戦跡 薄れる記憶17歳の特攻兵の手紙(2017/08/14 放送)

戦争末期、旧日本軍によって編成された特攻隊には、10代の若者たちも数多く含まれていました。中でも旧陸軍が行った沖縄特攻作戦に組み込まれた「少年飛行兵」には、17歳で命を落とした少年もいました。少年が家族に宛てた手紙や遺族の姿は、戦争の無残さを今の時代に訴えかけています。

パイロットは少年たちの憧れ

少年の名は、井花敏男さん。昭和20年4月16日、沖縄での特攻作戦で命を落としました。4歳下の妹、勝浦ミチヨさん(85)は、兄を失った悲しみを今も忘れることはありません。

敏男さんは、軍用機のパイロットを養成する「少年飛行兵」の一員でした。全国から選抜された10代の少年たちが集まっていました。軍国教育の影響もあり、パイロットは花形。敏男さんも、多くの少年と同じく強い憧れを抱いていました。 母親は「生きては帰れない」と猛反対だったといいます。しかし、敏男さんは一途に夢を追いかけ、実現させます。

「合格の通知が来たとき、母親と私たちもいましたが、“これこれ、やったやった”ってバンザイしましてね。喜んだのを覚えています」(勝浦ミチヨさん)

手紙で「出陣の日を待つ」

敏男さんが家族に宛てた手紙は、少年飛行兵に入った時から出撃するまでのおよそ1年半で、合わせて12通。今回その内容を取材することができました。昭和18年11月の手紙には、「勉強に教練に励んで、やがては愛機を駆って出陣する日を待って腕を練っております」と、少年飛行兵になったばかりのはやる気持ちが綴られています。

しかし、戦況は悪化の一途をたどっていました。旧日本軍が特攻作戦を始めると、少年飛行兵も否応なく組み込まれていきます。戦況が厳しさを増す中でも、敏男さん自身は、パイロットとして成長する充実感で満たされていたことがうかがえます。「元気にて飛行機に乗って大空を飛んでおります」「一生懸命に操縦訓練に精励致しており、単独飛行もしました」と綴っていました。

敏男さんは陸軍の沖縄特攻作戦によって17歳で戦死。1000人余りの戦死者の中で最年少でした。「自分が死んでも絶対に泣かぬよう。国のために死ぬのです」と書かれた最後の手紙からは、勇ましさの中にも家族を気遣う気持ちが読み取れます。

今も憤りを胸に

敏男さんの死が家族に知らされたのは、およそ1ヶ月後でした。ミチヨさんは母親と一緒に田植えに追われていました。ミチヨさんは、終戦から70年以上がたった今も、若者を巻き込んでいった戦争への憤りを胸に抱き続けています。

「死んだっていう、戦死した。そしたら母親が泣き崩れてね。そしたらほんまにそのときのこと思い出したら涙がでます。みんな若い思春期の子ばかり、国のためにと言って、辛い目に遭って死んでしまった。戦争なんかするもんでなはないと思いますね、二度と」(勝浦ミチヨさん)
敏男さんの死から4年後、徳島県海陽町の実家のすぐそばに同級生などによって石碑が建てられました。大空を駆けることに憧れ、特攻隊へと組み込まれていった1人の少年。その死は戦争の無残さを今の時代にも訴えかけています。