寄せられたご意見
事件から2年経つと思うと、時の流れは早いものです…
◎私の“あすへの一歩”
この事件から2年経つと思うと、時の流れは早いものです。初めてニュースで知った時、本当に恐怖を感じると共にそんな世の中になっているのかと悲しくなりました。人は人の中でしか育ちません。教育現場では、障害を持っている子どもも、もちろんいます。お互いを思いあって過ごせるように小さい頃から集団や一人一人を育てていく責任を感じています。障害があってもなくても、どの子ども達も自分を愛し、また友達を認め合える保育をしていきたいです。
生かされているのです。それには何かの意味がある…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
私の息子は高機能自閉症です。グレーゾーンにいるため普通の社会で生きていくしかありません。なので療育と社会的スキルのアップに努めて今は大学生として生活しています。社会性コミュニケーション障害があるのでまだまだ先は大変だと覚悟しています。人を疑うことが出来ないので、近づけないという術を選んでいるようにも思えます。施設にいらした皆さんは息子が幼少期にお世話になった療育施設にいたお友達のことを思い出します。みんな純粋で人間らしく可愛かった。障害があっても命を持った人として豊かな感情を持って生きていました。私も、息子が生きにくさを抱えていても愛おしいかけがえのない存在です。施設で出会った親御さん方も懸命に愛情を注いで育てていらっしゃいました。そんな命を奪う権利は誰にもありません。大きく成長するまでどれだけ他人より苦労があるか。それだけより命は重く輝いているのです。自分さえ良ければという曇った心を持ってしまった人には分からないのでしょう。障害者に対して社会は発展した理解を持たなければいけないのに逆に排他的な社会に向かっているようにも思えて悲しい限りです。皆さんの尊いいのちが救われる日がくることを願って止みません。そして私達親子の闘いはまだまだ続いていくでしょう。転んでも共に立ち上がって、息子の笑顔を守って生きます。皆さんの分も。
◎今回の事件についてのご意見
障害者は可哀想ではないこと。少しの手助けがあればたくさんの可能性があることをもっと知って欲しいです。軽度障害者に対しても同じでジョブコーチや少しの理解で円滑に社会生活が出来るのです。決して無能ではありません。一部の誤解でみんなを一緒にしてしまうのは残酷です。
◎私の“あすへの一歩”
私自身も内部障害者として生きて生活しています。目に見えて分かる障害ではないのでなかなか理解してもらえません。結局引きこもって生きていますが、ときどき無性に自分の生きている価値に疑問を抱くこともあります。自殺も考えました。でもわたしは生きているのです。生かされているのです。それには何かの意味があるのだとも思っています。まだ答えは見つかりませんが。犠牲になった皆さんの分もしっかり生きなくてはと思います。それにまだ私には息子を独り立ちさせるという使命が残されているのだと思います。今まで駆け抜けるように全力で生きてきて。自身も障害者になってしまいましたが。少しゆっくり歩きなさいといわれたと受け止めて自分自身のことも大事にしなければいけないのだと思いました。いのちはひとつも軽いものなどないのです。一人一人が自覚して初めて人のいのちを考えることが出来るのかもしれませんね。
同じ事件を起こさないため、一社会人として、精一杯生き・考え、行動する…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
突然に、言葉で現わせない痛みと共に、何の罪も無く命を奪われてしまった苦しみを思うと、唯々、生前に感じた幸せに包まれている事を、心から願います。同じ事件を起こさないため、一社会人として、精一杯生き・考え、行動する事を誓います。
◎今回の事件についてのご意見
この事件を起こした被告の考えに共感するという人の多さに、驚きを禁じえませんでした。なぜ、不自由を持った方々を差別できるのか、理解ができません。誰もが、明日にも、同じかそれ以上に、不自由さを受け入れなければならない状態になること。また、年齢を重ねれば、誰もが不自由さと共に生きねばならない状態になることが、何故、想像できないのか。誰にも、人の命を奪う権利はありません。被告は、孤独になることへの恐怖を想像できないのだと思います。また、マスメディアの方々には、風化をさせないための継続的な報道と共に、放送するだけではなく、当事者の一人として、この事件に対する考えも伝えて頂きたいと思います。
◎私の“あすへの一歩”
私は”障害者”という言葉が好きではありませんでしたが、この事件を受けて、更にその思いが強くなりました。また、特に現在の日本の政治家の妄言に何度も触れるにつれ、次の世代が迷わないように、自分自身が、自分の考えを自分の言葉で、しっかりと伝えることが大切であると、感じています。空気ばかりを読み、間違いを言えない日本人の悪い風習に惑わされないよう、海外の文化も取り入れながら、これからも考え、行動していく所存です。
出来る事は、何なのか?目の前に突きつけられました…
どんなに怖くて、辛くて、悲しかった事でしょう。心よりお悔やみ申し上げます。
番組をみて、一つ疑問に思った事が、諸外国の場合(障害者支援、共生について)はどうなんだろう。と言う事です。日本は、歴史的にも、隠したり、隔離したりしてきたかと思います。一つは、島国だからなのか、もう一つは、国土が狭く、お互い生きる為にそうやってきたのか。専門家でもない私には分かりませんが、そんな風に感じました。多様性を受け入れると言うのは、理屈ではなく、番組の中でもありましたが、共に経験すると言う事なんだと思いました。そう言った意味では、最も近くで障害者に関わってる方々への支援など、今一度考え直さないといけないのかもしれません。自分に出来る事は、何なのか?目の前に突きつけられました。
社会で強い圧力を持つ「労働力、生産性がすべての価値観」に押しつぶされ…
ある政治家の生産性発言でこの事件が思い起こされたという人は、やはり少なくないようです。事件の犯人しかり、件の政治家しかり、そして社会全体における議題として、私たちは「人の価値」を考える必要があるのではないでしょうか。本来人の価値とは、存在するだけで尊くてありがたいものなのだと私は思います。ただ隣に誰かがいるだけでありがたさを感じられる。人の価値とはそういうものだと思います。なにもきれいごととか美しい言葉とかを言おうとしているわけではありません。そもそも人間が群体であり一人だけでは生きられない以上、これは必然的な価値の決まり方です。昆虫なら「生産性」の低い個体を除くかもしれませんが、感情を持つ人間はそんな単純ではありません。なぜ人間の命に、平等に価値があるかといえば、人間がそう造られているから、に他なりません。しかし今の世の中は、本能的な価値よりも私たちが理論的に決めた価値の方が重要とされています。社会に労働力を提供し、他者に物理的な利益をもたらせる人間にしか価値がないのです。生まれた時からそんな価値観とともに成長した人が、「障碍者は労働力が低い、だから価値がない」と考えるのは、(極端だとは思いますが)あり得ない話ではありません。ゆえに我々は命の価値について、本当に考える必要があります。道徳の授業で、障碍者を差別するのはだめです、とルール的に教えるだけではまったく不足しています。自分の頭でこの事件について、命の価値について考え、こういう理由で命は平等なのだと心底から理解する必要があるのです。それなくしては、社会で強い圧力を持つ「労働力、生産性がすべての価値観」に押しつぶされ、究極的には犯人の思想へと倒れてしまいます。
