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山岳・水中カメラマン日記

自然をこよなく愛するNHKカメラマンの取材記です。執筆メンバーは、NHKが誇る山岳班・潜水班の面々です。

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2015年05月11日 (月)

昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?

NHK甲府放送局、山岳カメラマンの米山悟です。
車で山奥の景勝地や登山口に向かうとき、なんでこんな山奥に人が住んでいるのだろう、と思う事はありませんか?買い物に不便、通学に不便、大雪や台風で孤立、と良い事が全然無い。現代都市部の暮らししか知らない大多数の人から見れば、そんな風に思えるはずです。実際若い人は出て行ってしまい、住んでいるのはだいたい昭和も戦前生まれまでのお年寄りばかりです。

山梨県早川町茂倉(もぐら)の集落
山梨県早川町茂倉(もぐら)の集落

中学の頃から山登りを続けてきた私が、山梨県に住んで3年たち、いま一番惹かれているのは、山越えして山間集落へ下りるという山歩きです。車を使わず、駅やバスの終点から山まで足で歩き、山越えをして山向こうの集落へ下り、さらに町まで歩きます。マイカーが普及する前までは当たり前だった登り方ですが、今は流行りません。それにバス路線も昔より減りました。山登り自体は流行っていますが、少ない休日を目一杯山に当てるため、車でギリギリまで進める人が多いと思います。でも山麓を歩けば、人々の暮らしぶりや、古くから残る石碑、古民家、石垣などの佇まいを味わい、地図を見ながらその集落の地形的な必然性を考えたり、住人と声を交わして長話をする事もあります。

地名も素敵です。というか素敵な地名の集落を通る計画を作ります。甲府盆地の北の山あいには戦国時代由来の赤芝(あかしば/血に染まった所)、切差(きっさつ/切ったり刺したり)、生捕(いけどり/意味そのまま)なんて名前の集落が続く谷もあります。武田信玄の数代前にあった戦の時の名残の地名だと云われています。

早川町新倉の民家。一階より二階がせり出している。
早川町新倉の民家。一階より二階がせり出している。
南アルプスの甲府盆地よりの一列は、2000メートルに満たない低い山脈で、巨摩(こま)山地と呼ばれています。
この三月、その山を富士川から早川の谷へ山越えしました。山から下りて訪れた行き止まりの集落、茂倉(もぐら)は、谷底から数百メートル上の中腹、わずかに傾斜が緩まったところにある、数十軒だけの15世紀から続く集落です。この辺りの集落では、狭い平地に所狭しと家が建っています。一階より二階のほうがせり出した造りの家が多く、路地が入り組み、坂が多く、とても素敵な所です。
昔ネパール・ヒマラヤの山奥を旅したとき、こんな集落を辿って歩きました。茂倉は、南米のマチュピチュに例えられることもあるところです。

三叉路で話し込んでいたお婆さん3人に山越えして来た事を伝えると、「道どうだった」「荒れてなかったか」と皆、その道にとても詳しい。廃道寸前で、崖崩れで不明瞭な所もある道なので、今はここを通る人はほとんどいません。でも車の無かった時代には、その道が鉄道駅への近道だったのだから皆よく知っていました。もとは林業が盛んだった集落です。凄く立派な柱と梁の古い家に招かれて、お茶と漬物をごちそうになりました。林業の話、昔あった鉱山の話、杉林の中にあったたくさんの石垣は麦を作っていた段々畑だった話、片道5キロ標高差500メートルの道を下の小学校まで毎日歩いて通った話、どうせ行くならと毎日麦を背負って学校に通った話、ずっと続けてきた地域のお祭りも数年前に年寄りばかりになったので集まるだけになった話。いろいろな話を聞きました。

赤芝の庚申塚のある三叉路 山梨市牧丘赤芝の庚申塚のある三叉路

150501_004.jpg 早川町茂倉の細い坂道

なぜお婆さんたちのご先祖は、代々ここで暮らしていたのか? それは戦乱で日本が貧しく、インフラが未熟だった時代(間近では昭和20年代)には、都市に住んでいるよりも、山あいに住んだ方が、清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入り、生きやすかったからです。こうした集落の多くは平家の落人、戦国時代起源の伝説を持ち、新しいところでは敗戦直後の満洲帰還者の戦後開拓として始まった所が多いのです。先のお婆さんも、戦後の飢餓の時代も麦があったから食べ物には困らなかったと言っていました。彼らは自分の事は自分で出来る、お金に頼らず生きて行ける力を持つ、逞しい知恵と力の持ち主です。食べ物を収穫し、うまく保存し、炭を作り、製材をする。先行きの見えない今の時代、人が最も必要とする確かなものではないかな、と思うのです。

現代人は山里を不便なところと思いこんでいますが、身一つで住み着いて生き延びられる所は、本来平野部や盆地の中央ではなく、山裾だったのだと思います。平野部の江戸、名古屋、大阪の都市は、治水と流通が整備された太平の17世紀以降に初めて都市化が可能になった場所です。山歩きを通してそんなことに気が付きました。

