クローズアップ現代

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No.16682002年11月25日(月)放送
埋もれた拉致

埋もれた拉致

捜査資料が語る拉致の全容

昭和52年9月19日。
25年前のこの夜、能登半島宇出津の海岸では、地元の警察官が総出で警戒に当たっていました。
沖合に不審な船がいるという情報があったからです。
当時、北朝鮮からの密入国事件が相次いでいました。

石川県能都警察署長(当時) 門口忠男さん
「とにかく逃がしたらいかん。
抵抗して撃たれるかもしれないから、けん銃を持たせた。
それくらい緊張した一瞬があった。」


沖合を探しても不審船は見つかりませんでした。
海岸に近い旅館から2人連れの客のうち1人が戻ってこないと通報がありました。
捜査員が駆け付けると、明かりを消した部屋で在日朝鮮人の男が1人座っていました。
男は外国人登録証の提示を拒否したとして逮捕されました。
この男の供述から、1人の日本人が北朝鮮に連れ出された疑いがあることが分かりました。

久米裕さんです。
当時、東京の三鷹市役所で警備員をしていました。
この事件は宇出津事件と呼ばれました。



捜査の全容を記した報告書は200ページにわたっています。
警察の調べに対し男は、久米さんを北朝鮮の工作員に引き渡したことを認めました。
しかし男は、久米さんが北朝鮮に行ったのは同意の上だったと説明しました。

男の供述
“久米は6か月くらいなら日本を出てもよい。
あなたとは一身同体だし結構です、と言っていた。”

男の供述に疑問を抱いた警察は、本格的に追究を始めました。
捜査の先頭に立った西沢輔治さんです。
男は北朝鮮の工作員の指示で久米さんを連れ出したと供述しました。

石川県警察本部公安課(当時) 西沢輔治さん
「日本人をね、拉致みたいにして連れていくのはね、こんなのないと思ったんですよ。
身柄を持っていくというのはね、これにやっぱりこの事件の恐ろしさっていうか、驚きというのも初めて。
日本の警察でも初めてじゃないですか。」

男は工作員からの指示の内容を明らかにしました。

男の供述
“日本人で独身の45~50歳くらいの適当な男を探すように。
能力は問わないと指示された。”

男は以前、金を貸したことがある久米さんのことを思い出し、嘘のもうけ話を持ちかけました。

男の供述
“うまいもうけ口があるが、やってみないかと暗に密貿易の話があるかのごとく装って、久米に誘いかけた。”

供述を裏付けるため、警察は男の関係先を捜索しました。
男の自宅にあった本のカバーの裏からは、暗号表が見つかりました。
雨戸の戸袋の中からは、乱数表も見つかりました。
韓国政府の協力で事件から9か月後、警察は暗号の解読に成功しました。

北朝鮮からのラジオ放送で男に送られていた暗号です。
5ケタの数字のうち左から3つ、数字を取り出します。
879、この数字に対応する乱数表の数字は438。



2つの数字を桁ごとに足し合わせます。
1のくらいの数字を並べると、207という数字になります。




これを20と7に分けて暗号表の横軸の20、縦軸の7が交差するところ。
工作員との接触を意味する接線という言葉が浮かんできました。

石川県警察本部公安課(当時) 西沢輔治さん
「手に取るようにね、その北の司令の文がね、こういうふうに打たれてきとるんだなということをひしひしと感じましたね。」

男の供述と暗号の解読から、拉致が行われた9月19日の男の詳しい行動が明らかになりました。

解読された暗号文です。
接線は19日23時から30分の間にする。
拉致実行の合図は、指定した周波数のラジオ放送で歌を流すというものでした。


短波4,770キロサイクル。
接線に出ていくならば、「南山(なむさん)の青い松」。
「南山の青い松」は、北朝鮮でよく知られた歌です。
男が逮捕された時、旅館の部屋に残されたラジオのダイヤルは、指示どおりに4,770キロサイクルに合わされていました。
男は久米さんを連れて海に向かいました。

男の供述
“前方の暗闇にボーッと人影が見えた。
指示通り、石を三回打ち鳴らすと、先方も石を二回鳴らした。
北朝鮮からの出迎え人に間違いないと思い、久米の背中を支えるようにして引き渡した。”

