はいません。ボランティアなどによる支援はほとんどないといいます。一方、プレハブの仮設団地では、医療支援や見守りなどが頻繁に行われています。こうした支援がほとんどない中、中野さんは体調を崩すようになったのです。

中野誠士さん
「(プレハブ仮設)団地の方と一緒のようなサービスを受けたいと思いますけど、それは物理的に今の状態、同じサービスを受けられるかというと、難しいんじゃないのかなって思いますね。」

私と同じ歳の中野さんが、3年たった今、困難に直面しているという現実。みなし仮設の被災者を支える仕組みに抜け落ちているものがあることに気付かされました。

中野さん
「決して僕ばかりではないと思うんですけどね。(現役世代の)皆さん、そういう環境におかれたら、そうなられてると思いますし、その家族も大変だと思います。」

武田:お母さまの状態が深刻だということも分かったのですが、中野さんご自身はどうですか?

中野さん
「夜ふっと目が覚めたりすることは多々ありましたね。なんでなのかなと思ったりすると、これからのことを考えてしまったり。どうなるんだろうと。それまで何も思わなかったんですけどね。ストレスとも思ってもいなかったんですよ。でも生活していく中でそういうものが目に見えない部分であったんだろうな。」

データからも、みなし仮設に避難した人は地域のつながりを失っていることが見えてきました。益城町の外にある、みなし仮設に入居した人は全体の75%に上ります。

元住んでいた地区と避難先の地区を分析したところ、ご近所さん同士で移動したのは、最大でも5世帯。9割近くが、みなし仮設の周辺に、かつてのご近所さんがいない単独移動だということが分かったのです。

一方、プレハブの仮設住宅について見てみると、例えば、益城町の赤井仮設団地。赤井地区から入居した人が7割を占め、地域のつながりが保たれていました。

熊本学園大学 高林秀明教授
「何世帯かでもつながりがあればいいが、(みなし仮設は)ほとんどない。バラバラで人のつながりを失った状態で避難生活をしなければならない。自分の家族だけでなんとかしなければいけない負担、精神的な支えがなくなる、非常に大きい。」

首都直下・南海トラフへの“警告”

国は、今後起こりうる災害でも、みなし仮設の積極的な活用を検討しています。首都直下地震で最大87万戸、南海トラフの巨大地震では最大121万戸、必要になると想定しています。みなし仮設に避難した人をどう支えるか。熊本だけでの問題ではなく、今から検討すべきだと専門家は指摘します。

熊本学園大学 高林秀明教授
「市町村、都道府県を越えて、国として、みなし仮設の課題や支援のあり方をしっかり検討、共有していくことが大事。」

親も子どもも…追い込まれる家族

みなし仮設に入居後、一家の大黒柱だけでなく、子どもたちにも影響が及んでいるという世帯もあります。4人の子どもと暮らす、黒木志津子さん、56歳です。

黒木さんが入居したみなし仮設は、元の家から12キロほど離れた大津町にあります。家賃が安いところを探し、ようやく見つけたものの、縁もゆかりもない場所でした。末っ子の穂乃香さんは当時、益城町の中学校に入学したばかり。持病のぜんそくに加え、被災による精神的なショックを受けていました。

見知らぬ土地の学校に転校させるべきか、元の学校に通わせるべきか、黒木さんは悩んだといいます。

黒木志津子さん
「(みなし仮設の)すぐ近くに学校があるので、そこに通ってほしかったんです、最初は。精神面、今の時期に地震のときに、地震が起きて怖い思いをしたあとに、また転校ってなると、(学校の先生は)『もうほんと、学校行かなくなりますよ』って。」

結局、穂乃香さんを以前と同じ益城町の学校に通わせることにしました。それにより、黒木さんの通勤の負担は増しました。地震前の自宅から職場までは車でおよそ20分。しかし、みなし仮設に移ってからは、穂乃香さんを学校に送ったあと職場に向かうため、1時間ほどかかるようになりました。日に日に疲れがたまるようになった黒木さん。地震前のようには仕事ができなくなりました。収入が半分以下にまで落ち込んでしまったのです。

