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2019年01月16日 (水)"帰りたいけど帰れない"~長期避難世帯集落は今~


平成29年7月の九州北部豪雨から1年半あまり。避難生活を続けている人は福岡県と大分県で今も1000人を超えています。このうち、福岡県朝倉市では、杷木松末地区と黒川地区の6つの集落の91世帯が、二次災害のおそれがあるとして「長期避難世帯」に認定されています。日中は出入りできますが、もとの自宅に住むことができない状態が続いています。再建への希望を持ち続けながらも、不安を募らせる集落の人たちの今を取材しました。

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朝倉市の山あいに位置する杷木松末地区の石詰集落。この集落に暮らしていた人たちは長期避難世帯に認定されています。豪雨から1年半がたっても、崩れた斜面の山肌はむき出しになったままです。

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「とにかく、これから上が全部流れてですね・・・」。石詰集落の区長、小嶋喜治さんも自宅に住むことができなくなり、毎日のように仮設住宅から集落に通い、復旧工事の進捗状況を確認しています。

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今後、長期避難世帯の認定が解除され、再び住めるようになるには「危険性が低くなった」と判断される必要があります。しかし、その判断ができる本格的な復旧工事の完了まで、あと何年かかるのかは見通せていません。

「今は、河川や道路復旧の本格工事が始まるまでのブロックをずっとつくっている。100個、200個じゃ足りない。何万個といりますけんね。1、2年で終わる工事じゃない」(小嶋喜治区長)。

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そうした状況の中、小嶋さんは集落に暮らしていた住民たちの不安をひしひしと感じています。

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小嶋さんとともに石詰集落で生まれ育った、小ノ上喜三さんです。
自宅は全壊。営んでいた柿農園も一部が流されましたが、川のすぐそばでかろうじて残った選果場で作業を続けています。ふるさとを捨てられないと思っているからです。

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「ここは一生かけて整備して、自分の一生が詰まっていますからね。これを捨てるというのは自分を捨てるような風に感じますからね」(小ノ上喜三さん)
しかし、もとの暮らしを取り戻したいと思っても、先はまったく見通せません。

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「今ある家でも残れるのは4~5軒じゃないですか。4~5軒の家でこの集落を維持していけるのか心配しています」(小ノ上喜三さん)将来が見通せない中でも、区長の小嶋さんは、集落の絆だけは失いたくないと考えています。

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そこで、年末には集落の入り口に、高さおよそ2点7メートル、土台の幅もおよそ80センチある大きな門松をつくりました。復興への願いを込めてです。

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年明けには、去年豪雨で行うことができなかった、「鬼火たき」も行いました。住民など40人以上があつまり、勢いよく燃え上がる炎を見ながら、1日も早い復興を願いました。そして、久しぶりに顔を合わせた集落の住民たちと一緒に、お餅を食べたり、お酒を飲んだりして、以前のような楽しいひとときを過ごしました。

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門松づくりも鬼火たきも、住民がひとときでも笑顔になってほしいと小嶋さんが企画しました。「長期避難世帯に認定された集落であっても、再建への希望は持ち続けたい」。小嶋さんの願いです。

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「やっぱり生まれ育ったところが一番大事ですけんね。とにかく、1日も早く、普通の生活に戻ってもらいたいです」


【取材後記】
「きょうのように住民のみなさんと顔を合わせるのが何よりも楽しみです」年明けの鬼火たきを取材した際に小嶋さんは私にそう話してくれました。住民たちと笑顔で話す小嶋さんが印象的で、ほんとうにこの集落のことが大好きなのだなと改めて感じました。小嶋さんは「集落のために」と、2年が任期の区長を1年延長しています。長期避難世帯がいつ解除されるかわからず、先が見えない中で、さまざまな悩みや不安を抱えながら、それでも集落のことを考え、絆を大切にしている姿が深く心に残りました。私自身、今後も継続して、石詰集落を、そして九州北部豪雨の被災地を取材していきたい。そう強く思いました。

久留米支局記者 山崎啓

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:18時25分 | 固定リンク


2018年11月22日 (木)"子どもたちが考えた命"


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事件や事故で大切な家族を奪われた遺族たちが、亡くなった人の等身大のパネルに遺品を添えて展示する「生命のメッセージ展」をご存じですか?命の大切さを考えてもらおうと、全国各地で開かれている展示会です。この展示会は通常、大人たちが企画します。ところが、福岡県糸島市の小学校では、子どもたちも企画に加わって作り上げる新たな取り組みが行われました。子どもたちがメッセージ展を通じて何を学んだのか、取材しました。

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「クリスマスのイルミネーションを見に行った帰りに飲酒運転した車にぶつけられて、3人亡くなったんです」(娘を失った大庭茂彌さん)

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11月、糸島市立前原小学校で開かれた「生命のメッセージ展」。
「メッセンジャー」と呼ばれる亡くなった人たちの等身大のパネルが並べられていました。

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そこには、事故などで亡くなった人の写真や、遺された家族からのメッセージ、それに遺品の靴も添えられていました。

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全国各地で開かれている「生命のメッセージ展」は通常、大人たちが企画しています。ところが、今回、前原小学校での開催には、全国で初めて、子どもたちが企画を担当しました。命の大切さについて子どもたちに主体的に考えてもらおうという狙いです。

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子どもたちは、およそ1か月前から準備を進めてきました。話し合いを重ねながら、展示物や会場の装飾などを決めていきました。しかし、子どもたちの多くは、大切な人を失ったり、命について真剣に考えたりした経験がありません。

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そうした中、子どもたちは遺族がどのような思いを抱いているのか、直接話を聞くことにしました。

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糸島市の大庭茂彌さんは、19年前、当時大学生で、この小学校の卒業生でもあった次女の三弥子さんを、飲酒運転による事故で失いました。「朝起きて、目が覚めて、そしてご飯食べて、学校に行ける。これは当たり前のことだけど一番幸せなことだと思います。生きたくても生きられない、そういう人たちがたくさんいます。だから、皆さんも今を大事に生きて欲しい」(大庭茂彌さん)

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当日展示する等身大のパネル「メッセンジャー」や、遺品との向き合い方についても話がありました。
「数はどれくらい?」(大庭さん)
「100人」(児童)
「100人ではなく、1命と呼んでください。モノとして扱わず、1人の命として扱ってもらえれば、オブジェも喜ぶと思いますよ」(大庭さん)

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「命って、当たり前じゃないんだなと思いました」。

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「悲しさなど、たくさんの思いが詰まっている。そうしたことが、みんなに伝わればいいなと改めて思いました」

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等身大のパネル「メッセンジャー」には亡くなった人の命が宿るという遺族の思いを聞いた子どもたち。「無限」を意味する「∞」の形に「メッセンジャー」を並べて展示しました。遺された人たちの記憶の中で永遠に生き続けるということを表現したといいます。

