2018年7月

vol.3「出会いが生んだ博多のキムチ」


博多区千代に、50年にわたって愛され続けているキムチ店がある。店に並ぶのは、白菜はもちろん、オクラにワカメ、セロリ、山芋からゴーヤまで、バリエーションに富んだキムチの数々だ。
店主の横尾満行さん(77)がキムチを売り始めたのは20代のころ。当時、漬け物屋を営んでいた大津町商店街の近所には、朝鮮半島出身の人が数多く暮らしていた。終戦後、祖国に戻れず福岡に残った人々が、御笠川の脇にバラック小屋を建て、身を寄せ合うように生活していた。在日コリアンの人々に「漬け物を売っているならキムチ作ってよ」と頼まれた横尾さん。当時キムチは日本人には馴染みがなかったが、作り方を教えてもらい、キムチ作りを始めた。やがて、キムチの奥深さに魅了された横尾さんは、韓国にも足を運んで研究を重ね、在日コリアンの人々にも納得してもらえるキムチが作れるようになった。いま、キムチ作りは、横尾さんの2人の娘に受け継がれようとしている。
戦後の復興期、在日コリアンとの出会いによって生まれたキムチ。横尾さんのキムチ作りの原点をひもとき、福岡の戦後史の一片を見つめる。

■キムチ店について
▽横尾商店(博多せんしょう内)
住所:福岡県福岡市博多区千代3丁目19番1-115号
電話:092-641-4510

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投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:17時00分 | カテゴリ:九州・沖縄クロスポイント | 固定リンク

夏まっさかり!


2週間ぶりのブログ、失礼いたします。
「山笠とともに、本格的な夏がやってくる」
そんな言葉を肌で感じるきょうこの頃です。

はじめの博多祇園山笠。
夜明け前から多くの人で埋め尽くされる街の様子に
圧倒されました。

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福岡出身、女優の奈緒さんとともに1枚。
博多織の浴衣がお似合いです。

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熱気あふれる山笠の模様は、
29日(日)午前11時から、BSプレミアムでダイジェスト版を放送します。

山笠の後は、続く猛暑に耐えかねて、
涼しいところに出かけることにしました。

大分県九重町にある九重“夢”大吊橋です。
歩行者専用橋としては日本一高い吊り橋。
吹き抜ける涼しい風に気分も最高!でしたが…。

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いざ渡ってみると、ちょっと怖い…。

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真下の川までおよそ170m。
足がすくみます。

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実は、高所が若干苦手でして、
冷や汗がにじむ瞬間でした。

吊り橋の次は、高原を満喫!
くじゅう連山の北側にあるタデ原湿原を散歩しました。

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清々しい空気を吸い込んで、発声練習!

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小さな花々にも癒されます。
手に何か違和感を感じて思わず見ると…。

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トンボが遊びに来てくれました。
カシャっと撮影すると、静かに飛び立っていきました。
自然の中で、ほてった体と心を大いにクールダウンできた
休日でした。

投稿者:中山庸介 | 投稿時間:16時09分 | カテゴリ:中山庸介 | 固定リンク

豪雨を乗り越えた「川茸(かわたけ)」


福岡県朝倉市の黄金川(こがねがわ)に自生する「川茸(かわたけ)」(スイゼンジノリの名前でも知られています)。約200年以上、地元の人々に愛されている珍味です。近年、温暖化による水温の上昇、水不足や生活排水による黄金川の水質変化により、2006年には環境省の定める「絶滅危惧種IA類」に指定されました。黄金川の「川茸」を生産・販売している、1793年創業の川茸を専門に扱う老舗では、17代目の遠藤淳(じゅん)さん(49)が、いまその伝統を受け継いでいます。収穫しゴミを取り除き、5時間塩に漬け込んだ後、再び選別するという作業は全て手作業。200年以上変わらない製法を守り続けています。
しかし去年、朝倉市を襲った九州北部豪雨。川茸のほとんどが豪雨で流されてしまい、去年は出荷することが出来ませんでした。それでも17代目は、従業員たちで川の整備を行い、何とかわずかに残っていた川茸を育て、今年4月に入りようやく収穫出来るようになりました。
ゼラチン質でツルツルした食感が魅力の川茸。生のまま三杯酢でいただくのが、17代目のオススメです。

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△川茸が自生している黄金川

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△川底で育つ川茸

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△1793年(寛政5年)創業
川茸を専門に扱う老舗の 17代目、遠藤淳さん

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△綺麗な色合いになり製品となった「川茸」 

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■川茸を専門に取り扱っている老舗
▽遠藤金川堂
住所:〒838-0031 福岡県朝倉市屋永2949
電話:0946-22-2715


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福岡県朝倉市の「川茸(かわたけ)」。みなさん、ご存知でしたか。
プルプルとしていて、涼しげな緑色が印象的ですよね。
全国的に自生しているのは、朝倉市以外にはほとんどないと言われていています。絶滅危惧種にも指定されています。朝倉市に行かないとなかなか食べられない貴重な食材です。
そんな貴重な川茸が去年、九州北部豪雨の被害にあい、8割が流されてしまいます。その危機を乗り越えることができたのは、地元の人たちの協力があったからでした。豪雨により荒れてしまった川の清掃を行い、わずかに残った川茸を大事に育てたのです。地元の人たちの、川茸を大切にしたいという思いを感じました。
200年以上受け継がれてきた川茸。これからも大切に守り続けていってほしいですね。
川茸は初夏から夏が1番おすすめだそうです。皆さんもぜひ召し上がってみてください。

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:18時30分 | カテゴリ:食いち! | 固定リンク

きのうの敵はきょうの友


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7月の西日本を中心とした記録的な豪雨では、住宅だけでなく、工場なども被災して、途方に暮れている事業者の方がいるかもしれません。1年前の九州北部豪雨でも朝倉市では300余りの中小企業が被災し、1年がたった今も、売り上げが被災前の水準に戻っていない企業もあるといいます。こうした中、被災しながらも、いち早く操業を再開し、業績が豪雨前の水準を取り戻している会社があります。背景には、ライバル企業からの知られざる支援がありました。

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朝倉市にある建材メーカーのオークマでは、ハウスメーカー向けに住宅用のドアなどを作っています。

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工場もあるオークマの会社の裏には妙見川が流れています。

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「この川は普段は10,20センチくらいの水かさで非常に穏やかな川なんです」(オークマ 大隈賢一郎 副社長)

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九州北部豪雨では、この妙見川が氾濫。工場に大量の泥水が流れ込み続けました。

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商品のドアおよそ8000枚がだめになり、工場の機械も壊れました。被害は数億円にも及び、操業中止に追い込まれました。

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「仕事ができなくなってしまうので、売り上げもなくなる。いろんなもう不安要素が頭をかけめぐったような状況でしたね」(オークマ 大隈賢一郎 副社長)。先が見通せない中、オークマにあるところから支援の手がさしのべられ助けられたといいます。それは、意外な相手でした。

