クローズアップ現代

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No.35962015年1月7日(水)放送
谷崎潤一郎の恋文 ~文豪が貫いた意志~

谷崎潤一郎の恋文 ~文豪が貫いた意志~

谷崎潤一郎 恋文に秘めた思い

谷崎の代表作、「細雪」。
妻・松子と、その姉妹がモデルとなった物語です。




四季折々の行事や上方文化の華やかな世界。
次女・幸子として描かれているのが、松子です。
大阪の裕福な家に生まれた松子。



谷崎と出会ったのは昭和2年、24歳のとき。
関西随一の豪商に嫁ぎ、御寮人様(若奥様)と呼ばれていました。
谷崎は当時40歳。
大阪に講演に来ていたときに松子と知り合い、次第にひかれ合っていきます。

以来、2人が交わした大量の手紙。
遺族が大切に保管していました。
谷崎研究の第一人者も、松子が谷崎に宛てた手紙を目にするのは初めてだといいます。


早稲田大学 千葉俊二教授
「谷崎と松子との恋愛劇を、臨場感を持って、そのドキュメントが大量な書簡を通して現れてきたということは、1つの事件と言っていいほどの大きな出来事。」


出会って翌年の松子の手紙。
谷崎への思いがつづられています。

昭和3年(推定) 松子
“あなた様の夢を、あけ方覚めるまで見つづけました。
いろいろ御話が御座います。”



2人が出会う前、九州の炭鉱王の妻・白蓮が学生と駆け落ちした事件が世間を騒がせていました。
豪商の若妻の道ならぬ恋も、決して許されるものではありませんでした。
谷崎にも当時、妻・丁未子(とみこ)がいました。
しかし華やかで気品のある松子にひかれる思いを、止めることはできませんでした。

昭和7年 潤一郎
“私には崇拝する高貴の女性がなければ、思うように創作が出来ないのでございますが、それがようよう今日になって初めて、そういう御方様にめぐり合うことが出来たのでございます。”

ジャーナリストの田原総一朗さん。
学生のころから谷崎文学を愛読しています。
自分の思いを貫き通そうとする谷崎の生き方がそのまま手紙に表れているといいます。

ジャーナリスト 田原総一朗さん
「あるがままの人間、あるがままに生きようとしたんじゃないか。
変な道徳や変な倫理意識で抑えるのは良くないと、むしろそういうことを抑えていたら自分の作品もだめになる。
むしろ抑えないと。
そこを生きていく。
そうすると世の中のひんしゅくも浴びる、批判もされるだろう、軽蔑もされるだろうということが、谷崎にとっては必死の生き方だった。」

一方、谷崎文学を熱心に読んでいるという壇蜜さん。
松子は谷崎に、危うい魅力を感じていたのではないかといいます。

タレント 壇蜜さん
「配偶者の事を気遣いながらも、熱烈なラブレターを書いているのは心配でしかないですよね。
自分に対して、もしそれをされたとしたら。
悪いなと思いつつも、お互いに家族を壊してまで一緒にいるという事に罪を感じながらも、共犯者として罪深いけど甘美であるというのを(谷崎は)伝える人。」

当時、谷崎と松子を取り巻く環境は大きく変わろうとしていました。
昭和4年に始まった世界恐慌。
松子の夫の事業も急速に傾いていきます。
松子の醸し出す気品や華やかさも、いずれ消えてしまうのではないか。
谷崎は作品の中に、その美しさをとどめたいと思うようになっていきます。

昭和7年 潤一郎
“もし幸いに私の芸術が後世まで残るものならば、それはあなた様というものを伝えるためとおぼし召して下さいまし。”

さらに、自分の愛は永遠で松子にすべてをささげるという誓約書まで書いていました。

“御寮人様の忠僕として、もちろん私の生命、身体、家族、兄弟の収入などすべて御寮人様のご所有となし、おそばにお仕えさせていただきたくお願い申し上げます。”

谷崎が理想とする愛の形は作品に反映されます。
「春琴抄(しゅんきんしょう)」です。
美しき盲目の琴の師匠・春琴と弟子の佐助。
顔に大やけどを負った春琴は、佐助に顔を見られることを嫌がります。
佐助はみずから両目を針で刺し、愛する人に一生をささげることを誓います。
谷崎の作品の中で最も「春琴抄」が好きだというタレントの太田光さん、光代さん夫妻です。
谷崎が追い求める美意識に改めて魅せられたといいます。