 

身延町平須の養蚕伝統建築の民家
身延町平須の養蚕伝統建築の民家

山あいでも、何百年も前から家がある所に土砂崩れは来ません。崩れるのは途中の、無理して作った自動車道路です。大雪や土砂崩れで孤立しても、毎日車で行き来する必要がある人以外は困りません。都市の人と違って自立して生きているから生命の危険は特に無いのです。逆に都市部の住民は、車社会になる前には、誰でも当たり前に出来ていた事が、出来なくなりました。電気が止まればトイレにも困り、食べ物を手に入れる方法もわかりません。

日本は平和が70年続いて、最後の貧困時代を生きた人たちがいま、山あいの集落で暮らしています。この美しい風景が見られて、お年寄りたちの「昔の日本人の記憶」を聞けるのもあと十年ほどかもしれないと思っています。

▼米山カメラマンのブログ記事▼
「山と自由」 ~17歳のきみに伝えたいこと~(2016年03月11日)
その道、その橋、その町は、なぜそこにあるのか?(2015年07月30日)
高倉健さんが敬礼した野生の人智(2014年12月24日)
山でするフンは、大自然へのお返しもの(2014年07月22日)
地下足袋の山登り(2013年11月19日)
富士山が教えてくれる、「なぜ人は山に...」(2013年07月05日)
雪を知るイグルー、雪に眠る喜び。(2013年03月13日)
山岳カメラマンの新境地「つぶやき撮影法」(2013年02月14日)
山岳カメラマンの脳内地図(2010年08月02日)

コメント(56)

山と里を歩かれての詳細なレポート興味深く拝読しました。写真も印象的でした。豊かな自立した暮らしの知恵をぜひまたレポートしてください。

投稿日時:2015年05月12日 18:10 | 恩田真砂美

和歌山大学で地域研究をしています。コラム,非常に共感しました。私は,森林生態学の立場から地元である熊野の山中を徘徊する研究を行う中,なんで,こんな山奥に?・・という集落,廃村を多く見て来ました。気になって,社会環境まで調べることになりました。それは,人間活動が自然(植生)に大きく影響するからです。そして,いろいろ調べている中で,熊野の山間部集落の「最初の一人」は,おそらく,鉱物関係ではなかったのか,と考えるようになりました。
こんな「わき道」の研究が地元で受けてしまい,5/12に朝のNHK全国放送で,その研究の一部を紹介してもらいました(もともとは,関西枠で製作されたもの)。なんと妖怪研究です。民間伝承には昔の自然,社会の姿が込められてることがあることがあり,それを調べていたら・・ということからです。また,これも,派生成果ですが,集落よりも先に滅んだ社会要素として「学校」にも興味が湧き,4月末に『熊野の廃校』という本を発刊しました。1600カ所ほどの学校設置実績のある場所を訪問した結果をまとめたものです。
関係ない話ばかりで申し訳ありませんでしたが,コラム,非常に興味深く,共感しましたので,コメントを投稿させていただきました。

投稿日時:2015年05月13日 06:52 | 中島敦司

すばらしいレポートをありがとうございます。自分でも体験してみようとおもいます。人間力をためされる時代に再突入してゆくのかも知れないこのご時勢。実感出来る何かを自身に備えるのが、また当たり前になるのかもしれませんね。

投稿日時:2015年05月13日 08:17 | kazz

全く共感します!

投稿日時:2015年05月13日 12:03 | 林としあき

この記事では触れてないが、内戦の被害を受けにくいのも大きい。(政変に巻き込まれないのは死活問題。)

投稿日時:2015年05月13日 15:58 | Yoshiciv

自動車に乗っているとすぐに流れていってしまう景色のなかに、こんなにも歴史や文化があるのだと改めて気付かされた。こんな山歩き、してみたいなぁ。

投稿日時:2015年05月13日 18:36 | 紫陽花

「山あいに住んだ方が、清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入り、生きやすかったからです。」水利権を巡って隣村と殺し合いまでした話、口減らしの子殺しや姥捨て、等々聞いたことはございませんでしたか。今後は山歩きの際は、地蔵像がどれだけあるか注意されると新しい発見があると思いますよ。

投稿日時:2015年05月13日 21:00 | 田無

家の造りがほんとうに美しい。古い美しい家を観ているとこころが落ち着きます。山村の豊かさ。素敵な視点ですね。読んでいて、懐かしいというか、素朴な、暖かさのようなものを感いることが出来ました。ありがとうございます。

投稿日時:2015年05月13日 21:33 | 小林和之

我が家は江戸時代の有明海干拓に入植した記録以来、同じ場所で米を作ってきた農家です。バス停もない、所謂、「不便な」土地に住んでおります。
 理路整然としたコメントは書けませんが、同居の夫の父はかねがね、(都会の住人の誰からも頼まれた訳でもないのに(笑))この国に何かの異変が起こって、街で暮らす住人が食糧難に陥ったときには、このわしらの田舎がそれら難民?を引き受けるのだ、という気概を持っています。それが、地方に住む人間の、孤高、だと思います。

