クローズアップ現代

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No.31412012年1月16日(月)放送
子どもが語る大震災(1) 高校生が伝える福島

子どもが語る大震災(1) 高校生が伝える福島

高校生が伝える大震災 福島の記録

原町高校放送部の2年生です。
避難で、ちりぢりになる中で去年5月、震災に見舞われた自分たちを記録しドキュメンタリー作品を完成させました。

「東日本大地震2日目、日曜日から混乱が始まった。
原発から20キロ圏内が強制避難地域になり30キロ圏内は屋内退避というどうしていいのかはっきり分からない地域に指定されてしまった。

『これは、やばいんじゃないかっていう感じで。』

『すぐ終わると思って大して気にしてませんでした。』

放送部の部員も住んでいる所によって大きく生活が変わっていった。
原高の近くに住んでいる佐藤健司は30キロ圏内である。
肉牛の飼育、コメの生産などを行っている農家で、すぐに帰ってくるつもりで家族で逃げた。

10キロ圏内の浪江に住んでいる沼能奈津子と大浦美蘭は最悪だった。
原発の近くの町には、緊急用の有線放送が各家に入っている。

真っ暗な中、有線放送ですぐに逃げてくださいという連絡が絶え間なく入り、言いようもない恐怖があったという。
そして、次の日にはとにかく逃げた。

『年寄りとか お父さんの時代の人は安全だ 安全だと言っていて
爆発するわけないだろうみたいな そんなことないから大丈夫だろうと
ほんとに軽い気持ちでいたんだけど
そんなこと なかったね』

14日、11時1分。
原発が2度目の爆発を起こし午後、東北電力の火力発電所のタンクが爆発した。
学校は、どうするんだ?
不安だから、学校へ電話する保護者も多かったが、答える先生方だって何も分からなかった。
県の教育委員会からは何の指示もなく、ニュースと、時々入る福島県の連絡を待つのみだった。
そんな中、学校のホームページに次のような告知がされた。

『すべての新入生在校生の皆さんは今後の学習について
1、サテライト校で学習する
2、転学して学習する
のいずれかを選択してもらうことになります』

これを受けて福島県からの説明会が始まった。
結局、説明会ではホームページや担任の先生の話以上のことは何も分からなかった。
長く待たされた挙句、何も進展がなかったことに多くの保護者から苦情が寄せられた。
放送部の部員もそれぞれに選択した。

『私は、福島地区で福島サテライトにしました。』

『私は、もともと相馬市に住んでいたので相馬高校でのサテライトはかえって近くなりました。』

学校が始まることは決定した。
とにかく、このままうだうだしている状況からなんとか抜け出すことはできる。
やっと始まると思った。
そんなとき原発から30キロ圏外でまったりとしていた星に衝撃的なことが起きた。
4月22日、飯舘村が、計画的避難区域に設定されてしまったのだ。

『今さらなに言ってんだ みたいな感じで
もっと早く言ってほしかったというのはみんな思っているみたい』

原発は安全だと、みんな思ってた。
事故が起きたと聞いてもこんなことになるとは思わなかった。
この先も、どうなるか分からない。」

彼らの生活を突然先が見えないものにしてしまった福島第一原発の事故。
作品は、避難生活の中でそれぞれができる方法で取った記録をもとに作られました。

「警戒区域に設定。
最悪。」

「復興ってことば、聞きたくない。」

「政治なんてどうでもいいから早くどうにかして。
今、争ってる場合じゃないでしょ。
頭のいい難しいことばなんていらないから現場に行ってください。」

「怒とうの震災後でしたね。
伝えるはずだったんですけど私自身が知るっていうことにもなりましたし、あと、絶対これは伝えなきゃっていう感じでしたね。」

●原発が分断 揺れる高校生たち

皆、同じ被災者として記録を続けてきた部員たち。
秋、その関係に大きな変化が起きました。
政府が緊急時避難準備区域を解除。
原町高校が再開されることになったのです。
7か月ぶりに戻った学校の様子を放送部員は早速、取材しました。

グラウンドではまだ除染作業が続き、体育の授業や運動部の活動は制限されたままでした。
それでも、母校での授業が再開したことに生徒たちは喜びを隠せぬ様子でした。

「なんか不安なこととかはありますか?」

「いや、もう戻ってこれたので何もないです。」

「もう、なんかこうなんとも言えないわくわく感がありますね。
なんか、もう3年前に、なんか入学してきたときにちょっと似てる感じの、きのう、ちょっと寝れなかった。
ちょっとやっぱり不安はあるよね。
今、再開しても本当にいいのかなって。
だけど、やっぱり卒業は原高でしたかったし、だから、やっぱりこのタイミングで再開したのはいいかなって思ってる、結局。」

一方で、原町高校に戻れない生徒も数多くいました。
内陸部に避難し福島市の仮教室に通っている50人余りの生徒です。
その生徒たちはさらに先行きが見えない状況に追い込まれています。
今年度限りで、この教室は閉鎖。
春までに親元を離れ、宿舎に入り原町高校に戻るのか、ほかの学校に転校するのか決めなければなりません。
ここに通う放送部の3人も同級生たちの撮影を続けていました。
そこには、この先の生活への不安が記録されていました。

