クローズアップ現代

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2017年8月1日(火)
“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ

“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ

7月に亡くなった医師・日野原重明さん(享年105)、100歳を過ぎても現役の医師を続け高齢者が活躍できる社会のあり方などに提言を続けてきた。実は、日野原さんは晩年、自らや周囲に対して「死をどう生きるか」という問いを発し続けてきた。“死に向かう人生を、最期のときにどう結実させるか”という意味だと語っていたという。番組では、NHKの膨大な映像資料や、長年交流を続けてきた人々の証言などから、日野原さんが伝えたかった「死を意識した生き方」とは何かを探る。

出演者

  • 柳田邦男さん (ノンフィクション作家)
  • 加藤登紀子さん (歌手)
  • 武田真一 (キャスター)

日野原重明さんに捧(ささ)げる “愛の賛歌”

ゲスト加藤登紀子さん(歌手)

♪もしも空が裂けて大地が崩れ落ちても
私はかまわない あなたといるなら
あなたの腕の中で 体を震わす時
何も見えないわ あなたの愛だけで

あなたが言うなら 世界の果てまで
地の果てまでも
あなたが言うなら 栗色にでも
黒髪にでも
あなたが言うなら 盗みもするわ
あの月さえも
あなたが言うなら 国も捨てるわ
友もいらない

もしもあなたが死んで 私を捨てる時も
私はかまわない あなたと行くから
広い空の中を あなたと二人だけで
終わりのない愛を 生き続けるために

日野原重明さん ラストメッセージ

加藤登紀子さんがささげる「愛の賛歌」をお聴きいただきました。
105歳で亡くなった日野原重明さん。生涯現役の医師として、高齢化社会を豊かに生きる象徴でもありました。

「生きかた上手」はベストセラーとなりました。「新老人」という言葉も世に広げました。医師としては、日本でいち早く予防医学に取り組み人間ドックを導入。「生活習慣病」という捉え方を普及させました。また、終末期医療に尽力し、国内で初めてホスピス専門の病院を開設しました。
そんな日野原さんが生涯をかけて問い続けてきた言葉があります。「生とは何か」「死とは何か」、そして「死をどう生きたか」。そこには、医師としての日野原さんの知られざる葛藤がありました。

“死”をどう生きたか 日野原重明さんの105年

NHKに残されていた、日野原さん、99歳のときの未公開映像です。30年にわたり自宅に若い研修医たちを招き、医師としてのみずからの考えを伝えてきた日野原さん。

「医者として、最終的な目標ってあるんですか。何かここまでしようみたいな。」

日野原重明さん
「ここまでっていう限界はないね、頂上はない。」

「無限に続いていく?」

日野原重明さん
「頂上は無いけど、坂はあるだけ。やっぱり患者とどうして一体感になるか。」

死に向かう患者の最期の時間を、どう豊かに生きてもらうのか。日野原さんは1つのエピソードを語り始めました。

日野原重明さん
「緩和ケア病棟に入院していた60歳くらいの女性はね、亡くなる1週間前に私に、おなかの痛みをちょっとコントロールできたから『ちょっと外出したい』と言って。『どうされるんですか』って言ったら、『私はソーシャルダンスが好きだから、死ぬ前に1回踊って死にたいから』って言ってね。私にきれいに衣装したね、こう抱き合って、こうやってる(踊ってる)ところの写真を僕にくれた。その4日後に、もう彼女は死んでしまった。そういうね、人生もあるんですよ。」

日野原さんが生涯を通して貫いた、医師としての問いかけ。

「『平穏死』のすすめ」 解説より
“人は死をどう生きるべきか。そして、生を完成させるこの終末に立ち会う医療は、そこで何をなすべきか。”

日野原さんの問いの原点にあったのは、若き日に目の当たりにしたおびただしい数の死です。33歳で体験した東京大空襲。手の施しようもなく、目の前で次々に無念の死を遂げていく人たちの姿を見て無力感にさいなまれたといいます。