黒木志津子さん
「これが多いほうですね、7〜8万円。仕事中になんかもう目がキラキラして、ちょっとこわくなったんで。いまも立ち仕事しているんですけど、ちょっとしびれがきたり、夜はむくみとか。」

母親の姿を見てきた子どもたちにも異変が及んでいきました。穂乃香さんの姉、紗希さんです。

母の負担を少しでも軽くしたいと紗希さんは、みなし仮設に入ってまもなく、飲食店やコンビニでのアルバイトを始めました。部活や友人との時間を犠牲にし、アルバイトに明け暮れる日々。紗希さん自身にも、体の不調が現れるようになりました。

黒木紗希さん
「倒れたりとかはありましたね。多分それはどういうあれだったかわからないんですけど、ストレスとかもたまっていたのかな。」

黒木志津子さん
「親としては、もうちょっと子どもたちにしてやらないかんなというのが、逆に助けられてるからですね、それはちょっと悪いなという気持ちはありますね。」

一歩ずつ…外から見えづらい現実

熊本地震から3年。今回、私が各地で目の当たりにしたのは、一見外からは分かりづらい、被災した人たちの厳しい現実です。向かったのは、南阿蘇村。私にとって、特別な思い入れのある場所です。

駆け出しのころ、お世話になった人たち。どうしても訪ねたかった人がいました。26年前に取材した、農家の木之内均さんです。

木之内さんが住む南阿蘇村は大規模な土砂崩れが発生し、生活の大動脈だった阿蘇大橋も崩落しました。

木之内均さん
「ここにもうちのハウスがあった。」

イチゴやジャガイモを栽培していた木之内さんの農園は壊滅的な被害を受けました。

木之内均さん
「こんなになったんだよ。本当は道があったが(ハウスごと)落っこちた。」

武田:じゃあ、ここから先は崖崩れの現場になっていると。

3年かけてようやく再建したという農業用ハウスを見せてくれました。

しかし、イチゴ栽培を本格的に再開するめどはまだ立たないといいます。

木之内均さん
「なかなかまだまだ先は長いです。やっぱりこの地域で、もう一度大変だけどやり直そう。育ててもらっていますから、この地域に。本当の完全な復興は、まだまだ先になるでしょうけれど、コツコツ頑張ろうと思っています。」

今回この方にもお会いしました。熊本を代表する人気者、くまモン。

地震が起きて以降、避難所や仮設住宅を回って、被災した人に寄り添ってきました。

武田:今、熊本の人たちはどぎゃんしとんなはっですか?

くまモン
「みんながんばってるモン!!」

武田:まだまだ前に進めない、取り残された気がするという方もいらっしゃいます。そんな人たちに向けて、くまモンは何と言って勇気づけたいと思いますか?

くまモン
「みーんな、えがおになってほしかモン!!」

見えてきた被災者支援の“盲点”

みなし仮設に入居し、各地に散らばった人たち。この人たちを支える仕組みが法律から抜け落ちていたことも分かりました。益城町から委託を受け、みなし仮設に暮らす人たちをサポートする支援団体です。

支援員
「こんにちは。益城町地域支え合いセンターです。」

地震半年後から、1,558世帯を1軒ずつ訪問。生活状態を丁寧に聞き取った上で、必要な支援につなげてきました。

被災者
「こっち(みなし仮設)に引っ越してきて、どぎゃんしても眠れんで。」

しかし、きめ細かい見守り支援を1つの団体だけで行うのには限界があるといいます。

支援員
「天草だったら(1日に)3軒じゃないですかね。(往復)100キロ以上はありますからね。どうしても(訪問)軒数は減っていく。」

スタッフは多い時で28人いましたが、半年に1回ほどしか訪問できない世帯も出ています。一体なぜなのか。みなし仮設を提供する根拠となっているのは、災害救助法です。しかし、被災者に仮設の住宅を供与することと記されているものの、どうサポートするかについては触れられていません。そこで熊本県は、市町村に、被災の規模に応じて支援団体を設立するよう要請。ところが、被災者が別の自治体に移った場合、どこがサポートするか明確な規定がなかったのです。その結果、問題が起きました。益城町から避難した人が暮らす23の自治体のうち、9つで支援団体が設置されませんでした。