さらに、自分たちが命について考えて書いたメッセージも展示しました。
「生きていることって当たり前じゃないんだよ」
「奇跡の命を生きている」
大庭さんの話を聞いた日、子どもたちが、悩みながらも、自分のことばで書きあげたメッセージです。子どもたちだけでなく、会場を訪れた保護者、それに地域の人たちも、メッセージに込められた意味を考えながら、じっと見入っていました。

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「このメッセージ展の企画に参加する意味が分かるのかな?と思っていましたが、しっかり伝わっているみたいでいい取り組みだなと思いました」(保護者)

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「悩んだりしていたみたいでしたが、ちゃんと伝わるように考えていたので、子どもたちの思いも伝わってよかったと思います」(保護者)

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「プロジェクトを始めてからは、命がどれだけ大切なものかを考えることができました。自分たちがみんなに伝えていかなくてはという思いがさらに強まりました」(児童)

【取材を終えて】
試行錯誤しながら、命という難しいテーマに取り組んだ子どもたち。私が取材を始めた当初、子どもたちは戸惑う様子も見せていましたが、徐々にその表情にも変化が生まれてきたのが印象的でした。メッセージ展の当日、参加した子どもの1人は「自分の命を大切にしながら、友だちなど周りの人にも生きることのすばらしさを伝えていきたい」と話していました。
取材した前原小学校での取り組みを受けて、糸島市内のほかの小学校でも、子どもたちを企画に加わえての「生命のメッセージ展」を開催したいという声があがっているそうです。飲酒運転による事故で娘を失い、今回、子どもたちの企画に協力した大庭茂彌さんも「まずは糸島からですが、ゆくゆくは全国にこの取り組みが広がったらうれしいです」と期待を寄せていました。

福岡放送局記者 伊藤久博

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:16時22分 | 固定リンク


2018年11月20日 (火)"このバス停、半端ないって!"


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ことしも残り1か月あまり。年末恒例の「新語・流行語大賞」の時期も近づき、ことしの大賞候補も発表されました。そのうちの1つが”半端ないって”。サッカーワールドカップロシア大会での大迫勇也選手(鹿児島県出身)の活躍をたたえたものですが、同じ九州の北九州市には、大迫選手のすごさに勝るとも劣らない「半端ないバス停!」があると聞き、取材に出向きました。

「半端ないバス停」は福岡では「スマートバス停」と呼ばれています。バス停をインターネットにつなげることでさまざまな機能を備えています。西鉄がことし1月から北九州市内の7か所に導入しています。なぜ”半端ない”のか?その理由を説明します。

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【わかりやすい時刻表の表示】
「半端ない」理由その1は「わかりやすい表示」。西鉄バスの時刻表ダイヤは▼平日用▼土曜用▼日曜祝日用の3種類があります。従来のバス停の時刻表は3種類の時刻表が同じ大きさで表示されています。一方、スマートバス停の時刻表は利用者に配慮して、その日のダイヤが最も大きく表示されます。

さらに、その中でも、リアルタイム、例えば、現在が午前11時であれば、午前11時台のダイヤをさらに拡大して、大きく表示されるのです。

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また、外国人観光客向けにハングルや中国語、英語でも行き先を表示しています。

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【災害時にも使える新機能】
「半端ない」理由その2は、バス停以外の機能も併せ持つ点です。
スマートバス停は、ひとたび災害が起きると、遠隔操作で一斉に避難を呼びかける画面などに切り替えることもできます。つまり、バス停そのものが、さまざまな情報を発信する場所にもなるというわけです。

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例えば、画面を切り替えられる機能は、広告にも使えます。バス停の広告と言えば、限られたスペースに紙を貼るだけでしたが、スマートバス停は、様々な広告を次々と表示できます。これにより、バス停1か所あたりの広告掲載料がこれまでよりも増えて、「稼ぐバス停」へと生まれかわる効果もあるというのです!

【働き方改革にも寄与】
そして「半端ない」理由その3が、働き方改革にもつながるという点です。実はバス会社の社員にとって知られざる過酷な業務、それは「バス停の時刻表の貼り替え」なのです。なぜ、過酷なのか?それは、最終便が運行を終えたあとの夜遅い時間帯や深夜に張り替え作業を行っているからです。西鉄バスの場合、バス停は福岡県内におよそ1万か所にものぼっています。さらに、そうした貼り替えの作業は、西鉄の場合、ダイヤ改正の時だけでなく、お祭りや年末年始など、年間およそ15回もあるといいます。貼り替えにかかるコストも多い時には1回で数百万円にのぼることもあるといいます。人もカネも必要だったこの作業が、インターネットを通してクリックするだけで済むようになるのです。

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西鉄では、北九州市におよそ2000あるすべてのバス停を、このスマートバス停にかえていくことになりました。ところで、これだけ世の中のさまざまな分野でデジタル化が進む中、これまでスマートバス停が広がりを見せてこなかったのには理由があるといいます。それは「電源の確保」がネックになっていたからだというのです。

【電源を確保!】
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多くのバス停は、住宅地などにあって、電子画面に必要な電源を確保しにくい現状にあります。一方、スマートバス停は、太陽光パネルでの発電に加え、蓄電池も備えることで電源を失っても5日間は稼働できます。さらに、バッテリーの残量に応じて、通信の頻度を自動的に減らし消費電力を抑える地元企業の最新システムも導入されています。

【コストはかかるけど・・・】
とはいえ、従来型のバス停と比較するとコスト負担は軽くありません。いまの段階では、量産化した後も一基あたり30万円前後はかかるのではないかということです。とはいえ、喫緊の課題となっている社員の働き方改革などを勘案すると、西鉄では、スマートバス停を広く導入していくメリットの方が大きく上回るとしています。

【増える問い合わせ】
西鉄などによりますと、最近は思わぬところからの問い合わせも増えているといいます。それは福岡から遠く離れた北海道や岩手県など、雪国のバス会社からなのだそうです。その理由の1つは、厳しく冷え込む深夜の時刻表の貼り替えから社員を解放することなのだそうです。そして何より、大雪や凍結した道路が原因のダイヤの乱れについて、厚手のコートを着て寒い中、バスを待ち続ける利用客にいち早く伝えるためなのだそうです。

西鉄は「ダイヤを頻繁に変えるのはこれまでは難しかったが、スマートバス停の導入が広がれば、利用者の声を素早くダイヤに反映しやすくなる効果があるかもしれない」と話しています。

「インターネット」と「モノ」をつなぐ「IoT」と呼ばれる最新技術が、「バス停」に行き着いたことで生まれた今回の取り組み。バス会社で働く人にも、それを利用する人にも、嬉しい変化をもたらしつつあります。

福岡放送局記者 金子泰明

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:15時31分 | 固定リンク


2018年09月28日 (金)"久留米方式"が救う!


