クローズアップ現代

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No.32342012年7月25日(水)放送
水俣病“真の救済”はあるのか ~石牟礼道子が語る~

水俣病“真の救済”はあるのか ~石牟礼道子が語る~

“地域”で線引き 救われない被害者

水俣の対岸、熊本県天草諸島。
近年、多くの人たちが水俣病の症状を訴えています。
救済策の申請締め切りを前に先月、被害者団体と民間の医師団による大規模な検診が行われました。
集まったおよそ600人のうち9割近くに水俣病特有の症状が認められたということです。

天草市で祖父の代から漁業を営む藤下諭さん。
以前から手足がつったり耳鳴りがするなどの症状に悩まされてきました。

藤下諭さん
「ちょっとしたことでつるし、連続でくることもある。
(手足が)動かせないことも。」

 

ここ数年、手の震えがひどくなり不安を感じていた藤下さん。
去年、検診を受けたところ医師から水俣病と診断されました。
子どものころから父親が取ってきた魚を毎日、食べてきました。
藤下さんは当然今回、救済が認められると思っていました。
しかし、結果は非該当でした。

実は、熊本県と鹿児島県は救済を行う対象地域を限定しています。
対象地域となっているのは、国が定めた厳しい条件に基づく認定患者が多発している所。
藤下さんが暮らす地域からは認定患者が出ていないため、対象地域から外れているのです。
対象地域の外で暮らしていた人が申請する場合、水俣湾周辺で取れた魚を多く食べていたことを証明しなければなりません。

藤下さんが探し出したのは父親が漁の許可を受けた範囲を示す資料です。
赤い部分がその海域です。
不知火海の全域にわたり水俣の近海も含まれていました。
しかし、県はこの許可証では汚染された魚を多く食べた証明にはならないと救済を認めませんでした。

熊本県水俣病保健課 田中義人課長
「メチル水銀に汚染された魚や貝をたくさん食べたかどうかということが必要。
そこの点がはっきりしないのであれば、提出診断書の記載いかんに関わらず非該当。」

こうした証明は対象地域内の場合は必要ありません。
住んでいた場所が違うだけで症状があっても救済されない。
藤下さんは、やりきれない思いを抱えています。

藤下諭さん
「悔しいです。
人間の体のことを書類の審査だけでする。
(書類が)ない人はどうなる、症状があって。
“あたう限り”は数だけ、申請者募るだけ、心から救済する気持ちはあるのか。
僕には分からないですね。」

なぜ年齢で?もう一つの線引き

今回の救済策には対象地域のほかにもう一つの線引きがあります。
それは、年齢です。
水俣市で生まれ育った36歳の男性です。
子どものころから、さまざまな体の不調を感じてきました。

水俣市に住む男性(36歳)
「何もないところでつまづくというのがあって、足がよくつったり、ふくらはぎがけいれんしたり。」

 

しかし、この男性は今回の救済策では対象とはなりません。
年齢が若すぎるからです。
原因企業のチッソは昭和43年に工場排水を停止。
国は、その後の調査の結果、よくとしの、昭和44年12月以降に生まれた人は水俣病が発症する可能性がなくなったと判断したのです。
しかし、実際はそれ以降に生まれた人も大勢、症状を訴えています。
水俣市に住むこの男性は昭和46年生まれの41歳。
1年余りの差で対象年齢から外れました。
両親は症状が認められ、すでに救済を受けています。
毎日、家で魚料理を食べてきた男性も、子どものころから手足の感覚障害などの症状がありました。

「遠足のときに、小学校のときだったと思う。
家まで歩いて帰った、4キロぐらい。
画びょうがささって靴の中が血だらけだった。
でも痛みがわからなくて。」
 

男性は救済策に申請しましたが、年齢の線引きを越えることはできず結果は、やはり非該当でした。
水俣病の診察と研究を続け、先月亡くなった原田正純医師は年齢による線引きに疑問を呈していました。
国が、水俣病が発症する可能性はなくなったとする昭和44年以降も海底には有機水銀を含むヘドロが残されました。
昭和48年、熊本大学の研究班が魚から高濃度の有機水銀を検出。
ようやくヘドロの処理が終わったのは排水停止の実に、22年後のことでした。

