ふるカフェ系 ハルさんの休日

古民家や古建築のカフェを紹介するブログです。

本放送:毎週水曜 午後11時00分~ NHK Eテレ

再放送:毎週日曜 午後6時30分~ NHK Eテレ

にて放送中。ドラマも合わせてお楽しみください!

関東

2017年04月01日 (土)

茨城・結城のふるカフェ

東京から列車を乗り継ぎ1時間、茨城県結城市へ。築90年!贅を尽くした巨大ふるカフェへ。

カフェの窓の外側にあるのは「濡れ縁」。法隆寺など古い建物でも見られる歴史ある様式。さらに「回り縁」になっていて、景色を見渡せるエリアがふんだんに。濡れ縁を支えている「持送り」も凝ったデザイン。ガラス表面の波打ちは、かつて一枚一枚手造りで作られた超レアな「大正ガラス」。

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何かとゴージャスなこの建物の正体は、地元の造り酒屋の邸宅。ここ結城は結城紬で知られる着物の町として隆盛を極め、全国から様々な商人が集まる一大商業都市だった。
近江から移住してきた小西家が財を築き、昭和元年、別邸として建てたのがこの建物だったのだ。

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それがカフェとしてよみがえったきっかけは、商工会議所と市内の若者が協力して地域活性化の取り組みを行う「結いプロジェクト」。古民家を再活用し、店舗の開業を応援する事業がその一つだった。改修の際には、プロジェクトメンバーの建築家も手伝い、2013年の開業以来、全国から人々が訪れる新名所に。古い蔵や神社を利用してイベントも頻繁に開催。

出店やコンサートなどを行い、去年は2万人が集まった。
堪能したのは地元野菜のサラダ。関東平野に位置する茨城県は、野菜の生産額が、北海道に次いで全国第2位!結城も市内の半分が耕地になっている。全国一の生産量を誇る白菜をはじめ、野菜を首都圏に出荷している結城は、「東京近郊の台所」と言われている。

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横浜駅から電車で20分の郊外の街、緑区中山。ここに築60年、庭付き一戸建てのカフェがある。

屋根は青の光沢が美しく、昭和30年代の民家でよく使われていた青緑瓦。内部には天井板を剥がして空間の広がりを見せている。棚の板を剥がして窓から光が入る工夫も。

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ここ中山は、かつては徳川家の旗本に年貢を納める大農村地帯。昭和に入っても横浜におろす農産物の供給地だった。今でも緑区は面積の10%が経営農作地で、春はキャベツ・冬は大根の生産が盛んだ。自家菜園をする人も多く、このカフェの野菜も全てシェフが育てた有機野菜。というわけで地元で撮れた野菜を生かした水キムチを堪能!

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なぜ戸建ての一軒家が空き家になっていたのか? そもそも中山周辺に一軒家が多く建てられたのは、高度経済成長期に起こったマイホームブームのため。都心や横浜へのアクセスがよく自然も多いため人気の街だったが、1990年代からマンション志向が高まり、一戸建てに空き家目立ち始めた。
だがここ最近、中古物件が見直されるようになって移住者が再び増えるようになり、店主たちは空き家だったここを中山や古民家の魅力の発信基地にしようとカフェとしてオープンしたのだった。

2016年12月21日 (水)

埼玉・行田のふるカフェ

gyoda_gaikan.jpg舞台は「埼玉・行田」。東京から1時間のこの町に「蔵だらけの町の築60年のパンカフェ」があると聞き、訪れたハル。街を歩くとそこかしこに奇妙な形の古い蔵が目につく。到着した店は和洋折衷のモダンな建物の中に30畳もの和室が広がっていた。看板メニューのパンは隣の蔵で作られたもの。土壁が内部の温度と湿度を一定に保つため、パンの発酵にとってもいいんだとか。

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一体なぜこの街はこれほど「蔵」オシなのかと思ったら、その正体は「足袋の蔵」。実は行田は江戸時代後期から昭和中期にかけて足袋の名産地。街には今も70近い足袋蔵が残ってシンボルとなっている。この建物には明治から現代にいたる行田の町の記憶がつまっていた。

2016年12月21日 (水)

神奈川・小田原のふるカフェ

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 舞台は「神奈川・小田原」。新幹線こだまで東京から35分。通勤圏としても人気の城下町、小田原に「80年前の商家のカフェ」があると聞き、訪れたハル。到着したカフェは、元は昭和初期の建具屋だったという、生活感あふれる建物。それが現代的な形で絶妙なおしゃれ感覚をかもすカフェになっていた。

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レトロ気分あふれるカフェの売りは、小田原産の玄米を使ったランチ。食事を堪能し店長と会話していくうち浮かび上がってきたのはこのカフェが「小田原で数少ない貴重な古民家」という事実だった。歴史ある小田原の街だが、実は関東大震災と太平洋戦争中の空襲により市街は壊滅。現在の町のほとんどは戦後生まれたものだった。そんな中でも生き延びていた80年前の貴重な建物が朽ち果てようとしていた時、隣町出身で設計士である現在のオーナーが再建を決意。地元の廃材などを使いながら復元させたのだった。