NHKドラマ フェイク 京都美術事件絵巻

フェイクの壺〜美術品解説〜

美術品ひとくちメモ 「フェイクの壺」その6 「美人画について」―安原裕人(制作統括)

 いよいよ最終回となりました。

 最終回の題材は、美人画です。

 人物画、特に肖像画というジャンルを西洋と日本で比較すると、対照的だと思います。西洋では、古くから聖書と神話の世界を擬人化して描いてきたのに対して、日本の仏画は、たとえば釈迦如来の喜怒哀楽をバリエーション豊かに表現する方向には発展しませんでした。その影響なのか、日本の肖像画というと、禅が流行して達磨など高僧を描いた頂相を除くと、浮世絵の登場までは、天皇や権力者のものがわずかに伝わる程度ではないでしょうか。まして女性の肖像画は少なく、「モナリザ」が描かれたのが戦国時代の初期ですから、彼我の感があります。

 美人画と言うジャンルを築いたのは浮世絵で、その代表が喜多川歌麿です。歌麿は、浮世絵師の中では中期の人ですが、それまでの全身像に加えて、ブロマイドのような女性の半身像で当時から人気を博しました。歌麿は、当時評判の美人をきちんと描き分けていますが、それでも私には浮世絵の女性の顔は同じに見えがちです。「山口百恵は菩薩である」とは、評論家の平岡正明氏の言だったと思うのですが、浮世絵の女性の顔から如来、菩薩を連想するのは突飛でしょうか。

 それでは、今回お借りした浮世絵肉筆画の美人図を紹介します。


北斎など美人画6点

 中でも注目は、葛飾北斎の「鍋被(かぶ)り美人図」です。去年、北斎の生誕250年を記念して発行された雑誌の中で、新発見として紹介されました。

 題材は、滋賀県米原市に伝わる筑摩祭です。女性が頭にかぶる鍋の数は、この1年でひそかに関係を持った男性の数を表すという説があり、そのあたりが北斎の興味を引いたのでしょうか。北斎は、この祭りを異なる構図でも肉筆画で描いています。

 最終回は、右がいよいよ天才贋作家と対決します。その正体は?なぜ贋作を描き続けるのか??その謎が明らかになります。是非ご覧ください。


美術品ひとくちメモ 「フェイクの壺」その5 「能面について」末永創(演出)

 第五回の美術題材は・・「能面」です。

 室町時代に猿楽から進化したとされる「能」。その能で使う「能面」も、実は室町時代に沢山の種類が創作されました。室町時代の面を作る人(面打ち)が能楽師とともに、たった1つの面を、二人三脚で気の遠くなるような時間をかけて創り出していった、と言われています。

 番組に登場する「深井(ふかい)」や、有名な「小面(こおもて※若い女性の面)」「般若(はんにゃ※鬼の形相の女性面)」などの面も、室町あたりにオリジナルの面がひとつ創られ、以降、それがコピーされ続けてきたものです。能面のコピーは写しと呼ばれるものですが、決して「型をとって樹脂を流し込む」ようなものではありません。寸法を合わせる以外は、その面と直に向かいあいながら、面の意図するところを正確に再現してゆくという作業です。そういう作業であるが故に、面を打つ(作る)人によって、実はひとつひとつ全く違うものになっていくのです・・。


 今回、番組に協力して頂いた「面打ち」さんは、京都は福知山市にお住まいの初代・堀安右衛門さんです。能面の世界では知らぬ人のいない、現代の名匠です。

 堀さんは能が体現しようとしている「幽玄(ゆうげん)の世界」、つまりこの世でもなくあの世でもないその間にある世界、を表現するために自らが面を打つのを「あの世の力が入りこむ」夜中に限定して作業をしていたそうです(80歳を越えた今は、あまりやらないそうですが)。しんと静まりかえった夜の帳の中で、能面と向き合いながら過ごす何時間かが、とても重要なのだそうです。

 そんな堀さんが昔、ひょんなことから、ひとつの古い「深井」の面の修理をすることになりました。それを手にしてびっくり・・なんという凄み!なんという美!


 「この深井の面こそ、本当に本物の室町期オリジナルに違いないっ・・!」


 そう思った堀さんは、その面を元に写しを作ります・・そうです、そのときに堀さんが作った「深井・雪の面」が、今回番組に登場する「深井の面」なのです。


 室町時代の職人と、現代の職人との真剣勝負の面写し。

 そんな能面の世界を感じながら、番組をご覧になって頂ければ、よりお楽しみ頂けるのではないかと思います。

 また、番組ではいま注目の能楽師・味方玄さんによる「隅田川」もたっぷりご覧になれます。ファンクラブ350名を引き連れての「味方ワールド」もご堪能ください!