投稿日時:2015年05月13日 21:40 | 藤吉佳美

前文に書きもらしたことがありました。
そうです、我が家の7代前のご先祖さまが入植と同時に建てた家、現代は作り替えられましたが、同じ場所、本来、低いはずの干拓地ですが、どんな大水害にも(昭和28年に筑後川の氾濫による大規模な水害が発生した記録がありますが)我が家に水が入ったことは1度もなく、それが、先祖伝来の誇りとなっています。

投稿日時:2015年05月13日 21:46 | 藤吉佳美

なぜ山あいの集落があるのか、とてもわかりやすくお話ししていただき、感激です!
茂倉に一番近い小学校に勤めています。

投稿日時:2015年05月13日 22:41 | 一瀬純司

なんだか身につまされる内容でした。
私の生きる力はどの程度なんだろう。エコロジーが言われて久しいけれど、都市部のそれのなんと上っ面なことか。
でも、その中庸を模索することも大事な気もします。都市部の全てを否定するのも違うと思うので。
とにかく素敵な記事でした!

投稿日時:2015年05月13日 22:45 | りす

素敵な発信、有り難う御座いました。
私は、故あって、故郷である名古屋におけるモロモロを断捨離して、単身、福島にきております。
福島に当面の宿を定めるまで、半年ほど、東北各地を訪ねました。
そして、おっしゃいますような原・日本的世界の再発見の日々を、今日に至るまで過ごしております。
なお、念のために申し上げますが、原発の問題については短い文脈では語れませんのでここでは言及いたしません。
ただいかなる党派、グループにも所属しない単独者であることだけ申し上げておきます。
とにかくこの島の常民…常世の民の素晴らしさに、時には泣く思いをしております!!
福島となづけられた大地は全県の大体を見て歩きましたが…日本に桃源郷あり!!その里の名を福島という!!…と心の底から叫びたい気持ちでおります。\(^o^)/
偶然にこのブログに出会い、記者さんの優しい眼差しと賢明な分析とに心打たれましたのでついメール差し上げたくなりました。
自己紹介も省いたまま、急こしらえの、推敲もなにもないお目汚しの通信にて失礼致しました。

投稿日時:2015年05月13日 23:35 | 林 澤ー(さわいち)

早川の流域から安倍川の有東木沢へも山を越えて、人々が行き来したと聞いています。
砂防や治山工事の人夫さん達が、仕事を終えてから夜道を歩いて、早川筋へ飲みに出掛けて明け方に安倍川筋に帰ってたとか。昔の人々が強健さに関心しました。

投稿日時:2015年05月13日 23:42 | ぶるー

おもしろい話、興味深く読みました。

投稿日時:2015年05月14日 00:43 | みか

昔の人は不便だと感じていたのか?今の人の目・価値観で見ていてもその本質は判らない。
今の何でもある暮らしを経験した人から見れば昔は不便でしょうが、電気も水道も経験していない人たちに取っては、いろりで煮炊きをしたり、ランプで明かりをとったり、井戸や水汲みに行くことはことが、大変だっただろうけど当たり前だった分けです。自給自足と云う面では、その場所のほうが生き安かったと言うことでもあるでしょう。
不便を受け入れていると言うより当たり前の日常。不便と言うのは、当たり前の日常がなくなったときに、初めて経験するのもなのだと思います。

投稿日時:2015年05月14日 06:30 | ざりがにさんかえるさん

記事にあるように私の住んでいる九州でも車で走ると、街に出るのに数時間もかかる田舎があります。そして、良くこんな所で生活していけるな、現代人のようにどこでもコンビニの生活に慣れた今では住めなくなるよな、と思ってしまいます。ここで生まれ育ったお婆ちゃんは東京とか知らずに・・とかも思ってしまいます。それが不幸とはおもいませんが。素敵なレポート、感謝します。

投稿日時:2015年05月14日 08:25 | 仁太

私は東京から新潟県十日町のある集落へ移住して暮らしていますが、この集落は今でも養蚕をしています。
今でも電気コタツは使わない家や山の水道を使う人が沢山います。
『昔の日本人の記憶』を今でも当たり前のように暮らしている地域です。絶滅危惧種の生き物は当たり前のようにいて、まるで童謡の中の世界に住んでいるようです。
そんな地域があることを知って欲しくてコメントさせていただきました。
山間へフォーカスしてくださるカメラマンがいらっしゃることを知って嬉しく思います。

投稿日時:2015年05月14日 08:50 | ixon

素晴らしいお話し有難うございます。
私は阿蘇山の外輪山の生れですが、外輪山を越えて外の世界につながる道が残っていたり、すでに通れなくなっていたりしているのを何か所か知っています。そういった場所では昔は山を越えて阿蘇の温泉に長逗留、自炊して湯治に行ったりしたという話を聞きます。
『点』としての話は時代が過ぎると忘れ去られてしまうようで悲しいのですが、今ならまだ話を残すことが出来るのかもしれません。
そういった視点で番組を作っていただければとても有難いと思った次第です。皆様のご活躍に期待しています。