事件から二年が経ちました。事件が起こった直後には、私たち全員が強い恐怖と憤りを感じ、なぜ犯人は凶行に及んだのか、あの思想は一体どうやって形成されたのかを真剣に考えようと思いました。そして二年経った今、国を主導するはずの政治家が、あのようなことを平気で放言しているのが今の日本なのです。明らかに事件は忘れ去られています。鑑みれば、あの事件は起こるべくして起こったと思えてしまいますし、こんな意識では今後も起こるのではないでしょうか。状況は我々が思っているよりもずっと深刻です。事件を忘れてはなりません。
The健康じゃないと、この日本では生きていけないのか…
今回の番組を観て色々考えさせられました。一番観て思ったことはThe健康じゃないと、この日本では生きていけないのかなと思いました。出生後に病気が分かったり、事故、けがで障がい者になってしまったりすることもあります。この先、「障がい者と関わりたくない」という声が番組で出ていましたが、身近な人が明日にでも障がい者になってしまうかも知れないのに、と思いながら番組を観ていました、この先けが、病気、事故などで障がいの方は、言葉は悪いですが絶対いなくならないです。絶対いなくならないなら、健常者の私達が考えを変えなければならないと思いました。
この事件はとても辛く、向き合うことができませんでした…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
生まれた時から一生懸命生きてきたあなた。健常者より懸命に生きてきたあなた。突然あなたを支援してくれると思った犯人に襲われ、どれほど恐ろしかったでしょう。そして、誰より懸命に生きてきた明日を奪われ、どれほど悔しかったでしょう。私は忘れません。あなたが生きてきたことを。
◎今回の事件についてのご意見
我が家の長女も重度の障害者です。だから、この事件はとても辛く、向き合うことができませんでした。7月21日のNHKスペシャルを見て、被害を受けた方が、2年が過ぎ、穏やかな笑顔を取り戻されている姿を見て、少し心が安らぎました。障害者に限らず、親の介護でも、介護する家族が孤立していたり、障害に目を背けたりしているときは、とても辛いと思います。その大変さを受け入れてくれる支援者やコミュニティーの存在が大切だと思います。家族だから、大変だけど支えたいという思いを、わかってくれる社会であってほしいと願ってます。
◎私の“あすへの一歩”
言葉を話さない34才になった娘が、2年ほど体調を崩して食事ができなくなりました。入院中『このまま食べれないと死んでしまうよ』と、脅かした時の恐怖に満ちた目がわすれられません。幸い今は、100%ではありませんが回復し、介護施設で穏やかな日常を取り戻しています。この穏やかな日常が1日でも長く続くことを願ってます。
社会に生きる限り、誰しもが必ず生産できなくなる時が訪れます…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
自分勝手な妄想から来る、非情な行動と、それを正当化するための浅はかな言動。そんなあってはならない事件の犠牲の矛先に、かならず弱い立場の人たちが選ばれてしまう。社会に生まれてきたのに。人生を過ごしてきたのに、何故。犠牲になられた方々の恐怖と疑問を思う時、ただただ怒りと憤りしかありません。心からご冥福をお祈り致します。
◎今回の事件についてのご意見
何年経ってもまったく記憶から消えない重大な事件です。被告が社会に向けて放った、自らの正当性を意味する、障害者の生産性と言う言葉。普段、障害者とあまり接点のない生活をしている人は、事件の重大さと同時にいきなり違う視点を提供された形になったのではないかと思います。いろんな考えや情報が氾濫し、たやすく知ることができる今、自分で考え判断する機会を失っています。生産性を言うなら、私達が社会に生きる限り、誰しもが必ず生産できなくなる時が訪れます。障害と言う視点だけではなく、このような犯罪に対して無関心でいることが、まちがった価値観を生み出して行くと痛感します。生まれてきて生活する過程に、殆どの人がいずれ生産出来なくなる。その時社会はどうあれば良いのかを、私達は常に障害や病気を持つ人、あるいは身近な高齢者から、答えや問いかけの提供を受けています。この事を皆が我が事として、実感し真摯に受け止めて行く必要があります。誰もが被害者意識を持ったり、被害者になったりしてはならない。そう考えます。
その表現=サインはとても小さなものでした…
犠牲者に対し謝罪の言葉がないと知り、植松被告自身が「心失者」なのだろうと感じました。被告は「意思疎通のできない障がい者は不幸しかもたらさない」と、発言していますが、意思疎通ができないのではなく、意思疎通を図る努力を植松被告本人が放棄したのだと思います。相手を理解しようとする心や想像を巡らせること。特に言葉を発することのできない障害者と関わる上では、こうしたことが大切になると思います。
私の亡くなった娘は障害を持っていました。介助が必要な寝たきりの子で、言葉を話すことができませんでした。それでも嬉しいときは満面の笑みを浮かべ、苦しいときは泣いて訴える。初対面の人には人見知りして目を合わさないなどと、よく状況を理解し、娘なりに可能な表現方法で多くのことを語りかけてくれました。その表現=サインはとても小さなものでした。初対面の人や関わりの浅い人、また、障がい者に対して理解のない人ならば見過ごしていまいそうなほど小さなもの。しかし、こちらのアンテナを高く張り巡らせていると伝えたいことや訴えたいことが、しだいに理解できるようになるのです。私自身、「娘のサインを一つたりとも見逃したくない、娘の代弁者でありたい」との思いで関わりを積み重ねていくうちに、気づけば娘の表情や声の出し方などから、日々の変化や成長を感じられるようになっていました。そうした日常の中で幸せを感じる場面は、家族みんなで娘を囲み、各々が思い思いに可愛がる光景でした。皆が自然と笑顔になれて、とても幸せな時間でした。被害者の方とそのご家族にもそうした幸せな時間があったはずです。植松被告には、殺人のみならず多くのご家族の心までをも傷つけてしまったことを自覚してほしいと思います。
障害のある子が、ただその場に存在すること。それは家族の喜びであり、会話がなくとも心が通い合っていることを、多くの方に知って頂きたいです。
生産性だけが人じゃない。人間は決まった動きだけをするロボットじゃない…