警察は、男が久米さんをだまして北朝鮮に拉致した疑いで再逮捕する方針を固めました。
しかし検察庁から伝えられた判断は、拉致事件として起訴するのは難しいというものでした。
久米さんが本当にだまされて連れ出されたのか、自分の意思で行ったのか、確認できないというのがその理由でした。
久米さんの拉致事件の捜査は、発生から1年3か月たった翌年の12月、打ち切られました。

石川県警察本部公安課(当時) 西沢輔治さん
「私自身は、あれだけの時間をやったんだからね、当時、やっぱり起訴してほしかったことは確かです。
ただ、今回こういうふうにクローズアップされてね、やはり日本政府が一番最初にね、拉致の一番最初として挙げた事件がね、うやむやな回答で終わってもらっては困ると思うんです。」

埋もれた“拉致”

ゲスト安田昌彦記者(社会部)

●北朝鮮による拉致事件を克明につかむも容疑者の起訴に至らず 立件の壁になったものは?

はい、警察の当時の調べに対しまして、在日朝鮮人の男性はですね、久米さんを連れ出したことは認めているんですけれども、久米さんはですね、北朝鮮に行くことには同意していたという趣旨の供述をしているんです。
そしてこの男性は、NHKの取材に対しても、この件は拉致というものではないと考えていると話しているんです。
拉致事件として立件するためにはですね、被害者が自分の意思に反して連れ去られたことを確認しなければなりません。
久米さんの場合はですね、本人はいなくなってしまっていますから、意思の確認ができないわけですし、現場の目撃者といったそれに代わる証言や証拠というものが、当時は久米さんの周辺から得ることができなかったんです。
それで捜査は打ち切られてしまったということなんです。

●目撃者なく本人の意思確認できない拉致事件 当時は立件できないのでは?

そうですね。
当時はですね、ほとんどの人が拉致なんてあるはずはないという認識でいましたから、やはりどうしても本人の意思を確認しなければならなかったんです。
被害者の行方が分からなくなってしまっているという拉致事件に共通する特有の難しさを超えられなかったということなんです。

●最初に認めた拉致事件 その後の捜査・交渉に役立てられなかったのか?

そうですね。
こちらの図で説明してみたいと思うんですけれども、久米さんの事件が起きたのはこちら、昭和52年です。
それから昭和58年にかけまして、横田めぐみさんの事件からこちらの有本恵子さんの事件まで、現在明らかになっている拉致事件が次々と起きてしまっていたんです。
それだけにですね、最初に起きた久米さんの事件の情報や経験をですね、その後のこうした事件の捜査にもっと生かせなかったのかという思いは確かに残ります。

それから、外交交渉のほうなんですけれども、久米さんの事件が外交の場で取り上げられたのは、こちら、平成9年になってからのことでした。
当時の与党3党の訪問団が、他の被害者と合わせて調査をまとめたんです。
しかしこれはですね、久米さんの事件の発生から20年たっていたんです。

埋もれた“拉致”

8年前の平成6年6月、田中さんが拉致されたという情報が兵庫県警に寄せられました。
証言したのは在日朝鮮人の男性でした。

“日本から拉致されてきた田中という男にピョンヤンで会った。
昭和50年ごろ、神戸市東灘区の飲食店でよく見かけた男だった。
しかしフルネームはわからない。”

兵庫県警察本部 外事課 吉竹次郎課長
「田中という人が北朝鮮にいるということだったんですけども、田中という名前しかわからないということで、捜査員の方も、当時の捜査員ですけれども、半信半疑であったと。」


警察は昭和50年当時、神戸市に住んでいた田中という名字の人物を調べました。
手がかりは昭和50年の電話帳でした。
当時、掲載されていた田中さんはおよそ4,000人。
警察は昭和60年の電話帳と比べました。
電話帳から消えた田中さんがいないか調べたのです。
最終的に48人の田中さんがいなくなっていることがわかりました。
引っ越していれば、住民票も移されているはずだ。
警察は全員の住民票を調べました。
一人一人調べていくうちに、火事で焼け誰も住んでいないアパートに住民票がそのまま残されている人が見つかりました。

田中実さんでした。
田中さんは周囲に身寄りがなく、捜索願は出ていませんでした。
兵庫県警は拉致について証言した男性に、田中実さんの写真を見せました。
男性はピョンヤンであった田中さんに間違いないと話しました。
情報がもたらされてから2年がたっていました。