2万1127人。この数字、何だかわかりますか?。去年、全国で自殺した人の数です。ちなみに、去年、交通事故で死亡した人は全国で3694人。自殺者は交通事故の死者の5点7倍にも達し、見過ごすことができない深刻な社会問題になっています。自殺者はどうすれば減るのか?。いま、久留米市が8年前から始めているある取り組みが「久留米方式」と呼ばれ、注目を集めています。

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「久留米方式」の最大の特徴は、地域のかかりつけ医と精神科医の連携です。かかりつけ医は、不眠や食欲低下、疲れなど、うつ病につながる、患者のわずかな体調の変化を把握しやすい立場にあります。そして、かかりつけ医が精神科医に患者を紹介することで心の病の早期発見につなげ、自殺に至る前に手だてを講じる仕組みです。さらに、久留米市の保健所や精神保健福祉士も加わり、追跡調査を行い継続して患者を見守るのも特徴です。

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「もう不安ですね。汗がいっぱい出てきて落ち込んで」(60代男性)。私が取材した60代の男性は、職場環境が一気に変わったことをきっかけに仕事に不安を感じ、気分が落ち込むことが多くなったといいます。「家ではイライラするし、会社に行く時に非常に熱が出まして、震えました。会社に行く意欲もなくなり、もうどうしようもないという部分まで追い込まれました」(60代男性)。

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こうした体の不調が半年ほど続いたころ訪れたのが、10年以上のつきあいがある地域のかかりつけ医でした。「かかりつけ医に1人で行きました。信頼の置ける医者で、病気があったら、家族も皆診てもらっています。すぐに、紹介状を書いてもらいました」(60代男性)。かかりつけ医の専門は内科ですが、すぐに精神科の専門医を紹介し、男性はうつ病と診断されました。気心の知れたかかりつけ医に紹介してもらったことで、男性は安心して治療を受けることができたと言います。

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「精神科はまったく初めてで不安でしたが、すぐに紹介していただいて、そこが専門医だったというのが一番のメリットだったと思う。自分では早く治ったかなという思いです」(60代男性)。

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久留米方式の導入から8年がたち効果は数字にも表れています。人口10万人あたり、どのくらいの人が自殺で死亡したかを表す自殺死亡率は、9年前の平成21年の時点で、福岡県全体が25.76人、久留米市は28.36人と、久留米市は、県の平均を上回っていました。ところが去年は県全体が17.11人なのに対し久留米市は14.67人と県の平均を下回っています。しかもこの間、久留米市の自殺死亡率は半減し、速いペースで改善しています。また、この8年で、かかりつけ医から精神科医への紹介件数は8066件にのぼっています。しかも導入当初の最初の1か月は月に29件でしたが、去年は8月と10月にそれぞれ137件と、最近は月に100件を超えるようになり、制度は定着しつつあります。

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「毎月100人くらいの患者さんが精神科に紹介されている。そういう意味ではこの連携システムが一般科の先生方に受け入れられたんじゃないかなというのがあります。最初は小さかった輪が、だんだん広がっていると思います」
(久留米方式の発起人 久留米大学 内村直尚 教授)

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この久留米方式はかかりつけ医が患者の異変に気づくために、SDSと呼ばれる共通のチェックシートを活用しているのも特徴の一つです。

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このシートに基づいて、かかりつけ医が、▽気が沈んで憂うつだとか、▽夜よく眠れないなど20項目をチェックします。そして一定の点数を超えると、うつ病の疑いがあるとして、精神科医に患者を紹介します。内科など、精神科以外が専門の医師でも気づける仕組みになっています。

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「何回か診察を繰り返しているなかで、もしかしたら、この方はうつ病の原因の状態にあるんじゃないかと、そういうことに気づきます。それで患者さんの紹介も非常にやりやすく、また、応じやすくなっているんじゃないかなと思っています」
(かかりつけ医の1人 矢野秀樹 医師)

さらにこの久留米方式では、かかりつけ医と精神科医の信頼関係が重要になってきます。そのため、ほぼ毎月、研修会などを開催して、互いが顔の見える関係を作り出しています。医師どうしの信頼関係があれば、患者に自信をもって精神科医を紹介できると言います。

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「ふだん紹介させてもらう時に、やっぱり、精神科医の顔を知っていると会話もそれなりに親しくなりますし、それを見ている患者さんもすごくそれで安心される。いい関係を構築しているなと感じています」
(かかりつけ医の1人 矢野秀樹 医師)

【取材を終えて】
「久留米方式」は当初、4つの医師会から始まりましたが、去年、さらに4つの医師会が加わり、筑後地方全体に広がりました。また、去年からはアルコール依存症の問題についても、共通のチェックシートを用いて、かかりつけ医が患者の状況を確認するようにもなりました。「久留米方式」は進化を続けているのです。私は今回、取材をしていてとても印象に残った言葉がありました。それは「8年が経過し、医療関係者だけではなく、一般の方々も周囲の変化に気づくような、そういう気配りができるようになっている。ひとりひとりの関係を深めて、地域の絆を強めていくことが自殺対策につながる」という発起人の内村教授の言葉でした。久留米方式をきっかけに、市民の間にも自殺予防の意識が高まり、地域の絆で自殺者を減らしていく。久留米から始まった取り組みを引き続き注目していきたいと思います。


NHK久留米支局記者 山崎啓

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:10時43分 | 固定リンク


2018年09月20日 (木)興味はあるのに理解がない!?~異文化のすれ違いを防ぐには~


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みなさんの周りには、フラダンスを楽しんでいる人はいますか?
カルチャーセンターの講座をはじめ、今や部活動、それにスポーツジム、さらには老人ホームなどでも楽しむ人が増えていて、フラ(ハワイではフラダンスのことをフラと呼びます)の愛好家は全国で100万人前後とも言われています。その一方で、フラの起源や、踊りに込められているハワイの人たちの思いについて考えたこと、皆さんはありますか?ハワイには、そうしたことも日本人に知ってもらいたいと考える指導者がいて、見た目の人気だけが先行している日本のフラの現状に違和感を抱いている人も少なくないといいます。国際化社会が進む中で、「すれ違い」ではなく、お互いを理解しあう「交差」した文化交流を進めるにはどうすべきなのか?きょうはフラを通して、異文化交流について考えたいと思います。

【広がるフラ人気】
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8月、私は福津市で開かれたフラ教室の発表会に足を運びました。小学生から主婦まで幅広い世代の愛好家たちが華やかな衣装を身にまとい、日ごろの練習の成果を披露していました。なぜフラを始めたのか聞いてみると、理由は衣装のかわいさや健康増進などさまざまでした。

