こんにちは!スタッフインタビューの第5弾は、脚本家・梶本惠美さんと第4話・最終話の演出・石塚嘉ディレクターの対談の後編です。
城谷:さて第4話まで放送しました。あらためてオンエアでご覧になっていかがでしたか?
梶本:そうですね。映像で見ると、またさらにいろんな発見がありました。一つは、子供たちがとても良かったですね。例えばまず第4話で和斗と奈々が握手したところ。
和斗の自然な笑顔が良かったし、その感触が伝わってきました。第3話の無理やりな握手とは違う温もりみたいなものが感じられました。子供たちは回を追うごとに、見違えるように変わってきていると思います。ただ書かれている芝居をやっているだけではなくて、それぞれセリフはあんまりないんだけど、ちゃんと存在している。舞台を見ているようで素晴らしいです。
石塚:そうなんです。セリフのある無しじゃないんですよ。第4話を撮る前に、子供たちと祥子先生たちとでワークショップをやったんです。自分の体験を振り返りながら、役の履歴を作って発表するところまでやりました。自分自身と役が重なる貴重な体験だったと思います。みんないい顔になりましたね。
梶本:それと陽平さんと依田さんの二人のシーンも佳かったです。
石塚:依田さんはホントに痩せてきてくれましたからね。
梶本:え?
石塚:倒れるシーンを撮ったあと、病気だからと言って。もう顔がゲッソリこけて。
梶本:そうだったんですか。だからかな。あのシーン「何やってんの、何やってんの」というセリフだけでヨーダの想いの深さが伝わってきました。
石塚:あそこのシーンで言うと、佐藤二朗さんが、脚本に「ポエムがある」と仰ってました。詩的であると。二朗さんもセリフは殆どないんですけど、本当に膨らませてくださいましたね。
梶本:あと、子供たちが陽平の家に迎えに来るシーン。陽平さんと子供たちの繋がりに胸が一杯になりました。4話で陽平がステップルームで「何が苦しかった?」って子供たちに聞かれて「自分の大切な人を傷つけた」って答えて、それから子供たちが話し始めますよね。あれでいままでスポットライトが当たらなかった子供も、一人一人本当にリアルに苦しんでいるのがわかったのと、あとはなつきちゃんね。普通クラスにいたなつきちゃんの「わたしがおかしいの?」という時の表情が、もうたまらなかったです。あれは実際のエピソードを元にした話でしたね。
石塚:なつきちゃんは、あるときふっと思いついて生まれた不思議なキャラクターでした。「苦しかったら学校に来なくていい」という陽平の言葉に救われるのは、実は普通学級の生徒かもしれないと思ったんです。STEPルームの生徒たちだけにスポットを当てていると、どうしても不登校生徒だけの悩みに見えて、甘えじゃないかという誤解がでてくるんだけども、そこを超えることができた。普通学級にも苦しみながら通っている生徒がいるんだ、もしかしたらSTEPルームの生徒たち以上に苦しんでいるかもしれない。そういう子供たちに陽平の言葉が響くことによって、拡がりがでたんじゃないかと思います。最終話でも、実は一番苦しいのは校長先生だったというかね。現象として起こっている不登校、ひきこもりに話がとどまらないところ。これはみんなの話なんだという、それが4話に入ってきたのは大きかったですね。
梶本:普通クラスの奥山くんも、何も言わずにただ車を壊すじゃないですか。あれで気持ちを表現できていた。台詞も大事だけど、やっぱり行動とかあり方ですよね。それで伝わるものはもの凄く大きい。
石塚:いい意味で余白が多い脚本だったので、顔だけじっと見ていたくなるような芝居もたくさんありました。ロジックだけでは本当に彼らが抱えている苦しみとか辛さとか気持ちは伝わらないんですよ。
城谷:4話では「学校が気持ち悪い」という言葉が耳に残ったという声も多かったです。
石塚:「気持ち悪い」というセリフも取材からでてきました。何がということではないけれど、ただ気持ち悪い。そういう子供たちの生の声が強かったし、それが物語を作ったとも言えると思います。
梶本:じゃあどういうふうにしたら、その“気持ち悪い”学校に子供たちが来れるようになるのか、ということは本気で考えさせられました。それが物語に反映したのかな。
石塚:それは学校もそうですし、今の世の中もそう感じることがあります。準備稿の段階から佐藤二朗さんが「この言葉いいですね」と仰ってました。すごくわかりますって。
梶本:子供たちは感受性も高いし、純粋な子供ほど気持ち悪いと感じるんじゃないかな。そこに蓋しようと思ったら自分を殺していかないといけないから…。それができる子もいれば、それをすると苦しくなる子もいると思うんです。ほかに捌け口が見いだせる子はいいけれども、そういうふうになれない子供たちも沢山いるわけで。そういう子はすごいしんどいだろうなと思います。
城谷:学校の中の空気をつくるという意味では、榊校長の存在は大きいですよね。
梶本:そう、学校に限らず、どの職域にも榊校長的な人はいらっしゃるんじゃないでしょうか。
城谷:人格者に見える人でも、一方では上を目指していたりとか。ある意味、組織の人間としては正論を言っているんです。
