ふるカフェ系 ハルさんの休日

古民家や古建築のカフェを紹介するブログです。

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2017年07月26日 (水)

宮城・富谷のふるカフェ

 

伊達政宗公に、会いに来ました!そう、ここは宮城県仙台市

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仙台市内からバスに揺られて奥州街道を北へ約20キロ。

到着したのは、富谷市。

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ここは、政宗公の命によって誕生したかつての宿場町だ。

もしかすると、政宗公もここを通っていたりして・・・。

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お目当てのカフェは、平屋と2階建てが組み合わさった木造建築だった。

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玄関が建物から張り出していて、まるで門のようだ。

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扇型の窓も凝っているし、裏の壁は僕が大好きな鎧(よろい)張りだ。 

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店内に入ると、やさしい日の光が差し込む縁側が・・・

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その先に広がっていたのは二間続きの広間。

のんびりと落ち着けそうな雰囲気だ。

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壁抜きの欄間(らんま)は高級感があるし、

床の間の天袋は、ふすまの縁を丸く加工した

「隅丸(すみまる)」ではないか。

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こちらの欄間も凝っている。

三国志の蜀から伝わる蜀江(しょっこう)という格調高い文様だ。

壁に映る影までが繊細で美しい。

 

ここは、大正末期に建てられた元裁縫学校。

ここで裁縫を教えていたのは、富谷の女傑と言われた菅野つるさん。

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店主の梅津さんによれば、つるさんは手に職をつけることで

女性たちの自立を支援。「自分の道は自分で切りひらく」

というチャレンジ精神の持ち主だったそうだ。

 

今回、僕が注文したのは、富谷の特産品であるブルーベリーを使ったマフィン。

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ブルーベリーの酸味とクリームの程よい甘みにうっとりしていると、

何やら隣のテーブルから熱い視線が・・・。

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(ブルーベリー農家の佐藤一夫さんと息子の剛さん)

 

ブルーベリー農家の佐藤さん親子だった。

今では、ブルーベリーは富谷の特産品だが、約30年前に佐藤さんたちが

無農薬栽培にチャレンジしたのがはじまりだったそうだ。

 

店主の梅津さんがこの建物に出会ったのは40歳のころ。

そこで、地元の人たちに喜ばれるカフェをオープンさせようと決意。

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(店主の梅津英紀さん(中央)・父の慶一さん(左)・母の光子さん(右))

 

当初は、安定した職についてほしいとお父さんは猛反対。

でも今は、自分の畑で採れた野菜を持って来てくれるなど応援してくれているそうだ。

 

農家の集まりである「おんないん会」の会長さんである小松さんは、

地元の野菜をもっと知ってもらおうと朝市に挑戦するなど、さまざまな活動を。

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(「おんないん会」会長の小松明巳さん)

 

ちなみに「おんないん」とは、「寄ってらっしゃい」という意味だ。

 

富谷で誰もやったことのないことをやろうと、

はちみつ作りに挑戦しているみなさんもいた。

今は自分たちだけで天然のはちみつを作っているとのこと。

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((左から)及川和子さん・福井公美子さん・村上幸枝さん)

 

元裁縫学校のカフェ。この建物にも、ここに集まる人たちにも、

菅野つるさんの「自分の道は自分で切りひらく」という精神が息づいている。

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なんか、皆さんに会えてたくさんの刺激を受けちゃったなあ。

よっしゃ、僕も「ふるカフェ」の道をもっと切り開いていくぜ!

 

 

 

 

 

こぼれ話

以前、大切な客を迎える部屋の作りというものは、日本と海外とではずいぶん違うなと、考えてみちゃったりしたことがある。感覚的に、日本は「スッキリ傾向」で海外は多くが「きらびやか傾向」。そしてもうひとつ、日本の場合、しかも和室となると、動物の剥製のような派手なものは基本的にはなく、さりげないものがジンワリと、しかしキッチリと部屋を彩っていたりする。そうしたものの一つに、欄間がある。欄間は、よく見ると実に凝っていて美しいのだけど、自分の存在を過剰に主張せず、それでいてしっかりと部屋を飾ってくれている。欄間とはそもそも、天井と鴨居のあいだにもうけられた開口部のこと。障子や、組子、彫物、透し彫りのある板などをはめこんだり、採光や通風のための開口としても用いられたりした。その始まりは古く、平安時代の寺院建築であらわれたといわれている。その後、住宅にも一般化していったようだね。その歴史を少しみていくとしますか。

