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2018年09月20日 (木)興味はあるのに理解がない!?~異文化のすれ違いを防ぐには~


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みなさんの周りには、フラダンスを楽しんでいる人はいますか?
カルチャーセンターの講座をはじめ、今や部活動、それにスポーツジム、さらには老人ホームなどでも楽しむ人が増えていて、フラ(ハワイではフラダンスのことをフラと呼びます)の愛好家は全国で100万人前後とも言われています。その一方で、フラの起源や、踊りに込められているハワイの人たちの思いについて考えたこと、皆さんはありますか?ハワイには、そうしたことも日本人に知ってもらいたいと考える指導者がいて、見た目の人気だけが先行している日本のフラの現状に違和感を抱いている人も少なくないといいます。国際化社会が進む中で、「すれ違い」ではなく、お互いを理解しあう「交差」した文化交流を進めるにはどうすべきなのか?きょうはフラを通して、異文化交流について考えたいと思います。

【広がるフラ人気】
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8月、私は福津市で開かれたフラ教室の発表会に足を運びました。小学生から主婦まで幅広い世代の愛好家たちが華やかな衣装を身にまとい、日ごろの練習の成果を披露していました。なぜフラを始めたのか聞いてみると、理由は衣装のかわいさや健康増進などさまざまでした。

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「かわいく踊りたいと思って入ったのがきっかけです。非日常を味わえるのでとっても楽しいです」(大学3年生)

【知られざるフラの意味】
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発表会の前、フラ教室の練習の様子を取材させてもらいました。この教室では、フラを通してハワイの習慣や歴史など、文化的な意味合いについても教えていました。例えば男女の恋愛をテーマにしたフラについて、講師は次のように説明していました。「この曲には、落ちている花を耳元に飾る振り付けがあります。右に飾る時は”独身・彼氏募集中”、左に飾ると”私は結婚しています・彼がいます”という意味になります」。

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フラといえば、笑顔でゆったりと踊るイメージを持っている人も多いかもしれません。しかし、険しい表情で踊るフラもあることをこの講師は説明していました。「この踊りは、戦争が行われたことを伝えています。村長が戦いを歌ったフラもあります。笑顔で踊る曲とはまた違って、神妙な顔で、どちらかというと強い顔だちで踊らないと、本当の意味が伝わりませんよ!」(フラ講師 占部明子さん)

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ハワイの人たちにとってフラは、日本人にとっての神楽に近いと言えます。神楽は、神に奉納する舞です。フラもハワイでは神にささげる踊りで、手や足などの1つ1つの動き、そして装飾にもそれぞれ意味があります。講師の占部明子さんは「振り付けや歌詞の意味まで知ることで、生徒さんたちの表現力が豊かになります」と話していました。しかし日本では、フラのさまざまな意味をしっかりと教えている教室ばかりではありません。こうしたことなどから、ハワイの指導者たちは日本のフラの現状に強い違和感を感じている人も多く、中にはトラブルまで起きています。

【広がる違和感とトラブル】
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具体的にはどういうことなのか?
例えば、▽踊りの意味まで教えていないのに、日本の指導者が高額な受講料や衣装代を生徒からとっていることに、ハワイの人たちは違和感を感じているといいます。
また、▽ハワイの指導者が創作した振り付けを、日本の教室が許可なく上演したなどとして、裁判沙汰にまでなったケースもあります。

【違和感やトラブルの背景】
背景には何があるのか?その理由の1つに、日本ではフラを教えるのに資格や免許が必要なく、誰でも教えられることが考えられます。ハワイの場合は、日本舞踊の家元のような流派や、「クム」と呼ばれるごく限られたフラの伝承者しか、フラの教室を開くことはできないのだそうです。誰もが教えられるわけではないのに、さらに高額な授業料をとっているとなれば、日本人の指導者に対し違和感を持つのは当然かもしれません。

【新たな動きも】
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そうした中、日本人の指導者にフラのことをもっと知ってもらおうという取り組みを始めているNPO法人が福岡市でワークショップを開くと聞き、取材に出向きました。

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ワークショップを開いたのは、NPO法人フラジャパン文化協会。
講師は「クム」と呼ばれるハワイのフラの伝承者、ケリー・グロッスマンさんです。グロッスマンさんは、そもそも日本人の指導者がフラの伝統などを学ぶ機会が少なかったこともトラブルなどの理由の1つだと考えています。ことし6月から日本で暮らし始め、福岡などで日本人指導者を対象にフラのことを知ってもらう講座を開いています。

【フラと神道の共通点】
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はじめに教えるのはダンスではありません。まずは座講です。ハワイでは最も大切だとされ、最初に教えられる神話に基づくフラについて話をします。グロッスマンさんは、ハワイに伝わる神話は、あらゆるものに神が宿ると信じる日本の「神道」に似ていて、日本人にも理解してもらいやすいと考えています。

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また、ハワイでは、火山の噴火などさまざまな自然現象に神が宿ると考えられています。そうしたことへの信仰心などを体現したのがフラなのだと説明していました。さらにフラは、過去に火山の噴火などが起きたことを伝える、いわゆる「伝承」の手段でもあります。グロッスマンさんは、そうした点を紹介し、意味を理解した上で踊ることが大切だと伝えました。「フラには知識や情報がいっぱい詰まっています。踊りで伝えることで、多くの人たちがハワイの歴史を知ることができるんです。火山のことを、皆さんがあまりにも穏やかで優しく踊ってしまったら観客たちはきっと、この光景って美しいんだなと思ってしまい、本当のストーリーが伝えられなくなるんです」(ケリー・グロッスマンさん)。

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「踊ることだけではなく、その中身や歴史など、きょう習ったような歌詞の内容もちゃんと伝えていけたらなと思います」(受講者)。

【尊重と寄り添う姿勢】
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グロッスマンさんが大切にしていること。それは、相手の文化も尊重することだといいます。「私はハワイと日本の歴史を両方学び、共通点を見つけてきました。そこに橋を架けて、生徒たちの理解がより深まるよう努力しています」。(ケリー・グロッスマンさん)。

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グロッスマンさんは、シンプルにフラを楽しんでもらおうと活動している日本人指導者を否定しているわけではありません。見た目先行だとしても、フラに興味を持ってもらえることは喜ばしいことだと話していました。ただ、本音ではやはり、信仰の意味合いや歴史、伝統も是非、知って欲しいと願っています。ハワイと日本の指導者との間で、フラの受け止めに「すれ違い」も見られる中、どちらにも寄り添うことで、すこしでもギャップを埋めていこうという姿勢が印象的でした。

【独特の信仰 どう理解する?】
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フラにまつわる神話が日本の神道に似ている部分があるとはいえ、異なる文化や宗教の独特の世界を理解するのは簡単ではありません。最近、私たち日本人も、日本独特の信仰をめぐって理解してもらうのに苦労したことがありました。思い出して欲しいのが、去年夏、世界遺産に登録された宗像・沖ノ島と関連遺産群です。

