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「お登勢」〜その時代背景について〜 |
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江戸時代の淡路は、阿波の蜂須賀氏の支配下にあり、 洲本には家老の稲田氏が派遣されてきていた。 この稲田氏は阿波と淡路に一万四千五百石という 大名なみの知行地をもらい、多数の家来をかかえて 洲本城代や洲本仕置にたびたび任ぜられた。 豊かな経済力を持ち、 公卿とも縁組みするなど、高い地位を保って稲田氏は、 幕末には積極的に尊皇攘夷運動に参加していた。 したがって、蜂須賀氏の家臣からは陪臣として 軽く見られながらも誇りを持っていた。 ところが、明治維新の変動のなかで、 武士の身分が士族と卒族(旧足軽以下の下級武士)に分けられ、 ろく高も新しい身分に応じて減らされることになった。 稲田氏は一等士族として最高の千石給与となったが、 家臣たちは陪臣のため卒族に編入され藩から わずかばかりの手当が給付されることとなった。 稲田家臣たちの、将来の生活への不安と、 稲田家との主従関係が切れることに対する不満は強かった。 稲田家臣は、三田昴馬を中心にして、 士族への編入を再三にわたって嘆願した。 そして、ついに、稲田の分藩独立運動へと発展した。 このような稲田家臣たちの動きは、蜂須賀家臣を刺激し、 平瀬伊右衛門・大村鈍安・多田禎吾(劇中は多田慎吾)ら 洲本在住の過激派の決起となった。 明治3(1871年)年5月13日早朝、 蜂須賀家臣に率いられた農兵たちが、 下屋敷の稲田別邸や益習館、宇山の武山邸、 市中の稲田家臣の屋敷を襲い、家人を殺傷し、火を放った。 稲田側の被害は自決2名、重傷6名、軽傷14名、 焼失家屋は多数におよんだ。 この年が庚午(こうご)の年であったことから、庚午事変ともよばれている。 この一件に対する中央政府の処置は厳しく、 首謀者10名が切腹、27名が伊豆八丈島などに流罪となった。 一方の稲田側は主人の移植以下、家臣が、北海道移住を命ぜられ、 荒野の広がる日高静内へと移っていった。 |
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