投稿日時:2015年05月14日 08:51 | 帆足秀樹

飲水が有って、獣や盗賊や戦乱から身を守れる場所といえば、それは山奥の谷間や、河岸段丘の洞窟などしか無かった。江戸時代以降は農業用水や水道が次々に開発され、治安も改善されて、初めて人々が平地に住めるようになりました。

投稿日時:2015年05月14日 09:13 | OWL

おおむね共感です。ただ、
>山あいでも、何百年も前から家がある所に土砂崩れは来ません。
これは確率の話で、千年、万年クラスの災害も起こりえます。災害の際にはその時その時で、しっかり判断する事も重要ですよね。

投稿日時:2015年05月14日 09:20 | 香川

この前、大佐渡山脈を東側から入り西の海辺の集落に抜けたとき、同じような感慨がありました。たいへん歩きやすい合理的な道形で集落の入り口にある八重桜が微風で少しずつ散っていたのが印象的でした。

投稿日時:2015年05月14日 10:15 | 山田 亘

そこに人が住んでいるなら、そこはかつては豊かだったと考えればよいと思います。
網野善彦さんが、能登を調査して、そこは水呑百姓が多いけれども、実は、そうした人達の大部分は、北前船の船頭たちや北前船の商人たちだったことを発見されました。北前船が活況だった頃、能登は豊かな地域だったのだろうと思います。
しかし、明治半ばくらいから、北前船が廃れたために、能登は貧しくなっていきました。でも生まれ育った地域は離れられませんから、人々は低下した経済力の能登にそのまま残り、能登は経済力に比べて人口過剰の時代が数十年単位で続いてきました。それを我々が見て、能登は貧しいから、昔も貧しかったのだろう、なぜそんなところに人が住んでたのだろうと思うわけです。それは過渡期だと考えればよいと思います。
山村も、江戸時代〜戦後まもなくまでは、手工業製品の原材料の大半は、山間部で切り出された様々な種類の木材などでしたし、燃料としての薪炭類は、極めて重要なエネルギー源でした。その経済的な価値は、そうした原材料の加工や出荷の基地となってた山裾の町々が栄えていたことからもわかります。
ですから、山村に人が住んでいたのはむしろ当然だったのです。経済的に豊かだったからです。しかし、それが、さまざまな道具や製品が金属製品に転換し、燃料が石油やガスに転換するにしたがって、山村の原材料は売れなくなり、その時点から、山村は貧しくなっていきました。それを我々がみてこんな貧しい山村になぜ人が住んでいると思うのです。
しかし、それは、経済力が落ちても、人が生まれ育った地域を離れられないからです。山村の人口が、新しい低下した経済力や環境に見合った規模に縮小するまでには少なくとも数十年の時間がかかります。その間、山村は、貧しいところというイメージで見られるというわけす。

投稿日時:2015年05月14日 10:22 | KitaAlps

人間一人の人生では読み取れない地域の潜在能力や許容量、いろんなカタチでカントリーコード(地名や慣習等)として残されているのですね。
固有の妖怪やモノノケの話は、地域の人は正体が実はわかっていて、よそ者が荒らさないように語り継ぐと聞いたことがあります。ゆえに裏山は、その時代のコンビニですから、万引きされたくないですからね。
江戸時代とか更に古い時代、時間のモノサシを変えれば、新鮮な物や情報はどこからやってくるかといえば、必ずしも平地ではない。そう考えていくと…

投稿日時:2015年05月14日 11:32 | masa-8940

感動しました。合理化、物欲にばかり目を向けたら、本当の幸せを見失います。

投稿日時:2015年05月14日 11:44 | 福田忠雄

子供の頃からフシギだった謎がすっきり理解出来ました。
有難うございます!

投稿日時:2015年05月14日 13:22 | motoyoshi-Y

都会のいいところは、誰も私を知らないことかも。
田舎は人数が限られている分、プライバシーと言うものが存在しない。
生まれた時から今日まで、今、どこで誰が何をしているのかまですっかり、一から十まで知られている。
もし、その拘束力や束縛感に気が付いたなら、人は都会を求めるのかもしれないとも思う。
食べ物や飲み物が、場合によっては手に入らなかったとしても
自由の方が、人によっては求めなきゃいけないものだったりするのかも知れません。
一概には言えない・・なんでもそうだろうけど、、、田舎は確かに憧れでもあるけれど、価値も認める。そうであったとしてもやっぱり“イヤ”って事も、あるんだろうなと、思ってしまいました。

