戦跡 薄れる記憶少年たちの文集が伝える戦争(2016/8/9 放送)

長崎にある国の追悼平和祈念館には、原爆の犠牲になった被爆者の死没者名簿や被爆の体験記などが保管されていますが、先月、ある資料が新たに保管されることになりました。太平洋戦争の始まりから敗戦をまたいで10年間にわたって発行された文集です。書いたのは戦時中に10代だった長崎の少年・少女たちでした。文集からは、戦争に翻弄されていく姿がありのままに記録されていました。

文集が伝える少年少女たちの戦争

文集を発行したのは、昭和15年春に「長崎師範学校附属小学校」を卒業した少年・少女たちです。卒業後も交流を続けようと当時の担任教師の呼びかけで、年に一度、文集をつくることになりました。その後、10年間にわたって発行されます。

第一号の文集には、「みなさんお元気ですか。僕も元気で、(今度はと)懸命に勉強に励んでいます」「私たちの学校には、もうすぐ運動会があります」など、身の回りの出来事や近況がつづられています。

文集の第一号の発行から1年後に太平洋戦争がはじまります。真珠湾攻撃のおよそ20日後に発行された文集には、当時、13歳から14歳の少年少女たちも「聖戦の幕が、見事に切って落とされた」など、戦争に沸き立っている姿が垣間見られます。

51人いた卒業生のひとり、徳永徹さんは、「高揚感はあったさ。アメリカはやっつけないといかんと、アメリカが悪いと言うことを徹底的に教えられていましたよ。当然のことを書いたという感じだよね」と振り返ります。

大切な友は何処へ

文集を通じて、お互いの消息を確かめ合っていた仲間たちの中で、徳永さんにとって特別な友人が、田吉正英さんでした。ふたりは同じ中学校に進学した後も、編集部員として文集の製作に携わっていました。

徳永さんが熊本の旧制高校に進学し、長崎を離れた後も、手紙のやりとりを重ねていました。しかしこのころ戦況は悪化の一途をたどり、徳永さんの同窓生でも兵器工場などでの作業にかり出される人がいました。

徐々に失われていく学生生活の中でも文集には、国のために働くことが正しい道だと信じることばが並びました。

「夏休みの間には、三菱工場へ勤労奉仕に行って、銃後のつとめの一端を果たしました(女子)」
「微力ながらも全力を奮って、一億戦闘配置につき急がねばならぬ(男子)」

徳永さんの親友の田吉さんは軍医を目指して長崎医学専門学校、今の長崎大学医学部に入学しました。そのときの手紙が、熊本にいた徳永さんに届いていました。

「本日から講義が開始された。やっぱり学校生活はいい/君も達者でご精進されんことを祈るものなり」

日付は、昭和20年、7月5日でした。その1か月後の8月9日、午前11時2分。長崎に原爆が投下されました。爆心地から600mにあった、長崎医学専門学校は全壊。学生304人が犠牲となりました。戦後すぐ、長崎に戻った徳永さんは友人たちの消息を訪ね歩きましたが、田吉さんは、遺骨すら見つかりませんでした。親友の死、そして敗戦。当時は、たとえようもない喪失感にさいなまれたといいます。

価値観の急激な変化に戸惑い

徳永さんは「すべてのことが180度変わっていったよ.昨日までは敵だったのが、今はもう救いの主みたいな感じだ。価値が180度転換したさ、日本の社会の考え方が。それにもついていけない」と、当時の思いを語ります。終戦から半年後に発行された文集からは、とまどい、悩む姿が浮かび上がってきます。

「日々の勝利を夢見つつ各自の道を励んできた我々は、たちまちガンと殴り倒された(男子)」
「私達の信じていたことは、すべて裏切られ、迷ひ迷って今だに迷って居ります(女子)」

戦後10年あまりに渡って自分の生きる道を模索し続けた徳永さんは、28歳のとき、医学博士となり、免疫学の研究者となりました。歩んだのは、田吉さんが志した、医学の道でした。

「田吉がもし生きていれば、彼が真剣に人生について考え、しっかり生きようと努力したに違いないと思えるよ。無残だったよな。若くて、自分の間違いで死んだわけじゃない。やっぱり(戦争は)やったらいかんですよ。それはなくならないかもしれんよ。しかし、やはりなくそうとしないといかん」(徳永さん)

徳永さんは、現在88歳。戦争に人生を翻弄された少年少女たちがいたという記録を後世に伝えたいという強い思いから、文集を祈念館に預けました。文集を受け取った祈念館では今後、企画展などで展示していくという事です。