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オークマを支援してくれた先は、朝倉からおよそ700キロ離れた岐阜県下呂市にありました。建材メーカーのハウテックです。

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オークマと同じ、住宅用のドアを作っています。ハウテックとオークマは互いに、同じハウスメーカーに商品を販売するなど、30年来、しのぎを削ってきたライバル企業です。

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ハウテックの中川正之社長は、朝倉の豪雨のニュースを見て、オークマからの商品の供給が止まり、自分の客でもあるハウスメーカーが困るのではないかと即座に感じたといいます。

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「オークマさんのお客さんに対する納入が滞るだろうから、まず第一にお客様が困るだろうと思いました。すぐ役員にLINEを送り、オークマさんにとりあえず状況確認の電話をしてくれと伝えました」(ハウテック 中川正之社長)

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中川社長はすぐに商品の増産と輸送ルートなどの確保を社員に指示しました。社員たちは、残業や休日出勤で増産に対応。商品のこん包方法をオークマと同じ仕様のものに変えたり、九州や四国など配送したことのない遠い地域にまで商品を運び、利益もほとんど出ない中で商品を供給し続けました。

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ハウテックの中川社長は、単に、自分の客のハウスメーカーを助けたいという気持ちだけではなかったといいます。「長年よきライバルとして頑張っておられるオークマさんですよね。お客さんも困っているし、オークマさんも困っている。だったら我々がなんとかしなければという気持ちがありました」

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「ハウテックさんの話を伺ったときは心からありがたいと思いました。感謝の気持ちしかないのが正直なところです」(オークマ 大隈賢一郎 副社長)

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オークマはその後、被災から1か月あまりで操業を再開しました。ライバルのハウテックは、商品を納めたあと、オークマの顧客を囲い込むことなく返してくれました。このため、オークマは操業再開後も顧客を失うことなく、売り上げはすぐに被災前の水準に戻ったと言います。ライバルがこけたら、助けるより、客を奪うチャンスと考える企業もあると思います。これまでの災害現場での企業取材を通して、操業を止めている間、顧客を奪われて、操業再開後も客を取り戻せず、経営が厳しくなる企業も多いと聞きました。
そういう事態を避けるためにも、まさに「きのうの敵はきょうの友」ではありませんが、今回のような企業どうしの助け合いが専門家も効果的だと指摘しています。

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「自助には必ず限界があります。今回のケースは機転が利いてうまくいったケースですが、たまたまにしないためには仕組みとして、自治体や商工会議所などが、どうすればこうした取り組みを推進できるか、どうしたらマッチングできるかを考えていただきたいと思います」(名古屋工業大学大学院 渡辺研司 教授)

【取材後記】
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日本海側の新潟と太平洋側の神奈川のメッキ組合は、災害時に生産を代行するため、人や工場を融通し合う協定を結んでいるといいます。事前に相手の工場を視察して、同じ仕様で製品を作れるようにするなどの対策も進めているということです。これは、中越地震や東日本大震災を教訓に結んだもので、距離が離れた地域どうしだと、同時に被災する可能性も低いため、違う地域同士の連携も重要だと感じました。

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ことしも西日本を中心とした豪雨など、各地で災害が頻発しています。BCP=事業継続計画など、災害に自ら備える“自助”はもちろんのこと、他の企業と連携する“共助”を模索するなど、いま一度、企業の備えは十分か、見直す必要があると感じました。

福岡放送局記者 仲沢啓

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:10時48分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

進化が伝統!~博多織の挑戦~


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絹糸の光沢や独特の質感で多くの人をひきつける博多伝統の「博多織」。その技法が鎌倉時代に今の中国から福岡に伝わってことしで777年の節目の年を迎えているのをご存じでしょうか?長い歴史があり、博多の誇りでもある「博多織」ですが、着物がふだん着でなくなった今、地元でも「特別なもの」、「遠い存在」というイメージが広まっているのが実情です。そこで、博多織をもっと身近に感じてもらおうと、博多織の織り元たちが新しい商品づくりに挑み、博多織の可能性を切り開こうとしています。ヒントにしたのは博多織の777年の「進化」の歴史でした。

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博多を代表する国の伝統的工芸品・博多織。上質な絹糸で紡がれる帯などに多くの人が魅了されます。何といってもその特徴は縦糸の多さです。ほかの産地の織物に比べ3倍近い量で織ります。

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糸を隙間なく密集させるため、生地に厚みやハリが出て、丈夫で傷みにくいのが特徴です。さらに横糸の量とのバランスをはかり、織物の表面にわずかな凸凹のようなものを生み出すことで、結んでもずれにくく、ゆるみにくい作りに仕上がります。特に男帯は「朝締めても夕方までゆるまない」と評されてきました。

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江戸時代に編さんされた筑前国続風土記

博多織が一躍知られるようになったのは、江戸時代です。武士の間で評判が広がりました。重い刀を腰に差しても帯がゆるまず、生地が丈夫なので、長もちもすると重宝されました。古文書にも博多織の特徴が書き記されていました。
『唐織の絹帯 強くて久敷きに堪ふ』(訳 唐織=博多織の絹の帯は強くて長持ちする)

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今も「博多祇園山笠」の男たちにとって、博多織は欠かすことのできない1品だといいます。丈夫でゆるみにくいからです。

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「1回締めたら、もうゆるみにくい。小物袋を帯にぶらさげとっても、全然ゆるまんけんですね」

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博多織の織り元の人たちが集まって新商品の開発を進めていると聞いて、私は取材に出向きました。この集まり、その名も「博多テックス」。織物を意味する「テキスタイル」からとったそうです。なぜ新商品を開発するのか?そこには織り元たちの危機感がありました。実は、博多織の織り元は昭和50年には170社近くありましたが、今では47社に減っています。着物を着る機会が減り、根強い人気を集めてきた帯の需要が落ちているからです。

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背もたれや座面など、生地はすべて博多織。「博多テックス」が手がけようとしているのは、博多織とコラボレーションした家具です。全国有数の家具産地、大川の家具店やデザイナーと協力して商品化を目指しています。耐久性が求められる家具は、丈夫さが特徴の博多織との親和性が高いと考えたからです。日々の暮らしに欠かせない家具に使われれば、博多織をよりみじかに感じてもらえるのではと考えています。

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「いままでの技術を生かしたものをつくるためには、いろんなものに挑戦する。それが博多織の今後の将来の生きる道ではないかなと思います」(博多テックス呼びかけ人 原田織物 原田昌行社長)

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ところが課題が見つかりました。生地は、強い力で引っ張った上で家具に貼り付けます。博多織は縦や横の方向に加わる力に対しては強く作られていますが、斜め方向に加わる力に対しては、比較的弱いのです。このため、家具に貼り付けた生地は何度も座るうちによれてしまう上、せっかくの柄も変形してしまいます。家具に求められる丈夫さは帯以上のものだったのです。