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ユネスコの諮問機関・イコモスは当初、4つの神社や古墳群は登録から除外すべきと勧告しました。理由は、古代に行われていた沖ノ島での祭しと、宗像大社の神社などで行われいる現代の祭しとの間に連続性が確認できないとしたためです。これに対し日本側は、出土した文化財などから、沖ノ島での古代祭しが現代の信仰のルーツであることは間違いないと、繰り返し説明して理解を求めました。地元も外国語でパンフレットを作成するなどして構成資産の重要性を呼びかけました。その結果、何とか理解をしてもらい、やっとの思いで8つの構成資産すべてが世界遺産に登録されました。文化が異なるものどうしの間では、伝える側は説明を尽くし、聞く側も理解に努めることが大切だと、当時取材を続けていた私が実感した瞬間でもありました。国際化社会が急速に進む中、フラに限らず、相手を理解しようとしたり、理解してもらおうと努力する姿勢が、私たちの身近なところでこれまで以上に必要になってきていると感じます。

【ある言葉とある疑問】
その一方で、私は「以心伝心」という言葉が心に浮かぶとともに、ある疑問を抱きました。「以心伝心」とは、ことばは通じなくても、心は通じ合えるという意味です。私は、異なる文化を抵抗なく受け入れられる「以心伝心」の下地を、誰もが持っていると思っています。例えば海外旅行をしていて、国によっては女性は肌を露出してはいけなかったり、子どもの頭をなでてはいけないなど、さまざまな風習を耳にします。しかし、そのことを否定したり疑ったりするよりも、むしろ文化の違いを認めて、受け止めることが多いはずです。外国の歌や映画、絵画などを鑑賞するときも、自然と感動したり元気をもらったりすることも多いと思います。

【異文化理解とビジネス】
ところが今、社会の国際化が進む中、異文化のすれ違いを埋めるために、「以心伝心」よりもむしろ説明を尽くしたり、理解する努力を重ねないといけないシーンがこれまで以上に増えているように思います。何故なのでしょうか?。
それは、そこに”ビジネス”が絡むケースが増え始めているからかもしれません。フラの世界で起きている「すれ違い」は、高額な受講料などがきっかけになっているような気がします。また世界遺産も、登録されれば観光客の増加などで大きなビジネスチャンスが生まれます。”ビジネス”が関わってくると、さまざまな利害関係者の思惑が複雑に絡み合うことは容易に想像できます。このため、「以心伝心」でお互いに感じていることが、後回しにされているような気がしてなりません。

【大切にしたい「以心伝心」】
だからといって、私は異文化理解と”ビジネス”の関わりが悪いと言うつもりはありません。活発なビジネスのおかげで、私たちは多くの異文化と触れあうことができるようになっているからです。ただ、”ビジネス”が絡むとしても、まずは自分の利害や損得を考える前に、素直な気持ちで相手の文化や気持ちに向き合うことがあってもいいのではないでしょうか。そうすれば、余計な異文化間の違和感やトラブルも減るような気もします。私たちはそうした向き合い方が出来るはずです。なぜなら、私たちは異文化を受け入れる寛容さ、すなわち「以心伝心」の精神を本来持ち合わせているはずですから。

福岡放送局リポーター 水越理恵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:12時17分 | 固定リンク


2018年09月18日 (火)集落に希望の灯火


九州北部豪雨で3人が亡くなり、30棟以上の住宅が全半壊する被害を受けた朝倉市の東林田集落。
去年7月の豪雨で氾濫した赤谷川の下流に位置しています。川の応急工事がほぼ終わり、避難先から少しづつ住民たちが戻ってきています。

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「1年間お世話になったから、きれいにしておかないとね」

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朝倉市の仮設住宅で1年間暮らしてきた林恵子さん(56)と中学3年生の娘・紗季さん(15)です。

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2人が暮らしていた東林田集落の自宅は、去年の九州北部豪雨で全壊しました。このため、仮設住宅に移り住み、2人で生活してきましたが、自宅の修復が終わり、1年あまりたって、集落に戻ることになりました。

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「ここで暮らすよりは、前の家で暮らしたほうがいいと思うし、ことしが受験なので自宅で勉強にも集中したいと思う」(娘の紗季さん)

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当初は金銭的なこともあり、修復してまで、自宅に戻るかどうか迷っていた林さん。戻ることを決断したのは、慣れない仮設住宅での生活にストレスを感じ、口数が少なくなっていた紗季さんの「家に戻りたい」という言葉を聞いたからでした。

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「帰るって決めた時点で、2人ともすごく前向きになったかなと思います。光が見えた感じがしました。最初は、仮設暮らしが長くなったなと思っていたけど、自宅に帰れると思ったらほんとに時間があっという間に過ぎました」(母・恵子さん)

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8月26日、仮設住宅をあとにした恵子さんと紗季さんは、修復を終えた自宅に戻りました。

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私は2人を取材中、自宅の中であるものを見つけました。それは年季が入った柱でした。自宅を修復するにあたって、林さんがどうしても残しておきたかったものでした。「これは”娘の柱”です。娘の身長を記録してきました。写真やビデオとかは、豪雨でほとんど全部なくなったんですけど、これだけは残ったんです。別の場所にあったものですが、修復した家ではリビングの中心に置いてもらいました。唯一の宝ですね」(母・恵子さん)

今も多くの人が避難先での生活を続けている中、東林田集落に戻って、新たな一歩を踏み出した2人に思いを聞きました。

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「全然違うところに行ったら、すごい緊張感とか、いろんな不安とかがありますが、やっぱり住み慣れた場所で生活するって、なんとなくほっとしますね。やっぱりふるさとが一番、ほっとする場所です」(母・恵子さん)

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「ずっとここで暮らしてきたから、ここじゃないといつも通りじゃない。いっぱい大きな声で笑って、テレビも大きな音で見たい。豪雨の前と同じようには戻らないと思うけど、母と2人で明るくこれから生きていこうと思います」(娘・紗季さん)

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引越を終えて、2人は表札を玄関に飾りました。この日のために紗季さんが手作りしたものです。「”きょうからここに泊まります”っていったらおかしいですけどね、ここでの新たな生活がいよいよ始まる感じがしています。楽しく暮らしたいですね」(母・恵子さん)

【取材後記】
朝倉市の東林田集落の人たちは、豪雨でおよそ30世帯が避難生活を送っています。自宅を完全に解体することを余儀なくされ、なかなか新たに建て直すことができないでいる人たちも多くいます。このため、これまでに避難先から戻ってきたのは林さん親子を含めて、まだ3世帯にとどまっています。林さん親子は「近所の人たちが帰ってきて、地域に以前のようなにぎわいが戻ってきてほしい」と話していました。東林田集落に戻りたいと希望しながらも、経済的な問題や安全面への不安などから、ふんぎりがつかない被災者もいらっしゃいます。そのことは理解しつつも、林さん親子が火種となって、東林田集落に明かりが少しずつ増えていって欲しい。取材を通してそう感じずにはいられませんでした。