タレント 太田光さん
「言ってみればリアリティーじゃなくて、本当に美しいものって何かっていうのを本当は書きたかったんだろう。
『春琴抄』は最高傑作。」

太田光代さん
「女性が憧れる愛され方、そういうのはある。」

文豪・谷崎の恋文 戦時下に守ろうとしたもの

「春琴抄」の発表から2年後、2人はついに結婚。
しかし谷崎は、創作のためには普通の夫婦のようにいつも一緒にはいられないと、松子と離れて暮らすことが少なくありませんでした。
そんな2人を時代の荒波が襲います。
昭和16年12月、太平洋戦争が勃発。
松子は谷崎に手紙を頻繁に送り、日常のさまざまな出来事や変わりゆく生活について細かく伝えました。

昭和19年 松子
“こちらはめっきり物資がなくなり、御野菜の配給は五日に一度という事になりました。
ビタミンC、全然買えなくて困って居ります。”

こうした毎日の小さな営みの中に意味を見いだした谷崎。
作風が大きく変わっていきます。
「細雪」に描かれた四姉妹の日常生活。

映画『細雪』より
“こそばいやないの。
そうやった、私、ビー、足らんやねん。
注射器消毒するように言うて。”

“うん。”

ビタミン不足を注射で補う姉妹。
花見のために着飾って、季節の味覚を味わう一家。
作品の中には旧家の暮らしぶりが細部に至るまで描かれています。
谷崎は、戦時下で消えゆくこうした世界を、みずからの作品の中で永遠に生き続けさせようとしたのです。

しかし「細雪」が発表されるまでには、いくつもの試練がありました。
昭和18年、雑誌で連載を始めたところ、作品の華やかな内容が時局に合わないと掲載中止に追い込まれたのです。
当時の心境を谷崎は後につづっています。

“自由な創作活動が、ある権威によって強制的に封ぜられ、これを是認しないまでも深く怪しみもしないという一般の風潮が、強く私を壓迫(あっぱく)した。”

それでも谷崎は執筆を続け、親しい人たちに私家版として配りました。
それが当局を刺激し刑事の来訪を受けたといいます。

“私は留守であったので家人が応対したところ、今度だけは見逃すが、今後の分を出版するようなことがあったらどうとかすると言って、脅かしたという。”

このとき松子が必死に「細雪」を守ろうとしていたことが、今回見つかった手紙から初めて明らかになりました。

昭和19年 松子
“『細雪』、日夜念じて居りましたのに、国家存亡の際とはいいながら、御心中をおもい、私もまた、やる方も無い思いに泣いて居ります。
この上は、私の手にて出来る限り写したく、一、二年全力を注いでみようと存じます。”

早稲田大学 千葉俊二教授
「ここまで覚悟を決めていたんだなと認識させられる。
自分たちの世界を守って、時代に安易に流されなかったということはなかなか難しいことだったと思う。」

谷崎は空襲のたびに「細雪」の原稿を抱えて逃げたといいます。
そして、終戦の翌年。
「細雪」はようやく刊行。
日本の近代文学を代表する傑作となりました。

文豪・谷崎の恋文 夫婦で貫いた意志

晩年、老いに直面した谷崎は松子と共に暮らす時間が増えていきます。
右手が不自由になりながらも、口述筆記で老いの境地を描き続けました。
命が消える最後まで、僕は小説を書かなくてはならないと病床から起き上がろうとしたといいます。

そして海の見えるこの家で、松子に見守られながら79年の生涯を閉じました。
現在80歳の田原総一朗さん。
谷崎と松子の手紙に、自らの人生を重ね合わせています。

ジャーナリスト 田原総一朗さん
「基本的には女房をとっても信頼していますよ、かなわないと思っている。
同志だと思う。
何でも話せる。
自分のどんな弱いところでも、どんな情けないところでも、どんどん話す事で関係が深まっていく。」

谷崎潤一郎の恋文 文豪が貫いた意志

ゲスト高橋源一郎さん(作家・明治学院大学教授)

●作品が書かれた戦時下という状況と、描かれている美しく平穏な日常のギャップに驚くが?