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「生地を下に引っ張ってとめるので、角の部分はどうしても斜めに引っ張らないといけないところが出てくる。その結果、柄がどうしてもいびつな形になる」。(大川家具 丸仙工業 設計デザイナー飯田真生さん)

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「『博多織は強い』というのは、和装・帯の世界の話なんです。日本の工業製品の中での耐久テストをすると、そんなに強いものでもないんですよね。伝統的工芸品として生産を続けるのか、工業製品として新しいものをつくるのかという岐路に立っていると思います」。(生地の開発を担当 サヌイ織物 讃井勝彦社長)

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岐路に立つ博多織。しかし博多織には、これまで幾度となくピンチをチャンスに変えてきた歴史がありました。江戸時代の人気歌舞伎役者、七代目市川團十郎が使った博多織の帯や衣装を再現したレプリカです。粗悪な模造品が出回ったりして博多織の帯が伸び悩んだ際、当時の織り元らは、帯だけでなく着物や羽織まで作りました。そして武士のためだけでなく、それまで関わりがなかった歌舞伎の世界に博多織の売り込みを図ったのです。

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「“この博多の帯は唐織で強くてゆるまねー”って言って口上してくれるんです。一躍、江戸の町に博多織の名声が広まったって逸話があります」(原田織物 原田昌行社長)

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(博多織工業組合所蔵『博多織史』 明治期の博多織ネクタイ)

その後も、洋服が広まり始めた明治期には、ネクタイなどの小物をつくり始めました。

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昭和の戦時中には軍事用のパラシュートのベルトの生産を命じられるなど、苦しい時期こそ、特徴をいかした工夫と改良を繰り返し、新商品に活路を見いだしてきました。歴史をひもとくと、社会の変化に対応した「進化」こそ、博多織の伝統をつないできたといえるのです。

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「博多織も時代とともに変わってきていると思います。でもその中には、先輩たちの技術がのこっていく。日本の伝統文化というか日本の伝統工芸の技術がこれからも生かされていくべきじゃないかと思います」(原田織物 原田昌行社長)

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糸の種類や織り方の技術にもさらなる「進化」が必要だと考えた「博多テックス」。糸は肌触りのよい伝統の絹糸を使ってきましたが、今回は肌触りが絹により近くて強度も高いポリエステルに変えました。

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さらに織り方は、帯の丈夫さを生み出してきた縦糸の多さに加え、家具向けに強度を増すため横糸の本数も増やしています。


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「今考えられる一番ふさわしい織り方を見つけ出していく。それが続いてきたから、777年の伝統があると思います」(サヌイ織物 讃井勝彦社長)。

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「博多テックス」の目標は、博多織独特の光沢、そして上質な風合いが感じられる、耐久性も兼ね備えた家具です。職人たちが知恵を出し合い、新しい商品の研究が連日、続けられています。

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「やはり、われわれの業界だけでやると、なかなか飛躍したもののつくり方って難しい。いろんな異業種の方との交流をして、新しいものをつくるということが、これからは大事だと思うんで、そういうのを私はこれからやっていきたいと思います」(原田織物 原田昌行社長)


博多織の技術は、家具以外にもこれまで、大相撲の力士の締め込みや、室内装飾の壁紙などにも使われてきました。衣服以外のもの作りに挑戦する時、欠かせないのがさまざまな業種の人との連携です。家具づくりの場合、家具の形や博多織の柄を決めるデザイナーと、家具を組み立てて製造する大川家具のメーカーとの連携で商品により1層磨きをかけています。

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例えば生地のデザイン。北欧風にも見えるモダンな印象ですが、よく見ると、実は博多織を代表する「献上柄」の“花”や“しま模様”の要素が組み込まれています。
また、家具には品質のよい福岡産のヒノキが採用されました。くぎやネジを使わない技法で組み立て、博多織の美しさを際立たせているのです。さまざまな職人たちが集まる博多テックスの打合せの場は、「いいものを作りたい」という熱意と志で満ちていて、さらなる博多織の進化に期待したいと思いました。


【取材後記】
博多織といえば絹糸。そこを変えてしまっては博多織ではなくなると感じる人も少なくないと思います。しかし、織り元の人たちが、思案を巡らせた結果の大きな決断だったのだと思います。博多テックスの皆さんは、「大切なことは、博多の地で織物業を続けていくことだ」と話していました。家具に対しては、柔軟に素材を変えつつも、織りの技術は伝統にこだわり、さらに改良も進めていました。たとえば家具に使われる一般的な生地は強度を増すため生地の裏にのりをはったりします。ところが博多テックスの皆さんは、のりだけに頼らず、織り方にもこだわって改良を加え、家具向けに強度を高めようと取り組んでいました。伝統をつなぐということは、先人の技術を守りながらも、工夫や改良を繰り返し、進化させていくことも欠かせないということを、博多織の777年の歴史と、今を担う職人さんたちが示していると感じました。


福岡放送局リポーター 水越理恵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:10時10分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

戻りたいけど戻れない


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九州北部豪雨から1年。多くの被災者がふるさとから離れて暮らしていることがわかりました。朝倉市は九州北部豪雨で今も避難生活を続けている被災者の状況を「被災者台帳」にまとめています。今回、NHKが市の協力のもと台帳のデータを独自に分析した結果、4割が地元に残らず市外に移り住んでいる状況が明らかになりました。

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去年の豪雨で大きな被害を受けた朝倉市の東林田集落では、被災当時のままの住宅や、鉄筋がむき出しになった橋の欄干などが今もそのままになっています。氾濫した川の両岸には二次災害を防ぐため、大量の土のうも積まれています。赤谷川が氾濫したため、東林田集落では3人が亡くなり、30棟以上の住宅が全半壊しました。およそ350人の住民のうち64人が今も避難しています。

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朝倉市は、こうした避難生活を続けている1300人余りの状況を「被災者台帳」にまとめています。NHKは今回、市の協力を得て、個人が特定できないよう情報を加工したうえで、独自に傾向を分析しました。

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地図上の赤い丸の部分は、被災者がもともと住んでいた場所です。

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放射状に伸びる線は、豪雨のあとの移動の状況を示しています。

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住民たちは緑の部分で示された福岡市や久留米市、それにうきは市などに移り住んでいました。その数は、ことし4月25日時点で、500人余り。被災者のおよそ40%が、朝倉市以外の20以上の市町村に分散していました。このうち、東林田集落では、避難した64人のうち、半数以上の34人が福岡市や大分県など市外の5つの自治体に分かれて移り住んでいました。

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ことしになって集落に戻った時川幸子さん(67)は、水につかった自宅を改修して夫と2人で暮らしています。自宅に面した道路の周辺には15軒の住宅がありますが、今、住んでいるのは時川さんともう1軒のあわせて2軒だけです。「知人の家に避難していましたが、気を遣うので自宅に帰ってきました。でも、2軒しかないので夜は寂しいし、雨が降ると不安になります。川の流れが変わったため集落が分断され、近所の人と話す機会が減りました」(時川幸子さん)