福岡放送局記者 山崎啓

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:12時21分 | 固定リンク


2018年09月18日 (火)どうなる? 被災地の農地


朝倉市では去年の九州北部豪雨で農地にも甚大な被害が出ました。
田畑の中には、流されて跡形も残っていないところすらあります。
朝倉市は、元の形に戻すことが難しい農地は、区画整理をすることで再生しようと考えています。しかし、山あいの地域では、農地再生の道筋が見えないままの集落があります。

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朝倉市の山あいにある黒川地区でおよそ40年にわたり農業を営んできた町田実さん(65)です。町田さんの田んぼや畑は去年の豪雨で流され、今も土砂や岩が堆積したままです。

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自分の土地で耕作ができなくなった町田さん。仮設住宅で避難生活を強いられ、年金に頼る毎日です。「この状態だと何も作れないから生活できない。生活するにはお金が必要。どげんか確保せんといかん」(町田実さん)

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「豪雨からの復興に、失われた農地の再生は欠かせない」。朝倉市はこの方針のもと、国の制度を活用して農地を区画整理して再生させようと考えています。

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激甚災害に指定されたため、区画整理にかかる費用の98点2%は国が負担します。残りは市が1点26%を負担。農家の負担はわずか0点54%となっています。農家の負担を軽くすることでもう一度、耕作をしてもらおうと市は考えています。

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しかし、今、大きな壁にぶつかっています。法律では、区画整理事業の開始にはその地区の農家の3分の2の同意が必要なのです。

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市は区画整理事業を始めるにあたり、ことし6月、任意のアンケート調査を行いました。しかし、町田さんの田畑がある地区でアンケートに回答した農家や地権者は半数あまりにとどまりました。同意取り付けの前の段階で、意見の集約すらできていないのです。

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「今、仮設住宅にお住まいの方も結構いっぱいいらっしゃったり、ここにも住んでいない方も結構いらっしゃるので、意見集約は大変」(朝倉市職員)

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豪雨のあとの避難が長期化して、仮設住宅に暮らしている人も多く農家はバラバラです。いつになったら同意が得られるのか、見通しは立っていません。

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農地の復旧を望む町田さんは、そもそも高齢化が進むこの地区に、みんなが戻ってくるのかという不安も抱いています。

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「僕がこの地域で1番若いくらい。高齢化で、区画整理をして立派な田んぼができたとしても、再び作ろうという人がいないかも。僕1人になっても何もできない」
(町田実さん)

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9月3日、朝倉市は、町田さんの地区の役員を対象に、区画整理に関する説明会を開きました。町田さんも、不安を抱えたまま参加しました。

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市は、同意の取り付けに、市も積極的に関わることや、仮に担い手が限られる場合には農業の法人化も検討すると説明しました。

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豪雨から1年2か月。町田さんは、やっと行政も動きだしたと希望を見いだす反面、将来への不安は消えていません。「市は、区画整理に向けてやる気まんまんだから、それをだめだとは言えないが、自分自身、どうしたいのか、まだわからない。ここで農業を再開できるのが最善だけど、あとは待つ年数がどのくらいになるか。また、それまでの間、どうするかね・・・」(町田実さん)

区画整理をするか、しないか、農家や地権者は選択を迫られています。同意を得るだけでも時間がかかりそうな中、仮に区画整理が決定しても、その後、農地が復活するまでにあと何年かかるのか。また、過疎化が進み、そもそも地元を離れて暮らす住民が多い地域もあり、復旧したあと、新しい農地をどう生かしていくのかも考えていかなくてはなりません。高齢者も多い朝倉の被災農地は、厳しい現実に直面しています。

福岡放送局記者 金知英

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:11時35分 | 固定リンク


2018年09月18日 (火)全盲でも希望は見える ~ある男性と盲導犬の半世紀~


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「かけがえのないパートナー」。視覚障害者から、こう表現されることもある盲導犬。とても賢く、盲導犬の利用者を安全に誘導する姿に思わず感心する人も多いと思います。盲導犬は以前に比べると、よく街でみかけるようになりましたが、実はここ九州では唯一、福岡県糸島市に盲導犬の育成機関=九州盲導犬協会があります。ことしで創立35周年を迎えたこの協会の設立のきっかけとなったある1人の男性がいると聞き、取材に向かいました。

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福岡市の藤井健児さん(86)です。目が全く見えない藤井さんにとって欠かせないパートナーが盲導犬の「ラスク」です。電車に乗るにも外で食事をするにも、いつもラスクと一緒です。

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藤井さんが盲導犬と暮らし始めたのは昭和46年。当時の日本には、まだ盲導犬が少なく、九州では藤井さんが第一号でした。「外国では盲導犬が重要な働きをしている。何はともあれ、盲導犬とあちこち出歩いて、可能性を広げていきたいと願っていました」(藤井健児さん)

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6歳で自転車事故にあい、左目の視力を失った藤井さん。その後遺症で、20歳のときに右目も見えなくなりました。「急に真っ暗闇になって1歩も歩けないような大きなショックを感じました。年齢も20歳。『いまからだ、人生は!』と思っていた時でしたからね・・・」(藤井健児さん)

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藤井さんは、同じような境遇の人たちを励まそうと牧師になりました。しかし、家の中で点字の本を読むことが多く、あまり外には出かけませんでした。そんなときに知ったのが「希望者に盲導犬を譲る」という新聞記事でした。

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藤井さんは、何の迷いもなく、すぐさま手を挙げました。当時40歳になっていましたが「盲導犬と一緒なら自分1人で自由に出かけられる」と希望を抱いたといいます。

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東京で1か月にわたって必要な訓練を受けたあと、藤井さんは福岡で盲導犬と生活を共にし始めました。当初は、盲導犬を知る人が少なく、バスや電車に乗るには事前の申請が必要でした。また、飲食店への入店を拒否されることも多くあったと言います。それでも藤井さんは、1人で出かけられることがうれしかったといいます。「初めのうちは制約がだいぶありました。それでもね、一人歩きができる喜び、自由に歩ける痛快さは、なかなか簡単には、ことばで言い表せないようなものでしたよ!」(藤井健児さん)

『盲導犬と暮らしたい』。そんな声が福岡でも高まり始めました。藤井さんが盲導犬と暮らすようになったことがきっかけでした。藤井さんが盲導犬と暮らし始めてからおよそ10年後の昭和58年、盲導犬を育成して無料で貸し出す、九州盲導犬協会が福岡県糸島市に設立されました。

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協会では、これまでに240頭の盲導犬を育成しています。さらに、盲導犬への理解を呼びかける取り組みも行っています。

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「藤井さんが本当に困難な中を切り開いていただいたのではないかと思っております。そのことを思いながら私どもも努力がこれからも必要だと考えています」(九州盲導犬協会 常務理事 中村博文さん)

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協会も設立されるなど、以前に比べ、盲導犬への理解は広がってきました。しかし、盲導犬と一緒に歩いていても、視覚障害者が駅のホームから転落するなど、事故が無くならないことに、藤井さんは懸念を抱いています。盲導犬を利用している視覚障害者と周りの人たちが、もっとコミュニケーションをとれていれば、事故は防げたのではないかと藤井さんは考えています。

