戦跡 薄れる記憶幻の東京五輪 明かされる日中秘話(2016/8/15 放送)

男女あわせて12個のメダルを獲得するなど「お家芸復活」にわいた、リオデジャネイロオリンピックの柔道、日本代表。中でも男子は全階級でメダルを獲得し、初めて柔道が採用された東京オリンピック以来の快挙となりました。その柔道の歴史をたどると、平和の祭典としてのオリンピック開催に人生をかけた1人の男がいました。

幻の東京五輪に尽力した柔道の父

日本代表の選手たちがオリンピック直前、千葉県内にある公営墓地を訪れていました。

眠っているのは柔道の創始者として知られる「嘉納治五郎」です。選手たちは、柔道の父に健闘を誓ってからリオデジャネイロに向かいました。

嘉納治五郎は、日本人初のIOC=国際オリンピック委員会の委員でもありました。

「これまでのオリンピックはすべて欧米で行われてきた。オリンピックを真に世界的なものとするためには、東洋でも行わなければならない」と考えていた嘉納は、1936年に1940年開催の東京オリンピック招致に成功しました。しかしその翌年、日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起き、「戦争中の国がオリンピックを開催していいのか」と国際的な批判が高まりました。

自他共栄の精神を世界平和に

それでも東京オリンピック開催を実現しようと尽力した嘉納の気持ちをうかがい知ることができる資料が、東京・文京区の講道館に残されています。中国人留学生から嘉納に送られてきた手紙です。嘉納は日本語をはじめ地理や数学などを教える私塾を設立し、10年余りで7000人を超える中国人を受け入れ、柔道を通して留学生たちと深いつながりを築きました。柔道を学んだ留学生の署名には「周樹人」、後の中国の文豪・魯迅の名前もありました。こうした経験などを通して嘉納が培った信念が、互いに信頼し助けあうことで、共に栄えるという意味の「自他共栄」です。

嘉納は「柔道を通して外国人と日本人との間の理解と親しみが増し、お互いを信じるようになるため、もし争いが生じても円満な解決が出来るようになる」と考えていたのです。

嘉納について研究している筑波大学の真田久教授は、「多くの留学生に日本の体育、スポーツ・柔道を教えたことで友情を感じ、お互いに尊敬するようになることで、国際紛争が起きても解決に向かうことができるという考えを一貫して持っていた」と話し、「自他共栄」の信念が東京開催への思いを強めたとみています。

「嘉納が生きていれば」

1938年、嘉納は日中戦争で開催が危ぶまれていた東京大会の実現に奔走し、カイロで開かれていたIOC総会に77歳という高齢をおして出席しました。その年、嘉納のパスポートには多くの国を訪れた足跡が残っており、各国から東京開催への協力を取り付けたことがうかがえます。

嘉納は日本に帰る船の中で病のため亡くなりますが、そのわずか2か月後、日本政府は東京開催の中止を決定します。軍部を中心に戦争に専念すべきという意見が高まったためでした。

真田教授は「もしも嘉納治五郎が生きていたらそれまでの行動と信念とネットワークで、もしかしたら東京オリンピックは返上できなかったのではないかと思う」と語ります。

平和のためのオリンピックに

幻となった東京オリンピックに出場するはずだった男性がいます。

背泳ぎの選手として出場が確実と見られていた河野通廣さん(96)です。

軍に召集され、戦地に送られたという河野さんは「プールに皆集まっているのに『誰々の召集が来ました』となると全員立ち上がって拍手でした。ほとんど戦死やら病死やらで亡くなりました、やっぱり寂しいですよ」と当時のことを語ります。

オリンピックへの夢が戦争で閉ざされるようなことは繰り返さないでほしいと願っているという河野さんは、「もともと平和のためのオリンピックじゃないですか。オリンピックができるというのはありがたいことです。平和じゃないといかんですもんね」と話していました。