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豪雨当時、集落の区長を務めていた林隆信さん(68)も「以前は人が道を行き来して、いろいろなつながりや会話が生まれていましたが、それが完全になくなって、かろうじて住んでいるだけの状態です。人が暮らす地域としては不自然な集落になってしまった」と話していました。

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防災行政に詳しい専門家は、今の状態が長く続けば、地域の再生は難しくなると指摘しています。「これが2年、3年、4年といつまでもだらだらと続いていると、いつまでも待てないと、元の地域に戻らずにそれぞれの場所で生活再建する形になってしまいます。このため、復興に関する的確な情報を一刻も早く住民の方に示して、2年、3年は大変だけど頑張ってくださいということを行政としてどの段階で言えるかが重要だと思います」

さらに今回の分析から、若い世代ほど地元に残らず、市外に移り住む傾向があることもわかりました。世代別にみてみますと、市外に移り住んだ人の割合は、65歳以上では30%余り、20歳から64歳までの働き盛りの世代ではおよそ40%なのに対し、20歳未満の若い世代では50%を超えていたのです。これについて塚原教授は「子どもがいる世帯など若い世代を中心に、仮設住宅の完成を待てずに市外のみなし仮設住宅に入居せざるを得なかったのではないか」と分析しています。”ふるさとに戻りたいけれども、やむをえず戻れない”という人も多いと見られます。

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こうした状況ついて朝倉市の田中美由紀保健福祉部長は「若い人がよその所に行くというのは、市としても危機感を感じています。もとの所にまた戻ってもらって、若い人も戻ってもらって、コミュニティーがもとのように再生できるように、それを目標に頑張っていかないといけない」と話していました。

【取材後記】
朝倉市の東林田集落で、豪雨当時、集落の区長を務めていた林隆信さん(68)たちは、住民みずから復興委員会を独自に立ち上げています。「一刻も早く集落が再生する姿を示さなければ、住民は戻ってこないのではないか」との危機感からです。豪雨で氾濫する前の赤谷川はせせらぎに沿って桜並木があり、住民の憩いの場となってきました。豪雨で桜のほぼすべてが流されましたが、集落の復興委員会では、川の大規模な改修のあと新たに遊歩道や子どもが遊べる公園を整備し、そこに桜を植えて、かつての憩いの場を再生したいと考えています。林さんは「豪雨前よりも減った住民が100%に戻ることはないと思うが、それでも元の生活のリズムが戻ればいいと思う。地域として豪雨前の日常を取り戻したい」と話していました。復興への道筋が避難した人たちに示されることで、1人でも多くの人たちが集落に戻る日が来ることを私たちも強く願っています。


福岡放送局記者 小田真 森将太

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:11時14分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

山笠中継 ただいま準備中!


7月15日は、博多祇園山笠のクライマックス、追い山。
無病息災、疫病退散を祈りつつ、勇壮な山笠が博多の街を駆け抜けます。
ロクいち福岡と並行して、今週は山笠中継の準備にあたっています。
この日は、実際に山笠が走る5キロのコースを自分の足で歩いて取材しました。

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スタートとなる櫛田神社にはすでに桟敷席も設けられ、
境内はひっきりなしに掃き清められていました。

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街のあちこちには「山笠が通ります」「駐車禁止」の看板も。

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それにしてもこの暑さ。
帽子とサングラスで防備しながらの取材。
歩いているだけでも汗が吹き出すのに
重さ1トンの山笠を舁(か)くとは、どれほどのことか。
そのすごさに思いをはせます。

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ところどころ、電柱にはゴザが巻かれていました。
狭い道を駆け抜ける際、ぶつかっても大丈夫なようにという配慮だとか。
細かいところまで心くばりがされているんですね。

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道すがら、豪華な飾り人形を見て楽しめる「飾り山笠」も、
建てられていました。
高さ十メートル以上、その大きさにびっくり。
街行くみなさんも、足を止めて写真を撮っていました。

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そして山笠のゴール地点となる廻り止めです。
追い山当日、ここでどんなドラマが見られるのでしょうか・・・。
ひたひたと、私の中でも何かが高まってくるのを感じます。

今年で777年の歴史を持つ博多祇園山笠。
福岡県域では、15日(日)午前4時半、総合テレビで生中継します。
そして、全国の皆さんには、29日(日)午前11時から、
BSプレミアムでお伝えします。
お楽しみに!

NHK福岡「博多祇園山笠2018」

投稿者:中山庸介 | 投稿時間:11時31分 | カテゴリ:中山庸介 | 固定リンク

ある1枚の写真


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柔和で素敵な表情をしたお年寄りたちの集合写真。朝倉市の山あいにある石詰集落で開かれた敬老会の時に撮影された1枚です。住民どうしの絆の深さをしのばせる、この1枚の写真から、被災地の今を見つめます。

【小さな集落であの日・・・】
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九州北部豪雨の被災地の中でも最も山あいにある集落の1つ、朝倉市杷木松末の石詰集落。豪雨で川が氾濫し、山肌が削られるほどの被害を受けました。当時、16世帯53人が暮らしていました。

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石詰集落のお年寄りたちです。おととし秋の敬老会の時に撮影されました。この写真のなかの5人もの方々が九州北部豪雨で亡くなりました。

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石詰集落に暮らしていた井上美代子さん(66)と小城和正さん(73)、妻の八千代さん(70)の3人です。私が取材に訪れた日、集落の人たちが写った写真を持ち寄り、当時をしのびました。

【尊い命】
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亡くなった小嶋茂則さん(70)(こじま・しげのり)です。集落の行事に熱心に参加していました。

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妻のユキヱさん(70)は気が利く女性と評判でした。

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小嶋さんの母のミツ子さん(92)です。足が悪く、小嶋さん夫婦がいつも気にかけながら暮らしていたといいます。

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「小嶋さん夫婦は『おばあちゃん、おばあちゃん』って、みんなで本当に大事にしてました。豪雨当日は、おばあちゃんのそばで一生懸命、『もうちょっと我慢して頑張ろうね』って感じで声を掛け合ったりしよったのかなと思ったりしますね・・・」

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井上輝雄さん(89)(いのうえ・てるお)は芸達者で、おしゃれで明るく、集落の人気者でした。

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「この杯の持ち方は、輝雄さん独特の持ち方」「そうそう!うまそうにね」

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井上さんの妻のマサ子さん(82)は料理上手。井上さんにとって自慢の妻だったといいます。「マサ子さんは、たぶん怖くって、輝雄さんのそばから離れられなくって、たぶん一緒に流されたんだろうなって。たぶん輝雄さんにずっとしがみついていたんだろうなっていうのが想像にかたくなかったですね」(石詰集落 小城八千代さん)。

【5人をしのぶ気持ち】
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「私にとってみたら、困りごとがあったらすぐに相談できる人たちでした。『ありがとうな』という感じです」

