戦跡 薄れる記憶未完の地下工場を残せ(2016/8/12 放送)

軍用機の大規模な工場があった群馬県太田市では、太平洋戦争の末期、アメリカ軍の空襲を避けて特攻隊の飛行機を製造するために地下工場の建設がひそかに進められていました。しかし、地下工場は完成することなく戦後71年が経過しました。いま地元では、放置されたままの跡地を戦争の爪あととして保存しようという声が高まっています。

未完に終わった特攻機製造計画

地元太田市の歴史の調査をしている石塚久則さん。地下工場跡を保存する会の代表として、工場の跡地を残す活動を進めています。

崖の下に口を開けている高さ1メートル50センチほどのトンネルは。地下工場に当時30か所あったトンネルの中の1つで、現在も保存されている唯一の出入り口です。計画ではトンネルの総延長はおよそ12キロにのぼるといいますが、今は土砂が堆積し、中の様子をうかがい知ることはできません。

戦後になってアメリカ軍がこの地下工場の調査を行った地図や太田市の資料などによりますと、地下工場の広さは約6000坪で、東京ドームの約半分の大きさです。トンネルを碁盤の目のように張り巡らせたうえで、組み立てなどを行うスペースを作る計画でした。戦争末期の昭和19年11月、丘陵地帯をくりぬく大規模な工事が始まりましたが、全体の半分程度を作ったところで終戦を迎えました。この場所で特攻機を作る計画は未完に終わったのです。

悲劇な記憶を後世に

地下工場の建設作業にはおよそ1500人があたっていました。その多くは、中国や朝鮮半島の人たちだったといわれています。地下工場の近くの寺には、慰霊碑があり、作業中に亡くなったという50人の中国人の慰霊が今も地元の人たちの手で続けられています。日中友好協会群馬県連合会の松永守男さんは、「過酷な労働と栄養失調で病気になり、亡くなってしまう人もいました。いたたまれない気持ちです」と語り、慰霊碑に手を合わせていました。

悲惨な歴史を伝える地下工場ですが、1つのトンネルを残して、保存の措置はとられておらず、崩落している場所ともあるといいます。

忘れ去られようとしているこの地下工場について、保存会の石塚さんはきちんと調査した上で、残していくべきだと訴えています。

石塚さんは、敗色が濃厚な中、突き進められた地下の大工事について「そんな無理な、むだなことをよくやったなって思います。作業員をかき集めてでも、これを掘りたい、掘らなくてはならなかったということが何だったのかというのを、記録として残していく必要があると思います」と話しています。

石塚さんたち保存会は8月下旬に、地下工場の資料などを紹介する戦争記録展を太田市内で開く予定で、引き続き跡地の保存に向けて、行政などに働きかけたいということです。