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2019年3月14日(木)

渋谷タイムトラベル! 謎の無人空間に潜入

渋谷タイムトラベル! 謎の無人空間に潜入

渋谷駅から目と鼻の先にある桜丘町の一角が、巨大都市開発のために囲いで覆われ、立ち入りが禁止された。そこは前回の東京五輪の際に246号線によって駅周辺から分断され、バブルの開発も免れたエアポケット。時代の記憶が刻み込まれた“タイムカセプル”のような場所だ。賃料が安く人々を包み込む“わい雑さ”を持っていた街にも、ついに開発の手がのび、3月には新たな道路を作るための更地となる。その無人の街に許可を得て潜入。建物に残されたモノなどから、時代の残り香を映像で収集し、平成の最後に、私たちが生きてきた時代と東京の今を見つめる。

出演者

  • 武田真一 (キャスター)
  • 鎌倉千秋 (キャスター)

渋谷タイムトラベル 都市の無人空間に潜入

2月上旬。私たちは初めて、この無人の街にカメラを入れた。

取材班
「早速中に入らせていただきます。工事音はするんですけれども、誰もいません。楽器屋に居酒屋。お店が多い街だったみたいですね。建物の内装がごっそりなくなっていて真っ暗です。」

桜丘再開発 作業所長 不破卓見さん
「まずは内装のほうをほとんど撤去している状況です。ここはすぐ目の前に国道とか首都高速が通ってるんで、非常にこれから人が増えていきます。」

皆さん、渋谷といえば思い浮かべるのが、スクランブル交差点や忠犬ハチ公。今回、再開発が行われているのは、その反対側にある桜丘町の一角。渋谷駅の目の前にありながら、国道246号線で隔てられた、やや不便な場所。この一角がさら地となり、恵比寿へつながる幅15メートルの道路や高層ビルなどができる。

完成は4年後。駅につながる遊歩道も設けられ、全く新しい街へ生まれ変わるという。

消えゆく桜丘とは、一体どんな街だったのだろうか。まずは、この街の最も古い記憶へタイムスリップしてみよう。それは、解体現場の片隅で見つかった。

「五右衛門風呂。」

「ここにまきを入れて。」

まきで沸かしていたと思われる五右衛門風呂だ。ここには、戦前に建てられた古い木造家屋があった。

桜ヶ丘再開発 作業所長 不破卓見さん
「ほぼもう潰れた状態になっていましたので、人も長い間、住んでなかったような状態で置いてありました。」

この辺りには、渋谷では珍しく、戦争の被害を免れた建物が残っていた。戦時中、激しい空襲で一面焼け野原となった渋谷。しかし、桜丘の一角は奇跡的に戦火を免れた。昭和13年に建てられたこのアパートには、かつて大東亜共栄圏の掛け声のもと、アジア各国から優秀な留学生が集ったという。

しかし、古い建物の多くは、現在の耐震基準に合わず、それが再開発を進める理由の一つにもなった。
この日、桜丘の代名詞でもあった、桜並木の一部が伐採されていた。じっと作業を見守る男性がいた。

取材班
「写真で記録されているんですか?」

東松友一さん
「だって自分の街が変わっちゃうっていうんだから。住んでるから、撮っておきたいなと思って。」

取材班
「誰が植えたんですか?」

東松友一さん
「桜丘町会で植えた。」

東松友一さんは、この街に桜を植えたメンバーの一人。渋谷の中で、少しでも街の存在感をアピールしたいという思いからだった。
62年前の桜丘。現在の国道246号線はまだなく、街は駅の改札に直接面していた。一方、現在の渋谷駅ハチ公口はというと、スクランブル交差点はまだない。渋谷の顔、センター街の場所には、家が立ち並んでいた。そのころの桜丘は、渋谷の表玄関の一つとしてにぎわっていたという。人通りが絶えなかったという、かつての桜丘。一変したのは、55年前のあのビッグイベントの時だ。渋谷駅の北側に広がっていた広大な米軍の住宅が返還され、オリンピックの選手村や会場が整備された。この時、山手線をくぐるように、国道246号線が新設。それに伴って、桜丘にあった国鉄の改札口はなくなった。首都高速道路も建設され、桜丘は渋谷駅から分断される形になった。オリンピックが終わると、跡地に渋谷公会堂など、東京を代表する文化施設が次々にオープン。桜丘は、こうした渋谷の北側で起こった開発から取り残されることになった。