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「かわいく踊りたいと思って入ったのがきっかけです。非日常を味わえるのでとっても楽しいです」(大学3年生)

【知られざるフラの意味】
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発表会の前、フラ教室の練習の様子を取材させてもらいました。この教室では、フラを通してハワイの習慣や歴史など、文化的な意味合いについても教えていました。例えば男女の恋愛をテーマにしたフラについて、講師は次のように説明していました。「この曲には、落ちている花を耳元に飾る振り付けがあります。右に飾る時は”独身・彼氏募集中”、左に飾ると”私は結婚しています・彼がいます”という意味になります」。

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フラといえば、笑顔でゆったりと踊るイメージを持っている人も多いかもしれません。しかし、険しい表情で踊るフラもあることをこの講師は説明していました。「この踊りは、戦争が行われたことを伝えています。村長が戦いを歌ったフラもあります。笑顔で踊る曲とはまた違って、神妙な顔で、どちらかというと強い顔だちで踊らないと、本当の意味が伝わりませんよ!」(フラ講師 占部明子さん)

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ハワイの人たちにとってフラは、日本人にとっての神楽に近いと言えます。神楽は、神に奉納する舞です。フラもハワイでは神にささげる踊りで、手や足などの1つ1つの動き、そして装飾にもそれぞれ意味があります。講師の占部明子さんは「振り付けや歌詞の意味まで知ることで、生徒さんたちの表現力が豊かになります」と話していました。しかし日本では、フラのさまざまな意味をしっかりと教えている教室ばかりではありません。こうしたことなどから、ハワイの指導者たちは日本のフラの現状に強い違和感を感じている人も多く、中にはトラブルまで起きています。

【広がる違和感とトラブル】
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具体的にはどういうことなのか?
例えば、▽踊りの意味まで教えていないのに、日本の指導者が高額な受講料や衣装代を生徒からとっていることに、ハワイの人たちは違和感を感じているといいます。
また、▽ハワイの指導者が創作した振り付けを、日本の教室が許可なく上演したなどとして、裁判沙汰にまでなったケースもあります。

【違和感やトラブルの背景】
背景には何があるのか?その理由の1つに、日本ではフラを教えるのに資格や免許が必要なく、誰でも教えられることが考えられます。ハワイの場合は、日本舞踊の家元のような流派や、「クム」と呼ばれるごく限られたフラの伝承者しか、フラの教室を開くことはできないのだそうです。誰もが教えられるわけではないのに、さらに高額な授業料をとっているとなれば、日本人の指導者に対し違和感を持つのは当然かもしれません。

【新たな動きも】
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そうした中、日本人の指導者にフラのことをもっと知ってもらおうという取り組みを始めているNPO法人が福岡市でワークショップを開くと聞き、取材に出向きました。

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ワークショップを開いたのは、NPO法人フラジャパン文化協会。
講師は「クム」と呼ばれるハワイのフラの伝承者、ケリー・グロッスマンさんです。グロッスマンさんは、そもそも日本人の指導者がフラの伝統などを学ぶ機会が少なかったこともトラブルなどの理由の1つだと考えています。ことし6月から日本で暮らし始め、福岡などで日本人指導者を対象にフラのことを知ってもらう講座を開いています。

【フラと神道の共通点】
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はじめに教えるのはダンスではありません。まずは座講です。ハワイでは最も大切だとされ、最初に教えられる神話に基づくフラについて話をします。グロッスマンさんは、ハワイに伝わる神話は、あらゆるものに神が宿ると信じる日本の「神道」に似ていて、日本人にも理解してもらいやすいと考えています。

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また、ハワイでは、火山の噴火などさまざまな自然現象に神が宿ると考えられています。そうしたことへの信仰心などを体現したのがフラなのだと説明していました。さらにフラは、過去に火山の噴火などが起きたことを伝える、いわゆる「伝承」の手段でもあります。グロッスマンさんは、そうした点を紹介し、意味を理解した上で踊ることが大切だと伝えました。「フラには知識や情報がいっぱい詰まっています。踊りで伝えることで、多くの人たちがハワイの歴史を知ることができるんです。火山のことを、皆さんがあまりにも穏やかで優しく踊ってしまったら観客たちはきっと、この光景って美しいんだなと思ってしまい、本当のストーリーが伝えられなくなるんです」(ケリー・グロッスマンさん)。

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「踊ることだけではなく、その中身や歴史など、きょう習ったような歌詞の内容もちゃんと伝えていけたらなと思います」(受講者)。

【尊重と寄り添う姿勢】
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グロッスマンさんが大切にしていること。それは、相手の文化も尊重することだといいます。「私はハワイと日本の歴史を両方学び、共通点を見つけてきました。そこに橋を架けて、生徒たちの理解がより深まるよう努力しています」。(ケリー・グロッスマンさん)。

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グロッスマンさんは、シンプルにフラを楽しんでもらおうと活動している日本人指導者を否定しているわけではありません。見た目先行だとしても、フラに興味を持ってもらえることは喜ばしいことだと話していました。ただ、本音ではやはり、信仰の意味合いや歴史、伝統も是非、知って欲しいと願っています。ハワイと日本の指導者との間で、フラの受け止めに「すれ違い」も見られる中、どちらにも寄り添うことで、すこしでもギャップを埋めていこうという姿勢が印象的でした。

【独特の信仰 どう理解する?】
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フラにまつわる神話が日本の神道に似ている部分があるとはいえ、異なる文化や宗教の独特の世界を理解するのは簡単ではありません。最近、私たち日本人も、日本独特の信仰をめぐって理解してもらうのに苦労したことがありました。思い出して欲しいのが、去年夏、世界遺産に登録された宗像・沖ノ島と関連遺産群です。

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ユネスコの諮問機関・イコモスは当初、4つの神社や古墳群は登録から除外すべきと勧告しました。理由は、古代に行われていた沖ノ島での祭しと、宗像大社の神社などで行われいる現代の祭しとの間に連続性が確認できないとしたためです。これに対し日本側は、出土した文化財などから、沖ノ島での古代祭しが現代の信仰のルーツであることは間違いないと、繰り返し説明して理解を求めました。地元も外国語でパンフレットを作成するなどして構成資産の重要性を呼びかけました。その結果、何とか理解をしてもらい、やっとの思いで8つの構成資産すべてが世界遺産に登録されました。文化が異なるものどうしの間では、伝える側は説明を尽くし、聞く側も理解に努めることが大切だと、当時取材を続けていた私が実感した瞬間でもありました。国際化社会が急速に進む中、フラに限らず、相手を理解しようとしたり、理解してもらおうと努力する姿勢が、私たちの身近なところでこれまで以上に必要になってきていると感じます。