投稿日時:2015年05月14日 13:23 | 佐藤和也

地域活性化事業の仕事で東北の地方都市に住んだ経験のある者ですが、記事の内容が非常に薄すぎます。私のいた地域とは違うのかもしれませんが、こういった山村地域では大きな差が見られない真実のポイントが抜けていて説得力がありません。
住んでた地域にも、このような山村地域がたくさんありました。記事にあるように、都会生活には無いプラスの面もありますが、マイナス面もたくさんあります。その事実を伏せて、「便利でも住みにくい都会 vs 少々不便でも住み心地のいい田舎」という一般イメージ論のみで語るのは、実に浅はかです。
マイナス例の典型が、医療問題。近所にかかりつけの医者がいなく、公共交通機関も整っていない地域では、免許の無い高齢者は誰かに送迎の負担を強いるか、タクシーで何千円も払って通院する必要があります。子供の教育問題も深刻です。近所の小中学校から離れて通い出す高校生ぐらいになると、電車やバスが無い所に住んでいては、自力で通えません。仕事を抱えた親が毎日、最寄駅まで送迎するのも大変です。
「生まれ育った田舎を離れたくない」と思う若い人達でもこういった事情を踏まえると、山村地域を出て暮らした方が経済的ですし、総合的に都市生活の方が便利と判断する人が多いのが事実です。
筆者は実際にこのような山村地区に腰をすえて暮らした経験があるのかどうか、それすらも不明ですが、真実を物語るほどのレベルではないと見受けられます。

投稿日時:2015年05月14日 13:39 | 田舎ぐらし

本論の言わんとすることはわかりますが
江戸は家康が堤防を大改修した町ですけど、大坂は飛鳥時代から治水を続けてきた町だから、たかだか信玄の時代からしか続いてない山間集落の歴史とは比べられないのでは
湿地の干拓は最近のはなしだ、というのはその通りなんですけど、公権力による治水事業は遥か昔から行われていますし、それこそ大陸では三国志や始皇帝の頃より前から行われてます
当然、渡来人の技術で日本にももたらされてます
なので
・古代における山間の有利
・中世における山間の有利
・戦後しばらくの山間の有利
これらは同一のものではないと思います

投稿日時:2015年05月14日 14:24 | 爽やかさん

茂倉は両親の故郷です。
今でも祖父やおじおば、親戚が暮らしています。
私は東京で生まれ、東京で育ち、今も東京に住んでいますが、
喧騒に疲れた時は、必ずと言っていい程、茂倉のことを思い出し、“あぁ帰りたいなぁ…”と思ってしまいます。
私にとっても、“故郷”になっていました。
茂倉を取り上げて下さり本当に有難うございます。

投稿日時:2015年05月14日 15:49 | 美由布

札幌のあんどうです。お久しぶりです。
面白い山登りしているんですね。ガシガシ登る様なものとは視点が違って奥深さを感じます。
私も内地の調査で歩いたとき「なんでこんなとこに住みついたんた?」と疑問に思っていました。
ブログを読んでなるほど! おもしろいですね!

投稿日時:2015年05月14日 19:56 | あんどう

神戸で生まれ育ちましたが、20代前半で木こりを目指し紀伊半島の山村に単身移住して15年程暮らしました。現在は兵庫県で木こりをやって暮らしています。記事を読ませていただき吉野の山村を思わずにいられませんでした。生きていく為の術を、また生きるとはどういう事かを何も知らなかった自分に教えこまれたと思っています。感慨深く読ませていただきました。

投稿日時:2015年05月14日 20:24 | somaudo

私の田舎も"ど"が付く九州の山奥でして、「どうしてこんな所に人は住み始めたんだろう?」と、子供の頃から心底疑問に思っていて、ヒマラヤをトレッキングした時も、米山さんが書いてらっしゃる通り、実家に帰ったような懐かしい気分になったものでした。
その疑問に、この記事は見事答えてくれました!
そうなんです、子供の頃は、まだ井戸があって断水しても困らなかったし、実家は水害の心配もなく、買い出しに行けなくなっても一月くらいは全然問題ないくらいの自家製保存食の蓄えがありました!今はどうだかなぁ?ですが…。
とにかくありがとうございます!田舎を見直しました

投稿日時:2015年05月14日 21:17 | 甲斐

そうは言っても、医療や行政サービスを満足に受けるには山を下りて地元の小都市に移住するしかないでしょう。それは近代的で便利な生活に慣れている若い世代は特にそうです。実際の生活はノスタルジーではどうにもなりません。地方での集住、コンパクトシティ化は大切です。

投稿日時:2015年05月14日 21:19 | そうは言っても

東北ツーリングで見た山間にある集落が「何故こんな所に?(失礼)どのように暮らしているの?買い物は?学校は?仕事は?」と言ったモヤモヤの一部が晴れました。私の生まれ育った北海道との違いは『歴史』で、たかだか百数十年程度の当地と違い、道産子の私には考えが及びませんでした。また、沢山の方々のコメントも勉強になりました。来月は九州に産まれて初めてツーリングに行くので、こんなことも考えながら走りたいものです。

