戦跡 薄れる記憶海の墓標は特攻艇「震洋」か(2017/08/16 放送)

特攻というと、「神風特攻隊」や「人間魚雷」の存在が思い浮かびますが、ボートに爆薬を積んで体当たり攻撃を行った「震洋」の存在を知っている人は多くはないのではないでしょうか。その震洋らしき船の残骸が房総半島沖の海中で見つかったと聞き、取材を開始しました。(映像取材部 小出悠希乃)

「自殺ボート」と呼ばれた

「太平洋を震撼させる」という意味をこめて名付けられた「震洋」は、太平洋戦争末期に海軍が開発した特攻兵器です。5メートルほどのモーターボートで、250キロの爆薬を積んで敵艦に体当たり攻撃をする作戦でした。

ベニヤ板を貼り合わせた船体は、戦局が悪化し、物資が不足する中でも量産が可能でした。6000艇あまりが建造され、本土防衛のために広く配備されていました。しかし、訓練中に船体に穴が開いて沈没したり、出撃しても、敵艦にたどりつかなかったりして、数多くの命が、戦わずして失われました。米軍からは「Suicide Boat(自殺ボート)」とも呼ばれていた震洋の犠牲者は、2500人以上にのぼります。大海に浮かぶ木の葉のようなボートで体当たりを果たす無謀な作戦が行われていたのです。

水深30メートルに沈む残骸は?

「震洋が見つかった!」6月下旬、千葉県館山市にあるダイビングショップから連絡がありました。連絡をくれたのは、地元の海に詳しいダイビングガイドの荒川寛幸さんです。

定置網のメンテナンス作業を行っていた際に発見した残骸が、震洋ではないかと言うのです。さっそく現場に潜ってみることにしました。

早い潮の流れを感じながら水深30メートルの海底を目指すと、見えてきたのは、3メートルほどの岩のような塊です。表面は、さまざまな生き物に覆われ、その上に泥が積もっています。

合計8回の潜水を行って丁寧に観察していくと、それがエンジンや爆薬が入っていた容器とみられることがわかってきました。

さらに砂の中からスクリューも見つかりました。残骸が間違いなく船のものであることは分かりましたが、それが「震洋」のものだという確証は得られない中、取材を進めました。

館山市にあった震洋の部隊

船の残骸が見つかった場所から1キロほど離れた館山市の波左間漁港は、夏は、多くの海水浴客でにぎわいます。

この場所に、かつて「震洋」の部隊が配属されていました。隊員数176人からなる「第59震洋隊」の役割は、東京湾の入口で首都を防衛することでした。しかし部隊は出撃のないまま終戦を迎え、第59震洋隊はその任を終えました。隊員たちは、どのような思いで出撃を待っていたのか。それを知るために元隊員を探しましたが、極秘扱いだった震洋は、部隊の記録もほとんど残されていません。戦後に記されたわずかな手記や人づてに、なんとか第59震洋隊の元搭乗員にたどり着くことができました。

残された道は「震洋」しかない

「70年以上たって、今振り返ると、異常なことだったと感じる。でも、私たちは好き好んであの時代に生きていたわけではない」

東京都立川市に住む高部博さんは14歳のときに志願して海軍の予科練に入り、ゼロ戦のパイロットを目指していました。昭和20年4月、16歳で特攻に志願した高部さんが乗ることになったのは、特攻機ではなく「震洋」でした。 「こんなもので走ってもたかがしれている。」しかし恐怖や葛藤を抱くことはなく、「これしかない」と腹をくくったそうです。戦局を打開するためには命を投げ出して当然という時代の中で、高部さんも特攻を当たり前のように受け入れていたと言います。 「これが最善の選択だと純粋に受け止めて『死ぬ訓練』に没頭していた」10代という時期をただひたすら死に向かって生きるということは、想像もつかないことでした。「めちゃくちゃな時代だった。志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれから特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…」

神奈川県相模原市に住む伏島誠さんも、ゼロ戦に憧れて14歳の時に予科練に入りました。しかし、特攻に志願したことは一度もありませんでした。ある時名前を呼ばれて整列し、向かうことになった先が、震洋の訓練所があった長崎県川棚町でした。「なんてちっぽけな船なんだ。」初めて震洋を見た時、その簡素な造りに驚いたそうです。訓練中も浸水や沈没が頻発し、死と隣り合わせでした。昭和20年7月、館山の第59震洋隊に配属された伏島さんは、そこで終戦を迎えました。「これでお袋のところに帰れる。」

伏島さんは戦後、記憶をたよりに震洋の模型を作っていました。震洋による特攻の存在を形に残しておきたいという思いからです。爆薬の容器やそこにつながる3つの信管、そしてエンジンやスクリュー。模型は、資料にも残っていない細部まで精巧に再現されていました。「これは、ベニヤのボートに命を預けていたことの証し。そして、そこから生きて帰ってきたことの証しなんだ。」高部さんと伏島さん、2人の元隊員の証言を聞き、個人の意志が無視され理不尽なことがまかりとおる時代があったことを改めて認識させられました。

震洋から何を学び伝えるか

取材を進める中で、はじめは知らなかった震洋の姿が、どんどん迫ってくるように感じました。

水中で撮影した残骸の映像を見た伏島さんは、爆薬の容器の形状や信管の数や位置が、震洋のものとそっくりだと証言しました。残骸の見つかった館山を訪れた高部さんは、上官の命令で震洋を海に沈めて処分した場所と、今回残骸が見つかった場所が、ほぼ同じだったことを証言しました。

残骸が震洋のものである可能性は限りなく高いことが分かりましたが、比較する資料や現物がほとんど残っていないため、それが震洋だという確かな証拠は現時点ではまだ得られていません。それでも、震洋について調べ、元隊員に話を聞くきっかけとなった残骸の存在は非常に大きなものでした。

高部さんが取材の最後に語った言葉です。「私たちが経験したことは無駄だったようにも思う。それでも何かの形で残しておかないと、過去の無かったものになってしまう」

震洋という存在から何を学び、何を伝えていくのか。無謀な特攻を生んだ戦争を、再び起こさせないために何ができるのか。海底で見つかった残骸の存在が、多くの人に考えるきっかけを与えてくれればと思います。