【ある言葉とある疑問】
その一方で、私は「以心伝心」という言葉が心に浮かぶとともに、ある疑問を抱きました。「以心伝心」とは、ことばは通じなくても、心は通じ合えるという意味です。私は、異なる文化を抵抗なく受け入れられる「以心伝心」の下地を、誰もが持っていると思っています。例えば海外旅行をしていて、国によっては女性は肌を露出してはいけなかったり、子どもの頭をなでてはいけないなど、さまざまな風習を耳にします。しかし、そのことを否定したり疑ったりするよりも、むしろ文化の違いを認めて、受け止めることが多いはずです。外国の歌や映画、絵画などを鑑賞するときも、自然と感動したり元気をもらったりすることも多いと思います。

【異文化理解とビジネス】
ところが今、社会の国際化が進む中、異文化のすれ違いを埋めるために、「以心伝心」よりもむしろ説明を尽くしたり、理解する努力を重ねないといけないシーンがこれまで以上に増えているように思います。何故なのでしょうか?。
それは、そこに”ビジネス”が絡むケースが増え始めているからかもしれません。フラの世界で起きている「すれ違い」は、高額な受講料などがきっかけになっているような気がします。また世界遺産も、登録されれば観光客の増加などで大きなビジネスチャンスが生まれます。”ビジネス”が関わってくると、さまざまな利害関係者の思惑が複雑に絡み合うことは容易に想像できます。このため、「以心伝心」でお互いに感じていることが、後回しにされているような気がしてなりません。

【大切にしたい「以心伝心」】
だからといって、私は異文化理解と”ビジネス”の関わりが悪いと言うつもりはありません。活発なビジネスのおかげで、私たちは多くの異文化と触れあうことができるようになっているからです。ただ、”ビジネス”が絡むとしても、まずは自分の利害や損得を考える前に、素直な気持ちで相手の文化や気持ちに向き合うことがあってもいいのではないでしょうか。そうすれば、余計な異文化間の違和感やトラブルも減るような気もします。私たちはそうした向き合い方が出来るはずです。なぜなら、私たちは異文化を受け入れる寛容さ、すなわち「以心伝心」の精神を本来持ち合わせているはずですから。

福岡放送局リポーター 水越理恵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:12時17分 | 固定リンク


2018年09月18日 (火)集落に希望の灯火


九州北部豪雨で3人が亡くなり、30棟以上の住宅が全半壊する被害を受けた朝倉市の東林田集落。
去年7月の豪雨で氾濫した赤谷川の下流に位置しています。川の応急工事がほぼ終わり、避難先から少しづつ住民たちが戻ってきています。

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「1年間お世話になったから、きれいにしておかないとね」

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朝倉市の仮設住宅で1年間暮らしてきた林恵子さん(56)と中学3年生の娘・紗季さん(15)です。

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2人が暮らしていた東林田集落の自宅は、去年の九州北部豪雨で全壊しました。このため、仮設住宅に移り住み、2人で生活してきましたが、自宅の修復が終わり、1年あまりたって、集落に戻ることになりました。

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「ここで暮らすよりは、前の家で暮らしたほうがいいと思うし、ことしが受験なので自宅で勉強にも集中したいと思う」(娘の紗季さん)

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当初は金銭的なこともあり、修復してまで、自宅に戻るかどうか迷っていた林さん。戻ることを決断したのは、慣れない仮設住宅での生活にストレスを感じ、口数が少なくなっていた紗季さんの「家に戻りたい」という言葉を聞いたからでした。

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「帰るって決めた時点で、2人ともすごく前向きになったかなと思います。光が見えた感じがしました。最初は、仮設暮らしが長くなったなと思っていたけど、自宅に帰れると思ったらほんとに時間があっという間に過ぎました」(母・恵子さん)

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8月26日、仮設住宅をあとにした恵子さんと紗季さんは、修復を終えた自宅に戻りました。

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私は2人を取材中、自宅の中であるものを見つけました。それは年季が入った柱でした。自宅を修復するにあたって、林さんがどうしても残しておきたかったものでした。「これは”娘の柱”です。娘の身長を記録してきました。写真やビデオとかは、豪雨でほとんど全部なくなったんですけど、これだけは残ったんです。別の場所にあったものですが、修復した家ではリビングの中心に置いてもらいました。唯一の宝ですね」(母・恵子さん)

今も多くの人が避難先での生活を続けている中、東林田集落に戻って、新たな一歩を踏み出した2人に思いを聞きました。

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「全然違うところに行ったら、すごい緊張感とか、いろんな不安とかがありますが、やっぱり住み慣れた場所で生活するって、なんとなくほっとしますね。やっぱりふるさとが一番、ほっとする場所です」(母・恵子さん)

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「ずっとここで暮らしてきたから、ここじゃないといつも通りじゃない。いっぱい大きな声で笑って、テレビも大きな音で見たい。豪雨の前と同じようには戻らないと思うけど、母と2人で明るくこれから生きていこうと思います」(娘・紗季さん)

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引越を終えて、2人は表札を玄関に飾りました。この日のために紗季さんが手作りしたものです。「”きょうからここに泊まります”っていったらおかしいですけどね、ここでの新たな生活がいよいよ始まる感じがしています。楽しく暮らしたいですね」(母・恵子さん)

【取材後記】
朝倉市の東林田集落の人たちは、豪雨でおよそ30世帯が避難生活を送っています。自宅を完全に解体することを余儀なくされ、なかなか新たに建て直すことができないでいる人たちも多くいます。このため、これまでに避難先から戻ってきたのは林さん親子を含めて、まだ3世帯にとどまっています。林さん親子は「近所の人たちが帰ってきて、地域に以前のようなにぎわいが戻ってきてほしい」と話していました。東林田集落に戻りたいと希望しながらも、経済的な問題や安全面への不安などから、ふんぎりがつかない被災者もいらっしゃいます。そのことは理解しつつも、林さん親子が火種となって、東林田集落に明かりが少しずつ増えていって欲しい。取材を通してそう感じずにはいられませんでした。

福岡放送局記者 山崎啓

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:12時21分 | 固定リンク


2018年09月18日 (火)どうなる? 被災地の農地


朝倉市では去年の九州北部豪雨で農地にも甚大な被害が出ました。
田畑の中には、流されて跡形も残っていないところすらあります。
朝倉市は、元の形に戻すことが難しい農地は、区画整理をすることで再生しようと考えています。しかし、山あいの地域では、農地再生の道筋が見えないままの集落があります。

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朝倉市の山あいにある黒川地区でおよそ40年にわたり農業を営んできた町田実さん(65)です。町田さんの田んぼや畑は去年の豪雨で流され、今も土砂や岩が堆積したままです。