日野原さんにとって苦い記憶となった出来事もありました。初めて受け持った16歳の少女の死です。死を受け入れたかに見えた少女に対し、日野原さんは無理な延命を施したのです。

「僕は頑固な子どもだった」より
“私は彼女を安らかにみとるのではなく、最期まで苦しめてしまった。そのことがいつまでも心に引っかかっていた。”

そうした経験を重ねた日野原さん。終末期医療に力を入れ、患者の理想の死を追求してきたのです。

日野原重明さん
「その最期にね、ありがとうっていう、自分が生を与えられたことに対する感謝をね、いろんな方面にね、自然にこう、声が出るようなことがあればいいと思いますね。
だから私は、いよいよ苦しいときにモルヒネなんか、こういろいろするけどね、意識が全くなくなってしまうと感謝の言葉が出ないから、そこまで強いお薬を使わなくても、いま死んでいく自分だっていうことが分かる意識があればね。その時にその人はそういう言葉を心の中にでもね、出すことが出来るっていうように思うわけですよね。」

生涯で1,000人を超す患者の死をみとってきた日野原さん。しかし、妻・静子さんの死は自身にとって全く異なるものでした。

日野原重明さん
「静子、お見舞いに来ましたよ。パパですよ。」

最愛の妻・静子さんです。80歳を過ぎてから意思の疎通が難しくなり、目に見えて体調も悪化。入退院を繰り返していました。医師として静子さんらしい死を迎えてほしいと強く願った日野原さん。その一方で、夫として妻の死を前に崩れ落ちそうになる自分も感じていました。

日野原重明さん
「私自身の生き方とか命を考える、こんなにシリアスに訴えてくることは今までなかった。もうこの病気はやむを得ないんだから、ベストを尽くしたからこれであきらめざるを得ないという気持ちで今までは水に流されたのが、今はね、水に流すようなことは考えられないね。」

93歳で亡くなった静子さん。その最期、感謝の言葉を直接聞くことはかないませんでした。生前、親しくつきあってきた医師の石飛幸三さんは、妻の死に直面した日野原さんの当時の思いをこう推察します。

医師 石飛幸三さん
「あの認知症の奥さんを思えばこそ、何とか奥さんにもっと生きて欲しいという日野原先生の思いが伝わってくるじゃないの。人生の最期っていうのは、深い淵(ふち)で深淵(しんえん)だから。家族の迷いの中もみんなそれだよね。
日野原先生ですら、その人間である一面があったということなのかもしれない。自分で正直に、そこらをおっしゃったのかもしれないね。」

妻の死という大きな出来事のあとも、日野原さんは「死をどう生きるか」というテーマに向き合い続けました。

日野原重明さん
「最後の言葉として“ありがとう”という言葉をね、何らかの言葉か、何かの表情か、言葉が出なくなった患者が、目で“ありがとう”ということを周辺の人にね、介護をしてくれた人に表すような目のサインを送ることができれば、私は非常に人生は生きがいがあったものと思える。」

“生と死”を見つめて 医師・日野原重明さん

ゲスト柳田邦男さん(ノンフィクション作家)

日野原さんは、医師としてはどんな存在だった?

柳田さん:初めてお会いしたのが1980年のことで、当時まだホスピスだとか、死の臨床などという言葉が一般化していない時代で、早くも一般の方々の啓発活動として講演会の中で語られたんですが、それを私、聞きまして、ものすごく感銘を受けたんです。なぜこんなに感銘を受けるんだろうかと。その中では、ビデオの中にも出てきた16歳の少女の死、それをしっかりみとれなかった悔いというものを、私そのとき、日野原先生はもう69歳だったんですけれど、なぜこんなふうに私の心を揺さぶるのか考えたんですね。
そしたらその後、日野原先生がいろんな本を送ってくださるんです、あるいは論文とか。それを精読し、分析的に見るうちに、日野原先生は、古代の哲学、あるいは現代の哲学者、そういったものを全部原典で読み、それをこなして自分の言葉にするんですね。その言葉が実に分かりやすい語り言葉になってるんですよ。人の心を揺さぶる、これは医師として、患者と生の言葉で話し合うわけですから、「書き言葉」ではなくて「語り言葉」の人、しかもその言葉が精神性において非常に美しい。そこで私は、日野原先生のイメージというのは、美しい言葉を使う人、美しい言葉で患者と語る医師、こういうイメージでしたね。

「死をどう生きたか」という難しいテーマ、どう受け止めた?