植松被告の「生産性」で人を必要、不要と分けるのは本当に危ない考えだと思う。この世界に不要な人間はいない。ナチスの障がい者差別の過去の過ちから何も学んでいない。これは植松被告に限ったものではなくて、障がい者のみならず、性別、職業、出身、国籍での差別意識が、今の日本人の根っこからは消えていないように思う。例えば、最近問題になっている議員も「LGBTは生産性がない」と雑誌で述べました。植松被告そして議員の発言を、人がどう思ったことか。どれだけつらい思いをしたか。生産性だけが人じゃない。人間は決まった動きだけをするロボットじゃない。自分の生まれ持ったもの、自分の意志で、動くもの。差別はあってはならないこと。
自民党の議員がLGBTの人間に生産性がないと言って問題に…
健常者でも障がい者でも、命の重さに変わりはありません。第2の植松を生み出さない世の中にします。自民党の議員がLGBTの人間に生産性がないと言って問題になっていますが、政治家に限らず世の中の多数がマイノリティーに対する偏見が根強いと思います。植松容疑者が特別、例外ではなく、身近な所にそういう差別思想があるのかもしれません。旧優生保護法における不妊手術が表面化していますが、単純に政治のせいにするのではなく、一人一人が当事者意識を持たなくては、また同じ悲劇が繰り返されます。
◎私の“あすへの一歩”
障がい者や社会的マイノリティーに対する考え方をより深く学びたいと思いました。
多数派(健常者で、かつ子供を作る・産むことが出来る人)が優れた人間なのか…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
見えづらくても確かにある意思を無視された悲しみ。何も感じない、何も思わないなんて決めつけられた悲しみ。傷つけたあの人は今も考えを変えていないそうです。介護、福祉に関わる人には過度なストレスを課さないだけの充分な余裕のある働き方・それに見合った社会保障制度が必要だと私も思いますが、障害者当事者としてそれに同調する人たちがこんなに社会にいた事に悲しみと恐怖を感じ続けています。助けてあげられなくて、ごめんなさい。あなたたちが(嬉しい)って(楽しい)って(おいしい)ってあなたたちをよく知る、愛するご家族など近しい方たちしかわからなかったかもしれないけど、それは本当にその方たちの幸せで喜びだったと思います。生まれてくれて、生きてくれて、ありがとう。私は直接お会いしたことはなくても、あなたたちを忘れません。
◎今回の事件についてのご意見
政治家の方が「LGBTの人は生産性が無い」とおっしゃり、乙武洋匡さんが怒りを覚え「障害者もそういう風に考えているのではないか。」と発言されました。旧優生保護法で不妊手術を受けさせられた方達の話をよくドキュメンタリーで聞きます。優れた人間って何?少数派に対する多数派(健常者で、かつ子供を作る・産むことが出来る人)が優れた人間なのか。そんなひどい事を平気で言い、それに同調する人たちが優 れた人間とは思えない。そういう私も障害者です。19のいのちが奪われてから(社会は私も要らないって思っている)考えにとらわれ、苦しんでいます。
◎私の“あすへの一歩”
まず、当事者として(自分も社会から要らないって思われているんじゃないか)(人の手をわずらわせてばかりで、生きていて申し訳ない)(自分は社会の中から淘汰されるべきなんじゃないか)と、事件以来、傷つき続けている自分のこの状況を変えたい、と頑張って何とか(今日まで生きよう)を繰り返しています。強くなれるように。いつかもっと意思が見えづらくて、伝えるのが難しい仲間の力になれるように。今は自分を強くするために頑張って生きています。
LGBTの人たちは生産性がないから税金をかけるべきでないと…
本当に悲しくて仕方ありません。私の知人も精神障害で長く入院していて決して他人事ではありませんでした。手足を動かすことなく、助けをよぶこともなく突然命を絶たれてしまったことに、深く同情します。7月26日の番組を見ました。植松は接見の中で反省することなく、生産性のない人々は生きる価値が無く、税金をかけることも必要が無いと自説を誇示しているようです。植松はこの件に関しては精神鑑定の必要はなく早期に裁判をして、死刑をもって償うしか道はありません。植松の論理で言えば、精神障害者は生きる価値がないからです。でも殺人をしたのだからそれなりの罰を受けるべきです。その前日衆議院議員の杉田水脈はLGBTの人たちは生産性がないから税金をかけるべきでないと新潮に寄稿しました。この人は植松のような精神鑑定が必要な立場の人物なのでしょうか。差別と偏見は障害者に対する知識や情報の少なさから来るものだと思います。
生産的なことをするためだけに生まれてきて、生きているわけではない…
人は、仕事や家族を持つなど、目に見える生産的なことをするためだけに生まれてきて、生きているわけではないと思います。どんな状態であれ、生きていることには意味があり、平等に尊いものと思います。「自分と違うから」「意思疎通ができないから」という自分中心の考え方ではなく、コミュニケーションのチャンネルが合わないけど、障害者にも当たり前に意志があるだろうし、心地良く生きていくということを実現させていくのが当然の権利であると思います。
根本的な考え方として、障害があるのが、たまたまその人である。ということです。例えば自分や家族に障害があった可能性だってあるし、これから病気等でそうなる可能性だってある。そう思った時に、個人個人や家族単位に任せるのではなく社会全体で支えていくというのは当然なことだと思います。
障害があってもなくても生きやすい社会にわたしは生きたいです。
「生産性」云々する人は自分自身の価値をどれ程高く見積もっているのだろう…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
私の娘も重度知的障害があり、一人っ子であることから、いずれは家族以外の人に支えられて生きていくことになります。この事件は他人事とは思えず、ただただ被害者の方々、ご家族の皆様の痛みに思いをいたすことしかできません。せめてこれからの日々に少しでも幸あれと祈るのみです。
◎今回の事件についてのご意見
私は容疑者や、その考えに賛同する、もしくは容疑者の考えに一理あると考える人たちに問いたい。
「あなたの大事な人が重度障害者になった時、あなたはその人に『世の中に不幸しか産み出さない存在になったから死ななければならない』と言えますか?」重度障害者には生きる価値が無いと容疑者は言う。けれども、生まれる前から様々な問題を抱え、生きて生まれることが出来るかどうかとまで言われ た娘が、今、私たち家族、友人、クラスメイト、先生たち、支援してくれる人々に囲まれて笑っているという事実が、「生きていること。また、その笑顔」そのものに価値があると教えてくれていると思う。自分の大事な人が笑顔でいてくれること、それ以上の幸せは無いと私は思う。大事な人のそのまた大事な人の笑顔の輪がどこまでも世界中に広がっていく、それを豊かな社会と呼ぶのではないだろうか。