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このため藤井さんは、学校や企業に出向き、コミュニケーションを深めるための活動を積極的に行っています。私が取材した日は、小学校で子どもたちに話をしていました。
「ホームから落ちて亡くなったなんて残念なこともありました。危険な時は『危ないよ』って教えたり、急にでもいいから、手を引っ張るなどしてすぐ声をかけてください」(藤井健児さん)
「困っている人に『大丈夫ですか?』と話しかけてみたりしようと思った」(小4女児)
「目が見えない人のほかにも不自由な人がいたら助けていきたいと思った」(小4男児)

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「ちょっとしたことでも声をかけてもらえることが、障害者の大きな力になる。そのことを子どもたちに知ってもらえるとうれしい」(藤井健児さん)

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取材中、絶えずにこやかな表情を浮かべる藤井さん。しかし、両目を失明した当時は絶望とたたかう日々が続きました。そんな苦しい中で出会ったのが、アメリカの社会福祉活動家、ヘレン・ケラーだったと言います。

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ヘレン・ケラーは生まれてすぐに病気に見まわれ、目が見えず、耳も聞こえず、それによって話すこともできないという3つの障害を抱えながら、世界中の身体障害者を救済する活動に生涯を捧げた女性です。昭和23年に来日した際、藤井さんはヘレン・ケラーに直接会って握手をする機会に恵まれたそうです。この時、彼女の手のひらからみなぎる精神力を感じ取り、自分も強く生きようと心が震えたと言います。境遇や立場、民族や国の違いを越えて、あらゆる人々に希望を与え、前向きな気持ちにさせる力があったというヘレン・ケラーの演説。これに勇気づけられた藤井さんは、その後、牧師になる夢や、盲導犬を持ちたいという希望を実現しました。そして今、藤井さんが語る言葉の一つ一つは、多くの人たちを励ましています。藤井さんにとってのヘレン・ケラーと同じくらい、私も取材を通して、藤井さんの言葉に力をもらいました。そして藤井さんのように自分の人生をあきらめない生き方を見習いたいと強く思いました。

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盲導犬とともにどんな困難にも立ち向かってきた藤井さん。その姿は多くの人に勇気を与えるだけでなく、優しい社会に続く道しるべとなっています。


【取材後記】
私が藤井さんから伺った盲導犬のエピソードをもう1つ。ある日、藤井さんは盲導犬を連れて歩いていました。段差でも、曲がり角でもない平坦ないつもの散歩道で盲導犬がいきなり止まって動かなくなったというのです。藤井さんは、不思議に思って耳を澄ませました。「助けて・・・」。小さくて、か細い女性の声が聞こえたそうです。実はこの時、近くに女性が倒れていたのです。盲導犬が足を止めたおかげで藤井さんは女性に気づき、救急隊を呼ぶことが出来ました。本来、盲導犬は訓練で様々な障害物を避けて歩くよう教え込まれています。人が倒れていても、避けて歩いてもおかしくないのです。しかし、藤井さんの盲導犬は止まって動きませんでした。なぜ、盲導犬は足を止めたのか?藤井さんは牧師として様々な人たちを励ます活動に力を注いでいました。「困っている人を救いたい」という気持ちが、いつも行動を共にしていた盲導犬に伝わったのではないかと藤井さんは言います。「人と犬でさえも、互いに信頼し合い、しっかり向き合っていれば、心の絆で固く結ばれ、実にすばらしい協同作業をつくり上げることができます。まして人間どうしでそれができないはずがありません。争いごとのない、平和で幸せな世界が実現すると確信しています」。藤井さんは私にこう語りかけてくれました。私は、藤井さんが語るからこそ深みを増す言葉の一つ一つに、ただただ圧倒されました。

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”全盲でも希望は見える”。九州初の盲導犬協会設立のきっかけを知りたくて始めた今回の取材でしたが、藤井さんが紡ぐ重みのある言葉のすべてから、人としての生き方、人として忘れてはいけないことなど本当に多くのことを、学ばせてもらった取材となりました。

福岡放送局リポーター 水越理恵

【追伸:街で盲導犬を見かけたら】
(1) ハーネスは仕事中の証
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盲導犬の背中に取り付けられている金具のことを「ハーネス」と言います。視覚障害者がハーネスをつかんで歩いている時、盲導犬はご主人を安全に誘導しようと集中しています。盲導犬に話しかけたり触れたりしてはいけません。

(2) 遠慮せずに声かけを
盲導犬を利用している視覚障害者の方にはいつ声をかけても大丈夫です。信号などで止まっている時、盲導犬は信号の色を識別して止まっているわけではありません。盲導犬はわずかでも段差があると止まるように訓練されています。このため、交差点では歩道と車道のわずかな段差を確認して止まっているのです。青信号なのか赤信号なのか判断するのは視覚障害者です。車が風を切る音など耳を澄ませて横断歩道を渡るか判断しています。これは非常に不安が大きいため、特に横断歩道では「いま、青信号になりましたよ」などと、なるべく声をかけてあげてください。

(3)危ない時は
横断歩道や駅のホームなどで視覚障害者が危険な時は・・・。
×「あぶない!」
○「そこの盲導犬の人!あぶない」
単に「あぶない」では、誰があぶないのかわからないということです。失礼にはあたらないので、「そこの盲導犬の人!あぶない」というように、誰が危険なのか分かるように声をかけてください。

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:10時53分 | 固定リンク


2018年09月05日 (水)死刑執行まで28時間


太平洋戦争中、上官の命令で捕虜のアメリカ兵の処刑に加わり、終戦後、BC級戦犯として絞首刑となった男性がいます。男性は死刑執行までのわずか28時間の間に遺書を残しました。遺書には平和への願い、そして、子どもたちを残していく無念が記されていました。

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昭和25年に処刑されたBC級戦犯の遺書です。22枚に及んでいます。

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書いたのは旧日本海軍の一等兵曹だった藤中松雄さん。藤中さんは、沖縄県石垣島の部隊にいた昭和20年4月、アメリカのB29爆撃機の搭乗員の処刑に加わったとしてBC級戦犯になりました。軍では、上官の命令は絶対でした。

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巣鴨プリズンに収監された藤中さんには故郷に残した2人の子どもがいました。
(左・長男の孝一さん、右・次男の孝幸さん)

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2人は今も、福岡県嘉麻市で暮らしています。孝一さんは76歳、
孝幸さんは71歳になっていました。父が収監された時、5歳だった兄の孝一さんでさえ、父の記憶はほとんどないといいます。「どんな人って、面影がないですね。私が小さかったけん。お父さんのぬくもりが全然なかったですもんね。私の子ども時代」(長男・孝一さん)

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藤中さんが絞首刑となったのは昭和25年4月7日。28時間前、4月5日の午後8時30分頃から書き始めた遺書には家族への思いが記されていました「“別れ”なんと悲しい事でせう。赤ん坊でさえ、別れていく真似をして見せると必死になって嫌々をします。まして、永遠の死別であって見れば言語に絶することです」


遺書には、父のぬくもりを知らない2人が、父の愛情を感じるという一節があります。最後に食べたいものを尋ねられ、りんごを頼んだというくだりです。「私は食べたくはありませんが、2人の子供に父として最後の愛情を注ぐ一片にでもなればと思いお願ひした訳です」。(死刑執行13時間前の午前11時30分)