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「つい何時間前まではふつうの生活があった訳なんですよね。それが一瞬にしてなくなって、5人は自分の中では『えー』って、本当に受け入れられない気持ちがいっぱいだったんじゃないかって。悔しいだろうなって思います」。


【残された者として・・・】
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石詰集落の住民たちは、今、失われた命と向き合いつつ、いつになったら慣れ親しんだふる里に戻れるのか、不安を抱えたまま、1年を迎えようとしています。

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「集落のみんながいないところで、気持ちの持って行きよう、よりどころもなくなった、それを、新たにまた作っていく不安はすごくあります」。

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「生き残ったものとして、亡くなった5人に対しては『頑張るからな』とか、そういう思い、そういうことばしか今は思いつかないな」。

【取材後記】
「地域の人たちが、こんな楽しそうな表情を浮かべて集まる集落があるんだ」。豪雨直後に、敬老会の写真を初めて見た時の私の感想でした。実際に石詰集落の取材を始めると、写真が映し出すように、住民の皆さんは本当に優しくて、仲がよく、被災後も避難先で過ごすお互いのことを思いやって生活をしていました。集落の人たちに、亡くなった5人との思い出や人柄を聞くと、とても楽しそうに笑顔を浮かべて語ります。その一方で、亡くなった5人への思いを聞くと「まだ、ちゃんとしたことばにはできない」と、みなさん声を詰まらせていました。その声や様子から、7月5日の豪雨がこの集落から奪ったものの大きさを実感します。石詰集落は今、長期避難世帯の申請をしていて、住民たちがふるさとに戻れるめどは立っていません。亡くなった5人や住民の人たちのたくさんの思い出が詰まったこの石詰集落が今後どうなっていくのか、引き続き取材を続けたいと思います。

福岡放送局記者 寺島光海

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:17時52分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

動き始めた時間 ~妻を待ち続けて~


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2017年7月5日の午後。猛烈な雨が降り続いた朝倉市。あの九州北部豪雨では40人が犠牲になりました。朝倉市では今も2人の行方が分かっていません。
当時、豪雨が降り続く中、夕方の電話を最後に妻と連絡が取れなくなった男性がいます。その妻をずっと待ち続ける男性を取材しました。

【おしどり夫婦】
朝倉市杷木松末の田中耕起さん(54)。豪雨で自宅など全てが流されました。

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今も毎日、かつて自宅があった場所に通い、花に水をやっています。妻が帰ってくる時に目印になるよう、植えたものです。

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30年以上連れ添った田中さんの妻の加奈恵さんです。豪雨のあと今も行方が分かっていません。

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今まで夫婦で協力して3人の子どもを育て上げました。料理上手だった加奈恵さん。いつも健康を気遣った食事で耕起さんを支えてくれたといいます。「おかん(加奈恵さん)のハヤシライスは最高にうまかった。母ちゃんのおらんような人生、今まで考えたことない」(田中耕起さん)。

【あの日・・・】
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豪雨の日、耕起さんは建築の仕事で自宅から離れた場所にいました。家に1人でいた妻の加奈恵さんとは、夕方の電話を最後に、連絡がとれなくなりました。

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耕起さんが自宅に戻った時には、自宅も車も、跡形もなく流されていました。

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ほんの数枚の写真を除いて、加奈恵さんに関わるものをすべて失った耕起さん。加奈恵さんがいなくなったことを、今も信じることができずにいます。何に対しても意欲がわかなくなり、仕事も手につかなくなりました。

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「俺はそんな強い人間でもないし、これを乗り越える、乗り越えないって言うのは時間の問題ではないよ。やっぱ、いつも一緒にいた生活から、1日で空気が変わってしまったけんさ。とにかく悔しいだけよ」(田中耕起さん)。

【1年たってようやく・・・】
豪雨から1年を前にした6月、耕起さんにとって、思いもよらない知らせがありました。復旧工事の現場で、加奈恵さんに関するものが見つかったと連絡が入ったのです。現場は、自宅があった場所から数百メートル下流でした。

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岩の下から見つかったのは、ほとんど原形をとどめていない車。加奈恵さんが日ごろ使っていた車でした。加奈恵さんにゆかりのあるものが見つかったのは、これが初めてでした。

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「女房は、まだ影も姿もないけど、彼女に携わった品がひとつでも見つかったっていうのは、僕はすごくうれしい」(田中耕起さん)。

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さらに、車の中から夫婦の思い出の品も見つかりました。加奈恵さんと、ドライブをしながらよく聴いていたCDです。この日を境に耕起さんは、見つかったCDを車に積んで、いつも持ち歩くようになりました。

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耕起さんは「常に母ちゃんと一緒におる感じ。これは宝だ」と、語ってくれました。

【前へ・・・】
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CDが見つかって以降、耕起さんに変化が見られました。この日、耕起さんが向かったのは紳士服店でした。豪雨で服がすべて流されたため、スーツを新調することにしたのだといいます。1年間、手につかなくなっていた仕事を、今後再開しようと考えています。

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「女房も今の状況を望んどらんと思うったいね。次のステップじゃないけど、そういうのを考えんと、いかんっちゃないかな」(田中耕起さん)。加奈恵さんが行方不明になってから1年。耕起さんの止まっていた時間が、少しずつ動き始めようとしています。

【取材後記】
言葉のひと言ひと言に、妻・加奈恵さんへの深い愛情が込められている様子が印象的だった耕起さん。大切な人が突然いなくなった上に、思い出の品なども同時にすべて失うことの喪失感がどれほどのものなのか。どんなに取材し尽くしても、私たちには到底理解することはできないかもしれません。それでも耕起さんは「今回の豪雨の事を伝えることで、他の人が同じ悲しみを味わう事のないようにしたい」と私たち取材クルーを受け入れてくれました。その思いを無駄にしないよう、謙虚に今後も取材を続けて行きたいと思います。

福岡放送局ディレクター 飯村マリエ


私が耕起さんと初めてお会いしたのは2017年11月のことでした。耕起さんは取材の時にはいつも冗談を飛ばし、朗らかで豪快な方ですが、時折涙を流されることもありました。耕起さんが経験したことや感じたことを、私がすべて理解するのは難しいと思います。ただ、一人の人間として、私は耕起さんにどう寄り添えるのか?取材はその答え探しでもありました。私たちができることは限られるかもしれませんが、これからもしっかりと耕起さんの思いに向き合っていくことができればと思います。

福岡放送局アナウンサー 浅野達朗

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:14時17分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