東松友一さん
「結局分断されちゃったから、向こう側とこっち側で。」

開発から取り残された街に、2度目のオリンピックとともに巡ってきた再開発。今度は、街の希望の光となるのだろうか。

東松友一さん
「道も広くなるし、もっと桜の木を植えるという話は聞いてるけどね。こういうふうに太くなるのを楽しみにしてるけどね。」

工事開始から約1か月後。ビルの取り壊しが本格的に始まっていた。次は、高度成長期の桜丘にタイムスリップしてみよう。ビルの地下に、そのころオープンした店があるという。

取材班
「席がないですね。立ち飲み屋だったみたいですね。」

解体されていたのは、半世紀もの間、営業していた立ち飲み屋。時には100人もの客がカウンターで肩を寄せ合い、酒を飲んだという。ここは、つまみが300円ほどで食べられる庶民の懐に優しい店だった。

長年、店を切り盛りしてきた、名物おかみは…。

原川ヨシエさん
「お客さんは、サラリーマンの人たちが多いですね。5時になるとすぐ、ぱあっと入ってきますし。気楽に飲めて、気楽な金額でおいしいの食べてってもらったらいいなと。ほんとに毎日の人は毎日。」

モーレツ社員が当たり前だった時代。誰もがよく飲み、血の気の多い客も多かったという。

原川ヨシエさん
「『お金いらないから出てってください』って、お客さんともみ合う。そういう人もいましたね。昔の人たちなんかもう、ぐっでしょ。入れるとくっくとあけてましたよね。」

安さを売りにした立ち飲み屋は、昭和、平成と、時代を超えて人々から愛され続けた。

この日、桜丘の記憶が詰まったある場所へ案内された。

取材班
「ここは何の部屋ですか?」

桜ヶ丘再開発 作業所長 不破卓見さん
「ここは残置物(置き場)ですね。」

残置物とは、入居していた人たちがビルに残していった不要なもの。

「これはドラムスティック?ライブハウスの備品じゃないですか?」

日本が豊かさに向かって突き進んでいた、昭和の時代。桜丘は、新たな音楽、ニューミュージックの震源地でもあった。作業員の朝礼が行われている、この場所。実はここ、かつて新人歌手が歌を披露するステージとして使われていた。

音楽で一旗揚げようという若者たちが、日本中から集っていたという。ビルの中には、レコーディングスタジオもあった。ここでヒット曲を生み出し飛躍していった若者も多い。中島みゆき、長渕剛、そしてチャゲ&飛鳥。スタジオのエンジニアだった石塚さん。当時の桜丘には、独特のエネルギーがあふれていたという。

石塚良一さん
「将来、頑張ろうという人たちが桜ヶ丘に集まってきていて、食堂も安いから集まってきたり。」

中島みゆきの「時代」。そして、長渕剛の「乾杯」。数々の名曲が、このスタジオから送り出された。

桜丘にスタジオができたのは、昭和50年。駅の向こう側では、パルコがオープン。渋谷がファッションの街として、新たな発展を迎えた時代だ。

一方、桜丘では、アマチュアから駆け出しの歌手までがステージでしのぎを削っていた。おしゃれな渋谷とは対照的に、若者の汗と涙が詰まった場所だったのだ。
昭和の終わりから平成にかけてのバブルの時代、渋谷中心部の変貌は加速する。巨大ファッションビルや、文化施設が次々にオープン。センター街をコギャルがかっ歩した。

しかし、バブルの地上げと開発の嵐は桜丘には及ばず、比較的地価が安い状態が続いた。そのことが、桜丘にあるものを集めることになった。解体のための足場をくぐって、その痕跡を探しにいく。

「足元、気をつけてください。」

駅に近い割に家賃が安く、人を集めるための広い空間を確保できた桜丘。そこに集まっていたのは…。

取材班
「ここは会社だったんですかね?」

「ここはバーテンダースクール。」

取材班
「日本バーテンダースクール。これは入学申込書。」

「この辺には多いですよね。塾も多いですし。」

この界わいには、ギター教室やボクシングジム、英会話教室など、たくさんの教室が集積していた。バブルがはじけ、豊かさとは何かが問い直された時、一躍注目を集めた教室があった。

取材班
「なんかすごいレトロな感じですね。お店の中みたいな。」

「53年くらいの歴史がある。」

このダンス教室、実は有名な映画のモデルにもなった。

取材班
「オオッ!“Shall we dance?”の光景と、電話をしたのが始まり。ここが出ていたんですね、『Shall we ダンス?』。」

社交ダンス教室を舞台にした、平成8年の映画「Shall we ダンス?」。不器用な中年サラリーマンがダンスに魅了されていく物語は、バブル後の疲れた日本人に大ヒット。周防正行監督は、この映画の脚本を書くために、桜丘のダンス教室に通ったという。監督にダンスを指導した、柳川純子さん。

