12月13日(日)放送
シリーズ日本と朝鮮半島2000年 第9回 朝鮮通信使 〜和解のために〜

写真・左:韓国国立国楽院で行われた朝鮮通信使の音楽の再現のようす
(リポーター・チョンウォルソン(田月仙)さん
写真・右:釜山での朝鮮通信使行列の再現

写真:山口・上関町に残されている朝鮮通信使上関来航図(超専寺蔵)

 

豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役、朝鮮側では壬辰倭乱・丁酉倭乱)で、断絶した日本―朝鮮関係。しかし江戸時代には一転して、親密な関係が築かれることになる。そこに大きな役割を果たしたのが「朝鮮通信使」である。
「善隣友好、誠心交隣」(互いに欺かず、争わず、信を通じて交わる)を理念に、五百人もの使節団が、首都・漢城から江戸までの3000キロを海と陸路で9ヶ月かけて旅をした。江戸時代を通じて12回にわたり日本を訪れ、さまざまなレベルでの交流を進めた。
朝鮮通信使は、最初「回答兼刷還使」と呼ばれていた。秀吉の朝鮮侵略で日本へ連行された朝鮮半島の人々(被虜人)を本国に連れ帰る「戦後処理」の目的を持っていた。しかしやがてそれは「親善友好」の使節へと変わっていく。
数十万とも言われる犠牲者を出し、首都・漢城をはじめ国土が灰じんに帰した朝鮮は、なぜ恩しゅうを超えて日本との国交に踏み切ったのか、そこに何を求めたのかー。最近の韓国側の研究から、朝鮮王朝内での対日外交をめぐる議論、朝鮮通信使派遣をめぐる“逡巡(しゅんじゅん)と決断”のプロセスが明らかになってきた。
不信を乗り越え、対等な外交関係を築き上げた「朝鮮通信使」。その背後で奔走した朝鮮王朝・江戸幕府、両国関係者の知られざる努力と決断のプロセスを日韓の最新研究を元に明らかにし、「朝鮮通信使」が残した足跡をたどる。

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