これも定額!? 広がるサブスクリプション


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月々お金を払うと「●●放題」できるという定額サービス。今年に入り、福岡でその動きが急加速している。福岡市にあるヘアサロンでは、月1万円で毎日ヘアセットしてくれる定額サービスを始めた。wi-fiや飲み物もあり、子連れOK。開店を朝7時に繰り上げたことで、通勤前の女性たちの利用が急増。新たなニーズを開拓した。
全国規模の大手も参入。4月からスーツの「AOKI」。職業や好みの色をネットで選ぶと、スーツセットが毎月送られてくる。神奈川の拠点施設ではアプリで利用者の声を吸い上げ、専門のコーディネーターが毎月スーツをセレクト。利用者一人ひとりにあったサービスで差別化を狙う。
定額制が加速する要因となっているのが、「異業種からの参入」だ。福岡のweb制作会社は“定額制に商機あり”と、独自にネット決済の仕組みを開発。月額980円払えば九州や山口の31の“温泉”を巡り放題というサービスを、入浴施設に自ら持ち掛け、スタートさせた。利用行動のデータを施設側に提供。地元のお年寄り中心の温泉に、遠方から若者が訪れるという効果も生まれている。このWeb制作会社は「企業からの受注による受け身ではなく、自分たちで育てる事業を始めたかった」と意気込む。 福岡で活発になるサブスクリプション、その最前線を追う。

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■サブスクリプション ヘアセット専門店 「ブロードライバー」
住所:〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-14-20 イーグルビル3F
電話:092-707-3235

■サブスクリプション スーツサービス
「suitsbox」インターネットで申し込みで利用することができます。
▽お客様相談室 フリーコール
電話:0120-13-7888(10:00~18:00)

■サブスクリプション 温泉サービス「baspo」
スマートフォンで利用できます。
▽VELDOM
電話:092-715-6801

【担当PDの一言】
どれだけ利用しても、定額制のある意味お得な気がするサブスクリプション。
本当に様々な業態にサービスが広がっています。そこには「お得に利用したい」「自分で選んで買ったりするのが面倒」という利用者側と、より「固定客をつかみたい」「今後のサービス・商品に生かしたい」という企業側の思いがあるのがわかりました。
アメリカでは、車はもちろんカミソリの刃や草むしりの依頼までサブスクリプションが広がっています。
それは利用しているモノがITと繋がっていることで、サブスクリプションで消費者と企業側の関係が繋がりやすくなったという利点があります。その一方で、必要ではないのについつい習慣化してしましって辞められない。タイミングがわからず解約しづらくなるなど、全く問題もないとは言えません。
ただ大企業だけでなく、福岡のヘアサロンやweb制作会社が始めたサービスが全国的に広がる可能制も大きい、新たな波にこれからも期待したいです。

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:18時30分 | カテゴリ:フォーカス福岡 | 固定リンク

妻、娘、孫を失うも 前へ・・・


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九州北部豪雨の被災地、朝倉市の山あい。ここに最愛の妻、娘、孫の3人を同時に亡くした梨農家の男性がいます。つらい思いを抱きながら、私たちの取材に応じてくれました。

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朝倉市の三奈木地区では梨が栽培されています。去年の豪雨を乗り越えて今、順調に育っています。

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渕上洋さん(66)も50年近く、この場所で梨を育ててきました。ところが、のどかな山あいで幸せに暮らしてきた渕上さんの人生は去年7月の豪雨で一変しました。

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(娘 江藤由香理さん)

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(孫 友哉ちゃん)

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(妻 麗子さん)

渕上さんの自宅は豪雨で倒壊。娘の江藤由香理さん(当時26歳)と孫の友哉ちゃん(当時1歳)、妻の麗子さん(当時63)の3人を一度に亡くしました。由香理さんは2人目の子どもをみごもり、2週間後に出産予定でした。

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当時、渕上さんは、自宅から5キロほど離れた梨畑にいて無事でした。しかし道路が寸断され、自宅に戻れなくなりました。翌日、歩いてたどりついた自宅は大量の土砂と流木に飲み込まれていました。そして、娘の由香理さんは友哉ちゃんを抱きかかえるようにして見つかったといいます。

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あの豪雨から半年が経過したことし1月。私たちの取材に初めて応じた渕上さんは、苦しい胸の内を語り始めました。「現実やから、あきめらめないかんとかなとは思う。けど、あきらめきれん。前に行かないかんとは思うけどたい、常にその時の状況が頭に出てくるったい」。(渕上洋さん)。

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”あの日、家族を助けることはできなかったのか・・・”。渕上さんは自分を責めていました。「娘にね、『絶対お父さんが守るけぇ』って言うとったけど、それが出来んかった。いよいよ悔しい。たった1人のね、一粒種やもん・・・」。

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渕上さんは、避難先で大事にしているものを私たちに見せてくれました。それは焼酎の瓶でした。

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瓶には渕上さんが孫の友哉ちゃんを抱いた写真がラベルに加工され貼ってありました。父の日に、娘の由香理さんからプレゼントされたものでした。去年の暮れ、偶然、自宅近くで割れずに見つかったものです。「孫が帰ってきたと思ってからね、泣くばっかりやった。これは私の宝物ですたい」(渕上洋さん)。

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6月には、大切な家族との思い出が、新たに見つかりました。生まれてまもない友哉ちゃんと一緒に写った写真。

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(家族3人の写真)。
そして、妻と娘と3人で旅行に出かけた時の写真です。娘の由香理さんは、このころ、まだ小学生でした。

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あの豪雨から1年。渕上さんは、今も避難生活を続けています。それでも毎朝、梨畑に通い、手入れを続けています。今、育てている梨は、秋にかけて、収穫を迎えます。

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「娘がね、言いよるような気がするとです。『お父さん、なんば、ぐじゅぐじゅしよるとね!梨畑があるやろっ。しっかりせんね』って言われると思ってね」(渕上洋さん)

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最愛の3人が亡くなった自宅は取り壊され、今はさら地になっています。その場所には、花束やおもちゃが供えられていました。

【取材後記】
「失ったものが大きいじゃない、大きすぎるっち、大きすぎるっち自分で言いながらも、負けてはおられん。本当、そう思う。止まってはいられんし、やはり、前に進んで行かにゃいかん」。渕上さんはみずからに言い聞かせるように豪雨から1年を前にした今の思いを私に語ってくれました。”つらい思いを抱きながらも、前へ進まなくてはならない”と、みずからを奮い立たせていました。渕上さんによりますと、娘の由香理さんはよく、梨畑の手伝いに来てくれていたそうです。渕上さんは秋の収穫を楽しみに、きょうも山あいの集落で丹念に梨の手入れをしているに違いありません。最愛の家族を愛でるように・・・。

福岡放送局記者 小田真

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:14時13分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

最期まで夫を気遣って・・・


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美しい棚田が広がる東峰村。九州北部豪雨では土砂に飲み込まれた3人が犠牲になりました。そのうちの1人、熊谷みな子さんは、歌が得意な女性でした。

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熊谷みな子さんは30年にわたってコーラスに打ち込んできました。全国を回り、東日本大震災の被災地でも歌声を披露してきました。

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みな子さんが所属していたコーラスグループの仲間たちは、亡くなったみな子さんについて、「合唱に向いた優しい声の、頼りになる人だった」と口にしました。「素直にハキハキ言われる方で、ものすごく真面目でした。練習を休まれることもほとんど無かったです」「みな子さんを頼りにして歌っていたので、今はどうしようって感じです」(メンバー仲間)。