最近、人の価値は生産性があるかどうかだとの趣旨の発言をした政治家がいるが、自分の考える規準がすべて正しく、その枠組みからはみ出た人は切り捨てるべきとの考えは傲慢で危険だと思う。一人の人間が出来ることはそれほど多くはないと思う。「生産性」云々する人は自分自身の価値をどれ程高く見積もっているのだろう。得意不得意、長所短所、一人として同じ人はいないはず。「皆違って皆良い」金子みすゞさんの優しい視点をすべての人が共有できる社会が実現することを心から願います。
絶対に風化させたくない事件…
絶対に風化させたくない事件。障がい者の存在を否定した犯人だけど、そもそも誰かが他の誰かの価値を推し量ること自体間違っている。効率的に仕事をこなしたり、お金を稼いだりということが大事であることは分かる。しかし、それよりも大事なことがあると思う。自分は福祉系の大学に通っていて障がい者と関わることが多いが、そういった関わりの中でたくさんのことを感じた。優しく話しかけてくださったり、好きな車の話を聞かせてくださったりと、そうやって障がい者の方々と接する中で自分の中でも考え方が変わったり、素直になれたりした。その時の経験や感じた気持ちというのは、すごく大きな財産になっている。だから、障がいがあるとかないとか、生産性があるとかないとか、経済的なこととかも関係なく、人と人との関わり合い、経験の中で生まれた気持ちにこそ価値があるのだと多くの人に伝えたい。
まもなく2年が経つことを忘れていました…
まもなく2年が経つことを忘れていました。日常に、様々な理不尽に思えることが横行していて…一時期の様に事件について考える余裕がありませんでした。噂のあったオウム真理教の死刑囚7人への死刑が唐突に執行されました。時期を同じくするように西日本では犠牲者が200人を超える豪雨災害も発生。その最中に政府や与党の関係者が懇談の酒席を行っていたことが判明して批判を招いたばかりでした。私たち有権者が信託する政府や行政にも、つまりそれを支えることになる私にも、この事件の加害者同様に亡くなられた「19人」の方に責任があるのでしょう。理不尽に奪われたその生命について伝えられる際にも、その名が伝えられない社会しか築けなかったことには、残念な思いがありますし、もちろんこの様な悲劇で生涯を閉じざるを得なかったこと自体にはことばが未だに見つかりません。この様なことが二度と繰り返されないことを誓う勇気は恥ずかしながら持ち得ません。そのことは申し訳なく思っています。
彼の主張が一定の支持を持ってしまうのは…
犯人の主張に賛同できるところは一欠片もありませんが、それでも彼の主張が一定の支持を持ってしまうのは(例えどれだけ理不尽なものでも)主張に一本の筋があり、その筋を否定するための知識が、あまりにも私たちに欠けていると感じます。はっきり言ってしまうと、やはり自閉症の方や脳性麻痺のある方が、街で近くにいると怖く感じてしまい、かつ、怖いと思うことに罪悪感を覚えます。怖いという感情を非難されない、そして、そう主張した人にこうこう、こういう症状だから、怖い人たちではないよ、と、理解を進めることのできる環境を作っていくことができれば、と感じます。感情による理解も勿論大切ですが、それ以上に、医学的な障害に対する理解が、私も含め、日本人はあまりにも足りてないのではと思いました。
被疑者は人間社会の縮図ではないだろうか…
このような事件が起こることを予測しない社会や大衆はどうかと思う。私もその1人だったのだが、よく考えてみればいつ起きてもおかしくなかったのではないのか。‘‘自分にとっては‘‘障がい者は社会に不要だという考えの下に犯行を実行した。実行に移したことは許せないし、許すべきとも思わないが、このような考えに行き着いたこと自体は否定できない。それは、社会の中で生きる人間ならば誰だって持ち得る思想であるからだ。被疑者は人間社会の縮図ではないだろうか。あくまで‘‘自分にとっては‘‘障がい者は社会に不要と思って犯行を実行したのだが、会社も‘‘会社にとって‘‘不要な人間は切り捨てるはずだ。それが誰にとってなのか、非合法のことしたのか否かの差はあれ、考えの根本は同じである。
必要なのは、「いろんな考えの人がいる」と認め合うこと…
私には、障害者の妹がいました。「障害者は不幸」という考えは、それほど、世間とかけ離れたものではないと思います。一見、優しさにすら感じられる。助けてあげたい、という気持ちの現れであることも。けれど、母は言っていました。うちの子は、決して「かわいそう」じゃない。そう言われると、腹が立つ。子供の頃、そのような母の独白を聞いて、正直その時は意味がよく分かりませんでした。私もやっぱり、「妹は弱者であり、救ってやらなくては駄目なんだ」と思っていたからだと思います。けれど年月が経つごとに、私は妹のことを近くに感じるたび、彼女が私より遥かに逞しくて賢いことに気づいていきました。言葉さえ話せませんが、身の回りのことをきちんとやる、約束は守る、家族を大切にする…その姿は、どこも「かわいそう」ではなかったのです。むしろ私達家族を啓発し、先導するものでした。考えてみれば、当たり前のことかも知れません。彼女は常に、自分の置かれた状況を理解し、正面から向き合い、働きかけ続けることができる人でした。常に、です。私ならとても耐えられない。妹は、鋼のように美しい心で、人生を歩んでいました…そこに気づいて、やっと、そもそも私の「弱者を助けてやろう」という視点が甘かったことに思い至ったのです。妹は、助けてやるべき存在でなく、助け合うべき存在だったのだと。私が悲しいときは、あなたに話す。あなたがつらいときも、私に話して。優劣など、どこに発生するのでしょうか…だから、妹が病気で他界したとき、本当に寂しかった。我が家の太陽が無くなったようでした。帆を無くした船です。そして、母の抱える喪失感を考えると、言葉にできません。障害のある人に対し、抱く思いは人それぞれだと思います。私も、「甘かった」と書きましたが、私のこの考えこそが「甘い」と思う人も当然いるでしょう。けれど、それで良いと思います。いま必要なのは、「いろんな考えの人がいる」と認め合うことだと思います。そのとき分からなくても、ひょんなことからピンと来たりすることも有るかもしれない。理解できなくても、それはそれで、大いにあり得ることなのではないでしょうか。「正解はこれしかない」と思い込み、突き進むことが、どれ程恐ろしいか…この事件はそれを示していると思います。
容疑者の考えを形成したのは、私たち自身…
なぜ匿名で報道がなされたのか、正直わからないままで、曖昧に「こうかな、こうじゃないかな」という推測しか、このサイトを見るまではできませんでした。「差別を受けるのが怖い」「隣人にいなくなってよかったねと言われた」など、私自身が普段考えたこともない世界が広がっていました。ここにおいて、このサイトは非常に有意義なものだと感じました。実際に障がいと向き合っている人にしかわからない思いがたくさんつづられていて、またそれだけ愛情も感じられました。読みおわったとき、涙が止まりませんでした。こんなにも豊かな命が奪われてしまった。でも、容疑者の考えを形成してきたのは、社会を構成する私たち自身のような気もするのです。もちろん、容疑者の障がい者の方への考えは私には到底理解のできるものではありません。しかしながら、日本という社会において、そのような考えにならざるを得なかった部分もあるのだろうと思いました。それは、日本が抱える大きな問題のひとつと言っても過言ではないのではないでしょうか。社会に左右されずにそうした行動を起こしたのかもしれないし、何かきっかけがあったのかもしれない。だけど、私たちにはわからない、それこそ容疑者の内の内の世界の話です。いくら容疑者を非難しても亡くなった方の命が戻ってくるわけではないと、そう感じました。では、私たちは何をするべきか。きっと、私たちは、この事件を忘れることなく、後世にしっかりと伝えるべきなのだと思います。それこそが私たちができる最大の一歩だと思うのです。
