次郎/2月17日、父・白洲文平(ぶんぺい)、母・芳子(よしこ)の次男として兵庫県に生まれる。父・文平はハーヴァード大学卒業後、ドイツのボンに学んだ折、正子の父・樺山愛輔(あいすけ)と面識を得た。綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築く一方、家に大工を住まわせるほどの建築道楽だった。

正子/1月7日、父・樺山愛輔、母・常子(つねこ)の次女として東京市に生まれる。父・愛輔は実業家・貴族院議員。アメリカのアーマスト大学、ドイツのボン大学に学ぶ。帰国後は国際文化人として多くの企業や団体で活躍した。
次郎/4月8日、神戸一中に入学。野球部とサッカー部に在籍、乱暴者としてならし、アメリカ車ペイジ・グレンブルックを乗り回した。

次郎/ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学。中世史を専攻し、将来は学者を志していた。イギリスでは、ベントレー、ブガッティと2台の車を所有し、レースに熱中。ともに「オイリー・ボーイ」であった後の7世ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称ロビン)と終生の友情を結ぶ。

正子/3月、学習院女子部初等科修了。晩夏、能の舞台に立つ。9月、父と渡米し、ニュージャージー州のハートリッジ・スクールに入学。
次郎/年末から翌年始にかけ、大学の冬休みを利用して、親友ロビンとともにベントレーを駆ってジブラルタルをめざすヨーロッパ大陸縦断の旅に出る。

次郎/ケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業。大学院をめざす。
正子/4月、金融恐慌で父・愛輔が理事をしていた十五銀行が休業宣言。樺山家は永田町の屋敷を売却し大磯に移る。
十五銀行倒産の煽りで白洲商店が倒産したため、大学院に進んでいた次郎は、帰国を余儀なくされる。同じく正子も女性の最難関大学であるヴァッサー・カレッジに合格しながら、進学を断念して帰国。ふたりは知り合う。

11月、白洲次郎・正子結婚。次郎の父・文平から結婚祝いに贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出る。

10月23日、次郎の父・文平死去(66歳)。
次郎は日本食糧工業(後の日本水産株式会社)の取締役に就任。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは英国大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。加えて近衞文麿の政策ブレーンも務めた。

10月、日本の敗戦と食糧危機を見越して東京郊外鶴川村に茅葺きの農家を農地つきで購入。武蔵と相模の国境いに位置することから、無愛想をもじって「武相荘」と名づける。

5月、鶴川村へ転居。次郎は終戦までもっぱら農業に勤しむ。

5月23日の東京空襲での罹災を心配して次郎が河上徹太郎を訪ね、家を失った河上夫妻を伴って鶴川に帰る。以後2年間、河上夫妻は武相荘に寄寓した。12月、吉田茂外相の要請で、次郎が終戦連絡中央事務局参与に就任。以後、サンフランシスコ講和条約の発効まで、次郎はGHQとの折衝の矢面に立つ。
2月13日、GHQが新憲法総司令部案(マッカーサー草案)を日本側に渡す。15日、次郎はGHQのホイットニー准将宛に「ジープウェイ・レター」をしたため、検討に時間を要することを説く。2月下旬、2名の外務省翻訳官とともにマッカーサー草案を翻訳(外務省仮訳)。正子は、青山二郎(45歳)とも出会い、ふたりの影響で骨董の世界に踏み入ってゆく。12月18日、次郎は経済安定本部(経済企画庁の前身)次長を兼任。
10月、第2次吉田内閣成立。12月1日、次郎はマッカーサーの「お名指し」で、貿易庁(翌年、通商産業省に統合)長官に就任(在任2か月半)。
4月、米大統領トルーマンにより、マッカーサーがすべての任を解かれる。5月1日、次郎は東北電力会長に就任。8月31日、首席全権委員顧問として講和会議に出席するため、首席全権委員である吉田首相らと渡米。9月8日、対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)調印に立ち会う。
11月19日、次郎は外務省顧問に就任。吉田首相の特使として渡米。軽井沢ゴルフ倶楽部理事に就任。
2月、次郎は吉田首相の特使としてひと月半にわたりヨーロッパ諸国を視察。8月8日、次郎の母・芳子死去。10月、正子の父・愛輔没(88歳)。正子は『能面』の出版に向け、この頃から能面を求めて各地を旅する。
正子は銀座にある染織工芸の店「こうげい」の直接経営者となる。「こうげい」からは田島隆夫、古澤万千子らすぐれた工芸作家が育つ。
10月28日、次郎は東北電力会長を退任。以後、荒川水力発電会長、大沢商会会長等を歴任、政財界の第一線からは身を退く。
10月、正子は西国三十三ヵ所観音巡礼の旅に出る。
次郎は軽井沢ゴルフ倶楽部常務理事に就任。
3月27日、骨董だけにとどまらず人生の師でもあった青山二郎死去(77歳)。
次郎はかけがえのない親友ロバート・セシル・ビングとロンドンで最後の時を過ごす。9月22日、河上徹太郎死去(78歳)。
3月1日、家族ぐるみの付き合いだった小林秀雄死去(80歳)。
秋、それまでふたりで旅することのなかった夫妻が軽井沢に出かける。つづいて11月16日より伊賀・京都を旅行。帰宅して2日後の26日夕、次郎が身体に変調をきたして入院。11月28日、次郎死去。
6月、『ビルマの鳥の木』(多田富雄著、新潮文庫)に解説「多田先生のこと」を執筆。絶筆となる。12月26日、肺炎のため入院先の日比谷病院にて死去。