兵庫県警察本部 外事課 吉竹次郎課長
「付近の聞き込み、あるいはまた関係機関への照会等、大変捜査員は苦労して、田中実さんという方を特定できたわけですけども、これでもって拉致の可能性が必ずしも排除できない事案というようなことで捜査、調査の第一歩を始めたと。」

男性は更に詳しい証言をしました。
田中さんは海外旅行に誘われてウィーンに行った。
その後、モスクワを経由して北朝鮮に連れていかれた、そう証言しました。

この証言を裏付けるため、警察は田中さんの出入国記録を調べました。
1978年、昭和53年6月に成田空港から出国していたことがわかりました。
しかし、帰国した記録はありません。
これ以外に田中さんの足取りをたどる記録は見つかりませんでした。

NHKが入手した警察の捜査資料です。
捜査の過程で田中さんの周辺に北朝鮮の工作組織のメンバーがいたことがわかりました。
工作組織の名前は洛東江(らくとうこう)。
10人以上のメンバーが確認されていました。
その中に田中さんが行方不明になる前に働いていた中国料理店の元店主がいました。
警察は、元店主が田中さんの行方について知っているのではないかという疑いを強めました。
警察は元店主の捜査を進めました。
元店主が韓国で摘発されたスパイ事件に関わっていた疑いがあることがわかりました。
兵庫県警は事件を摘発した韓国の捜査当局に、更に詳しい情報を求めました。

元KCIA 捜査局長 イ・ヨンテク氏
「元店主の彼は、北朝鮮からの指令を受け、スパイを韓国に潜入させました。
活動前に摘発できましたが、地下組織を結成して情報を集めようとしていたのです。」

平成8年、兵庫県警は初めて中国料理店の元店主から任意で事情を聞きました。
元店主は、田中さんは知っているが、拉致や洛東江との関わりは一切否定しました。
田中さんの行方不明から18年がたっていました。

兵庫県警察本部 外事課 吉竹次郎課長
「やはり時間というものですね、大きい捜査の壁にはなりましたですね。
期間の経過と共に、人々の中から、付近の方からでもですね、田中さんそのもの自体が記憶に残らなくなってきているということ。
そしてまた人の入れ替わりで聞き込みに行っても情報が聞けないということがございましたですね。」

北朝鮮が拉致を認めた今年(2002年)9月、兵庫県警は捜査を再開しました。
今月になって田中さんの消息について新たな事実がわかりました。
行方不明になってから数か月後、友人に手紙が届いていたのです。
ウィーンで楽しく過ごしています、手紙にはそう書かれていたということです。
この手紙以外、田中さんの消息につながる新たな手がかりは見つかっていません。
行方不明から24年、拉致をうかがわせる情報はあるものの、捜査は時間の壁に阻まれています。

埋もれた“拉致”

●工作組織が拉致事件に関わったとして捜査するも、20年たっても拉致されたかわかっていないが?

警察の捜査でですね、工作組織のメンバーのうち、田中さんとの接点が浮かび上がっている元店主はですね、警察の事情聴取に対して、拉致についての関与を否定しているんです。
そして、この工作組織なのですけれども、田中さんについて警察が捜査を始めた平成6年にはですね、既に活動の実態がなくなってしまっていたんです。
ここでも時間の経過が捜査の壁になっているということなんです。

●家族が拉致されたのではという相談も多いが、今後の警察の対応は?

警察はですね、改めて捜査を進めようとしているんです。
しかしですね、寄せられる相談の多くはですね、田中さんのケースと同じようにですね、行方不明から20年、30年という歳月が経過してしまっているケースが多いんです。
当時を知る人が亡くなってしまっていたり、記憶が曖昧になったりしていますから、事実を解明することが難しくなっているんです。
久米さんの事件ではですね、北朝鮮による拉致の実態にせっかく迫りながらですね、それをきちんと北朝鮮側に問いただしてこなかった。
これがですね、拉致の被害がどこまで広がっているのかの解明を難しくしているんだと思います。
北朝鮮との国交正常化交渉は、現在こう着した状態になっているんですけれども、今後の交渉ではですね、こうした埋もれてしまう恐れのある拉致疑惑についても、北朝鮮側から情報を引き出すように取り組んでいく必要があるんだと思います。

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