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No.34612014年1月30日(木)放送
東大紛争秘録 ~45年目の真実~

東大紛争秘録 ~45年目の真実~

東大紛争 秘録 45年目の真実

東大紛争の知られざる記録は、当時の教授の自宅に残されていました。





植村泰佳さん
「これが父の、一番新しい写真です。」




10年前に亡くなった、植村泰忠さん。
東京大学理学部の、物理学の教授でした。
その倉庫に、東大紛争の収拾に当たった教授たちの、原稿用紙600枚にわたる証言記録が、保管されていたのです。



植村泰佳さん
「みなさん生きている間は、公開できないものだからと言われていました。
父たちにとっては、決して本意ではない結果になったことの、反省も含めて、記録を残しておこうということだったので、いつか、歴史の検証をしてもらうために、座談会をやったんだと思う。」


若者たちの反乱の季節と呼ばれた、1960年代。
日米安保条約。




ベトナム戦争。





全国の大学で、学生たちが反対の声を上げていました。
その象徴が、東大紛争でした。
東大紛争は、医学部が学生を誤って処分したことがきっかけで、広がりました。
誤りを認めようとしない大学に、一部の学生が抗議。
すると、当時の総長は、機動隊に出動を要請し、学生たちを排除したのです。

当時、教養学部の助手で学生と共に行動していた、最首悟(さいしゅ・さとる)さんです。
最首さんは、運動は当初、「大学とは何か」、「学問とは何か」という問いから、始まったといいます。




最首悟さん
「高名な教授が学生の追及にあって、“何のために学問されているんですか”っていう時に答えられない。
それはふがいない。
学問、研究って、そういうものではないということがあった。」


学生
「我々、最後まで闘うぞ。」




しかし、運動は次第に、変質していきます。
東大以外の学生や、活動家が参加するようになり、安田講堂を占拠。
大混乱に陥っていったのです。

東大紛争 秘録 教授たちの告白

この混乱の収拾を、任された教授たち。
今回見つかったのは、彼らが紛争の直後に開いた、座談会の記録です。




最高責任者の、加藤一郎総長代行。
法学部の教授で、46歳という異例の若さで、東大のかじ取りを任されました。




加藤を補佐する執行部の教授たちも、各学部から、よりすぐった人材。
記録を残していた植村も、その一人でした。




座談会でのやり取りを、正確に文字に起こした記録。
その大半は、1969年1月の、安田講堂への機動隊導入の経緯に、費やされていました。




当初、執行部は、大学の自治を守るために、あくまで学生との対話によって、紛争を解決したいと考えていました。
執行部のナンバー2として加藤を補佐していた、経済学部の大内力(おおうち・つとむ)教授の発言です。




大内力教授
“いままで大学は、やはり「おとなの論理」で、すり抜けようとしてきたために、問題をもつれさせたので、この際、一ぺん「こどもの論理」かもしれないけれども、学生の次元まで立ち戻って、はっきりさせたほうがいいという議論をした。”


執行部は、学生側に対話のテーブルにつくよう、再三にわたって呼びかけ、集会も開きました。
医学部生への誤った処分の撤回など、学生に譲歩する案も提示。
しかし学生側の足並みはそろわず、事態を好転させることはできませんでした。



執行部にとって重圧となっていたのが、著名な名誉教授たちでした。
戦後民主主義を代表する知識人で、元総長の南原繁も、その一人です。
機動隊の力を借りてでも、秩序の回復を急ぐべきだと主張していました。



大内力教授
“ああいう名誉教授連中は、早く警察を入れろということで、毎朝のように南原先生から電話がかかってきて、まだ入れないのかと、ずいぶんやられた。”



さらに、この時期執行部を悩ませていたのは、入試を実施できるかどうかという問題でした。
執行部にとってそれは、機動隊導入の是非以上に、切実なものでした。
新たな学生が入ってこなければ、大学そのものの存続が、危ぶまれるからです。