投稿日時:2015年05月14日 21:56 | F8

ネパールの地震救援のため、地震の翌日に現地入りし、山間部の被災地で活動して来ました。(今、帰路の途中のバンコクの空港)よくこんなところに大勢の人々が住んでいるなと思いますが、昔から人類は地球の至る所に住んでいて、それが何千年と続いて来たのでしょう。それがここ20年程の間に、急激な都市化、つまり、田舎から都会に出る人口移動が起こりました。一つは人口の増加が田舎の土地の生産性を超えたことと、価値観の変化により、お金に価値を起き始めたこと。ネパールでも田舎には若者が居なくなりました。カトマンズに人が溢れ、さらに中近東やマレーシアなどに流れ出しています。ブータン国は幸福指数とか言って、貧乏でも幸福度が高いとか言うが、5年も立たないうちにみんながスマートフォンを使うようになり、ネパールのようになる、とネパール在住の友人が言っていましたが、多分そうでしょう。幸せなことに日本人、特に若者は都会に住むことも、田舎に住むことも選択できる経済的な余裕と価値観の多様性に恵まれています。
ネパールの私たちの活動地では80%以上の家屋が崩壊しています。国際的な支援が求められています。

投稿日時:2015年05月14日 23:44 | 粉川直樹

筆者ご自身の立ち位置の揺るぎなさ、美しい景色とその暮らしに対する深い思いに感銘を受けました。ありがとうございます。
大いに納得するのは、自分も間もなく記憶の彼方に行くからだろうなと。いつも独り言のように「便利は保たないよ」と言い続けてきたけど、証明されるのはうれしいより寂しい。
美の反対語は醜、美醜共に確とあるが、同じようにみえて便利の反対は不便との言葉は、ないことに対する意見表明でしかない。なくて暮らしが立たなければ作りだし、要らないものはありようがない。人とのかかわりも、なければならぬものとしてあり続けてきたものだ。
西や南側の古くからの緩斜面で、下に水の流れがあれば、ほぼ縄文以来の遺跡に当たる地域に暮らしていると、時間軸を幾つも用意していないと自分の先行きの判断を誤る危険を感じます。

投稿日時:2015年05月15日 09:02 | 和泉 勝彦

コメントの方を拝見していると、医療や行政サービスなどの問題を指摘されているものもありますが、行政サービスが必要不可欠になったのは最近の事でしょう。
江戸の昔まで遡れば、当時の庶民向けの医学は本草学が主でした。更に言えば、動く事もままならぬほどに年を取る事が出来るようになったのも、ごく最近の話です。
教育だって、「その場所」で必要な能力は「その場所で生き抜く力」であり、「修理もロクに出来ないような電気仕掛けの小さな箱を操る力」ではありません。
現代の経済的な視点から、消滅寸前の山村集落の問題点を指摘するのは簡単ですけども、この記事で語られているのはそういう事ではなくて、集落が最も豊かだった時代の考察と、その最後の残照への想いではないでしょうか。

投稿日時:2015年05月16日 01:53 | Katz

ヒマラヤの旅のなかで、ネパールの山村の豊かさ、人の逞しさを知って、その魅力が凝縮されている生活道ロングトレイル「グレートヒマラヤトレイル」をPRする活動を去年から始めた者です。
たまたま妻がシェアしたので知ったこちらの記事でしたが、内容は私の思いに直結したものを感じ、こちらにコメントしたくなりました。
私も「地名」に強い興味を持っています。ネパールで「パケパニ」という崖の鼻先のロッジだけの零細集落では、「崖で水がしたたる所」の意味を教えられ、千曲川源流の「川端下」の「川と崖」の地名をすぐに思い出した事もあります。登山地図ではよくカタカナ地名も出てきますが、漢語化されていない和語地名にもわくわくしてしまいます。
以上のような知的興味だけにとどまらず、山里→峠→山里の山歩きでは、山地での生活を住民はどのようにマネジメントしていたのか?感覚的に何かを知る事ができます。
今、大地震を体験して厳しい局面に立たされているネパールですが、今もって山里の人間的なくらしが営まれている彼の地の魅力を、この記事のような切り口も踏まえ、盛り立てて行ければなと思っております。
嗅覚のみならず、全ての感覚に訴える「生活臭」の濃い暮らし。
私は、今4歳の息子がこれから羽ばたいて行く社会を、より活き活きしたものにできる手助けがしたいという思いもあって活動しています。
ほぼ同じベクトル。嬉しくなりました。ありがとうございました。

投稿日時:2015年05月16日 20:23 | 根本秀嗣

うちの地域をあたたかいまなざしでとりあげてくださってありがとうございます。コメントも興味深く拝見させていただきました。高齢過疎地域の課題は山積みですが、不便さを楽しめる豊さが生活のキーワードでしょうか。出て行った同世代もたくさんいますが、僕はこの地域に誇りと自信を持って生活を繋いでいこうと考えています。

投稿日時:2015年05月19日 19:43 | さいけん

開発途上国と呼ばれる国の田舎に行くことが多く、「なぜ、こんなに不便なところに人が生きるのか」ということを考えているところでした。
昔、北海道で大変お世話になりましたが、山梨にもお邪魔したいものです。