美術品ひとくちメモ 「フェイクの壺」その4 「尾形乾山について」安原裕人(制作統括)

 第4回は、「尾形乾山(けんざん)誘拐事件」です。

 「琳派(りんぱ)」をご存知でしょうか。桃山から江戸初期の俵屋宗達、本阿弥光悦を祖とするのですが、その画期的な装飾性、意匠は、現代に至るまで、脈々と受け継がれています。

 宗達の志を大成させたのが、江戸中期の京で活躍した、尾形光琳、乾山の兄弟です。光琳、乾山の生家は、とても豊かな老舗の呉服商でした。江戸中期の上方(京、大坂)の特徴として、優れた町人学者の輩出が挙げられますが、同時に豊かな町人層は、独創的な芸術家を生みだしました。第1回で取り上げた伊藤若冲も生家は大きな青物問屋でした。


 画業で大きな足跡を残した光琳に対して、乾山は陶芸家を志しました。

 乾山の特長は、鉄釉による雅趣あふれる絵付けですが、作品にしばしば「乾山」と自署しています。おそらく当時、陶磁器は美術品というより工芸品で、陶芸家たちはいわゆる職人という意識だったのではないでしょうか。陶芸家たちが自らの作品に銘や印を押すのが一般的になったのは明治以降の近代で、その例外は、江戸初期に活躍した京焼の祖・野々村仁清です。乾山は仁清の窯で技術を学んだとされていますが、仁清は作品の裏側に控えめな印を押したのに比し、乾山は自らの名前を度々大書しています。私はそのあたりに絵師と同等とする乾山の自意識を感じます。

 乾山は、晩年江戸に下ります。そして栃木県の佐野に滞在したことがあるとされ、その折に制作したとされる一群の作品が「佐野乾山」で、50年ほど前、美術界を二分する真贋論争を巻き起こしました。乾山の作品には贋作が多数あるのですが、そのあたりの作品をめぐる危うさも乾山の魅力だと思います。


 琳派を築いた巨匠、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一の3人は、直接の師弟ではなく、私淑による継承とされていて、その関係性にとてもピュアなものを感じます。その目指す精神は、近年海外で評価が高まっている神坂雪佳やリトグラフですら高値で取引されている加山又造など、現代に至るまでしっかりと受け継がれています。

 尾形光琳生誕350年にあたる3年前の秋、琳派の大規模な展覧会が行われて人気を博したのは記憶に新しいですが、今年は、酒井抱一生誕250年となり、展覧会が開催されています。


 今回は、乾山の5枚1組の鉋目皿のうちの1枚、松の絵の皿を探すところから、ストーリーが動きます。

 「尾形乾山誘拐事件」、是非ご覧ください。


美術品ひとくちメモ 「フェイクの壺」その3 「劇中の逸品について」安原裕人(制作統括)

 第2回「信長の油滴天目茶碗」は、いかがでしたでしょうか。

 今回茶道具の名品の数々をお借りしたのですが、その中で、狩野探幽の茶杓の映像をもう一度ご紹介します。

 筒は共筒、つまり狩野探幽自身が制作して自署したもので、箱書きは、徳川御三家のひとつ、水戸藩第8代藩主の斉脩公のものということです。

 ため息の出る逸品です。


 さて、第3回は「釈迦如来像の謎」です。

 物語は、右と曜子が名家の蔵のうぶだしに呼ばれていくところから、スタートします。うぶだしの「うぶ」とは、生まれたままのように世間ずれしていない様子、初々しいという意味、つまりは、骨董商などのプロの手を渡り歩いていないもののことで、素性がしっかりしているところから、骨董の世界では人気が高いようです。

 劇中の蔵で発見するもののひとつが、弥七田(やひちだ)と呼ばれる織部の向付けです。

 骨董の世界で、日本の陶磁器の中で最も重用されるのが、桃山期のものです。縄文式土器や平安時代の須恵器のようなものも売買されていますが、時代が古ければ古いほど価値が高くなるというわけではないようです。

 桃山期に数々の傑作が生まれた背景には、茶の湯の流行があります。鎌倉時代、本場中国に留学した禅僧が持ち帰ったお茶が、喫茶の習慣として広まり、やがて茶道として確立していきます。当初、茶碗等は、中国で作られた陶磁器(唐物(からもの)といいます)を取り寄せて珍重していたのですが、自らの手で作りたいと創意工夫を始めたのが桃山期でした。京で楽焼が始まり、瀬戸や美濃では、志野、黄瀬戸、織部等、バリエーション豊かな優れた一群の作品が、春の芽ぶきのように生まれました。明治以降の陶芸家たちの多くがこの桃山の陶磁器を目標にしたことからも、その価値が分かります。そして価値が高いということは、贋作が星の数ほどあるということですので、ご用心のほどを。

 ご紹介する弥七田は、織部の一つで、現代の我々が見ても心動かされる斬新な意匠・絵付けが特長です。

 その色や線からパウルクレーを連想するのは私だけでしょうか。

 こちらもため息の出る逸品です。

 この一品を蔵に所有しているような名家が第3回の舞台で、名家の複雑な家族関係がストーリーの鍵となります。

 是非ご覧ください。


美術品ひとくちメモ 「フェイクの壺」その2 伊藤若冲の「茶道具の伝来について」安原裕人(制作統括)