加藤一郎総長代行
“やめた場合に、大学の危機的な状況になると思ったので、やはり入試はできるだけやらなければいかぬ。
最終的には、(学生への)説得がきかなければ、あるいは、大そうじ(機動隊導入)ということがあるかもしれないと考えた。”


執行部は入試を実施するために、機動隊を導入して、紛争を解決する考えに、次第に傾いていきました。

記録によると加藤は、執行部の考えを伝えるために、当時の坂田道太文部大臣にもひそかに接触し、了解を得ていたといいます。




記録には、2人が会った場所として「ムロイマヤ」という名前が、記されていました。
私たちの取材で、自宅を密談の場所として貸していたのは、ピアニストの、室井摩耶子さんだったことが分かりました。
室井さんは、2人の共通の知人でした。



室井摩耶子さん
「新聞記者に付きまとわれて大変だった。
二人で内々に話したいわけ。
別々にいらして、話をして、もちろん内密な話だから、私は失礼しました。」


当時、助教授として執行部を補佐していた、石井紫郎さんです。
機動隊導入に傾いていった執行部の空気を、記憶していました。




東京大学助教授(当時) 石井紫郎さん
「(機動隊を入れるための)準備は相当、周到にやらなければならない。
まずは世論、大学の中、露骨に言って機動隊を導入するための段取りを、どうつけていくかっていう話。
我々が物理的に(学生を)排除するというわけにはいかない。」


そして1969年1月。
執行部の要請で出動した機動隊は、安田講堂を制圧し、学生を排除しました。
しかし、これによって入試は実施できるという執行部の考えは、国に受け入れられていたわけではありませんでした。
まさにこの日、執行部は文部省の幹部から、入試の中止を強く迫られたのです。


大内力教授
“会談したら、「政府与党の反対が非常に強くて、まず入試を復活させることは絶望だ」ということを、(文部省が)言ったのです。”



結局、執行部は、文部省に押し切られる形で、入試の中止に追い込まれました。
さらに紛争の解決を、機動隊に委ねたことで、それまで守ってきた大学の自治を、大きく変質させる結果となったのです。

元文部大臣で、当時、佐藤総理の側近として、紛争の経過を間近で見ていた奥野誠亮さん、100歳です。
東大の入試の中止は、国の主導によるものだったと証言しました。




自民党総務局長(当時) 奥野誠亮さん
「東大は文部省の申し入れを受けて、中止を決定した。
学問の自由は尊重すべきだが、国に反する行動は、大学もすべきじゃない。
過激派を養成するような。」


執行部の一人、法学部の坂本義和教授です。
座談会の中で、ただ一人、加藤総長代行に、なぜ入試の中止を受け入れたのか、その姿勢をただしていました。




坂本義和教授
“入学試験をやるかやらないかということは、やはり最終的には大学が決める性質のものじゃないか。
大学が自治能力がないことを、大学自身が認めるようなことですから。”



加藤一郎総長代行
“本当にみんなが、それでもやるという気があれば、文部省に「権限はこっちにある」といって、やる方法もあったと思うんですよ。
だけれども、政府とけんかして、こっちだけでやった場合に、自信がないということで、文部省がノーといえば、やめざるをえないだろうという実質判断があったわけです。”

東大紛争 45年目の問い

東大紛争の終結から45年。
座談会に参加した当時の執行部のうち、すでに5人は亡くなっています。

私たちは唯一存命の、坂本義和さんを取材することができました。
病床に就いているため、カメラでのインタビューはできませんでしたが、思いを語ってくれました。




坂本義和さん
“大学入試は、大学が決めることで、文部省に指図されることではなかったはずです。
紛争は解決しましたが、国家に対する「大学の自治」の意味は、大きく変わってしまいました。”


そして坂本さんは、当時学生たちとの対話によって、紛争を解決できなかったことへの、後悔を語りました。

坂本義和さん
“あのときの学生たちの一部は、「高度経済成長は何のためだ」、「なぜ大学で学ぶのか」と問いかけていました。
しかし私たちは、ろくな答えを持っていませんでした。
彼らの問いかけは、時代が大きな転換点を迎えている現代でも、絶えず問われなくてはいけない問題なんです。”

東大紛争 秘録 45年目の真実

ゲスト松本健一さん (麗澤大学教授)

●東大紛争の学生たちと同世代 資料を読んでどんな印象?

