クローズアップ現代

毎週月曜から木曜 総合 午後10:00

Menu
No.36672015年6月11日(木)放送
幻の“日本シリーズ” ~フィルムからよみがえる選手たち~

幻の“日本シリーズ” ~フィルムからよみがえる選手たち~

映像発見! 幻の“日本シリーズ”

神奈川県内に住む繁岡春子さん、81歳です。
父親の遺品を整理したとき、古い8ミリフィルムが出てきました。
昭和11年12月と書かれた缶。
映っていたのは古い野球の試合。
それ以上のことは誰も分かりません。

繁岡春子さん(81)
「こういう物もあるものかなというくらいで、中身は気にしていなかった。」




珍しいものかもしれないと思った家族は、映像をインターネット上に公開しました。
その映像を見て驚いた人がいます。
ノンフィクション作家の森田創さん。
戦前のプロ野球について調べを続けていました。
映像は僅か2分。
途切れ途切れの試合。
試合後に喜ぶ選手。
そして表彰式。
見ているうち、興奮で仕事が手につかなくなったといいます。

ノンフィクション作家 森田創さん
「これって昭和11年の巨人とタイガースの優勝決定戦じゃないかと思い始めて。
本当かな、そんなことあるかなって。」


昭和11年12月に行われたプロ野球史上初の日本一決定戦。
巨人対大阪タイガース。
7球団で春と秋のリーグ戦を戦い、優勝チームどうしが激突しました。
現在の日本シリーズの原点として語り継がれてきましたが、映像が確認されたことはこれまでありません。

森田さんの情報提供をもとに、NHKではフィルムを鮮明にする作業に取りかかりました。

「形が見えてきた。」



2か月の作業を終えると、背番号や腕や足の先など、選手たちの動きがよみがえってきました。
映像は幻の一戦なのか。




プロ野球の歴史に詳しい、野球殿堂博物館の学芸員、関口貴広さんです。
試合の公式スコアや、当時の写真などの資料と照らし合わせてもらいました。

野球殿堂博物館 主任学芸員 関口貴広さん
「もう一度巻き戻してもらっていいですか。」

例えばこのプレー。
1塁ランナーが背番号18番、ピッチャーは3塁ランナーをホームでアウトにしています。




野球殿堂博物館 主任学芸員 関口貴広さん
「ここです、投手から捕手に転送されてツーアウト。」

映像に記録されていたプレーは、すべてスコアと重なりました。



こちらは試合後に撮られた写真。
巨人の藤本定義監督はこの日、かぜをひいていたため首に白い布を巻いていました。




野球殿堂博物館 主任学芸員 関口貴広さん
「首のところに白いものが入っている。」




さらに、当時の新聞。
優勝決定後球場に座布団が舞ったというイラストがありました。




フィルムには、試合後グラウンドに舞い上がる座布団が記録されていました。





野球殿堂博物館 主任学芸員 関口貴広さん
「まず間違いない。
本当にタイムマシンからよみがえったような話。
すごいと思う。」

よみがえる伝説 沢村栄治選手

試合のあった昭和11年。
2月に二・二六事件が発生し、日本が戦争へと突き進んでいく時代です。



そうした中、始まったプロ野球。
当時まだ珍しかったプロスポーツに挑戦しようと、高校、大学、実業団から10代から30代の若者たちが集まっていました。




今回の映像で最も注目を集めた投手がいます。
背番号14。
僅か1球分の投球が記録されていました。



沢村栄治。
この年、史上初のノーヒットノーランを達成した巨人のエースです。
当時19歳。



2年前の17歳のときには日米野球に出場。
来日したベーブ・ルースなどを相手に、三振の山を築いた伝説の名投手です。



広く知られてきたのは左足を高く上げた写真。
試合中の映像はなく実際はどのような投球だったのか分かっていませんでした。
映像は沢村投手なのか。
その投球を観客として球場で見ていた人がいます。
吉田幸雄さん、87歳。
今回の映像、語られてきたようには左足を高く上げていません。
しかし、吉田さんが見た沢村投手のフォームは映像と同じだったといいます。

沢村投手を球場で見た 吉田幸雄さん(87)
「見ていて足を上げていなかった。
スムーズな投げ方だった。
さっそうとした若武者の感じ。」


初めて発見された沢村投手の投球映像。
そこからどんなことが分かるのか。

慶應大学の研究員、石橋秀幸さん。
元広島カープのトレーニングコーチです。




映像から読み解けるのは、沢村投手の人並み外れた下半身の強さだといいます。
映像を見ると、沢村投手の足が投球と同時にまっすぐ伸びていることが分かります。



一般的に投球動作では、足を前に踏み出し地面から力を受けます。





その力を肩から腕に伝え、威力のあるボールを投げようとします。





沢村投手はより力強く踏み込んでいるため、ボールを離すとき勢いでひざがまっすぐに伸びています。
この投げ方なら、ボールにさらに大きな力を伝えることができます。
しかし、体を支える筋力とバランス感覚が優れていなければできません。