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「父親らしいことをしてなかったから、そういうことを思ったんやないかと思います。兄貴と私のことを思いながら死んでいった親父の辛さを思い出して、あれを読むたんびに涙してましたね」。(次男・孝幸さん)

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藤中さんは、子どもたちに、最後のことばを残します。「『父はなぜ死んでゆかねばならないか』そうした結果をもたらした原因は何でありましょうか。それは全世界人類がこぞって嫌う、いまいましい戦争なのです。孝一、孝幸ちゃんに願ってやまないことは、いかなることがあっても『戦争絶対反対』を命のある限り、そして子にも孫にも叫んでいただくとともに、全人類がこぞって願う『世界永遠の平和』のために貢献していただきたい」。
(死刑執行6時間前の午後6時30分頃)

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藤中さんは、3年にわたる獄中生活で、いつもふるさとの川を懐かしんでいたといいます。遺書の最後は、家族を思う辞世の句で締めくくられていました。「草枕 旅ゆく今宵妻子らは 筑前果てに寝てあらむか」(死刑執行3時間前・午後9時25分)

「戦争さえなかったらこんなことはなかったはずです。自分たちも親父と一緒に生活もできたやろうと思うし、絶対戦争は二度としてはいかんと言う気持ちで今いっぱいですね」(次男・孝幸さん)

【取材後記】
28時間後に死が迫るなかで藤中さんが訴えたのは、戦争の絶対反対と世界永遠の平和でした。「今となって、上官の命令云々などと言う時間の余裕がありません」と綴った藤中さん。自分を死に追いやった原因はただひとつ、戦争だと言い切ります。死を目前にした29歳の若者が最後まで極めて冷静に言葉を綴っていたことに、私は胸を打たれました。藤中さんの心からの願いは、戦後何年が経過しようとも、私たちがこの先も問い続けなければならないことだと感じました。

福岡放送局記者 陶山美絵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:14時02分 | 固定リンク


2018年09月05日 (水)"獄中記" その問いかけとは?


戦時中、捕虜の虐待などに関わったとされた、いわゆるBC級戦犯。絞首刑を言い渡された元死刑囚が獄中で記した3000ページにわたる膨大な手記が、福岡市で見つかりました。死を覚悟してつづった手記には、戦争に翻弄されたみずからへの戒めのことばがつづられていました。

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BC級戦犯の新たな獄中記は、ことし5月に見つかりました。収監された東京の巣鴨プリズンにちなみ「巣鴨日記」と題された手記は、昭和21年8月から27年10月までの6年間に書かれたもので、およそ3000ページにわたります。判決を言い渡された日の記述には「絞首刑!。これが私に與へられた判決である。深い海の底にしんしんと沈む様な思ひがした」と記されていました。

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手記を書いたのは、元陸軍主計大尉の冬至堅太郎さんです。冬至さんは福岡市で、捕虜のアメリカ兵の処刑に加わったとしてBC級戦犯となりました。冬至さんの孫の竜介さんが、福岡市内の自宅にあった資料を読み返したところ、獄中でつづった日記だと気づいたといいます。竜介さんは「生きて出られなかったときに、自分がどういうことを考えて死んでいったかを遺族に伝えたかったんだと思います」と私に話してくれました。

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なぜ冬至さんはBC級戦犯として罪に問われたのか。昭和20年6月19日、福岡のまちをアメリカのB29爆撃機が襲いました。いわゆる福岡大空襲です。この空襲で1000人以上が犠牲になりました。冬至さんの母、ウタさんも、この空襲で亡くなりました。母のなきがらと対面した直後、火葬の準備に向かう道すがら、冬至さんは、B29の搭乗員の処刑の現場に遭遇します。母の死への怒りにまかせ、その場の雰囲気のなか、軍刀で4人を手にかけました。

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「その場面に出くわさなければ、あるいは1日か2日たっていれば、そういう行動には出なかったんじゃないかなと思います。早まったことをしたと思っていたんじゃないかと思います」(孫・竜介さん)

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冬至さん自身も手記のなかで自省しています。「不幸は不幸を呼ぶということわざがあります。母の死は第二の不幸を起こしました。こんな言い方を許してください。私は責任を十二分に感じています」

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一方で、昭和23年12月に絞首刑を言い渡され死を覚悟したあとは、手記の内容が次第に変化していきます。手記には「戦争犯罪人は、自分の自覚も意志もなく、行った行為に対して死を与へられる」とか、「人間は運命と云ふものに従順でなければならない。静かにこれを抱いてその苦しみに身を委ねておれるのもその故である」など、現実を受け止めようとするものになっていきました。

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死刑囚として過ごして1年半。冬至さんをめぐる環境が一変します。朝鮮戦争が始まるなか終身刑に減刑となったのです。そして昭和31年に出所しました。10年に及ぶ獄中生活を経て家族の待つ福岡に戻った冬至さんが、昭和58年に68歳で亡くなるまで、自宅に置いていたものがあります。手にかけたアメリカ兵の数と同じ4体の地蔵です。毎日のように祈りをささげていたといいます。「処刑した相手に対して申し訳ないという気持ちがあったんじゃないでしょうか」(孫・竜介さん)

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冬至さんは、巣鴨プリズンで過ごした10年間に、あわせて26人の死刑囚を見送りました。

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「万一減刑になったら100まで生きて人のために尽くしたい」と記した冬至さん。その後、東京に「愛の像」を建立します。男性が天に向かって何かを祈っているかのようなブロンズ像です。これは冬至さんが、死刑囚の遺書を集めた本を出版した収益で建てたもので、今もJR東京駅の丸の内側の駅前広場にたたずんでいます。2度と犠牲を繰り返さないでほしいという深い願いが込められています。

【取材を終えて】
死刑囚としてみずからの運命と向き合い続けた冬至さんは手記にこう書き残しています。「日本人は自分自身で考へるといふ大切なことに欠けている。どんな人の言葉も盲信してもいけないし、頭から否定してもいけない。必ず、自分でよく味わひ、吟味しなくてはならないのだ」。私たちはどう生きるべきか。獄中記は、戦後70年以上がたった今なお、私たちが生きるうえで、問い続けなければならないことを教えてくれているように感じました。

福岡放送局記者 陶山美絵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:13時53分 | 固定リンク


2018年08月15日 (水)責任はみずからにあり ~部下を守った元陸軍司令官~


終戦後、捕虜虐待などの罪に問われたBC級戦犯をめぐる裁判。中には責任逃れともとれる態度を示した上官もいました。そのなかで「責任はみずからにある」と主張し続け、大岡昇平の小説「ながい旅」の主人公にもなった陸軍の司令官がいます。ことしになって見つかった別の元死刑囚の手記に、この司令官の獄中での様子がつづられていました。

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旧日本陸軍の岡田資・中将です。戦後、BC級戦犯として死刑判決を受けました。