そうですね。
たくさんの手紙が残されていて、よく言うんですけど、小説と、それを支えた現実とか人間関係はあまり照応をさせないほうがいいと言われているんですけど、谷崎の小説の場合には、明らかにモデルもありますし、そういうことにしても構わないと思うんですけれども、やっぱりあの時代にああいう小説が、ある日、突然変異のように生まれてきたっていうのは、今でも驚きですね。
僕もその時代のことはいろいろ調べてみたんですけど、昭和16年に太平洋戦争が始まります。
それから4年ぐらい終戦までの間に、実は作家はほとんど作品を書けなかったんですね。
大家と言われた人たちもほとんど沈黙をしていて。
めぼしい作品といえば、太宰治か、この谷崎の「細雪」のみと。
しかも太宰は短編なんかも多かったんですけれども、この900ページになんなんとする超大作っていうのは、ちょっと美しい作品であると同時に、その時代にふさわしくない巨大なものが、美しいものとして存在しているということで、極めてまれなものだと思いますね。

●出版するあてもなく連載も中止、自分を鼓舞するのは大変だったのでは?

このへんも想像するしかないんですけれども、あれだけの大作を、しかも出版のあてもなく書こうと思うと、よほど自分の中に強いモチベーション、モチーフがあったか、そうでなければ怒り、何かもう表現できない怒りか、そういうものがないかぎり、あの状況の中で、あれほどの大作を書くことはできなかったと思いますね。
もしかすると両方あったのかなという気もしますけど。

●何を怒りにしていたのか、あるいは何を伝えようとしていたのか?

最も難しい問いだと思うんですけれども、「細雪」は関西の、今、紹介されましたように、大きな商家の娘たちの華やかな生活を描いていますね。
当時は戦争のさなかにあって、そういう豪しゃな生活を一体なんで描く必要があったのか。
これは僕の想像なんですけれども、谷崎は震災のあと関西に移住します。
そこで大阪、あるいは関西という土地と場所を見つけるんですね。
そこの文化を探っていきますね。
それは彼も書いていますけれども、大阪弁、関西弁に象徴されるような、特に女性の優しい、まろやかなことば遣い、それを探っていくうちに、なんか彼にとっての日本文化の源流みたいなものにぶつかったんじゃないかと思うんですね。
ご存じのように、都はもともと京都にありました。
西のほうが文化の中心で、東に移ったのは家康から数えると400年ぐらいですし、明治維新からだと100年ぐらいですよね。
それまではずっと西側の文化でした。
しかもその宮廷文化というのは、女性的なものです。
この「細雪」の前に、彼は「源氏物語」を翻訳しています。
ご存じのように「源氏物語」というのは、源氏という高貴な方と、みかどを中心とした朝廷のお話なんですけれども、そこは、でも主人公は女性たちなんですね。
その華やかな文化の中で生きていく女性たちの話だった。
そこからある意味、「細雪」まではまっすぐ、ここがいってみれば、日本の文化の根本で、今、当時、谷崎たちの周りにあった戦争であるとか、東の国のまともなことばというのは、これはちょっと違うんじゃないかっていうのが、たぶんこの作品の中に、僕は書き込まれているような気がするんですね。

●何を恐れて連載中止になった?

ここはね、さっきの紹介にもありましたけども、このような戦時に、豪しゃな生活を書くなどということは、もってのほかと。
これは表面的な理由ではなかったかと思います。
一体何が当時の権力にとって見逃せなかったかというと、いろいろあったと思いますね。
つまり、ここには女性たちのことば、女性たちの生活ということで、ある種の自由さ、それからもう1つは、今言った西の国ですね。
もともとあった日本の古い文化、そういったものが本来の文化であって、今、その当時周りにあった、野蛮なというか軍国主義的なものというのは、これは本当に正当な文化なのかっていう、そういう疑いが、これを読む読者の中に起こることが一番怖かったんじゃないかなと思います。

●手紙を読んで、この2人の関係をどう見る?

特にこの恋文がそうなんですけれども、非常に表現も大げさですよね。
でも、彼の作品、それから実際にこの2人の関係、それから彼の作品というのは、どれも似ているし、同じ構図をもって助け合っている。
ですから、この松子と谷崎の関係自体が、1つの作品のもののようなんです。
だから僕は、ものすごく強かったのではないかと思うんですね。
彼ら自身の関係が、そもそも社会に対する1つの作品になっていったっていうのが、この「細雪」を含める、谷崎のある時期以降の作品の本質だったように思います。
(松子は谷崎の思いを共有していた?)
田原さんがおっしゃったように、同志だったんじゃないでしょうか。

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