慶應大学スポーツ医学研究センター 石橋秀幸研究員
「強じんな肉体、特に下半身の強さ、巧みな使い方。
それらが相まって速いボールを投げていたと推測。」

戦争に奪われた夢 選手たちのその後

昭和11年の試合を戦った若者たち。
野球に懸けようとしたその夢は、次第にかなえられなくなっていきます。
試合のよくとしには日中戦争、5年後には太平洋戦争も勃発。
年々拡大する戦火に大きく翻弄されたのです。
出場23人のうち、21人が出征。
沢村投手を含む5人が戦死。
生還しても、多くが野球を続けられませんでした。

沢村栄治投手と息の合ったバッテリーといわれていた、中山武捕手。
試合の僅か1か月後に徴兵され、日中戦争に従軍します。
そこで右足かかとを撃ち抜かれ重傷を負いました。
療養のあと、中山選手は昭和14年、巨人に復帰。
日本一の捕手が帰ってくると期待が集まりました。
復帰4戦目。
ツーアウト2塁のチャンスで登場。
タイムリーヒットでランナーが生還。
しかし、中山選手は1塁までたどりつけませんでした。
足のけがで走れなかったのです。

観戦していた評論家の回想
“バッターボックスから一歩二歩、歩き出したが駆けられず、口惜しそうに立ちすくんだままである。
この時の中山の表情を、私は40年たった今なお忘れられない”

22歳だった中山選手はこのあと引退。
二度とグラウンドに立つことはありませんでした。
中山選手の長男・輝男さん、74歳です。
試合の4年後に生まれた輝男さん。
野球選手だった話を父から直接聞いたことはありません。

中山捕手の長男 中山輝男さん(74)
「(選手)活動期間が短かった、戦争があったので。
おそらく皆さんに知られていないと思う。
だから本当に貴重な映像。」


戦死した沢村栄治投手です。
戦地から戻るたびに野球を続けようとしていました。





沢村投手の一人娘・酒井美緒さん、70歳です。
沢村投手が最後の戦地に向かったのは、生後3か月のとき。
父の記憶はありません。




せめて父を身近に感じたいと、写真を大切に持ち続けてきました。
フィルムで初めて、プレーする父の姿を目にします。





沢村栄治投手の長女 酒井美緒さん(70)
「全力投球。
涙が出そうになる。
ああ、生きている。」


日本一を決めた試合のあと、沢村投手は2度戦地へ向かいました。
当時の新聞記事です。
投げ続けていたのは、ボールの3倍以上の重さのある手りゅう弾。
帰ったときには戦場での酷使がたたり、投げられない体になっていました。
しかし、マウンドへの熱い思いは変わりませんでした。
当時、野球雑誌に寄せた本人の手記です。

“ただボールを握りたいの一心で。
まだ僕は若いんですね。
みんながグラウンドを走り回っているのをただ見ているのはつらい”

復帰した昭和18年の成績は0勝3敗。
その後、巨人から解雇されました。
昭和19年、一人娘を残し3度目の戦地へ。
台湾沖で乗っていた輸送艦が沈められ、亡くなりました。
27歳でした。

沢村栄治投手の長女 酒井美緒さん(70)
「今度帰ってきたら母と私2人だけのために生きると言って行ったのが、かわいそうだった。」

それから70年余り。
初めて感じる父の息遣いです。

沢村栄治投手の長女 酒井美緒さん(70)
「野球が好きだったんでしょうね。
生きていてほしかった。」

幻の“日本シリーズ” よみがえる伝説の選手

ゲスト玉木正之さん(スポーツ評論家)

●今の映像をどう見た?