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自分の土地で耕作ができなくなった町田さん。仮設住宅で避難生活を強いられ、年金に頼る毎日です。「この状態だと何も作れないから生活できない。生活するにはお金が必要。どげんか確保せんといかん」(町田実さん)

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「豪雨からの復興に、失われた農地の再生は欠かせない」。朝倉市はこの方針のもと、国の制度を活用して農地を区画整理して再生させようと考えています。

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激甚災害に指定されたため、区画整理にかかる費用の98点2%は国が負担します。残りは市が1点26%を負担。農家の負担はわずか0点54%となっています。農家の負担を軽くすることでもう一度、耕作をしてもらおうと市は考えています。

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しかし、今、大きな壁にぶつかっています。法律では、区画整理事業の開始にはその地区の農家の3分の2の同意が必要なのです。

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市は区画整理事業を始めるにあたり、ことし6月、任意のアンケート調査を行いました。しかし、町田さんの田畑がある地区でアンケートに回答した農家や地権者は半数あまりにとどまりました。同意取り付けの前の段階で、意見の集約すらできていないのです。

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「今、仮設住宅にお住まいの方も結構いっぱいいらっしゃったり、ここにも住んでいない方も結構いらっしゃるので、意見集約は大変」(朝倉市職員)

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豪雨のあとの避難が長期化して、仮設住宅に暮らしている人も多く農家はバラバラです。いつになったら同意が得られるのか、見通しは立っていません。

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農地の復旧を望む町田さんは、そもそも高齢化が進むこの地区に、みんなが戻ってくるのかという不安も抱いています。

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「僕がこの地域で1番若いくらい。高齢化で、区画整理をして立派な田んぼができたとしても、再び作ろうという人がいないかも。僕1人になっても何もできない」
(町田実さん)

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9月3日、朝倉市は、町田さんの地区の役員を対象に、区画整理に関する説明会を開きました。町田さんも、不安を抱えたまま参加しました。

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市は、同意の取り付けに、市も積極的に関わることや、仮に担い手が限られる場合には農業の法人化も検討すると説明しました。

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豪雨から1年2か月。町田さんは、やっと行政も動きだしたと希望を見いだす反面、将来への不安は消えていません。「市は、区画整理に向けてやる気まんまんだから、それをだめだとは言えないが、自分自身、どうしたいのか、まだわからない。ここで農業を再開できるのが最善だけど、あとは待つ年数がどのくらいになるか。また、それまでの間、どうするかね・・・」(町田実さん)

区画整理をするか、しないか、農家や地権者は選択を迫られています。同意を得るだけでも時間がかかりそうな中、仮に区画整理が決定しても、その後、農地が復活するまでにあと何年かかるのか。また、過疎化が進み、そもそも地元を離れて暮らす住民が多い地域もあり、復旧したあと、新しい農地をどう生かしていくのかも考えていかなくてはなりません。高齢者も多い朝倉の被災農地は、厳しい現実に直面しています。

福岡放送局記者 金知英

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:11時35分 | 固定リンク


2018年09月18日 (火)全盲でも希望は見える ~ある男性と盲導犬の半世紀~


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「かけがえのないパートナー」。視覚障害者から、こう表現されることもある盲導犬。とても賢く、盲導犬の利用者を安全に誘導する姿に思わず感心する人も多いと思います。盲導犬は以前に比べると、よく街でみかけるようになりましたが、実はここ九州では唯一、福岡県糸島市に盲導犬の育成機関=九州盲導犬協会があります。ことしで創立35周年を迎えたこの協会の設立のきっかけとなったある1人の男性がいると聞き、取材に向かいました。

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福岡市の藤井健児さん(86)です。目が全く見えない藤井さんにとって欠かせないパートナーが盲導犬の「ラスク」です。電車に乗るにも外で食事をするにも、いつもラスクと一緒です。

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藤井さんが盲導犬と暮らし始めたのは昭和46年。当時の日本には、まだ盲導犬が少なく、九州では藤井さんが第一号でした。「外国では盲導犬が重要な働きをしている。何はともあれ、盲導犬とあちこち出歩いて、可能性を広げていきたいと願っていました」(藤井健児さん)

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6歳で自転車事故にあい、左目の視力を失った藤井さん。その後遺症で、20歳のときに右目も見えなくなりました。「急に真っ暗闇になって1歩も歩けないような大きなショックを感じました。年齢も20歳。『いまからだ、人生は!』と思っていた時でしたからね・・・」(藤井健児さん)

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藤井さんは、同じような境遇の人たちを励まそうと牧師になりました。しかし、家の中で点字の本を読むことが多く、あまり外には出かけませんでした。そんなときに知ったのが「希望者に盲導犬を譲る」という新聞記事でした。

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藤井さんは、何の迷いもなく、すぐさま手を挙げました。当時40歳になっていましたが「盲導犬と一緒なら自分1人で自由に出かけられる」と希望を抱いたといいます。

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東京で1か月にわたって必要な訓練を受けたあと、藤井さんは福岡で盲導犬と生活を共にし始めました。当初は、盲導犬を知る人が少なく、バスや電車に乗るには事前の申請が必要でした。また、飲食店への入店を拒否されることも多くあったと言います。それでも藤井さんは、1人で出かけられることがうれしかったといいます。「初めのうちは制約がだいぶありました。それでもね、一人歩きができる喜び、自由に歩ける痛快さは、なかなか簡単には、ことばで言い表せないようなものでしたよ!」(藤井健児さん)

『盲導犬と暮らしたい』。そんな声が福岡でも高まり始めました。藤井さんが盲導犬と暮らすようになったことがきっかけでした。藤井さんが盲導犬と暮らし始めてからおよそ10年後の昭和58年、盲導犬を育成して無料で貸し出す、九州盲導犬協会が福岡県糸島市に設立されました。

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協会では、これまでに240頭の盲導犬を育成しています。さらに、盲導犬への理解を呼びかける取り組みも行っています。

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「藤井さんが本当に困難な中を切り開いていただいたのではないかと思っております。そのことを思いながら私どもも努力がこれからも必要だと考えています」(九州盲導犬協会 常務理事 中村博文さん)

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協会も設立されるなど、以前に比べ、盲導犬への理解は広がってきました。しかし、盲導犬と一緒に歩いていても、視覚障害者が駅のホームから転落するなど、事故が無くならないことに、藤井さんは懸念を抱いています。盲導犬を利用している視覚障害者と周りの人たちが、もっとコミュニケーションをとれていれば、事故は防げたのではないかと藤井さんは考えています。