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みな子さんの夫の武夫さん(73)は、妻を亡くして1年がたちますが、まだ遺骨はおさめていません。「どこかの納骨堂に納めておきたいけど、しっかりとした家が決まらんことには何もまだね・・・」(熊谷武夫さん)。

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豪雨当日の去年7月5日、外出先の武夫さんのもとに自宅にいたみな子さんから電話が入りました。「雨の降りが激しいけん、水が道を流れようけん、帰ってこんがいいよ」という内容だったと言います。豪雨のなか、みな子さんは最期まで、夫のことを気遣っていたのです。

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武夫さんは、雨が弱まってから帰宅すると、みな子さんがいた自宅は土砂に流され、跡形もなくなっていました。

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祈る気持ちでみな子さんの携帯電話を鳴らし続けた武夫さん。

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しかし、願いは届かず、みな子さんは4日後に遺体で見つかりました。

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ことし6月、東峰村で開かれた竹地区の火祭りで、仮設住宅から訪れた武夫さんの姿を見つけました。「この火祭りは思い出の一つではあるけんね。妻と一緒に見たが良かったなっち思うかな」(熊谷武夫さん)。

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7月5日の村の追悼式。武夫さんは遺族として花を手向けました。コーラスグループは、みな子さんが大好きだった歌を披露しました。「久しぶりに聞くと感動するわな。妻も天国で聞いてくれるかなと思ったり、歌いたかったやろうなと思う」(熊谷武夫さん)。

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家族にも、仲間にも愛されていた熊谷みな子さん。多くの人の心のなかで今も生き続けています。

【取材後記】
この1年間、ずっと熊谷武夫さんを取材してきましたが、今回初めて武夫さんの涙を見ました。追悼式でコーラスを聴いて涙を押さえる武夫さんに、私も目頭が熱くなりました。私の取材に対し、優しく応じて下さる武夫さんですが、笑って過ごしていても、最愛の人を失った悲しみは決して無くならないのだということを改めて感じました。そして1年の節目を迎えたこの日に、大切なものを次々に押し流して行った豪雨の無慈悲さ、さらには、残された家族の深い深い愛情を感じずにはいられませんでした。

福岡放送局記者 米山奈々美

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:11時00分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

希望のともしび つなぐ伝統


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『再建への道しるべにしたい』。
九州北部豪雨から1年。被災した人の中には、1年がたってようやく第一歩を前へ踏み出せた人もいます。九州北部豪雨の被災地、東峰村に古くから伝わる高取焼と呼ばれる焼き物を作り続けてきた窯元の当主。このたび、1年ぶりに焼き物づくりを再開しました。しかし、そこには”複雑な思い”もありました。

【伝統の焼き物“高取焼”】
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6月27日。私は、東峰村にある高取焼の窯元「高取焼宗家」を訪ねました。”小さな窯”が完成し、焼き物づくりを再開すると聞いたからです。火入れ前の窯の中には、完成前の茶わんや皿などの新作が並べられていました。

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「ちょうど1年の節目に、新しい窯に火が入ればいいなと思っていました。何とかぎりぎり、焼けるということで、ありがたいことです」(高取焼宗家十三代目 高取八山さん)

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高取焼は、江戸時代に福岡藩の初代藩主、黒田長政が朝鮮半島から職人を招いて作ったのが最初とされ、藩の御用窯として引き継がれてきました。きめ細かな土から生まれるつややかさと、重厚感のある模様が特徴です。十三代目の八山さんはこれまで約50年、半世紀にわたって茶道具などを作り続け、伝統を受け継いできました。

【伝統に危機が】
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その伝統に危機が訪れます。去年7月5日の九州北部豪雨。山から流れ出た土砂や流木が、長年受け継いできた八山さんの窯の中にまで入りこみ、壊滅的な被害を受けたのです。八山さんは高取焼の制作の中断を余儀なくされました。

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八山さんは、窯だけでなく「唐臼」と呼ばれる高取焼づくりに欠かせない道具も豪雨で失いました。「唐臼」は、真下を流れる沢の清流を動力にして、土や石を細かく砕いて粘土の材料をつくります。高取焼の質感や薄さを生み出すのに欠かせないものです。東峰村では高取焼宗家だけに残る貴重なものでした。しかし、2本あった唐臼の片方は、九州北部豪雨の濁流に流されてしまい、今も見つかっておらず、もう1本も支点がずれてしまい使えなくなりました。復元するにしても、材料となる大きな赤松の一本木を見つけることから始めなければなりません。さらに、豪雨の影響で窯の周辺の地形や水の流れが変わってしまい、元通りに復旧させることは本当に途方もない道のりです。実はこの唐臼、6年前の九州北部豪雨でも大きな損傷を受け、3年前にようやく修復が終わり、日常を取り戻した矢先に再び大きな被害に見舞われてしまったのです。

【再建へ】
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自力では再建できそうにない被害を目の前に、八山さんは焼き物の制作への意欲を失い、心が折れそうになっていたといいます。そんな八山さんの心を奮い立たせたのは、ボランティアの人たちでした。「高取焼の伝統を途絶えさせるわけにはいかない」。そんな思いを持ったボランティアの人たちが全国各地から訪れ、泥のかき出しなどに汗を流してくれました。

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窯の復興を願う応援メッセージも八山さんのもとに全国から寄せられ、勇気づけられました。「被災直後は、絶望的な気持ちになっていました。でもボランティアの人たち、応援してくれる人たちがたくさんいて、ここでへこたれるわけにはいかないと思いました」。
(高取焼宗家十三代目 高取八山さん)

【簡単ではない復興への道のり】
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しかし、再建には高いハードルがありました。「穴窯」と呼ばれる被災した窯は、工場の機械のようにお金があれば買えるものとは違って、簡単には代えが効かないものだったのです。「穴窯」は八山さんにとって特別な窯だったといいます。八山さんによると、窯の適度な空間や密閉性、それに窯にくべるまきの量など、さまざまな要因が焼き物の仕上がりに大きく影響するということです。「穴窯」の中では焼き物がまきの灰をかぶり、それがまた溶けることで味わい深い作品になるといいます。納得のいく作品をつくるために何年もかけて繰り返し火を入れては、炎の色や肌に感じる温度などで、火加減や焼き時間を見極め”勘”を研ぎ澄ませてきました。八山さんにとって穴窯は、古くから伝わる高取焼の渋くて素朴な模様を表現するのに欠かせない、しかも簡単には代えが効かない、まさに「相棒」だったのです。そして、ハードルはもう1つありました。窯を作れる職人を探さないといけないのです。こうした窯を作れる職人は全国的に少なくなっています。また見つかったとしても、すぐに作ってもらえるかどうかもわかりません。再建の費用も、相当額を負担する必要があることは、容易に想像できました。