投稿日時:2015年05月21日 05:29 | 高山 琢馬

記事に書かれてる内容は、確かにその通りですね。現代の、特に都会の人間から見れば貧しい山村に見える地域も、昔は住みやすい一等地だったというのは、なかなか理解されないことでしょう。
しかし、変化しないものは生き残れないという言葉が示すように、いつまでも過去の栄光にすがるような生活は続けられないのが世の常です。 山村が世の中の変化に対応できず寂れ行くのは、もはや宿命です。
ましてや、「人口は少なくても税金だけは掛かる」という山村は、行政側から見れば目の上のタンコブとなりつつあります。 例えば、わずか1000人の集落に年間1億円の行政サービス費がかかるというのであれば、住民を町の中心部に集めてコンパクトな行政運営で計削減を図りたいのが本音です。
豊島区でさへも「消滅地域」に名前があがったというニュースがありましたが、この理想と現実のギャップを見据えないと山村地域は太刀打ちできないでしょう。

投稿日時:2015年05月29日 22:30 | 理想と現実

なんでも「スマート、便利、快適、快楽」の虜になってる人々。
そういう時代。
野暮ったいものや不便なもの、旧来のものは全て消し去ってしまえ!的な同調圧力がはびこる世の中。
その結果、人々の心がギスギスし
とても住み心地の悪い社会になってるように感じます。

投稿日時:2015年06月28日 21:49 | 大雪

昔、貴局ラジオドラマを良く聞いたことを思い出しました。山村が舞台のも有りました。もう内容は忘れましたが懐かしい感覚が蘇りました。
共感、批判様々な御意見も興味深く拝見しました。これからも良質な番組作りをお願いします。

投稿日時:2015年07月05日 23:42 | 高嶺勝貞

綺麗な部分だけを好意的に解釈すればまあそうなるな
ここで諸手を挙げて賛同する人間も、自分がその生活を望むわけではないだろう

というと、すばらしい田舎説の同調圧力がこちらに向けられそうだが

投稿日時:2015年07月12日 00:36 | 都会人は悪!現代人は悪!

素晴らしいブログに遭遇。感心致しました。こちらは最近、近場の江戸時代の街道、峠を歩いています。勿論、車は通れずに徒歩のみ。野営を繰り返しての旅で古の人々を追憶しています。
何故、山奥に住まいし、棚田や高原を開拓したのでしょうか?要するに、利便性の良い土地は既に占拠され、条件の悪い場所で食糧確保せざるを得なかったからです。少子高齢化、条件の悪い場所は自然に復帰するのが賢明です。効率のよい農業・漁業・林業に集約し、生活基盤を再構築する事の時代になったと考えています。こちらは、徒歩・野営を基本に、山、川、海を楽しむ生活です。「財布と環境に出来るだけ負荷をかけない遊び」を標題として生活しています。

投稿日時:2015年07月28日 12:11 | 遊何庵

本当にいい記事をありがとうございます。
私も今の日本が失いかけているこの生活の在りようこそ、これから重要になっていくのだと思っています。
時代が変わって、経済の循環は外に多くをめぐるようになって、木材や農産物など山村の資源での生活は難しくなり、「協調」も変化しましたから、今に合わせて再構築されなければなりませんが、かなり困難です。
私も身一つの生活に向けて支度を始めていますが、最後の場所を山の家にするか市街地に出るか決めかねています。
山の生活は貧しくはあるけれど、他で得られない豊かさがあって、その間で迷っています。

投稿日時:2015年12月02日 12:48 | 三浦寿秀

カメラマンさんの、感性がすばらしい。見えないものが、彼には見えているんだね。東京なんかに、赴任しないでね。こんな、いい記事を書き続けてほしい。

投稿日時:2015年12月02日 20:53 | 秋山茂

とても興味深い記事でした。高度成長期の日本は、おそらく史上最大の生活変革だったと思います。その最後の片鱗を記憶している私たちは、全く記憶していないゲーム世代の若者に、何を残せるのか、考えなければならないのかもしれない。

投稿日時:2015年12月03日 09:42 | くま

楽しく読ませて頂きました。古事記に書いてあることを勉強している間に、15年経ちました。考えるために、延喜式内社を歩いたり、古墳を見つけては立ち寄っています。書かれてあるように山の中の集落も全国的に、行ってますが、必ず、稲作と養蚕がおこなわれていたという結論に達しています。稲作は棚田と関係がありますが、その棚田に水を供給するのは、ブナ林だと考えます。養蚕は、紀元前からあり、それを求めて、ユダヤ人と中国人が、紀元前から、日本へやってきたとも考えています。これらの中心になっていたのが、延喜式内社だと考えています。記事に、養蚕と延喜式内社も入れてください。