 第1回「幻の伊藤若冲」は、ご覧いただけたでしょうか。

 トリックの鍵のひとつが、「若冲」の号の由来でした。

 かつては、若冲の家のもとの屋号が若狭屋で代々仲兵衛を名乗っていた、つまり若狭屋仲兵衛の略称と説明されていたのですが、今は老子の一節、「大盈若沖 其用不窮」から取ったと考える説が有力です。

 粉本と呼ばれる教科書の写しから入る狩野派の教え方に物足りなさを抱え、宋・元の絵画の模写に飽き足らず自宅の庭に鶏を解き放って本物の写生に努めていた若冲が、18世紀の京、大坂で最先端とされた老荘思想に触れ、意訳すれば本当に大きなものはその大きさが普通には分かりにくいという意味の「大盈若沖」を知った自負と感激が読み取れるように思います。

 なお、「冲」は「沖」と同意で、若冲は自らの絵において専ら「冲」と記していましたが、お墓のある石峯寺では、「沖」と記されています。「沖」は「むなしい」と読むことに加えて「高く飛び上がる」という意味もあります。


 さて、第2回の題材は、茶道具です。

 茶道具と言えば、茶碗に始まり茶入れ、棗、香合、茶杓、水指、釜、掛け軸、花入等と、その世界は、深く広く、嵌ったら抜け出せません。

 私の浅く拙い経験で申せば、日本以外の中国・西洋の陶磁器では、茶道具のように実際に触れて用いるものより、飾って鑑賞するものの方がオークションとしての価値があるようです。飾って鑑賞するものより触って使うものに同等以上の価値を見出す美意識は、日本独自の素晴らしい感性だと思います。

 その美意識の源は茶道にある気がします。茶道具の世界では、由来・伝来を重視します。作品にしばしば作者以外が名前を付けるのですが、所有者が誰でどう移っていったか、その由緒を記した書付や箱書が作品同様に意味と価値を持ちます。作品にまつわる伝説、ストーリーが深く長く大きければ大きいほど、価値が増すようです。

 第2回では、この「伝説」がトリックの鍵の一つになります。

 本物の茶道具とともにお楽しみください。


美術品ひとくちメモ 「フェイクの壺」その1 伊藤若冲の「松樹番鶏図(しょうじゅばんけいず)」について ―安原裕人(制作統括)

 伊藤若冲(じゃくちゅう)という名前をご存じの方は多いと思います。

 江戸中期に京都で活躍した絵師で、2000年に開かれた没後200年を記念する展覧会がきっかけとなって若い人を中心に若冲ブームが起き、出版物の動向を見るとその余波は今もまだ続いている気がします。骨董商の方のお話によれば、作品の相場がとても上がったそうです…。


 若冲は、1716年(正徳6年)、京の台所と言われる錦市場にあったとても大きな青物問屋「桝源」の長男として生まれました。父親の急逝に伴い、23歳でお店の跡を継ぐことになったのですが、本格的に絵を学び始めたのは20代後半、狩野派と関係がある画家を師としたのではないかと言われています。

 こうして若冲の絵師としての足跡は不明の部分が多く、最近の研究では新しい若冲像が提示されたりしているのですが、若冲の出発点を考える上でとても重要なのがこの「松樹番鶏図」(しょうじゅばんけいず)なのです。


 「松樹番鶏図」は、本当に実在する作品で、1900年(明治33年)12月発行の美術雑誌の中でモノクロ画像が紹介されて以来、作品は行方不明となりました。その後、1928年(昭和3年)の京都美術倶楽部主催「江州 浅見家所蔵品目録」の中でも、モノクロ画像が掲載されていることが分かったのですが、作品の行方は杳として知れません。


 この「松樹番鶏図」がなぜ重要なのか、それは、作品の右に、「壬申春正月旦呵凍筆於平安独楽窩 若冲居士」という款があるからなのです。

 「壬申春正月」とは、宝暦2年(1752年)正月、若冲数え年37歳のときのことで、現在分かっている限り、若冲が「若冲」という画号を使って描いた最も早い作品なのです。やがて若冲は40歳の時に家督を弟に譲って隠居し、絵画の制作に没頭していくのです。


 ドラマでは、この「松樹番鶏図」の制作に挑みました。「松樹番鶏図」は絹本着色画なのですが、残っているのはモノクロ画像のみ、ディテールにどんな色を載せていくのかも問題です。色に関しては、美術考証をお願いした狩野先生のアドバイスで、モチーフが似ている若冲の代表作、動植綵絵の中の一幅「老松白鶏図」を参考にしました。

 2016年は、若冲の生誕300年にあたります。2000年の時のような企画展が計画されているかどうかは分かりませんが、本物の「松樹番鶏図」がどこかでひょっこり姿を現さないかと秘かに願っています。

 劇中の「松樹番鶏図」、ストーリーとともにお楽しみください。