現代の多くの問題に共通する普遍的な事件だ…
障がい者を否定する事は、自己を否定する事とつながっている気がします。事件の容疑者に限らず、他者を否定する者を可哀想だと思います。私を含めて、そのような時その人は自分をも疎外していると思うからです。しかしその事も自覚出来ないくらい余裕が無い時、人は人を否定してしまうのだと思います。この事件は、障がいの問題に限らず、虐待、いじめ、テロなど現代の多くの問題に共通する要素を含む普遍的な事件だと感じています。
教育に携わる者として何をすべきか考えさせられた…
同じ過ちを社会として起こさせないために、教育に携わる者として何をすべきか考えさせられました。人の役に立つ・立たないという生産性のみで人間の命の価値は決まらないこと、シロかクロかという極端な思考は非常に危険だということ、それぞれの命にはかけがえの無い家族という存在がいて他人が意味無意味を決めることはできないということをどうやって伝えたら良いのか、知識としてではなく、感覚として子供たちにわかってもらえるにはどうすべきか悩んでいます。私は特別支援学校の教師ではないのですが、意思疎通のできない生徒と1年間関わる機会がありました。その経験で、何かできないということが無価値ではなくて、「そこにいてくれるだけでありがたい」という感覚がわかるのです。それを、わたしの生徒に伝えたいです。
この事件は入口に過ぎない…
優生思想ならびに犯人を絶対に許してはならないと思います。ネット上では未だに障害者へのヘイトが繰り返されてます。憎悪によって生まれた憎しみは必ずどこかで連鎖します。こうした事象に、はっきりNO!を示すには学校教育で障害者の偏見をなくすしかないと当事者は思います。いつから悲しい世の中になったのか。なにをやるにせよ障害者は特権を得てるというTwitterなどでの投稿に生きづらい世の中になったなと思うこの頃です。この事件は入口に過ぎないと私は思います。
障害者の方を否定する考え方は許せない。しかし…
障害者の方を否定する考え方は許せない。しかしそう思う反面、自分の子どもはどうか健康で生まれて欲しいと思ってしまいます。それは健康が尊いものだと思うから。長生きして欲しいと思うから。役に立つとか役に立たないとか、そういうことではなく、ただそこにいるだけでいい。そこで笑ってくれるだけでいいのです。家族や友達とはそういうものだと思います。それが分からない人が、そういう愛に触れていない人が、今回のような事件をおこしたり、加害者に賛同したりするのだと思います。
差別がダメだ、差別をしてはいけないと訴えるよりも…
まずは、亡くなられた19名の方のご冥福をお祈りいたします。私は、現在、障害者の就労支援をしています。その中で感じることは、残念ながら現在の日本では障害者への理解が進んでいないと思います。それは長らく障害者を収容してきた歴史から障害者への理解が進んでいないからだと思います。知らないから偏見が生まれ、差別が生まれる。差別はダメと言うことはみんなが分かっていることです。差別がダメだ、差別をしてはいけないと訴えるよりも、まずは障害者を理解してもらうことが必要なのではないかと感じます。障害者への理解が進んでいく世の中になっていくことが差別解消の第一歩ではないでしょうか。
みんなひとりひとりが尊いのです…
「いのちはなぜ尊いのか」。それはこの言葉に集約されます。「唯一無二」。一組の夫婦から生まれる子供の染色体の組みあわせは少なくともおよそ70兆通り。一組の夫婦からです。それこそ世界中の夫婦からだったら天文学的数字。みんなそんな確率から生まれているのです。それこそ「奇蹟」といっていいでしょう。みんなひとりひとりが尊いのです。どうでもいいいのちはないのです。ひとそれぞれ能力・才覚は異なります。たとえ障害が重くなにもできないようなひとでもこの世に「生き役」をもって生まれてきているといわれます。ですからそれを全うすることこそが大事なわけです。逆にいえば、より高い能力・才覚をもって生まれてきたひとほど自分の言動に対して重大な義務と責任を負っているわけです。必要ない人間なんてぜったいにありえないのです。障がい者殺人の容疑者は優生思想にかぶれていたようですが、それはある意味悪魔の思想ともいえます。
大切なのは自分らしく精一杯生きているか…
私は生後間もなく小児まひを発症し、電動車いすで外出している。街なかや交通機関で周りの人の介助を受ける場合があります。その際は、ありがとうとお礼の一言を。ふと「社会のお荷物なのかな」と思い、外出をためらうときもある。でも、そのような場面を気にして家に閉じこもったら、孤立してしまう。それではいけない、自分の状況を理解してもらえるチャンスだと前向きに。今は、地域活動に参加していろいろな人と出会い、喜びと生きがいを感じている。支える、支えられる社会ですね。容疑者は、周りの人を役に立つ、立たないと評価し区別していました。大切なことは能力のあるなしではなく、自分らしく精一杯生きているか、です。サイトを見て19人それぞれの誇れる個性に感銘しました。この出来事を風化しないために「忘れない7・26」と呼ぶ。
自分の知っていることをもっと伝えていこう…
「よりによって彼らを狙うなんて、、」今でもこぶしが震えるほど、強い怒りがこみ上げます。そして、亡くなった方の気持ちを想像すると、「どんなに怖かっただろう」と胸が張りさけそうになります。私にはダウン症のある妹がいます。小さい頃から、「障がい児」と言われる妹のお友達と関わる機会が多くありました。彼らは、言葉で気持ちを伝えるのは苦手だけど、独特のコミュニケーション方法を持っていました。最初は「?」と思うことも、だんだん慣れてくると、なんとなく分かってくる。「あ~、うれしいんだ」「いっしょに遊びたいんだな」と、気持ちが分かり、心がつながれたときは、とてもうれしかった。同級生のように意地悪したり、からかったり、ウソをついたりしない優しい彼らのことが、私はとても好きでした。それなのに、妹と街を歩くと、じろじろ白い目で見られたり、かわいそう、迷惑そうな顔をされる。ぶつぶつ独り言をいうと、「気持ち悪い」「バカだ」と笑う人もいる。悲しい出来事がたくさんありました。まるで自分たちの方が優れた人間であるかのような「健常者」と呼ばれる人たちの態度に、私は次第に嫌悪感をつのらせ、「障がい者に理解のない人間は、この世からいなくなってしまえばいい」と本気で思うようになりました。だけど、これって犯人の考えと同じですね。ぷんぷん一人で怒ってたって、社会は何も変わらない。世の中の人は敵じゃない、きっと悪気はなくて、よく知らないだけなんだ。だから、自分の知っていることをもっと伝えていこう。次に続く人たちが、少しでも住みやすい世の中になるように、何かはじめよう。二度とこんな痛ましい事件は起きてほしくない。何もしなくて後悔したくないから、私にできることをチャレンジしていこうと思います。