石塚:世の中に榊的な人はたくさんいると思うんですけど、やっぱりどこかにコンプレックスがある。どこかに“自分はこうじゃないんだ”というものを抱えこんでいる。
梶本:そうだと思います。自己肯定できていないわけだから。何とか権力持っていたいというのはコンプレックスの裏返しだと思います。
石塚:自己肯定という意味では、陽平は榊校長のことが良く理解できると思うんです。自分の苦しさと榊校長の苦しさを重ねて考えることができるのが陽平でもあるんです。
城谷:このシリーズの放送が始まってから、見るのが辛いとかしんどいという意見もみられました。
梶本:確かに辛い、でも辛いけど見る、という意見も多いようです。
石塚:最後まで見て下されば、きっと何かが伝わると思ってるんですけどね。
梶本:むしろ辛いと思う人に本当は見て欲しい。ドラマが始まってから、17年間ひきこもっていた知り合いの女性が「ドラマを見て生きようと思った」って連絡くれたんです。そういう風に見てくれている人もいるんです。
石塚:誰かを否定するドラマではないし、リアルなところを掘ったから。本当にこれでいいのか、掘り直して掘り直して出てきたことをドラマにしたつもりです。最終話に依田さんが子供たちに話をするシーンが出てくるのですが、聞いている子供たちの顔もリアルでした。そのあたりはある種のドキュメンタリーなんですよね。
城谷:ドラマの終盤、「一歩踏み出す」という言葉がセリフにも出てきます。でも「踏み出さなきゃいけないということはわかっているけど、それができないから苦しいんだ」という人もいる。「一歩踏み出す」という言葉を使っていいのかという葛藤は最後までありましたね。
梶本:そこは大事なところだと思います。3話の終わりでは、苦しかったら学校行かなくていいと言いました。命が危ないと思ったら、まずはひきこもっていい。でもヨーダが「俺だって何かできたはずなんだ」と言うように、自分の好きなことや、できることでいいから踏み出せるといいな、という願いはあります。社会に適応するための一歩じゃなくて、自分にとっての一歩を。陽平がいるから子供たちは踏み出せたし、子供たちがいるから陽平はああいう風になれたし、そこに藍子や祥子もいてくれたし、陽平にはお母さんもいたりとか、ヨーダには長嶺さんがいたりとか。そういう人とのつながりのなかで、自分はありのままの自分を受け入れられないんだけど、ありのままの自分を受け止めてくれる人がいるときに、起き上がり始めて、次のところに行けたんだと思うんですよね。
石塚:“一歩踏み出す”という言葉は実は非常にデリケートです。決められた枠組みに向かって踏み出せ、と言う風に聞こえてしまうと台無しだし。4話で陽平がもう一回ひきこもったときに、生徒たちが「そこにいていい」っていってくれたんですよね。だから陽平は出られたと思うんです。その陽平が子供たちに、一歩踏み出してみないか?というのは一見逆説的で、台無しになる危険性がものすごくあって、でもやっぱりそれを言って台無しにならない陽平にしたかったんですよね。「一歩出てみよう」という言葉は誰にでも言える言葉ではなく、やっぱりそれは主人公の陽平、元ひきこもりの陽平、先生にたまたまなってしまって、そこを必死に生きている男だから言える言葉。そこが伝わって欲しいですよね。
梶本:ほんとにしんどくって、生きるためにはひきこもるしかなかった陽平が、何とか出てきて、苦しい中を生きているけれども、彼は今、人生の素晴らしさを体験しているじゃないですか。子供たちとのことだって。榊校長との対決すら人生の素晴らしさだと思うんです。それを子供たちにも味合わせたいってね。つまり「みんながいるよ」ってことなんです。
石塚:言葉で言ってしまうといろんなつっこみが入ると思うし、否定的な意見も出るかもしれないけど、これは本当にドラマでしかできないこと。ドラマだから伝えられると思っています。
梶本:陽平さんの言葉ならきっと伝わると思います。ありのままでいられる社会であること。本当にそれぞれがためらいなく生きていけるというか。一人一人の自由があるわけだから。
石塚:そこまで声高には言わなかったんですけど、本当はこのドラマは命の話なんですよね。生きているにも関わらず輝けないのはもったいなくて…。死ぬことだけじゃなくて、あることにとらわれて生きているというのは、それは命を本当の意味で使えていない。かけがえない命をどう使うかっていう問題なんですよね。
梶本:子供たちはみんな素直な子が多い。
石塚:今はどの会社も管理職は大変ですよ。規則は増えていくし、SNSで炎上したら終わりみたいなところでヒリヒリして生きている。大人がそうだから子供がみんなその影響を受けていてね。ぼくたちの時代に比べて子どもたちが一見すごく素直でいい子なのは、そういう息苦しい社会を生き抜くための悲しい知恵なのかもしれない。だから我々自身の手で、子供たちが、自分たちが生きやすい社会を作らないといけない。企画のねらいもそこです。
城谷:もうすぐ最終話がはじまります。いろんなご意見、感想がでることと思いますが、このドラマが学校や子供たちの幸せを考える、一つの問題提起になれば嬉しいと思っています。今日はありがとうございました。
梶本・石塚:ありがとうございました。
投稿者:スタッフ | 投稿時間:14:20 | カテゴリ:ひきこもり先生