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さらに、窯が被災したことで焼き物が作れなくなり、生活費もままならない状況が続いていました。そこで八山さんはある決断を下します。それは”小さな窯”を作ることでした。小さな窯も立派な焼き物は作れますが、八山さんによりますと、被災したもとの窯でないと高取焼独特の質感や風合いを表現するのは難しいといいます。それでも八山さんは、まずは焼き物作りを再開することで、前に一歩、踏みだそうと考えたのです。「何か新しいことを始めないといけないと思いました。被災したもとの窯の再建に向かって、家族と一緒に頑張っていこうと思います」(高取焼宗家十三代目 高取八山さん)

【一歩、前へ!】
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小さな窯の完成を受けて、豪雨から1年を前にした6月27日、八山さんは窯だきを再開させました。待ちに待ったこの日、八山さんは、はじめに薪をくべたあと、この1年、支えてくれた全国の支援者たちの思いも込めて火入れを行いました。

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そして、小さな窯の前で家族とともに手を合わせました。無事に焼き上がることを祈りながら・・・。

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「やっとここまでたどりついた感じですね。多くの支援の人のおかげで完成した窯です。感謝の気持ちでいっぱいの炎です」(高取焼宗家十三代目 高取八山さん)

【取材後記】
火入れを終えたあとの八山さんの素敵な笑顔を見て、止まっていた時間がようやく動き始めた感じがしました。しかし、八山さんには複雑な思いもあったのです。それは八山さんにとって本当の復興とは、被災して使えなくなった穴窯と唐臼の再建だからです。八山さんは「新しい窯にともった火を、もとの穴窯の再建への道しるべにしたい」と話していました。災害を乗り越え、小さな窯を出発点に、再び伝統をつなぎ始めた八山さん。新しい窯に灯された火が”希望のともしび”となり、近い将来、穴窯と唐臼がこの地に復活する日がやってくることを私も祈りました。


NHK福岡放送局 リポーター 水越理恵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:11時09分 | カテゴリ:WEBいち! | 固定リンク

あの日から1年


先月下旬、被災地・朝倉を訪れました。
行くたびに道路や川沿いの土のうの数が増え、
被害の広がりを防ぐための工事が着々と進んでいるのを感じます。

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しかし、大きく削られた山肌はむき出しになっていて、
ところどころ、がれきは置かれたままです。

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この4月から、朝倉の、すもも農家の方をたびたび訪ねています。
青々と茂ったすももの木。
去年の豪雨で9割が流されてしまいました。
なんとか残された木々を育てていこうと、
昼間、避難先から通っては手入れをされています。

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きょうのように、ひとたび雨が降れば、作業はできません。
去年のことがすぐ脳裏に浮かぶといいます。
そんな中でも、豪雨を乗り越えて、今年も、すももは赤く色づきました。

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前を向いていこう、ということばを、被災地では多くの方から聞きます。
県内の、全国からの応援が本当に力になっているという声も、心に残っています。
一緒に、自分が何ができるか。
あの日から1年、あらためて考えます。

投稿者:中山庸介 | 投稿時間:15時47分 | カテゴリ:中山庸介 | 固定リンク

ギョギョっとうまい!海の男のブランドあじ!


長崎市野母崎のブランドあじ「野母んあじ」。
初見の人を驚かせるのは、なんといってもその大きさだ。
「体長26cm以上、重さ300~500g」のあじのみが、「野母んあじ」と名乗ることができるのだ。

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もちろん味だって抜群だ。あじとは思えない肉厚の身を1切れほうばると、コリコリとした食感にまずは驚く。そして次第に口中に広がるのが、脂ののった“うま味”だ。食した人は思わずこう叫んでしまうだろう。「野母んあじ、半端ないって」。
そんな「野母んあじ」のおいしさを損なわないようにと、漁から出荷まで、漁師さんと漁協のみなさんはさまざまな工夫を施している。
漁では、とにかくあじの身を傷つけないように努めている。漁法は「一本釣り」。針から外すときも、身を傷めないよう、手では触れない。
水揚げするときも、「野母んあじ」特製のタモを使う。編み目で身を傷つけないよう、ほどよく水分が残るよう開発した網だ。
漁師さんや漁協のみなさんが協力し、“ブランド魚”としての地位を確立した「野母んあじ」。地元のみなさんの一つ一つの工夫と“自慢のあじ”への思いを紹介する。

■野母んあじ漁師:高島浩さん
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■冒頭で紹介した“野母んあじ”が食べられるお店
▽いけ洲居酒屋むつ五郎
住所:〒850-0801 長崎市八幡町9-8
電話:095-826-6560
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■野母んあじの購入に関しては
▽野母崎三和活魚流通センター
住所:〒851-0506 長崎市脇岬町3386-27
電話:095-893-1131
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アジの開き、アジフライ、お刺身、アジのなめろう…などなど!
あげるときりがないほど、どんな料理にも合う、そしてお手頃価格!
まさに『主婦の味方・アジ』だと私は勝手に思っています…笑
ですが全国には、マグロや鯛などの高級魚にも引けを取らないブランドアジもありますよね!今回は中でも、長崎市の野母崎でしかとれない“一本釣り”のアジをご紹介しました。

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私、高級アジを食べたのは初めてで、正直アジをなめていました…
普段食べているアジもおいしくて大好きですが…
大きくて身が引き締まっていてコリッコリ、噛むと感じる脂の甘み。
こんなにおいしいなんて…!!ごめんなさいアジ!
そんな高級アジですが、品質を守るために釣った瞬間から出荷するまで、まさに“アジファースト”。

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それだけ愛情をかけた野母崎のアジは今では全国、そして世界にファンがいるそうです!
一度食べたら忘れられないと、毎シーズン注文するお客さんは全国各地に、そして長崎で食べた野母崎のアジに感動して出荷の様子を見学にきたという熱心な外国人も。
長崎市内の飲食店で、運がよければ食べられるそうですので、みなさんもぜひ!

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:18時30分 | カテゴリ:食いち! | 固定リンク

ガンバレ!ニッポン!!!


サッカーワールドカップ ロシア大会。
日本が決勝トーナメントに進出しました!!!

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初戦は居石リポーターと応援☆

番組内でも、
ワールドカップの盛り上がりをお伝えしています!
ポーランド戦の前には…。

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ずばり!「サッカーネイル」。

青い爪、どうでしょう?
インターネット上で盛り上がっているということで
体験してきました。

中指には、
長友選手の「金髪」をイメージして黄色を使っています。

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親指には、試合の予想を!
全然当たりませんでしたが…笑

いよいよ、あす(3日)は、
初のベスト8をかけてベルギーとの戦いです!

NHKでは試合を中継しますよ☆
NHK総合 3日(火)午前2時20分~
ラジオ第一 3日(火)午前1時05分~

日本初のベスト8進出なるか!
ガンバレ!ニッポン! !!!

投稿者:松崎洋子 | 投稿時間:12時22分 | カテゴリ:松崎洋子 | 固定リンク

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