原田正純医師(故人)
「明らかに間違い。
あのときチッソが水銀止めた途端に環境がきれいになるわけでない。
(熊本大学の)研究班のときも貝を調べたら、とんでもない高い(水銀の)値がいた。
(汚染は昭和43年で)終わりじゃない。
これは間違いない。」

国は地域や年齢の線引きには合理的な理由があるとして救済策は予定どおり、今月末で申請を締め切ることにしています。

細野環境相
「7月末までにということで設定した期限の中で、可能性がある方は是非、申請して頂いて“あたう限り”の救済を実現していきたい。」
 

これまでの半世紀被害者と国との間で繰り返されたのは、常にどこまで救済を認めるかという線引きを巡る争いでした。

「20年間はあまりにも長すぎました。」

「国も県も加害者になったんですよ。
なんであんな過ちを繰り返すのか!
ふざけんな!」

この繰り返しが被害者と国の間に埋められない溝を作ってきたのです。

水俣と歩んだ作家 石牟礼道子が語る

被害者が真に救済されるためには何が必要なのか。
水俣で育ち、公式確認の前から水俣で起きたことを見つめ続けてきた作家、石牟礼道子さん85歳です。
石牟礼さんはチッソとの交渉や霞ヶ関での座り込みにも患者と共に参加。
完結まで40年をかけた「苦海浄土」3部作などの著作を通して水俣病の問題を描いてきました。
今は熊本市でパーキンソン病の症状に悩まされながらも執筆活動を続けています。

ゲスト石牟礼道子さん(作家)

●石牟礼さんから見た特別措置法

特措法の“救済”という言葉は、いかにも官僚用語。
最初の段階から基礎調査をすべきだった。
一軒の家に患者がいると、必ずと言っていいほど家族全員が何らかの症状がある。
天草で案の定、被害者が出てきた。
行政は地域を区切って減らそうとしている。
魚を食べた証明を出さないと、(対象地域外では)救済対象にならない。
(特措法の)条文を作った役人は、50~60年前の証明書を持っているのか。

●なぜ“線引き”はくり返されるのか

行政はごまかし、ごまかし、大変な事件だと思っているに違いない。
手落ちを隠すというか正当化する。

●国はどう向き合うべきだったのか

日本は経済成長路線でやってきた。
人間性の善なるもの、徳義、精神的な成長を国民と共に遂げること、やってこなかった。

●半世紀を経て思うことは

患者たちと東京によく行った。
患者は「日本という国はなかった」と言う。
「東京まで行っても日本という国は、どこにあるかわからなかった。
日本という国は、人がつくってくれるのではない。
自分たちでつくらないとない。」
人間の希望。
最低の希望はわかり合う努力をすること。
一番せつない、わかりあえないということが。

それでね、もう亡くなったですけど杉本栄子さんという方がいらっしゃって。

「私たちは許すことにした。
全部許す。
日本という国も、チッソも、差別した人も許す。
許さないと、苦しくてたまらない。
みんなの代わりに私たちが病んでいる。許す。」
と言って死ぬ前に、「まだ生きたい」と言って亡くなった。
私たちは許されている、代わりに病んだ人から許されて生きている。
罪なこと。
代わりに病んでいる、日本人の代わりに。

●国には何を学んでほしい

純朴ないいものをたくさん持っていた。
水俣の人たちの心をズタズタにした。
きょうも無事に生きた。
あしたも、きょうくらいに生きられればいいと思う人たち、特別、出世したいと考えもしない人が、この世にはたくさんいる。
普通に生きている人たちの行く末、普通に生きるというのは大事なこと。

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