加藤さん:抽象的にいえば難しいけれど、日野原先生が、奥様の意識が薄くなっていても、雲の向こうには必ず月はある、雲の切れ目から瞬間的に月が輝くときがある、その瞬間を待つんですって。手を握ってらしていたときのこととか、やっぱりある意味で、最期の瞬間まで口には出せない、けれども、なんらかの方法で命は輝いているはずだったっていう、これはとても響きましたね。だから本当に最期がその人にとって一番大事な表現として人の心に残っていくということだと思いますね。

奥様との死に際した葛藤をどう見た?

柳田さん:これは人間として、自然な営みだと思うんですね。ですが、それは動揺ではなくて、非常に葛藤の中から真実を見極めようとする、その死生がまさに表面的には動揺に見える。しかしそれは時間の経過の中で、実は日野原先生の死生観をものすごく深いものにしていったという、こういうふうにわたくしは感じてます。

死をどう生きるかと問い続けた日野原さん。こちらの映像は去年、105歳の誕生日に撮影した日野原さんの様子です。

東京オリンピックで聖火に火をともしたいと希望を語っていらっしゃいましたが、その後しばらくして体調を崩し、病床での生活を余儀なくされました。亡くなるまでの間、日野原さんは自身の死とどう向き合っていたんでしょうか。

日野原重明さん 自らの“死”を見つめて

4,000人が別れを惜しんだ告別式のあと、自宅に戻ってきた日野原さん。その最期の日々を遺族が初めて語りました。
日野原さんは当初、自身の死と向き合いきれずにいたといいます。

次男 妻 日野原眞紀さん
「やっぱりまだ未知の部分で自分が体験していないから、『そこにはやっぱり不安と怖さがあるよね』っていうようなことを言ったんですよ。人の死をたくさん見てきて、75年も臨床医をやってらしてて、そんな思い、やっぱり怖いっていうのってあるんだなと。」

その後、日野原さんは延命治療をするかどうかの決断を迫られることになります。入院中に全身の衰弱が進み、すでに食べることも困難になっていました。日野原さんの主治医を務めた福井次矢さんです。家族の立ち会いの下で、直接本人に延命の意思を確かめることにしました。

主治医 聖路加国際病院 福井次矢院長
「3月20日の午後2時半から、もう時刻も決めて伺いました。日野原先生は、もう本当に明確に、管を介する栄養補給、胃ろうを含めて望まないと。さすがにそれを伺ったときは、命にも制限があるということを明確にすることでもありましたし、非常に重く受け止めました。」

命の終わりを覚悟した日野原さん。みずからの死をどう生きるのか、最後まで模索を続けていました。このころ、日野原さんと連絡を取り合っていた人がいます。日野原さんが設立した団体「新老人の会」の事務局長、石清水由紀子さんです。亡くなる3週間前、「講演会に、もう一度出たい」と突然電話をかけてきたといいます。

『新老人の会』事務局長 石清水由紀子さん
「私に何事だろうと思って受話器を取りました。そしたら『次(の講演)はどこなの?』ってお聞きになるんです。『行けるように、これからリハビリをするから』とおっしゃったんです。」

講演のテーマは「限られた命をどう使うのか」というものでした。

『新老人の会』事務局長 石清水由紀子さん
「先生はやはりご自分の使命っていうんでしょうか、地方を巡って講演をして皆さまに伝えるということを本当に生きがいにしておられたと思うんですね。」