また、設置されても、中には人手が十分でないところもありました。

しかも、避難した人からは「いずれ元の住宅に戻りたい」と、益城町の支援を望む声もありました。そのため、益城町の支援団体が各地に散った被災者を支援し続けることになったといいます。

益城町地域支え合いセンター minori 高木聡史センター長
「行った先に高齢者、障害者を見守る枠組みはあるかもしれないが、被災者を見守る枠組みは存在しない。被災者を見守る部分が熊本地震では十分ではなかった。3年目にして感じている。」

支援団体は、みなし仮設を退去した後のサポート体制に、さらに大きな課題があると指摘します。熊本市内のみなし仮設に暮らす、この男性。

来月(5月)期限を迎えるため、退去するよう熊本県から通知がありました。いったんみなし仮設を出ると、その世帯は復興を遂げたと見なされます。この2年半、体調を崩して、健康管理などの支援を受けてきましたが、その関係も断ち切られてしまうのです。

みなし仮設を5月に退去 石井光廣さん
「みなし仮設を退去させられた人も、まだ追いかける必要あるんよね。そのためには、絶対サポートセンターは必要なんよ。あそこが本当“最後の砦(とりで)”なんよね、みなし仮設の人にとって。」

益城町地域支え合いセンター minori 高木聡史センター長
「この事業が続く限り、(被災者が)どこにいるのか分かるが、事業が縮小したときに橋渡しができないと、(支援が必要な)可能性がある人が今は見えている状況だが、また見えなくなってしまう。声が聞こえなくなることへの焦りがある。」

被災者支援の“盲点” 国・県に問う

必要な人に支援が行き届いていないのではないか。みなし仮設の運用について、熊本県に問いました。

武田:全体のコーディネート、県としてやりようがあったのでは?

熊本県健康福祉部 すまい対策室 篠田誠室長
「(発災直後)どういった人が何人、どこにいるか分からなかった時期だったので、県がもう少し乗り出していくところがなかったのは確か。どういった支援をすればいいとか、ここの市町村はあまり地域支え合いセンター(支援団体)もないが、社会福祉協議会のほうで行って見守ってもらうのは当然できる。今思えば“ああすればよかった”と思うことはある。」

さらに、みなし仮設を退去する人たちについては…。

武田:みなし仮設を出た人、必ずしも“生活再建”していないのでは?

熊本県健康福祉部 すまい対策室 篠田誠室長
「少し前まで住まいの再建で全部終わりと思っていた時期もあったが、切れ目のない支援をしていくことが、いま我々に課せられた課題。」

法律では、みなし仮設で暮らす人への支援が明確に規定されていない中、今後どう運用していくのか、内閣府に問いました。内閣府は「熊本地震などの教訓を踏まえ、今の制度の中でみなし仮設の活用促進について、改善や工夫を図っている」と回答しました。

格闘する現役世代 支える仕組みを

今回の取材で、私は熊本の人たちが、この3年間、毎日必死に生きてきたことを強く感じました。経営していたレストランが全壊した、増田一正さんです。

地震があった年の冬、営業を再開するメドが立たないことへの不安を、夫婦で打ち明けていました。

(当時の映像)

増田一正さん
「ここで生活できるんかなと2人で話して。」

妻 嘉代さん
「普通の日常に戻したいだけなんだけど、こんなに難しいことかなと思って。」

それから2年たった今、増田さん夫婦は一歩を踏み出そうとしていました。見せてくれたのは、移動式のキッチンカーです。

ここでの営業を軌道に乗せて、南阿蘇村で再びレストランを経営するのが目標だといいます。

増田一正さん
「夢に向かっていける土台が3年間たってできて、今からまたちょっと積み重ねていって30%と思って3年たったんで、あと70%積み上げて、10年後ここで理想とする暮らしができたらなって思っています。」

武田:今回、会った人たちは、3年がたっても元の生活を取り戻そうと、必死に格闘していました。そうした人たちへの支援はこれからも必要です。そして、次の災害に備えて、被災者をその人たちの状況に応じて、息長く支える仕組みを真剣に考えなくてはならないと思います。

関連キーワード