柳川純子さん
「周防監督がふらっと教室に訪ねてこられて、私のダンスに対する姿勢とかをいろいろお話させていただいて、あのころはほんとにスマホなんていうものなかったですし、みんなが会社帰りに習い事をするみたいな時代だったので。」

桜丘での教室が最後の日。みんなで踊ったのもあの曲だった。さまざまな教室がひしめく桜丘。そこは、都会の片隅で、仕事以外の豊かなひとときを過ごすオアシスだったのかもしれない。

2月下旬、一本のさら地が街の端から端まで貫通した。これまで見えなかった首都高速が見通せるようになった。最後に、解体を目前にした、あるマンションにカメラを入れた。ここには、平成も半ばに入ったころ、桜丘に起きた一大ブームの記憶が刻まれているという。部屋の中に明らかにおかしな場所があった。

取材班
「これは浴室…、じゃないか。」

浴室のようなタイル張りなのにカーペットが敷かれ、バスタブが見当たらない。

こちらの部屋でも。

取材班
「あっ、お風呂潰しています。なるほど、風呂じゃないですね。お風呂潰しているケースがやっぱり多いですね。」

実はこのマンション、住居として使っていた人はほとんどいなかったという。一体どんな人が、何のために借りていたのだろうか。それを知る人物がいた。IT企業を経営する、南壮一郎さん。

南壮一郎さん
「ちょうどあそこの部分ですかね。あそこの部分の真ん中あたりで。」

マンションの一室で事業を立ち上げた南さん。この場所を選んだのは、目標に少しでも近づきたい気持ちからだったという。平成の時代も半ばに入ると、渋谷駅周辺はIT企業の聖地と呼ばれるようになった。有名企業がこぞってオフィスを構えていた。しかし、起業したばかりのベンチャー企業にとって、渋谷中心部のオフィスは高根の花。そこで目をつけたのが、比較的家賃の安い桜丘だった。わい雑さも残る桜丘には、野心を抱く若者たちが次々に集まってきたという。

南壮一郎さん
「どんどん、どんどん(桜丘で)仲間が増えていく。どんどん、どんどん、スタートアップが生まれてきたというのは、見ていて勇気が湧きましたし、『お互い一緒に頑張っていこうぜ』って。」

今では1,300人規模に成長した南さんの会社。若き日の自分を育ててくれた、桜丘という街を今、こう振り返る。

南壮一郎さん
「当時はやっぱりまだまだ何もなかった、我々にとって時代でしたし、未来しか語れなかったんですよね。今があるのは、あの街(桜丘)があったからだと思ってますし、これからも、あの街を見守り続けながら、自分たちも、もっと、もっと大きくなっていきたいなと思います。」

かつて、夢を目指してもがく若者たちが集った街、桜丘。そして、大人たちが特別な時間を過ごした街、桜丘。今年10月にはさら地となり、人々を包み込んできた懐の深い街は姿を消します。

武田:ビルを壊してみたら、実はその下に、昭和から平成、高度経済成長、バブル、そしてその後の時代と、その時々を懸命に生きた多くの人たちの声やにおい、夢や涙が、地層のように積み重なっていたという発見だったんですね。

鎌倉:渋谷というと、世界的にも東京の顔ですけれども、その中でこの桜丘が担ってきたのは、華やかなステージに出ていく人たちの準備の場所であったり、一息ついたり、時には逃げ込んだりと、舞台裏の役割があったんじゃないかなと思いますよね。東京オリンピックに向けて、街はどんどん変わりつつありますけれども、多様な人を受け入れる、ひだのような奥深い場所も必要ではないかなとも思いますね。

武田:私たちも大きなものや新しいものだけではなく、時代とともに変わっていく人々の暮らしや思いに、目を凝らして伝えていかなければならないと思います。そうした思いを共にしてきた鎌倉さん、そして田中泉キャスターは今日で番組を卒業します。

鎌倉:3年間、どうもありがとうございました。今後は、国際分野にもう少し深く身を置いて、激動する世界を、現場からお伝えしてまいります。それからもう一つ、この番組でもたびたびテーマになりました、多様な人が生きる多文化社会に向けて、中国語で情報発信をしてまいります。新たな挑戦ですが、頑張ります。

武田:これからいろんな挑戦をされる方、多いと思いますけれども、皆さん、新しい時代に向かって、共に頑張っていきましょう。