もう一度、人々に自分の思いを伝えたい。その一心で日野原さんは歩くためのリハビリを懸命に続けていました。

次男 妻 日野原眞紀さん
「最後までチャレンジ精神でしたね。それは亡くなる4日前も、聞き取れない言葉で、私が『何?』って言うと『体操』って言うんですよ。『足の体操をいつもみたいにして』っていう意思表示だったんですね。だからそれはしましたけど、最後はやはり蹴る力がなかった。それが運動の最後の日でした。」

その一方で、日野原さんは命が燃え尽きていくみずからの姿を、医師としてのまなざしで見続けていたといいます。

主治医 聖路加国際病院 福井次矢院長
「ご自身の死を自分のものとしてとらえながら、一方ではそのような自分、死にゆく自分を観察してやろうくらいの、それくらいの客観性と好奇心を持ち続けていたんじゃないか。命の終わりが近づいているということはわかっていながら、そこのところの気持ちはやはり行ったり来たりだと思います。」

7月18日。日野原さんは105年の人生に幕を閉じました。感謝の気持ちを伝える最期だったといいます。

次男 妻 日野原眞紀さん
「『ありがとう、ありがとう』で最後はきてましたね。子どもたち1人1人に『誰々と話しますか?』っていうと『うん』って父が言って、それで1人1人にラストメッセージをちゃんと伝えていました。あなたがよくしてくれたということを自分はすごく感謝していると。僕の存在がいなくなったときに、あなたが一番悲しむのは僕にはわかっていると。でもそんなに悲しまないでほしいと。」

日野原重明さん。死を生ききった人生でした。

日野原重明さん ラストメッセージ

最期は感謝の言葉で旅立たれた。どう見た?

加藤さん:本当に日野原さんの人生を生ききっていかれたなということをあらためて思いますけれども、私は去年(2016年)の11月の10日、105歳になられてから新老人の会のゲストに呼んでいただいて、日野原さんが講演をなさったあと、私のステージをずっと聴いてくださっていたんです。車いすで前で聴いてくださっていて、1時間歌い終わったあとに、立ち上がって拍手をしてくださって。

私、もうびっくりして思わず駆け寄って抱き合ったんですけど、そのなんていうか、あふれるような思いをそのとき感じました。生きるということについての思いをそんなふうに受け止めたのは初めてですし、最後の最後にそれを届けてくださったことが本当にうれしいですね。

日野原さんと長年親交のあった瀬戸内寂聴さんにも、お話を伺っています。

瀬戸内寂聴さん
「死ぬことがどんなことか、お医者さんだったから良くわかってらしたからね。できたら生きてて、もっとみんなと仲よくして、役に立ってやりたいっていうふうに思ってらしたんじゃないかしら。生きることはお好きだったものね。結局、自分が生きていることが何か人の役に立つ、立っていることが先生にとって、生きることだったんじゃないですか。」

“死”をどう生きたか 日野原重明さんの105年

日野原さんが最後まで求め続けた死をどう生きたか、あるいは死をどう生きるか、私たちはどう受け止めればいい?

柳田さん:これは人間のライフサイクルという見方で見ますと、従来のライフサイクルというのは、生まれてから中年期に最高になって、そしてやがて下り坂で死で終わるっていうんですけど、これはとても大事なところが抜けている。
それは精神性の命なんですね。人間の精神性というのはむしろ、定年後とか病気をしてから成熟して、成長するので、しかもそれは死で終わらないで、亡くなったあとも、その人が残した生き方や言葉というのが後を継ぐ人の中で生き続ける。これは今までの日本の人々の考えの中で支配的だった、老いや死を暗く考えるっていう考えを180度変えて、むしろそれはチャレンジする新しい生き方なんだっていうことを日野原先生は身をもって教えてくれた、わたくしはそういう死後の在り方、「死後生(しごせい)」と呼んでるんですけど、これを考えると今どう生きるかっていうことへの問いかけであり、それが死を生きるということなんだと、こういうメッセージを受け止めています。

私たちも、日野原さんに感謝を申し上げたいと思います。