この資料の意味というのは、まず日本の戦争のときにも、権力者というものは記録を残さない、少し残っている資料も、戦争に負けたときに全部燃やしてしまうということがありました。
そしてまた3・11の大震災のあとの、政府対応のあとでも、閣議決定とかですね、復興構想会議の資料というものは、基本的に残っていないということですね。
どういう決断を、誰がして、それがどういう失敗であったかということを、日本の権力構造というのは、しないような形で、資料を残さないような形だったんですね。
ところが、この大学紛争も、たぶんそうだろうと私は想像していましたら、45年たって、こういう新しい資料が出てきたと。
学生側からの、例えば山本義隆さんとかですね、そういう人々の記録というもの、発言というものはちゃんと残ってますけれども、そうではなくて、大学当局の資料、どういう決断をして、あのときに例えば入試を取りやめたのかというふうな、そういう経過が、今度、初めて資料として残っていると。
資料の検討あるいは検証というものは、これからなされるでしょうけれども、しかし、そういう資料が残っていたということにおいてですね、戦争のときと、あるいは3・11の事故のとき、福島第一原発の事故のときなんかのと、大きく違う状況が、この1つの資料によって、出てきたのではないかというふうに考えていますね。

●大学自治を守れなかった責任、学生たちの問いへの考察は入ってない?

そうですね。
だからそれはまさに、大学行政を担当した執行部の記録であって、そのときに学生とどういう対話をしたのか。
学生が最初は、医学部処分という、間違った処分ですけれども、そういうものをしたと。
しかし、それがあるときから全学的に、ノンポリの学生まで含んで、そしてまた社会の人々も、今の映像を見ると、なんか暴力学生が戦ってるみたいな形で見えますけれども、その当時は、学生に対する同情とか、シンパシーというものが非常に強かったというふうに思いますし、私らがもうそのときには、例えば1月18日、19日の安田講堂事件があったときには、会社に勤めておりましたけれども、君は大学に戻んなくていいの?一人でこんなところで、会社で仕事していていいの?というふうな形で、同情的に見てくれました。
ですから、そういう共感はあったと思います。
(何がそれほど学生たちへの支持を集めたのか?)
医学部処分というのがね、大学当局はしたわけですけども、それがまさに、権力の構造でそういう撤回もしないと、非常に高圧的な多分態度であったというふうにいっても、それは一部の人々の反発を、引き起こしただけにすぎないと思うんですね。
しかし、学生がそういう行動を起こすのは、学生が自分たちの職業を選ぶために、医師になるために医学部に行くと、あるいは弁護士になるために法学部に行くと、そういう形だけでいいのだろうか。
もっと言いますと、先ほど、高度成長ということばがありましたけれども、高度成長の時代に、一人一人がみんな産業戦士になって、これでまあ、日本を支えていったわけですけれども、果たして、それが学校で、大学でやる学問の根底なのかと。
自分の職業を選ぶことの問題なのかと。
そうじゃなくて、大学の自治とか、あるいはなんのために学問をするのかとか、そしてそれは、その当時の教えられ方とすると、自己実現のため、自分の職業のためといわれてましたけども、明治の時代とか、あるいは中国の伝統的な学校というのは、学問をするのは自己実現ではなくて、社会に奉仕するためであると、社会をこういう方向に導いていったらいいという、そういう歴史的な蓄積、現実の直視というものがあって、学問をするんだということですね。
なんのために学問をするのかというふうなことが、ちょうど東京オリンピックをして、大阪万博がある、高度成長にいる、万々歳で世の中は進んでいくように見えた、職業もみんな誰も好きなところにいけたというふうに言っているけれども、実際にそれだけでいいのか。
産学共同路線ということばがあったんですけどね、そういうふうに産業界の要請する人間をつくるのが、大学の役割なのかという疑問というか、自問みたいなものがそれはみんなにあったと思いますね。

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