「寮とかがもしできたら 一人暮らしする?」

「つらいと思います。
親とかに支えられてた分があるので。」

「不安だと思います。」

「転校したくないな」

「したくないよ ここまで来て」

元の学校生活を取り戻した仲間に対し先行きが見えない自分たち。
作品作りでも置いていかれるのではないか。
放送部の沼能奈津子さんはわだかまりを感じていました。
彼女の日記にはそんないらだちがつづられていました。

「以前は、みんなそれぞれ安定した立場にあって、言いたいことも言い合ってたんですけど、なんか福島は福島、原町は原町みたいな感じになることがあって、疎外感というか…は、感じていますね。」

わだかまりは原町高校に戻った生徒の中にもありました。
部長の高山風優香さんです。
自宅に戻り以前の生活を取り戻した自分。
震災で背負ったものの違いが心の壁となって立ちふさがっていました。

「なんかみんなは…みんなは大変だ、でも私は大変じゃないみたいな。
だから傷つけちゃいけない。
もうこれ以上、どんだけ傷ついたか分からないけど、もうこれ以上傷つけちゃいけない。
仲間ですから、部活のみんなは。
その人たちに突っ込んで聞けない。
私と仲間が違うみたいな。」

期末試験が終わった12月。
福島の教室に通う部員たちは原町高校に向かうバスに乗り込みました。
片道2時間半。
次の作品を作るには、部員どうし会って話をすることが必要だと考えたのです。
福島で避難を続ける部員と原町高校に戻った部員。
久しぶりに顔を合わせ思いを打ち明けました。

「本校の人たちの間でも情報が行き来してなかったっていうか、なんか誰に聞いても違うこと言ってたときとかあってあれ、なんでだろう?
と思って。」

「距離ですかね、遠いですよね。」

「それで?」

「週1回しか来れないので来るたび状況変わってる。

「もどかしかった?」

「はい。」

高山さんは避難生活が続く部員に聞きたくても聞けずにいた思いを打ち明けました。

「言うのがつらいこともあるかもしんないけど言える範囲でいいからちょろっと、一回なっちゃんに聞いたんだよね。最近
家どうするのっていう。
覚えてる?
ああいう事情とかも分かんないから、事情とか、そういうのも全然、分かってないと私、なんか失言をしてしまうかもしれないし、なんか、そういうのも知りたいなと思って。
まあ、つらいことは言わなくていいんだけど。」

「なんていうのかなそれもこれも津波が来なけりゃこんなことにはなんなかったんだけどね。
原発が爆発しなければこんなことにはなんなかったんだしさ。
しょうがないことだから。
連絡を密に取りなさい。
聞きたいことがあれば聞けばいいじゃん。」

「大丈夫だよ。
抵抗を感じなくていいから。
大変なのかなとかそんなことでないから。」

互いを思いやるあまり、本音を伝え合うことができなかった部員たち。
その距離が少し縮まったようです。

「なんか…ぶっちゃけましたよね。
なんか最近変わったことあった?みたいな感じでいけそうです。」

「こうやって集まって話したことで本当に、いい方向に進んでいくと思います。」

●福島に生きる自分たちを伝えたい

この時期放送部が作った作品です。

「10月26日本校舎での授業再開です。
福島西サテライトではまだ不自由な間借り授業が続いていますが、ひとまずふるさとに戻った気分です。」

学校が2つに分断されている中でも自分たちは、これまでと変わらず前向きに日々を送っている。
その姿を強く打ち出したいと作った作品です。

「多くの支援をいただき、私たちは今、とても元気です。」

放送部は、さらに今、新しい作品作りに乗り出しています。
そのテーマは自分たちの家族を通して震災を描くもの。
福島に通う大浦美蘭さんも家族の撮影を進めています。
大浦さんの父、仁さんは東京電力の関係会社社員として福島第一原発で復旧作業に当たっています。

「これは私の部屋です。
まあ、布団が敷いてあるだけですけど。
お父さんが久しぶりに帰ってきました。」

「お父さんは映しちゃだめだよ。」

2、3週間に1度疲れた顔で家族のもとに帰ってくる父。
大浦さんは、父の様子を気遣いながら少しずつ、撮影しています。

「きょうは、牛丼のもとです。
牛丼のもとを入れます。
牛丼なのできょうは、白いごはんです。」

長年、信頼し、働いてきた原発によって大きく変わった家族の生活。
まだ聞けていない父の胸の内をいつか時間をかけて聞いてみたいと、大浦さんは考えています。

「仕事とか離れて暮らしたりとか大変だけどなんか、そういうのの励みに私たち家族はなっているのかなとか。
そういうことは聞いてみたいですね。
家族も原発とかも含めた話を聞いてみたいなと思います。」

原発事故という、刻々と変化する事態に今も翻弄される高校生たち。
自分たちを見つめ伝える作品作りはこれからも続きます。

「やっぱり相手に何かを伝えるってすごく難しいんですけど でも怠っちゃいけないですよね。
(原発に)近いところで活動している なんとか活動している部活として できることを確実に 着実に それがきっと伝えることだと思うから
頑張りたいです」