健常者だって沢山の人に支えられている…
障害者だから生きている意味がない!なぜ、そのように思うのでしょうか?障害者も健常者も同じ人間であり1人、1人個性があります。私は障害者の方のお手伝いをさせて頂いた事があります。身体介助は確かに大変な事。人の手を借りなければ生活はしていけない事も確か。でも、健常者だって沢山の人に支えられ日々生きてますよね?障害者も健常者も生きて行く形は違っても、人の手を借り生きているのです。障害者の方は否定的な考えより1日1日を大切に生きていて常に前向きだと私は思います。何気ない事も幸せに感じ、常に人に感謝する気持ちを純粋に持っていると私はおもいました。言葉が上手く言えなくてもその人なりの伝え方で私は何度励まされ勇気や希望をもらった事かわかりません。生きてる意味がない人間など何処にも居ないのです。
綺麗事ばかりの報道、なんだか白ける…
私がかつて入院していたとき、同じ病棟に障害者の介護をしている親御さんがいらして、よく子供の愚痴を言ってました。いつまで続くかわからない介護についての不安とか、自分達が亡きあと子供はどうなるのか、とか。いっそ風邪でもこじらせて早く死んでほしいとか。本当にいっぱい聞かされました。元介護職員の犯人なら、そういうことをもっといっぱい耳にしたことだと思います。だから犯行をおかしていいとは思いませんが、綺麗事ばかりの報道も、なんだか白けてしまいます。
「優生思想」に抗っていく行為が大切…
私は、この事件をきっかけに「優生思想」について真剣に考えました。恐らく、ほとんどの人間がこの考え方は持っているのだと思います。目を背けているのだと思います。100%障害があって子供が生まれるとなれば、ほとんどの人が生まない選択をします。法律は変わっても、その考えまでは根本から変えていくことはできないのだと思います。自分は、その考えがあることを踏まえて、それでもその考え方に抗っていく行為が大切だと考えます。ある人にとっては綺麗ごとと捉えられるかもしれませんが、それを真っ向から否定していく過程にこそ、障害者だけでなく、人間が生きていく意味を探求していくことにつながるのだと信じています。
私は社会のお荷物ですか?…
私も、知的障害があります。それでも、私は今会社で仕事をしています。私の障害が軽いかどうかはわかりません。ですが、私のように会社で働いている人もたくさんいます。それでも、社会のお荷物だと思えますか?加害者にそう言いたいです。多分、今の世の中に障害者を否定する人はたくさんいると思います。私は、その考えに否定するつもりはありません。しかし、完全に否定するのではなくて障害を一つの個性だと受け止めてもらいたいです。それができる社会になってほしいそれが私の願いです。
障害がある方を否定する意見は合って当たり前…でも…
障害のある方を否定する意見はあって当たり前だと私は感じます。私は福祉系の大学で学び、実際に実習等で重度心身障害の方が通う通所施設へお邪魔させていただいたこともありました。だからこそ言えるのですが、障害のある方はやはり普通の人とは確かに違います。生活するのにも助けが必要です。ただ、その点に関して言えば私たち障害のない人と何ら変わりありません。私たちだって必ずしも1人で生活しているわけではありません。彼らと私、私たちに人間としての優劣はありません。あるはずがないのです。ですが、福祉の仕事をしていると彼らを否定する人、社会、世界に対して、憤りを感じる瞬間があります。そしてそこから障害のある方を否定する人々を理解することができないと感じるようになってしまうのです。これは仕方のないことだと思いますが、そのような人々を否定するのは結局、そのような人たちと同じこと(否定)をしていることに他なりません。福祉に携わる人が否定をしてはならないのです。それがどんな意見であれ、です。だからこそ、否定の意見は受け入れ、それでも福祉に携わる人は正しい真実を伝えていかねばなりません。否定する人、意見をないがしろにせず、向き合い続けることがこれから必要になってくるんだと思います。
何が幸せか不幸かなんて、当事者以外の誰が決められるのだろう…
何が幸せか不幸かなんて、当事者以外の誰が決められるのだろう。私は、うまれつき聴覚に障害があります。以前は、障がいのあることに対してコンプレックスを抱えていましたが、自分自身を受け入れてくれる人たちの出会いにより、今は、障がいがあってもいいのだと、自分自身の存在を『許す』ことができるようになりました。今の日本の社会は、みんなと同じであることが良いことだとしている風潮があります。だとすると、マイノリティと言われる存在の方々にとってはとても生きにくい社会となってしまいます。何故なら、障がいのある当事者自身やその親御さん、ご家族の方、関わる方全てが、知らず知らずのうちに、障がいそのものを『許せなくなってしまう』からです。障がいを治すことはできません。治らないから、障がいなんです。生きている限り、治らないからこそ、障がいを許せないことは、自分自身の存在を許せないことに繋がります。許すことから、幸せは始まるような気がします。
誰が好き好んで、障害者として産まれてくるのか?…
心からの哀悼の意を表します。私の娘は発達障害で、自閉症です。今年、グループホームに入居しました。なぜ勘違いされてしまうのか?親が亡くなった時の事を考えて、苦渋の選択でした。側にいると手を貸してしまい、つい甘やかしてしまうから、自立させるために入居を決めました。なのに、厄介払いしたみたいな周囲の目。やりきれません。寂しさと、孤独感。一人になってしまった私も戦っています。いらないから施設に入れるわけではない!究極の愛の形です。家族を不幸にしてる?そんな事は家族が決める事!他人が介入する事ではありません!誰が好き好んで、障害者として産まれてくるのか?親も同じ。子供の障害を受け入れる事は、すごく辛い事です。子供側も同じです。それを乗り越えて今があるのに…。勝手な思想で暴走し、たくさんの命を奪い、自分は精神鑑定?ふざけるな!です。死刑になろうと、大切な命は戻りません。どんなつぐないも、当てはまらない。とてもやりきれません。
障害があったら生きていてはいけないのか?…
障害があったら生きていてはいけないのか?障害のある子を産んだ私は責められるべき存在なのか??障害のある子を社会に適応させる為に毎日必死に生活している私の人生は必要ないものなのか?一年前から毎日浮かんでは消える疑問です。でも、私は私が産んだ子と共に生きていきたいと思います。
私も加害者側に似ている思考かもしれない…
