243:例えばこんな考え方
名前:ひろぽん 日時: 2003/02/11 00:35:26
ひきこもりを社会のせい、家のせいというのは
簡単だと僕は以前ここで述べました。
ただ、僕がそう思えるようになるまでには、
当然、長い精神的な道程があったわけで、
不思議な人生になってしまったさんがおっしゃって
いたように、自己と「普通の他者」との
距離感というものがどこから生まれ、その
「差異」が何なのかを、明確に自分なりに把握
する必要がどうしてもありました。
そのためにはきっかけが必要で、それが僕の
場合は「都心への就職」でした。
4月に新卒として入社して、11月に会社が
傾きかけた時に辞職するまでの7ヶ月は、
僕にとって想像を絶する臨界体験でした。
生まれたばかりの赤ん坊が、いきなり大人扱いを
されるその恐怖は計り知れないものがありました。
その中で僕がいかにプロセスを抜かし、
空白の時間を過ごしてきたかという、徹底的
な敗北感を味わいました。
僕にとってその差異は、「経済格差(貧乏人)」であり、
「地域格差(田舎者)」であり、
「情報格差(世間知らず)」であり、「家庭環境の差
(父親は下半身付随、両親は離婚)」であり、
「経験の差(ひきこもり、恋愛経験ゼロ)」でした。
きれい事抜きで、本音を話しますが、
僕は日本社会がひきこもりを生み出したという
文脈が存在するならば、その原因は、
「建前上の平等」、「建前上の普通」という概念が、
実際に存在する社会的な弱者、強者を傷つけ、
それを隠れ蓑にしてうまい汁を吸っている
「真の強者」が存在しているということに尽きる
と思います。
「経済成長」により、みんなが豊かになった。
みんなが普通に右肩上がりに生活水準が
向上した。そんなことはありえないです。
実際には、高度経済成長というのは、僕は、
「平等」から、「不平等」への転換期だったと
考えます。しかし、日本社会は差異を隠蔽
することにより、国民的一体感を高め、
その不平等があたかも存在しないかのように
振舞ってきました。
それが多様化を認めない教育であり、組織であり、
自由の利かない官僚主導の社会主義日本
だったと考えます。
「人は不平等だ」と、「人は多様なものだ」と
はっきりいえない社会の文脈が、存在しない
「普通の人像」を構築し、実際には優れた才能
を持った人や、社会的弱者、といった異質と
される人たちを差別する結果となったのでは
ないでしょうか。
だからこそ、言ってほしい。
「人は不平等だ。」と。
「人は多様な個性を持っている。」と。
生半可な平等幻想でお互いを妬みの視線で
監視しあうのはもうたくさんだ。
きれい事ではない本気の絶望からこそ、希望は
生まれると思います。 |