まず、室町時代以前は、寺院建築で使われることがほとんどだった。そのころの主流の欄間は、まずは、筬(おさ)欄間かな。
筬欄間という言葉はあまり聞いたことないかもしれない。基本は細い組子をたくさん横に並べるので、見た目には細い縦線がいっぱいあるようになる。中には“横線”を2~3筋入れるものもあって、格式のある座敷に用いられた。もうひとつは、竹の節欄間。長押の上に置かれた欄干のような形をした装飾装置。この竹の節に横木を渡して、そのあいだに対角線上に細い部材をいれたものだ。安土桃山時代から江戸時代にかけて、欄間に彫刻が施されて装飾性が高まっていく。日本建築には襖・障子以外には、あまり華美な室内装飾はないけれど、そのなかでも欄間はひとつの見せ場となっている。目線よりも高い位置にあり、広間にいる者の誰の目にも入るので、趣向をこらした欄間が造られるようになっていった…ということかな。また書院造では、座敷飾(床の間・違い棚・付書院)のある部屋がもっとも格式の高い空間と考えられる。そうした部屋の格式にしたがって、使われる欄間も異なってくるようだ。座敷飾に近い部屋、つまり格式の高い方から落掛-彫刻欄間-筬欄間-竹の節欄間という順になっている。

書院造とは住宅の様式の名前だが、たんなる住宅だったのではなくて、対面をつうじた政治の場として機能した。書院造にみられる、上段・中段・下段と連続していく広間は、対面儀式の舞台であった。そのため社会的なヒエラルキーを表現するための工夫がこらされていた。簡単にいえば、上客になればなるほど格式の高い間に通されるということだね。ヒエラルキーの表現は、床や天井にもある。床の高さはだんだん高く、天井は格天井、折上格天井、二重折上格天井と上段へ行くほど高く表現された。

欄間飾りのルールも、これらと連動していると考えていいと思う。筬欄間と竹の節欄間は、書院造の成立以前から寺院建築で用いられてきた。竹の節欄間はごく簡単な意匠であり、少し田舎風なところがあり、組子による筬欄間の方が繊細な意匠だということがいえる。さらに彫刻欄間は、大工が技巧を凝らして制作をおこなった。このような書院造の広間空間を舞台にした対面儀式が、武士の間で普遍化していくのは、天正~慶長年間の豊臣政権の頃ではないかと考えられる。とくに秀吉が造営した聚楽第(天正15年、1587年)の影響が大きいと考えられる。こうした対面による武士のヒエラルキーの視覚化は、徳川政権の寛永期により明確化された。どうでもいいことだけど、「聚楽」という名前にはどことなく高級感があるよね。そのせいか、ホテルとか高級な飲食店の名前でよく見かける気がする。「聚楽」という言葉に高級感を持たせた張本人は、もしかして秀吉なのかなぁ。

さて、寛永期の二条城や本願寺、知恩院には大きな広間が設けられたが、古き良き日本の伝統建築であるとともに、やはり支配のための道具として機能した。欄間もそのための舞台装置だったという見方は、しかし少しうがった見方かもしれないね。ことほどさように日本の住宅様式には、日本の封建制~家父長性のヒエラルキーがよく表現されているなんていわれて、戦後には床の間廃止論も唱えられたほど。それでも、いまだに床の間、欄間は根強く残っているね。


参考文献
『建築大辞典』第2版、彰国社、1993
藤井恵介・玉井哲雄『建築の歴史』中央公論社、1995
木村顕・光井渉「内法上の建築的装置に着目した〈座敷列〉に関する研究 断面情報による近世初期書院造の再検討 その1」『日本建築学会計画系論文集』600号、2006、pp. 179-184