決して、障害を持つ方がいなくなればいいと思っているわけではないことを、初めに強く申しあげておきます。しかしながら、障害と共に生きる方の全てが、家族から手厚くされているわけではありません。惜しまれるどころか、周囲の人間が、ただ死なないであればいいといった様子で、お見舞いにも来ない、そういった姿を見ています。家族ではない、介護にあたる方は、当人の全てを介助し、毎日接して、しかし賃金は安く、勝手なクレームも多く、そのなかで、被告が「偏った」と言われる考えに浸ってしまったとしても、それがおかしいとか、悪いだけであるとどうしても思えないのです。綺麗ごとではないのです。加害者側の思い、意見、もしかしたら私も加害者側に似ている思考かもしれない、そこをこそ掘り下げて、何が問題なのか一つ一つ丁寧に考えることが、次の加害者を生まないことに繋がるのではないでしょうか。耳触りのいい意見、可哀想、気の毒、それだけで終わってしまっては、むしろ亡くなった19の命を無駄にすることになるのではないでしょうか。解決困難な問題だからこそ、社会の批判はおそらく強烈にあると思いますが、被害者側だけでなく、加害者側をも掘り下げ、何が彼をそうさせたのか、ちゃんと考えてほしい。世間的に受け入れがたい意見であろうことから、声を上げることが難しい加害者寄りの意見は、現場にこそ溢れています。それこそ表にはなかなか出しません。白い目で見られることが解っているからです。おそらく少なからず潜在している「次の彼」を生み出さないためにどんな取り組みが必要か、綺麗ごとではなく、被害者だけの意見でもなく、加害者側についても冷静に、正しく分析して、現場における障害者や介護が必要な方の本当の現状を、時間をかけて調べ上げ、社会に問題提議していただけたらと思います。
命の重さと真正面から考えさせられた…
障がい者の入所施設で働いています。1人ひとり個性があり、声をあげたり、動いたりするのは全て何かしらの意図があります。その背景を知ると少し世界が見えたりもします。亡くなられた方も何かしらの行動や声や表情で自分の意思を示していたのだと思います。職員の方はその事を知っていたと思います。言葉ではない行動、表情、訴え・・そこにその方の意思があり、想いがあり、意図があります。私は障がいのある方と接して生きるとは何か?人生とは何か?考えさせられましたし、教えていただきました。元職員の犯人は彼ら、彼女らの何を見ていたのかと思いました。とても悲しい事件ですが、こんな事件は2度とあってはなりません。障がいを持っていたから、そんなに報道されなかったのでしょうか?健常者ならもっと報道されたのではないか?もっと重い罪だったのではないか?と苦しい胸の詰まりを体験しました。彼ら、彼女らの心からの表情には生きる力を感じます。きっと犯人には感じられなかったのだと思います。命の重さと真正面から考えさせられた事件でした。
犯人の思想が自分と完全に違うとは言い切れない…
兄弟に重度の知的障害者がいます。身勝手な思想により人の命を奪うことは許されません。ただこの犯人の思想が100%間違っている、自分とは完全に違っているとは言い切れないのが当事者としての本音です。障害者の家族の中には、数年、数十年の介護により疲弊しきっている人がいます。よくTVなどで紹介される「障害者は純粋無垢だ、天使のようだ」なんて綺麗事では全く済まされません。施設に入れ、介護の重荷から逃れたいと、家族介護者の多くが望むはずです。私自身も「この子がいなければ…」と数え切れないくらい思ったことがあります。それが障害者の存在を軽んじる犯人の思想と、一体どう違うのでしょうか?程度の差はあれ、根本は似ていると私は考えてしまうのです。
障害者施設では生半可な思いでは勤められない…
やまゆり園と同様の障害者施設に勤めています。事件を受け私自身も色々考えさせられることがありました。就職し3年が経ちますが、障害者の方々と日々関わるということは正直なところ生半可な思いでは勤められません。強いこだわりを持つ方が多くコミュニケーションをとることは難しいですし、職員への他害行為、暴力や暴言もあります。体は痣や傷だらけで精神的にも何度もめげそうになります。そんな日々でもうまく関係性を築けたときや利用者さんの笑顔を見るとホッとし元気をもらっています。障害者支援はまだ陰に隠れた部分が多く、差別も当たり前のように続いています。重労働の割には給料も低く、職員もたりません。ですが困っている障害者の方々や家族は大勢いらっしゃいます。今後このような悲しい事件を起こさないためにも国をあげて障害者支援にもスポットを当ててほしいです。
故意に他人を傷つけることは許されない…
この事件は全く理解し難いですが、同時に社会の裏側を見せられた気がします。私は発達障碍者です。それを知ったのは28歳のときでしたが、自分自身が障碍者であることを受け入れることは容易ではありませんでした。それまで私自身が少なからず障碍者を蔑視していたことを思い知らされました。自身が幼く他人を容認できていなかった未熟さに恥ずかしくなります。障碍者は役に立たないと言うような言葉が見受けられますが、それは正確ではないと思います。役に立つ、立たないというのは個人とその周辺の状況を鑑みなければどうして判断できるでしょうか。これは私の考えですが、人間社会は一人一人身近な人と繋がりがあり,数えきれないほどの関係から成り立っていると思います。それを偏見により分断する行為は社会の多様性を失わせ、変化に対しより脆弱な構造へと向かうことだと思います。身体的にも精神的にも故意に他人を傷つけることは、いつ何時もどんな立場の人でも許されることではないことを肝に銘じなければいけないと思いました。
この世に必要ない命などない…
この事件の起きた数日後、寝たきりだった次男が亡くなりました。次男とともに、19人の方々のご冥福を日々祈っております。このサイトを知って、お一人お一人の事を知ることができて、うれしく思います。この世に必要ない命などないのです。19という数字や、障がい者というくくりではなく、ひとつひとつの命の重さを感じていくことが大事だと思っています。ご家族の悲しみは癒えないでしょうが、あなた方は何ひとつ悪いことはしていないと言いたいです。
私も「障害者はいない方が幸せだ」と思ったことが、でも…
こういった事件は風化していくものだとしても、今回に関しては、あまりにそれが早過ぎると思いました。容疑者の鑑定などで伝える事がないという都合もあるんだと思いますが、それでも報道されなくなるまでが早過ぎたように感じます。「障害者はいない方が幸せだ」このような思考に、私自身も思いをはせた時期があります。私の弟が先天性の遺伝性重度障害を持っていました。高校を卒業する間際までは自宅にいましたが、それ以上の継続的な医療的処置は家族ではかなわず、心身重度障害者施設へ入所し、それからは寝たきりのままでした。施設の職員さん方が、お忙しい中でも工夫をこらして季節毎のイベントを開催してくれたり、バスハイクで遠方へのお出掛けをしたりはしていましたが、障害の特性上、弟の表情はほとんど変わらないままでした。お見舞いに行くたびに、寝ているのか起きているのかも判別できず、食事も誤えんを予防する為の経管栄養を何年も続けていて「これで生きているといえるのか?」「弟にとっては死んでしまった方が楽なのでは?」という思いが、つい浮かんでしまい、その度に「人として最低だ」と自分を責めました。「あれと私の『いない方が』は意味が全く違う」と割り切るまでに、とても時間が掛かりました。この事件の翌日に弟は長年お世話になった施設を移動し、やっと新しい施設に慣れてきた頃に闘病を終えました。長年、表情を変えられなかった弟が施設移動の際、今までの施設から新しい施設に着くまで、ずっと泣いていました。新しい施設にカフェが併設されており、コーヒーの匂いを嗅がせたところ、興味深そうに目を見開きました。亡くなられた方々は特に重度の障害をお持ちだったと伺っています。恐らく弟と同程度、あるいは更に重度の方々だったのではなかろうかと想像しています。容疑者も一人ひとりの方々と長く向き合う事が出来たなら、今回の事は起きなかったんじゃないだろうかと思います。とはいえ、福祉業界の待遇が厳しい事も事実です。再発防止に大事なのは「容疑者がどんな人間だったか」ではなく、私たち自らも福祉業界の問題にまずは関心を持つことだと思います。最後になりましたが19名の皆様に、心から哀悼の意を表します。