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このため藤井さんは、学校や企業に出向き、コミュニケーションを深めるための活動を積極的に行っています。私が取材した日は、小学校で子どもたちに話をしていました。
「ホームから落ちて亡くなったなんて残念なこともありました。危険な時は『危ないよ』って教えたり、急にでもいいから、手を引っ張るなどしてすぐ声をかけてください」(藤井健児さん)
「困っている人に『大丈夫ですか?』と話しかけてみたりしようと思った」(小4女児)
「目が見えない人のほかにも不自由な人がいたら助けていきたいと思った」(小4男児)

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「ちょっとしたことでも声をかけてもらえることが、障害者の大きな力になる。そのことを子どもたちに知ってもらえるとうれしい」(藤井健児さん)

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取材中、絶えずにこやかな表情を浮かべる藤井さん。しかし、両目を失明した当時は絶望とたたかう日々が続きました。そんな苦しい中で出会ったのが、アメリカの社会福祉活動家、ヘレン・ケラーだったと言います。

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ヘレン・ケラーは生まれてすぐに病気に見まわれ、目が見えず、耳も聞こえず、それによって話すこともできないという3つの障害を抱えながら、世界中の身体障害者を救済する活動に生涯を捧げた女性です。昭和23年に来日した際、藤井さんはヘレン・ケラーに直接会って握手をする機会に恵まれたそうです。この時、彼女の手のひらからみなぎる精神力を感じ取り、自分も強く生きようと心が震えたと言います。境遇や立場、民族や国の違いを越えて、あらゆる人々に希望を与え、前向きな気持ちにさせる力があったというヘレン・ケラーの演説。これに勇気づけられた藤井さんは、その後、牧師になる夢や、盲導犬を持ちたいという希望を実現しました。そして今、藤井さんが語る言葉の一つ一つは、多くの人たちを励ましています。藤井さんにとってのヘレン・ケラーと同じくらい、私も取材を通して、藤井さんの言葉に力をもらいました。そして藤井さんのように自分の人生をあきらめない生き方を見習いたいと強く思いました。

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盲導犬とともにどんな困難にも立ち向かってきた藤井さん。その姿は多くの人に勇気を与えるだけでなく、優しい社会に続く道しるべとなっています。


【取材後記】
私が藤井さんから伺った盲導犬のエピソードをもう1つ。ある日、藤井さんは盲導犬を連れて歩いていました。段差でも、曲がり角でもない平坦ないつもの散歩道で盲導犬がいきなり止まって動かなくなったというのです。藤井さんは、不思議に思って耳を澄ませました。「助けて・・・」。小さくて、か細い女性の声が聞こえたそうです。実はこの時、近くに女性が倒れていたのです。盲導犬が足を止めたおかげで藤井さんは女性に気づき、救急隊を呼ぶことが出来ました。本来、盲導犬は訓練で様々な障害物を避けて歩くよう教え込まれています。人が倒れていても、避けて歩いてもおかしくないのです。しかし、藤井さんの盲導犬は止まって動きませんでした。なぜ、盲導犬は足を止めたのか?藤井さんは牧師として様々な人たちを励ます活動に力を注いでいました。「困っている人を救いたい」という気持ちが、いつも行動を共にしていた盲導犬に伝わったのではないかと藤井さんは言います。「人と犬でさえも、互いに信頼し合い、しっかり向き合っていれば、心の絆で固く結ばれ、実にすばらしい協同作業をつくり上げることができます。まして人間どうしでそれができないはずがありません。争いごとのない、平和で幸せな世界が実現すると確信しています」。藤井さんは私にこう語りかけてくれました。私は、藤井さんが語るからこそ深みを増す言葉の一つ一つに、ただただ圧倒されました。

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”全盲でも希望は見える”。九州初の盲導犬協会設立のきっかけを知りたくて始めた今回の取材でしたが、藤井さんが紡ぐ重みのある言葉のすべてから、人としての生き方、人として忘れてはいけないことなど本当に多くのことを、学ばせてもらった取材となりました。

福岡放送局リポーター 水越理恵

【追伸:街で盲導犬を見かけたら】
(1) ハーネスは仕事中の証
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盲導犬の背中に取り付けられている金具のことを「ハーネス」と言います。視覚障害者がハーネスをつかんで歩いている時、盲導犬はご主人を安全に誘導しようと集中しています。盲導犬に話しかけたり触れたりしてはいけません。

(2) 遠慮せずに声かけを
盲導犬を利用している視覚障害者の方にはいつ声をかけても大丈夫です。信号などで止まっている時、盲導犬は信号の色を識別して止まっているわけではありません。盲導犬はわずかでも段差があると止まるように訓練されています。このため、交差点では歩道と車道のわずかな段差を確認して止まっているのです。青信号なのか赤信号なのか判断するのは視覚障害者です。車が風を切る音など耳を澄ませて横断歩道を渡るか判断しています。これは非常に不安が大きいため、特に横断歩道では「いま、青信号になりましたよ」などと、なるべく声をかけてあげてください。

(3)危ない時は
横断歩道や駅のホームなどで視覚障害者が危険な時は・・・。
×「あぶない!」
○「そこの盲導犬の人!あぶない」
単に「あぶない」では、誰があぶないのかわからないということです。失礼にはあたらないので、「そこの盲導犬の人!あぶない」というように、誰が危険なのか分かるように声をかけてください。

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:10時53分 | 固定リンク


2018年09月05日 (水)死刑執行まで28時間


太平洋戦争中、上官の命令で捕虜のアメリカ兵の処刑に加わり、終戦後、BC級戦犯として絞首刑となった男性がいます。男性は死刑執行までのわずか28時間の間に遺書を残しました。遺書には平和への願い、そして、子どもたちを残していく無念が記されていました。

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昭和25年に処刑されたBC級戦犯の遺書です。22枚に及んでいます。

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書いたのは旧日本海軍の一等兵曹だった藤中松雄さん。藤中さんは、沖縄県石垣島の部隊にいた昭和20年4月、アメリカのB29爆撃機の搭乗員の処刑に加わったとしてBC級戦犯になりました。軍では、上官の命令は絶対でした。

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巣鴨プリズンに収監された藤中さんには故郷に残した2人の子どもがいました。
(左・長男の孝一さん、右・次男の孝幸さん)

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2人は今も、福岡県嘉麻市で暮らしています。孝一さんは76歳、
孝幸さんは71歳になっていました。父が収監された時、5歳だった兄の孝一さんでさえ、父の記憶はほとんどないといいます。「どんな人って、面影がないですね。私が小さかったけん。お父さんのぬくもりが全然なかったですもんね。私の子ども時代」(長男・孝一さん)

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藤中さんが絞首刑となったのは昭和25年4月7日。28時間前、4月5日の午後8時30分頃から書き始めた遺書には家族への思いが記されていました「“別れ”なんと悲しい事でせう。赤ん坊でさえ、別れていく真似をして見せると必死になって嫌々をします。まして、永遠の死別であって見れば言語に絶することです」