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岡田中将が罪に問われたのは昭和20年6月から7月にかけて東海軍が起こした事件です。アメリカのB29爆撃機の搭乗員を処刑したもので、岡田中将は、東海軍を率いる司令官でした。

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BC級戦犯が裁かれたいわゆる横浜裁判では、多くの死刑判決が言い渡されました。なかには死刑を免れようと、責任逃れともとれる態度を示した上官もいました。こうしたなか、岡田中将は「司令官である自分にのみ最終的な責任がある」と主張し続けました。

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東京・町田市に岡田中将の遺族がいると聞いて訪ねました。
(左:長男の妻・純子さん 右:孫・洋介さん)

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純子さんは、岡田中将の裁判を傍聴し続け、死刑判決を受けた日もその場にいました。「死刑判決を聞いたときは本当に辛かったです。みんな覚悟はしていたんですけど、ショックで・・・」(長男の妻・純子さん)

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獄中の中将の様子を記した手記です。ことし5月、福岡市で見つかりました。別の事件でBC級戦犯として同じ巣鴨プリズンに収監されていた福岡市出身の冬至堅太郎陸軍主計大尉が書いたものです。自らの責任にこだわった岡田中将について多くのページを割いてつづられていました。「東海軍を我々が羨ましいと思ふのは、司令官が命じてやらせたことになって、下級者の罪が軽くなると云ふ功利的な考へではない。『部下が可哀そうだ、何とかして救ってやろう』と云ふ司令官の心意気そのものが嬉しいのだ」(手記より)

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岡田中将の姿勢は、獄中でも変わりませんでした。若い戦犯たちに対しては「必ず減刑になるはずだ」と励ましたといいます。また、巣鴨プリズンのアメリカ人将校からも信頼を勝ち取っていった様子が読み取れます。「閣下は死刑囚の正に大黒柱であった。このことは拘置所の米人将校もよく知っていて、何かことがあると閣下に相談に来るし、また閣下の要求されることはよく受け入れてくれるのであった。どこまでも積極的で、米軍に対して要求すべきことは遠慮なく要求された」(手記より)

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純子さんは岡田中将の獄中の姿を初めて知ったといいます。「実際の細かいことは知らされていませんでしたけど、よく書き留めておいてくださいました」

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手記には、処刑の際に岡田中将が残した若い死刑囚への言葉も書き留められていました。「私は東海軍事件の唯一の責任者として当然処刑されるべきものである。然し諸君たちは立場がちがふのであるから必らず吉報があると思ふ、大いに楽観されたし」。

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最後まで若い人たちを気遣い続けた祖父の姿について、孫の洋介さんは「他の道、いわゆる『逃げ方』はあったかもしれないけれども、今やらなきゃいけないことを最後までやりなさい、その責任から逃れない、逃げないようにしなさいということだと思います」と話していました。

【取材後記】
「父のことは子や孫に、話していきたいと思います」。長男の妻の純子さんははっきりとした口調でおっしゃいました。戦争が引き起こした事柄について、誰がどのような責任を負うべきかという問いに私は答えを見つけられていません。ただ、戦争が引き起こした事実と向き合い、伝えていくことで、私たちが学ぶべきことは今なお多い。このことを疑う余地がないことは取材を通して確信できました。

福岡放送局記者 陶山美絵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:12時13分 | 固定リンク


2018年07月23日 (月)きのうの敵はきょうの友


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7月の西日本を中心とした記録的な豪雨では、住宅だけでなく、工場なども被災して、途方に暮れている事業者の方がいるかもしれません。1年前の九州北部豪雨でも朝倉市では300余りの中小企業が被災し、1年がたった今も、売り上げが被災前の水準に戻っていない企業もあるといいます。こうした中、被災しながらも、いち早く操業を再開し、業績が豪雨前の水準を取り戻している会社があります。背景には、ライバル企業からの知られざる支援がありました。

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朝倉市にある建材メーカーのオークマでは、ハウスメーカー向けに住宅用のドアなどを作っています。

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工場もあるオークマの会社の裏には妙見川が流れています。

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「この川は普段は10,20センチくらいの水かさで非常に穏やかな川なんです」(オークマ 大隈賢一郎 副社長)

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九州北部豪雨では、この妙見川が氾濫。工場に大量の泥水が流れ込み続けました。

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商品のドアおよそ8000枚がだめになり、工場の機械も壊れました。被害は数億円にも及び、操業中止に追い込まれました。

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「仕事ができなくなってしまうので、売り上げもなくなる。いろんなもう不安要素が頭をかけめぐったような状況でしたね」(オークマ 大隈賢一郎 副社長)。先が見通せない中、オークマにあるところから支援の手がさしのべられ助けられたといいます。それは、意外な相手でした。

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オークマを支援してくれた先は、朝倉からおよそ700キロ離れた岐阜県下呂市にありました。建材メーカーのハウテックです。

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オークマと同じ、住宅用のドアを作っています。ハウテックとオークマは互いに、同じハウスメーカーに商品を販売するなど、30年来、しのぎを削ってきたライバル企業です。

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ハウテックの中川正之社長は、朝倉の豪雨のニュースを見て、オークマからの商品の供給が止まり、自分の客でもあるハウスメーカーが困るのではないかと即座に感じたといいます。

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「オークマさんのお客さんに対する納入が滞るだろうから、まず第一にお客様が困るだろうと思いました。すぐ役員にLINEを送り、オークマさんにとりあえず状況確認の電話をしてくれと伝えました」(ハウテック 中川正之社長)

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中川社長はすぐに商品の増産と輸送ルートなどの確保を社員に指示しました。社員たちは、残業や休日出勤で増産に対応。商品のこん包方法をオークマと同じ仕様のものに変えたり、九州や四国など配送したことのない遠い地域にまで商品を運び、利益もほとんど出ない中で商品を供給し続けました。

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ハウテックの中川社長は、単に、自分の客のハウスメーカーを助けたいという気持ちだけではなかったといいます。「長年よきライバルとして頑張っておられるオークマさんですよね。お客さんも困っているし、オークマさんも困っている。だったら我々がなんとかしなければという気持ちがありました」

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「ハウテックさんの話を伺ったときは心からありがたいと思いました。感謝の気持ちしかないのが正直なところです」(オークマ 大隈賢一郎 副社長)

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オークマはその後、被災から1か月あまりで操業を再開しました。ライバルのハウテックは、商品を納めたあと、オークマの顧客を囲い込むことなく返してくれました。このため、オークマは操業再開後も顧客を失うことなく、売り上げはすぐに被災前の水準に戻ったと言います。ライバルがこけたら、助けるより、客を奪うチャンスと考える企業もあると思います。これまでの災害現場での企業取材を通して、操業を止めている間、顧客を奪われて、操業再開後も客を取り戻せず、経営が厳しくなる企業も多いと聞きました。
そういう事態を避けるためにも、まさに「きのうの敵はきょうの友」ではありませんが、今回のような企業どうしの助け合いが専門家も効果的だと指摘しています。

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「自助には必ず限界があります。今回のケースは機転が利いてうまくいったケースですが、たまたまにしないためには仕組みとして、自治体や商工会議所などが、どうすればこうした取り組みを推進できるか、どうしたらマッチングできるかを考えていただきたいと思います」(名古屋工業大学大学院 渡辺研司 教授)