投稿日時:2015年12月03日 11:36 | 大橋 蛍火

素敵な記事をありがとうございます。

関東から移住して信州の標高750mの都会から見れば山奥で米、野菜、卵、ミルク、果樹、狩猟、釣り、お菓子、石けん、シャンプー、保存食、薪、キャンドル、ありとあらゆるいろんなものを育てて作って生計を立て、家族で自給自足の生活をしてます。こんな生き方が出来てるのは里山だからこそであり、ここでもし都会的な暮らしを望めば望むほど都会への憧れが高まってストレスまみれになっていくのだなぁと感じる日々です。

ここには都会にしかないものは一切ありませんが、田舎にしかないものがたくさんのあります。田舎暮らし、おすすめです。

投稿日時:2015年12月03日 22:38 | 信州そらいろ農園

とてもいい記事、ありがとうございます。
でも、なんだかこういう場所が「絶滅寸前」と言うようなコメントがあるのはとても寂しいです。事実なのかもしれませんが・・・。
私自身こう言った地域の出身で、どうやれば出身地に戻りつつ、今と似たような生活ができるかと悩んでいるところです。
もちろん、何を求めるかに焦点を絞り、捨てるべきポイントは捨てなければならないとは思いますが・・・。
本当に悩ましい問題だと思います。

投稿日時:2015年12月03日 23:35 | you-ka

タイトルが間違っていると思います。本文に書いてあるように、「便利な場所に集落を作っていた」ではありませんか。ただ、便利な場所である扇状地は危険な場所でもあります。たまたま、数百年間も土砂災害が無かった場所は残った、消滅した集落は数知れず。昔の人は、毎日の便利さと、不定期な災害の危険性を天秤にかけて、このような場所を選んだだけでしょう。

投稿日時:2015年12月04日 23:21 | 垰田宏

興味深く拝見しました。
コメントにもありましたが、エネルギーシフトの視点も大事ではと考えます。
現在は、電気と石油が主たるエネルギーですが、ほんの100年前までは、木材が主たるエネルギーです。そのため、山林に近い暮らし社会構造として必要とされていたのでは。

投稿日時:2015年12月05日 10:21 | みあ

確かな事は忘れましたが、蒜山高原は、古事記に記されている高天原だと考えています。江戸時代にヒルゼンで米が取れなくて、税金を納められなくて、農民一揆が起こった事があったように記憶します。ヒルゼン高原は、山の殆どにブナが生えていたのですが、ブナは水分をたっぷり蓄えてくれるので、高原のために、水の温度が低いので、米が実らなかったようです。そこで、すべて伐採したら、水は冷たく成らなかったのですが、やはり、米は無理だったようです。現在は米を作っていないと思います。ヒルゼン高原と言えば、岡山県です。この辺りでも、ブナが生えていた事が判ります。全国どこにでも生えていました。 この水を使って、少しずつ、狭い棚田に水を蓄え、高い所まで、稲作が可能でした。 稲作は、紀元前から、チベットの人達が、移動して、広まったものだと考えています。棚田は、フィリピン、中国は雲南省、福建省に残っている筈です。朝鮮半島では、昔の新羅にも残っている筈です。 従いまして、この地域の人は、日本人と同じ人種ですから、似た考え方をします。日本にも、大勢の人がやってきます。 この種族の特徴は、稲作と養蚕です。そして、戦争は嫌いですから、他の種族が住むことが出来ない、所に都を定めました。 日本に上陸しても最初に国を造ったのが、アマテラスが造った高天原だと考えています。アマテラスやイザナギやスサノオが二本を造りましたが、全員大陸からやってきた人達だと思っています。お粗末でした。

投稿日時:2015年12月06日 20:24 | 大橋 蛍火

山登りを通してその地域を知るおもしろさが伝わってきて、楽しく読ませて頂きました。
ただ、コメント欄も含め総合的に見た上で、地理学を学ぶ者として感じたことがありましたので、コメントする次第です。

まず、山あいに住む方が生活しやすかった、ほとんど自活できたというのは、少し違う気がします。
山間地というのは傾斜地ばかりでほとんど使える土地がありませんから、農耕を行う上では不利ですし、狩猟や採集ができるとはいえ、やはり里との交易は不可欠だったと思われます。

それから、“不便さ” について考える時に踏まえないといけないのが、時代の違いです。時代によって何を“不便”とするかは異なります。
今と違い、昔は(中世~近世?)産業構造が違いました。自給作物も含め農業が盛んでしたし、第一次産業が主流でした。インフラの整備具合、技術の発達度合いもまだまだでした。
もちろん、居住地を決めるに当たり(選択の余地がない場合もありますが)重視するポイントも異なったわけです。
つまり、現代の価値観だけで語ることはできないわけですね。
その辺が区別されていないコメントがありまして、こう感じたわけです。

最後に、どの時代まで遡るかや、どういった視点から見るかによって、様々な分析ができると思いますが、いずれにせよ『何故こんな山奥に人が住んでいるのか?』という素朴な疑問は掘り下げるとおもしろいですし、なかなかよい論題提起だと感じました。

ありがとうございました。

投稿日時:2015年12月07日 08:40 | 地理・学生・紀南の田舎出身

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