遺書には、父のぬくもりを知らない2人が、父の愛情を感じるという一節があります。最後に食べたいものを尋ねられ、りんごを頼んだというくだりです。「私は食べたくはありませんが、2人の子供に父として最後の愛情を注ぐ一片にでもなればと思いお願ひした訳です」。(死刑執行13時間前の午前11時30分)

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「父親らしいことをしてなかったから、そういうことを思ったんやないかと思います。兄貴と私のことを思いながら死んでいった親父の辛さを思い出して、あれを読むたんびに涙してましたね」。(次男・孝幸さん)

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藤中さんは、子どもたちに、最後のことばを残します。「『父はなぜ死んでゆかねばならないか』そうした結果をもたらした原因は何でありましょうか。それは全世界人類がこぞって嫌う、いまいましい戦争なのです。孝一、孝幸ちゃんに願ってやまないことは、いかなることがあっても『戦争絶対反対』を命のある限り、そして子にも孫にも叫んでいただくとともに、全人類がこぞって願う『世界永遠の平和』のために貢献していただきたい」。
(死刑執行6時間前の午後6時30分頃)

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藤中さんは、3年にわたる獄中生活で、いつもふるさとの川を懐かしんでいたといいます。遺書の最後は、家族を思う辞世の句で締めくくられていました。「草枕 旅ゆく今宵妻子らは 筑前果てに寝てあらむか」(死刑執行3時間前・午後9時25分)

「戦争さえなかったらこんなことはなかったはずです。自分たちも親父と一緒に生活もできたやろうと思うし、絶対戦争は二度としてはいかんと言う気持ちで今いっぱいですね」(次男・孝幸さん)

【取材後記】
28時間後に死が迫るなかで藤中さんが訴えたのは、戦争の絶対反対と世界永遠の平和でした。「今となって、上官の命令云々などと言う時間の余裕がありません」と綴った藤中さん。自分を死に追いやった原因はただひとつ、戦争だと言い切ります。死を目前にした29歳の若者が最後まで極めて冷静に言葉を綴っていたことに、私は胸を打たれました。藤中さんの心からの願いは、戦後何年が経過しようとも、私たちがこの先も問い続けなければならないことだと感じました。

福岡放送局記者 陶山美絵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:14時02分 | 固定リンク


2018年09月05日 (水)"獄中記" その問いかけとは?


戦時中、捕虜の虐待などに関わったとされた、いわゆるBC級戦犯。絞首刑を言い渡された元死刑囚が獄中で記した3000ページにわたる膨大な手記が、福岡市で見つかりました。死を覚悟してつづった手記には、戦争に翻弄されたみずからへの戒めのことばがつづられていました。

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BC級戦犯の新たな獄中記は、ことし5月に見つかりました。収監された東京の巣鴨プリズンにちなみ「巣鴨日記」と題された手記は、昭和21年8月から27年10月までの6年間に書かれたもので、およそ3000ページにわたります。判決を言い渡された日の記述には「絞首刑!。これが私に與へられた判決である。深い海の底にしんしんと沈む様な思ひがした」と記されていました。

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手記を書いたのは、元陸軍主計大尉の冬至堅太郎さんです。冬至さんは福岡市で、捕虜のアメリカ兵の処刑に加わったとしてBC級戦犯となりました。冬至さんの孫の竜介さんが、福岡市内の自宅にあった資料を読み返したところ、獄中でつづった日記だと気づいたといいます。竜介さんは「生きて出られなかったときに、自分がどういうことを考えて死んでいったかを遺族に伝えたかったんだと思います」と私に話してくれました。

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なぜ冬至さんはBC級戦犯として罪に問われたのか。昭和20年6月19日、福岡のまちをアメリカのB29爆撃機が襲いました。いわゆる福岡大空襲です。この空襲で1000人以上が犠牲になりました。冬至さんの母、ウタさんも、この空襲で亡くなりました。母のなきがらと対面した直後、火葬の準備に向かう道すがら、冬至さんは、B29の搭乗員の処刑の現場に遭遇します。母の死への怒りにまかせ、その場の雰囲気のなか、軍刀で4人を手にかけました。

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「その場面に出くわさなければ、あるいは1日か2日たっていれば、そういう行動には出なかったんじゃないかなと思います。早まったことをしたと思っていたんじゃないかと思います」(孫・竜介さん)

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冬至さん自身も手記のなかで自省しています。「不幸は不幸を呼ぶということわざがあります。母の死は第二の不幸を起こしました。こんな言い方を許してください。私は責任を十二分に感じています」

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一方で、昭和23年12月に絞首刑を言い渡され死を覚悟したあとは、手記の内容が次第に変化していきます。手記には「戦争犯罪人は、自分の自覚も意志もなく、行った行為に対して死を与へられる」とか、「人間は運命と云ふものに従順でなければならない。静かにこれを抱いてその苦しみに身を委ねておれるのもその故である」など、現実を受け止めようとするものになっていきました。

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死刑囚として過ごして1年半。冬至さんをめぐる環境が一変します。朝鮮戦争が始まるなか終身刑に減刑となったのです。そして昭和31年に出所しました。10年に及ぶ獄中生活を経て家族の待つ福岡に戻った冬至さんが、昭和58年に68歳で亡くなるまで、自宅に置いていたものがあります。手にかけたアメリカ兵の数と同じ4体の地蔵です。毎日のように祈りをささげていたといいます。「処刑した相手に対して申し訳ないという気持ちがあったんじゃないでしょうか」(孫・竜介さん)

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冬至さんは、巣鴨プリズンで過ごした10年間に、あわせて26人の死刑囚を見送りました。

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「万一減刑になったら100まで生きて人のために尽くしたい」と記した冬至さん。その後、東京に「愛の像」を建立します。男性が天に向かって何かを祈っているかのようなブロンズ像です。これは冬至さんが、死刑囚の遺書を集めた本を出版した収益で建てたもので、今もJR東京駅の丸の内側の駅前広場にたたずんでいます。2度と犠牲を繰り返さないでほしいという深い願いが込められています。

【取材を終えて】
死刑囚としてみずからの運命と向き合い続けた冬至さんは手記にこう書き残しています。「日本人は自分自身で考へるといふ大切なことに欠けている。どんな人の言葉も盲信してもいけないし、頭から否定してもいけない。必ず、自分でよく味わひ、吟味しなくてはならないのだ」。私たちはどう生きるべきか。獄中記は、戦後70年以上がたった今なお、私たちが生きるうえで、問い続けなければならないことを教えてくれているように感じました。

福岡放送局記者 陶山美絵

投稿者:ロクいちスタッフ | 投稿時間:13時53分 | 固定リンク


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