【取材後記】
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日本海側の新潟と太平洋側の神奈川のメッキ組合は、災害時に生産を代行するため、人や工場を融通し合う協定を結んでいるといいます。事前に相手の工場を視察して、同じ仕様で製品を作れるようにするなどの対策も進めているということです。これは、中越地震や東日本大震災を教訓に結んだもので、距離が離れた地域どうしだと、同時に被災する可能性も低いため、違う地域同士の連携も重要だと感じました。

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ことしも西日本を中心とした豪雨など、各地で災害が頻発しています。BCP=事業継続計画など、災害に自ら備える“自助”はもちろんのこと、他の企業と連携する“共助”を模索するなど、いま一度、企業の備えは十分か、見直す必要があると感じました。

福岡放送局記者 仲沢啓

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:10時48分 | 固定リンク


2018年07月23日 (月)進化が伝統!~博多織の挑戦~


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絹糸の光沢や独特の質感で多くの人をひきつける博多伝統の「博多織」。その技法が鎌倉時代に今の中国から福岡に伝わってことしで777年の節目の年を迎えているのをご存じでしょうか?長い歴史があり、博多の誇りでもある「博多織」ですが、着物がふだん着でなくなった今、地元でも「特別なもの」、「遠い存在」というイメージが広まっているのが実情です。そこで、博多織をもっと身近に感じてもらおうと、博多織の織り元たちが新しい商品づくりに挑み、博多織の可能性を切り開こうとしています。ヒントにしたのは博多織の777年の「進化」の歴史でした。

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博多を代表する国の伝統的工芸品・博多織。上質な絹糸で紡がれる帯などに多くの人が魅了されます。何といってもその特徴は縦糸の多さです。ほかの産地の織物に比べ3倍近い量で織ります。

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糸を隙間なく密集させるため、生地に厚みやハリが出て、丈夫で傷みにくいのが特徴です。さらに横糸の量とのバランスをはかり、織物の表面にわずかな凸凹のようなものを生み出すことで、結んでもずれにくく、ゆるみにくい作りに仕上がります。特に男帯は「朝締めても夕方までゆるまない」と評されてきました。

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江戸時代に編さんされた筑前国続風土記

博多織が一躍知られるようになったのは、江戸時代です。武士の間で評判が広がりました。重い刀を腰に差しても帯がゆるまず、生地が丈夫なので、長もちもすると重宝されました。古文書にも博多織の特徴が書き記されていました。
『唐織の絹帯 強くて久敷きに堪ふ』(訳 唐織=博多織の絹の帯は強くて長持ちする)

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今も「博多祇園山笠」の男たちにとって、博多織は欠かすことのできない1品だといいます。丈夫でゆるみにくいからです。

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「1回締めたら、もうゆるみにくい。小物袋を帯にぶらさげとっても、全然ゆるまんけんですね」

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博多織の織り元の人たちが集まって新商品の開発を進めていると聞いて、私は取材に出向きました。この集まり、その名も「博多テックス」。織物を意味する「テキスタイル」からとったそうです。なぜ新商品を開発するのか?そこには織り元たちの危機感がありました。実は、博多織の織り元は昭和50年には170社近くありましたが、今では47社に減っています。着物を着る機会が減り、根強い人気を集めてきた帯の需要が落ちているからです。

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背もたれや座面など、生地はすべて博多織。「博多テックス」が手がけようとしているのは、博多織とコラボレーションした家具です。全国有数の家具産地、大川の家具店やデザイナーと協力して商品化を目指しています。耐久性が求められる家具は、丈夫さが特徴の博多織との親和性が高いと考えたからです。日々の暮らしに欠かせない家具に使われれば、博多織をよりみじかに感じてもらえるのではと考えています。

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「いままでの技術を生かしたものをつくるためには、いろんなものに挑戦する。それが博多織の今後の将来の生きる道ではないかなと思います」(博多テックス呼びかけ人 原田織物 原田昌行社長)

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ところが課題が見つかりました。生地は、強い力で引っ張った上で家具に貼り付けます。博多織は縦や横の方向に加わる力に対しては強く作られていますが、斜め方向に加わる力に対しては、比較的弱いのです。このため、家具に貼り付けた生地は何度も座るうちによれてしまう上、せっかくの柄も変形してしまいます。家具に求められる丈夫さは帯以上のものだったのです。

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「生地を下に引っ張ってとめるので、角の部分はどうしても斜めに引っ張らないといけないところが出てくる。その結果、柄がどうしてもいびつな形になる」。(大川家具 丸仙工業 設計デザイナー飯田真生さん)

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「『博多織は強い』というのは、和装・帯の世界の話なんです。日本の工業製品の中での耐久テストをすると、そんなに強いものでもないんですよね。伝統的工芸品として生産を続けるのか、工業製品として新しいものをつくるのかという岐路に立っていると思います」。(生地の開発を担当 サヌイ織物 讃井勝彦社長)

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岐路に立つ博多織。しかし博多織には、これまで幾度となくピンチをチャンスに変えてきた歴史がありました。江戸時代の人気歌舞伎役者、七代目市川團十郎が使った博多織の帯や衣装を再現したレプリカです。粗悪な模造品が出回ったりして博多織の帯が伸び悩んだ際、当時の織り元らは、帯だけでなく着物や羽織まで作りました。そして武士のためだけでなく、それまで関わりがなかった歌舞伎の世界に博多織の売り込みを図ったのです。

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「“この博多の帯は唐織で強くてゆるまねー”って言って口上してくれるんです。一躍、江戸の町に博多織の名声が広まったって逸話があります」(原田織物 原田昌行社長)

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(博多織工業組合所蔵『博多織史』 明治期の博多織ネクタイ)

その後も、洋服が広まり始めた明治期には、ネクタイなどの小物をつくり始めました。

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昭和の戦時中には軍事用のパラシュートのベルトの生産を命じられるなど、苦しい時期こそ、特徴をいかした工夫と改良を繰り返し、新商品に活路を見いだしてきました。歴史をひもとくと、社会の変化に対応した「進化」こそ、博多織の伝統をつないできたといえるのです。

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「博多織も時代とともに変わってきていると思います。でもその中には、先輩たちの技術がのこっていく。日本の伝統文化というか日本の伝統工芸の技術がこれからも生かされていくべきじゃないかと思います」(原田織物 原田昌行社長)

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糸の種類や織り方の技術にもさらなる「進化」が必要だと考えた「博多テックス」。糸は肌触りのよい伝統の絹糸を使ってきましたが、今回は肌触りが絹により近くて強度も高いポリエステルに変えました。

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さらに織り方は、帯の丈夫さを生み出してきた縦糸の多さに加え、家具向けに強度を増すため横糸の本数も増やしています。


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「今考えられる一番ふさわしい織り方を見つけ出していく。それが続いてきたから、777年の伝統があると思います」(サヌイ織物 讃井勝彦社長)。