いや、もう興奮の連続ですね。
あの昭和11年、一番最初の年ですね、プロ野球、職業野球が生まれた。
その年に、こういう形でやっていたということを動いている映像で見ることができたっていうのは、もう本当に興奮以外の何ものでもない。
おまけにあそこの洲崎球場というあの球場がね、また海にすごく近くて、海が満潮のときには外野にまで潮が来るっていう、そういうことを文章で読んでたんですよ。
見ると、やっぱり外野のほうが、海があって、どうもそういう感じなんですよね。
あの試合にも、外野席には観客入れてないんですよ。
やっぱり海が押し寄せてきたのかなと。
そんな恵まれない所でやったのが、職業野球だったと。
(位置づけとしては恵まれない立場だった?)
そうですね、東京六大学野球を頂点に、やっぱりアマチュア野球のほうが上だったんですよね、中等学校野球とか。
それのOB戦という見方で、少し低く見られていたんですよ、かなり。
まあ、大リーグを呼んで、日本で大日本野球、東京野球クラブが出来て、それが読売ジャイアンツになるんですけれども、試合したときも、神宮球場を使って、見世物に明治神宮球場を使ったというんで、それで正力松太郎というオーナーは暴漢に襲われたぐらいですから、その職業野球がかなり低く見られていたんですね。
ところがこの映像を見ますとね、日本の初の日本シリーズと言っていい試合で、1勝1敗で最終戦。
観客たくさん押し寄せてますね。
詰めかけて、すごく興奮して、おまけに選手が一生懸命プレーしてるんですよ。
だから、低く見られている自分たちが、こんなにすばらしいことをしてるんだぞっていうプライドですね。
それを感じることができて、ちょっと感激しましたですね。

●実際の沢村投手の投球フォーム、どう見た?

今まで見ていたのが、止まって左足を大きく上げている写真が多かったんですよね。
ですから動いてる写真を見たときに、初めはびっくりしたんですけれども、よく見るとね、西鉄ライオンズのエースだった稲尾さんにすごくよく似てるんですよ。
歩幅がすごく広くて、ものすごくスムーズな投げ方。
だからものすごくいい投げ方していて、逆に何か左足は高く上げてないけれども、感激しましたね。

●沢村賞というものがいまだに続いているが?

それだけのやっぱり価値のあるピッチャーだということは、見て本当によく分かりますよね。
ノーヒットノーランも日本で初めてやった投手ですから、ですからまあ、伝説の投手と言われている投手が、14番の背番号つけて目の前に現れたのは、やっぱりうれしかったですね。
動いている姿を見ることができるだけで。

●戦時色が強まっている中、野球は観客にとってどんな位置づけだった?

戦時色が強まる中で、例えば映画とか、それから歌謡曲とか、あるいは浪曲とか、当時はやっていたものに全部戦時色が押し寄せるんですね。
ところが野球は押し寄せようがなかったんですよ、最初のうち。
ですからある意味、野球場に行くと、戦争から離れることができる唯一の場所だったっていう、そういう感じがしましたね。
(かなり続いた?)
そうですね。
今の映像は二・二六事件のあった年ですよね。
その年にあの映像を見ていて、全く戦時色はないですよね。
戦争のにおいが野球に押し寄せるのは、昭和18年、19年の太平洋戦争が始まってだいぶたってからなんですね。
敵性用語である英語は使わないようにするとか、帽子が戦闘帽に変わるとか。
そういうことがあったんですけれども、それまではほとんど野球場は野球をしていた、スポーツをしていたと。
スポーツっていうのはやはり平和でないとできないもので、戦争の色が中に入る要素がなかなかないわけですよ。
それを守られていた、それが守られていたのが、職業野球だったなという気がしますね。
ただ、日本の選手で負傷して帰ってきた、中山選手とかいましたね。
痛々しいとは思うんですけど、実はそれはアメリカでも同じでしてね、メジャーリーグ、大リーグに戦争で片腕をなくした選手が戻ってきてプレーしていたとか、そういったこともあったんですね。
ですから、戦争っていうのは、別に勝ったとか負けたとか、戦勝国であるとか、敗戦国であるとか、そういうことと全く関係なく、平和の象徴のようなものであるスポーツなんかには、もう完全にスポーツができなくなるような、上からの圧力といいますか、そういう一番スポーツと反対にあるものが戦争だという言い方ができると思いますね。

●3度戦争に行き手りゅう弾を投げ過ぎて肩を壊した沢村投手 無念だったのでは?

そうですね、最後は、日本に帰ってきたときは横からしか投げられなかったっていうふうにいわれてますけれどもね。
そういう戦争の中でも、野球にまい進した人たちがいたということを逆に考えるべきではないかと思うんですよね。
今、今年(2015年)は戦後70年ですけれども、戦争を通して戦争を見るんじゃなくて、その当時のスポーツを通して、スポーツの人たちがどんなにスポーツを守ろうとしていたか、それを見ることによって戦争の悲惨さ、あるいは哀れさ、無意味さ、そういったものがよく分かるんじゃないかなと思うんですよ。

あわせて読みたい

PVランキング

注目のトピックス