2011年9月18日(日) 夜10時
10月22日(土)総合 午前1時20分 再放送
2012年1月1日(日) 午前0時20分(土曜深夜)再放送
≪科学ジャーナリスト賞 2012大賞≫
シリーズ 原発事故への道程
前編 置き去りにされた慎重論
広大な大地を不毛の地に変え、人々を放射能被ばくの恐怖に陥れている福島第一原発事故。世界で初めての多重炉心溶融事故だった。原子力発電の安全性神話は、たった一度の“想定外”の地震・津波によりもろくも崩れ去った。なぜ福島原発事故は起きてしまったのか。事故原因の直接的な究明とともに今必要なのは、歴史的な視点で安全神話形成の過程を見直すことである。
私たちはある資料を入手した。『原子力政策研究会』の録音テープ。1980年代から90年代にかけて、我が国の原子力発電を支えてきた研究者、官僚、電力業界の重鎮たちが内輪だけの会合を重ね、原発政策の過去と行く末の議論をしていたのだ。議事は非公開と決めていたため、当事者たちの本音が語られている。さらに、生存する関係者も福島原発事故の反省を込めて、今その内幕を率直に証言し始めた。
この資料と証言をもとに、福島原発事故までの歩みを2回シリーズで徹底的に振り返る。前編は、原子力発電所の我が国への導入を決めた1950~70年代前半のれい明期をみる。当初は安全性の不確かな未知のテクノロジーを地震大国に立地することへの疑問など慎重論が主流であった。しかし米ソ冷戦の論理、そして戦後の経済復興の原理によって強引に原発導入が決まっていった。太平洋戦争に石油などの資源不足で敗北した過去や、世界で唯一の被爆国という過去を背負った日本が、原発建設に至るまでの道のりで「経済性追求」と「安全性確保」の矛盾を抱えていった過程を検証する。
- 1958年、アメリカの原子炉メーカーGE、ゼネラルエレクトリック社は、日本の各電力会社の若手社員をアメリカに招待。参加した若手社員は、帰国後、各社で原発導入の中心的役割を果たした。
- 元東京電力社員で福島第一原発の建設に関わった、豊田正敏さん。GE社の原子炉が採用された理由は「経済性の高さだった」と証言。「GEは、スペインで同型の炉を受注しており、同じ炉なら安価になると説明した」という。
- 元原子力安全委員長の佐藤一男さん。在任中、「産業界、官界、学界のトップには、国民に余計な不安を抱かせるので、安全研究が必要だなんて言うなという風潮があった」と証言。「言いたいことの10分の1も言えなかった」という。
- 1954年、読売新聞は原子力発電の将来性を紹介する連載記事「ついに太陽をとらえた」をスタート。元科学技術庁職員で、後に原子力委員も務めた島村武久氏のテープ証言によると、その後に始まる原子力の平和利用博覧会と共に、国民に原子力の平和利用を印象づける大きな役割を果たしたという。
- 東海発電所に先立ち導入された研究炉JRR-1。元原子力研究所職員の神原豊三氏のテープの証言によると、運転開始直後からさまざまなトラブルが続出。現場の技術者が、手探りで解決していかなければならなかったという。