子供が語る大震災 高校生が伝える福島

ゲスト江川紹子さん(ジャーナリスト)

本当に困難な現実の中で、それと、本当に目をそむけず向き合っているなという感じがしますよね。
そういう彼らにとって、この記録し伝えるという、そういう役割というのは、ある種、彼らを支えているのかなとも思いました。
っていうのは、国谷さんも伝える側で、そうだと思うんですけれども、やっぱり伝えるっていうのは、やっぱりある程度、客観視しないと伝えられませんよね。
ですから今、自分が向かい合っている現実を、ちゃんと見つめて、客観的にそれを見ていく、あるいは自分の中の不安というものも、ただその不安だというだけではなくて、それをもう一つの目を持って、自分の不安を見つめてみると、そういうことを高校生たちはやってるんだなというふうに思いましたよね。

●先行きの見えない不安と向き合う高校生たち

やっぱり災害が起きた直後というのは、もう本当にあらゆる違いを乗り越えて、みんなが結束すると、一つの目標に向かって、頑張ろうと、こういうふうに一体感になる。
でもその状況が少しずつ変化していくと、違いが出てくるわけですよね。

特に長期化する災害、これが人災でも、それから自然災害でもそうですけれども、長期化していくとなると、やっぱり疲れてもきますし、それと同時にいろんな違いが見えてくるんですよね。
特に先行きの展望がなかなか見えないと、むしろその違いのほうが目につくと、これは何も高校生だけではなくて、大人もそうですし、私も以前、取材した噴火災害なんかのときも、やっぱりそういう被災者の中であり、被災地の中で、ちょっとぎくしゃくがあったりするわけですよね。
そういうぎくしゃくや、その心の壁というものを、やっぱりどうやって乗り越えるかっていうのは、やっぱり大事な課題ですし、それは外から見ると、なかなか見えないと。
あるいはメディアも取材に入って、いろんなこと伝えようとするんだけれども、そういう非常にデリケートな問題っていうのは、なかなか伝えきれないと。
だけど、当事者はそれが一番つらかったりするわけですよね。やっぱり災害が起きた直後というのは、もう本当にあらゆる違いを乗り越えて、みんなが結束すると、一つの目標に向かって、頑張ろうと、こういうふうに一体感になる。

でもその状況が少しずつ変化していくと、違いが出てくるわけですよね。
特に長期化する災害、これが人災でも、それから自然災害でもそうですけれども、長期化していくとなると、やっぱり疲れてもきますし、それと同時にいろんな違いが見えてくるんですよね。
特に先行きの展望がなかなか見えないと、むしろその違いのほうが目につくと、これは何も高校生だけではなくて、大人もそうですし、私も以前、取材した噴火災害なんかのときも、やっぱりそういう被災者の中であり、被災地の中で、ちょっとぎくしゃくがあったりするわけですよね。
そういうぎくしゃくや、その心の壁というものを、やっぱりどうやって乗り越えるかっていうのは、やっぱり大事な課題ですし、それは外から見ると、なかなか見えないと。
あるいはメディアも取材に入って、いろんなこと伝えようとするんだけれども、そういう非常にデリケートな問題っていうのは、なかなか伝えきれないと。
だけど、当事者はそれが一番つらかったりするわけですよね。

だからそういうものと今、彼女、彼らは直面してるんだなというふうに思いました。

●今を記録することの意義

(高校生たちが記録することの意義は)いろいろあると思うんですけれども、例えば佐藤君だったかな、男の子が高校生目線でということを言ってましたよね。
それっていうのは、つまり、同世代の高校生たちに伝わりやすいということだと思うんです。
その彼らの作品を、全く被災地ではない別の高校生が見て、非常に共感をしたようですけれども、そういう同世代に伝えていくということもできますし、あるいはもう一つは、今を伝えるだけじゃなくて、これ、歴史を記録してることにもなると思うんですね。
例えば戦時中の様子を知るときに、私たちはその当時の人の日記とか、そういうものを読んで、生活や思いというのを知る手がかりにしますよね。
そんなふうに彼女たちが、あるいは彼らが記録しているということは、この5年先、10年先、あるいはこの震災後に生まれた子どもたちが、高校生ぐらいになったときに、この自分たちの先輩がどういうことを感じたのか、どういうことを見ていたのかっていうことを通して、この災害というものが、次の世代に伝わると、そういう役割が出てくるんじゃないかなと思いますね。
あした、阪神淡路の17年目ですが、今、高校生がもうあの震災のあとに生まれてる子どもたちが高校生になってるんですね。
そういう子どもたちにどうやって伝えるかっていうのが大事な課題になってるようですけども、そういうときにやっぱり今のこの作品、あるいは彼女たちの活動というのはものすごく生きると思います。

やっぱりその家族を通してですとか、そういういろんな当事者でなければ分からないようなことっていうのを、やっぱり記録を続けてほしいなというふうに思います。
そういうようなことをすることで、また後々いろんな災害が起きたときに、彼女たちは自分たちの体験を通して、いろんなことを想像したり、考えたりする大人になっていくんじゃないかなと思います。

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