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「博多テックス」の目標は、博多織独特の光沢、そして上質な風合いが感じられる、耐久性も兼ね備えた家具です。職人たちが知恵を出し合い、新しい商品の研究が連日、続けられています。

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「やはり、われわれの業界だけでやると、なかなか飛躍したもののつくり方って難しい。いろんな異業種の方との交流をして、新しいものをつくるということが、これからは大事だと思うんで、そういうのを私はこれからやっていきたいと思います」(原田織物 原田昌行社長)


博多織の技術は、家具以外にもこれまで、大相撲の力士の締め込みや、室内装飾の壁紙などにも使われてきました。衣服以外のもの作りに挑戦する時、欠かせないのがさまざまな業種の人との連携です。家具づくりの場合、家具の形や博多織の柄を決めるデザイナーと、家具を組み立てて製造する大川家具のメーカーとの連携で商品により1層磨きをかけています。

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例えば生地のデザイン。北欧風にも見えるモダンな印象ですが、よく見ると、実は博多織を代表する「献上柄」の“花”や“しま模様”の要素が組み込まれています。
また、家具には品質のよい福岡産のヒノキが採用されました。くぎやネジを使わない技法で組み立て、博多織の美しさを際立たせているのです。さまざまな職人たちが集まる博多テックスの打合せの場は、「いいものを作りたい」という熱意と志で満ちていて、さらなる博多織の進化に期待したいと思いました。


【取材後記】
博多織といえば絹糸。そこを変えてしまっては博多織ではなくなると感じる人も少なくないと思います。しかし、織り元の人たちが、思案を巡らせた結果の大きな決断だったのだと思います。博多テックスの皆さんは、「大切なことは、博多の地で織物業を続けていくことだ」と話していました。家具に対しては、柔軟に素材を変えつつも、織りの技術は伝統にこだわり、さらに改良も進めていました。たとえば家具に使われる一般的な生地は強度を増すため生地の裏にのりをはったりします。ところが博多テックスの皆さんは、のりだけに頼らず、織り方にもこだわって改良を加え、家具向けに強度を高めようと取り組んでいました。伝統をつなぐということは、先人の技術を守りながらも、工夫や改良を繰り返し、進化させていくことも欠かせないということを、博多織の777年の歴史と、今を担う職人さんたちが示していると感じました。


福岡放送局リポーター 水越理恵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:10時10分 | 固定リンク


2018年07月20日 (金)戻りたいけど戻れない


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九州北部豪雨から1年。多くの被災者がふるさとから離れて暮らしていることがわかりました。朝倉市は九州北部豪雨で今も避難生活を続けている被災者の状況を「被災者台帳」にまとめています。今回、NHKが市の協力のもと台帳のデータを独自に分析した結果、4割が地元に残らず市外に移り住んでいる状況が明らかになりました。

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去年の豪雨で大きな被害を受けた朝倉市の東林田集落では、被災当時のままの住宅や、鉄筋がむき出しになった橋の欄干などが今もそのままになっています。氾濫した川の両岸には二次災害を防ぐため、大量の土のうも積まれています。赤谷川が氾濫したため、東林田集落では3人が亡くなり、30棟以上の住宅が全半壊しました。およそ350人の住民のうち64人が今も避難しています。

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朝倉市は、こうした避難生活を続けている1300人余りの状況を「被災者台帳」にまとめています。NHKは今回、市の協力を得て、個人が特定できないよう情報を加工したうえで、独自に傾向を分析しました。

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地図上の赤い丸の部分は、被災者がもともと住んでいた場所です。

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放射状に伸びる線は、豪雨のあとの移動の状況を示しています。

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住民たちは緑の部分で示された福岡市や久留米市、それにうきは市などに移り住んでいました。その数は、ことし4月25日時点で、500人余り。被災者のおよそ40%が、朝倉市以外の20以上の市町村に分散していました。このうち、東林田集落では、避難した64人のうち、半数以上の34人が福岡市や大分県など市外の5つの自治体に分かれて移り住んでいました。

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ことしになって集落に戻った時川幸子さん(67)は、水につかった自宅を改修して夫と2人で暮らしています。自宅に面した道路の周辺には15軒の住宅がありますが、今、住んでいるのは時川さんともう1軒のあわせて2軒だけです。「知人の家に避難していましたが、気を遣うので自宅に帰ってきました。でも、2軒しかないので夜は寂しいし、雨が降ると不安になります。川の流れが変わったため集落が分断され、近所の人と話す機会が減りました」(時川幸子さん)

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豪雨当時、集落の区長を務めていた林隆信さん(68)も「以前は人が道を行き来して、いろいろなつながりや会話が生まれていましたが、それが完全になくなって、かろうじて住んでいるだけの状態です。人が暮らす地域としては不自然な集落になってしまった」と話していました。

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防災行政に詳しい専門家は、今の状態が長く続けば、地域の再生は難しくなると指摘しています。「これが2年、3年、4年といつまでもだらだらと続いていると、いつまでも待てないと、元の地域に戻らずにそれぞれの場所で生活再建する形になってしまいます。このため、復興に関する的確な情報を一刻も早く住民の方に示して、2年、3年は大変だけど頑張ってくださいということを行政としてどの段階で言えるかが重要だと思います」

さらに今回の分析から、若い世代ほど地元に残らず、市外に移り住む傾向があることもわかりました。世代別にみてみますと、市外に移り住んだ人の割合は、65歳以上では30%余り、20歳から64歳までの働き盛りの世代ではおよそ40%なのに対し、20歳未満の若い世代では50%を超えていたのです。これについて塚原教授は「子どもがいる世帯など若い世代を中心に、仮設住宅の完成を待てずに市外のみなし仮設住宅に入居せざるを得なかったのではないか」と分析しています。”ふるさとに戻りたいけれども、やむをえず戻れない”という人も多いと見られます。

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こうした状況ついて朝倉市の田中美由紀保健福祉部長は「若い人がよその所に行くというのは、市としても危機感を感じています。もとの所にまた戻ってもらって、若い人も戻ってもらって、コミュニティーがもとのように再生できるように、それを目標に頑張っていかないといけない」と話していました。

【取材後記】
朝倉市の東林田集落で、豪雨当時、集落の区長を務めていた林隆信さん(68)たちは、住民みずから復興委員会を独自に立ち上げています。「一刻も早く集落が再生する姿を示さなければ、住民は戻ってこないのではないか」との危機感からです。豪雨で氾濫する前の赤谷川はせせらぎに沿って桜並木があり、住民の憩いの場となってきました。豪雨で桜のほぼすべてが流されましたが、集落の復興委員会では、川の大規模な改修のあと新たに遊歩道や子どもが遊べる公園を整備し、そこに桜を植えて、かつての憩いの場を再生したいと考えています。林さんは「豪雨前よりも減った住民が100%に戻ることはないと思うが、それでも元の生活のリズムが戻ればいいと思う。地域として豪雨前の日常を取り戻したい」と話していました。復興への道筋が避難した人たちに示されることで、1人でも多くの人たちが集落に戻る日が来ることを私たちも強く願っています。


福岡放送局記者 小田真 森将太

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:11時14分 | 固定リンク


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