偏見・差別の溝を埋める努力をやめない…
当時衝撃的なニュースでした。テロともいえる犯行に度肝を抜かれたのを覚えています。犯人が元職員ということ、障害者に対しての思想、全てが衝撃的でした。なんてひどい事件と思う一方で、被害者の匿名報道によって浮かび上がる「障害者だと実名報道されないの?」という世間の疑問。やっぱり健常者とは違うんだ、隠すということは触れてはいけないものなんだと事件が軽く扱われてしまったのが残念です。偏見・差別の溝は埋まらないのかもしれません。それでも溝を埋める努力をやめてはいけないと思います。お互い違うところをお互い認めることができる社会に少しでも近づけるように前に進んでいきたいです。
私たち家族にとって、息子は大切なかけがえのない存在…
私は息子が1歳の時に離婚して、実家に戻り息子を育ててきました。息子は現在17才になり、支援学校の高3です。息子は知的障害と自閉症があり、一人で出来ることは本当に限られていますが、明るくいつも笑顔で穏やかな性格で、またユーモア溢れる人柄で、私をはじめ家族はみな楽しく生活しています。私たち家族にとって、息子は大切なかけがえのない存在です。息子のいない日々など想像できません。私のかけがえのない宝ものです。確かに、端から見たら大変だと思われるかも知れません。でも、大変だとおもったことはありません。毎日楽しいです。あの事件はショックでした。あの事件の犯人の思想は到底受け入れられず、怒りと恐怖を感じました。でも、恐ろしい思想を持つ人は他にもいるのだろうなと思います。負けずに頑張らなければと思います。
障害の方たちを差別から助け出す事ができる大人になりたい…
事件を食い止められなくて、ごめんなさい。障害者を否定する人もいて驚きました。障害があっても同じヒトなのに…。父が養護教諭をしているので障害というものに親近感を感じます。私はまだ障害者の為に活動することはできませんが、障害の方たちを差別から助け出す事ができる大人になりたいです。
生きていること自体に、意味があるのだと思います…
「障害があるから、意味のない存在である」という考え方は明らかに間違っています。生きていること自体に、意味があるのだと思います。障害のあるなしに関係なく、みんなが幸せに暮らしていける社会を僕は望んでいます。
障害を持っている人たちも安心して暮らせるような世界になって欲しい…
障害者はこの世から消えればいい。このような考えを持つような人が1人もいて欲しくない。そう思います。亡くなった1人1人にはしっかりと考えがあり、思い、命がある。私の妹は、発達遅滞で小学生になった今も、まだうまく言葉を話すことができません。私はこの事件を道徳の時間に学びました。初めは可哀想、の一言でした。しかし、家に帰ってからすぐインターネットで調べてみると、様々な人の想いが書き込まれていました。読むにつれて、自分の妹もこうなってしまったらどうしよう、起こってからでは遅いんだ、と思うようになりました。私はいつかこの世界が障害を持っている人たちも安心して暮らせるような世界になって欲しいと願います。私はまだ中学生で、何をするにも全て親の力を借りなければいけません。妹が障害を持っている。このような事件が起きている。その真実をしっかりと受け止め、これからもずっと、妹を優しく、時には厳しく、また、自分も成長することができるように一歩ずつ踏み出さなければ、と思いました。
この事件を風化させてはいけないと思います…
私は障害者が死んで当然という考え方がとても恐ろしく感じました。障害を持つ方には生きる価値がないとでもいうのでしょうか?私はそうは思いません。障害があっても、人は人として生きる価値があります。被告は日本の憲法で全ての人に基本的人権の尊重が保障されていることを知らないのでしょうか?哀しい事だと思います。この事件を風化させてはいけないと思います。
いのちに優劣はないと思います…
どうして同じいのちなのに、自分の気持ちが上手に伝えられないからといって生きていても意味がない、と勝手に決めつけられなくてはならなかったのでしょうか。いのちに優劣はないと思います。わたしは大学で、重度の障害がある人たちの支援について学んでいます。そして、少しでもサポートができるようになりたいと考えています。今は指談を、障害がある方の気持ちや考えを聞くため、お勉強のために手を添えて行なっています。指談をもっと上手にできるようになって、声に出して気持ちを伝えられない人たちのことばをもっと聞きたいです。
たまたま、普通に生まれて、普通に生きてる…
たまたま、普通に生まれて、普通に生きてる。誰でも自分が基準。自分と違うから、普通と違うから差別してしまう。『障害者とはできる限り関わりたくない』誰もが思っていることかもしれないけど、誰もが持っていることかもしれないけど、どんな状況下にいても、一生懸命生きていこうと思っている人たちを殺したことは、誰も許すことはできないことだと思う。
その人の立場になって考えるという事が大切…
障害者や体の不自由な方が鉄道やバスに乗車する時、対応の仕方がほかの人と違う時が悲しいなと思う時があります。「自分がその立場だったら」など、その人の立場になって考えるという事が大切だと思います。その人達を支えるのは辛いかもしれないけれど、皆で助け合えば背負っていたものが限りなく少なくなると思います。
必要のない人間なんてこの世にはいない…
人の存在には必ず何らかの意義、価値があると思う。その人の存在が誰かを笑顔にしたり、勇気を与えたりするのだ。自分もこれまでたくさんの障がいがある方と出会い、その一人一人から笑顔にしてもらった。必要のない人間なんてこの世にはいないのだ。亡くなられた19人の皆様、心よりご冥福をお祈りいたします。
もっと家族を大事にしようと思いました…
私にも障害がある家族がいます。一緒に暮らすこと、何かを共に行動すること、多くのことがスムーズに進むことはありません。「何で私だけこんな思いをしなければならないんだ」などと、家族に暴言を吐くことがあります。でも、唯一無二の私の家族であり、1人の人間でもあります。この事件を知って、もっと家族を大事にしようと思いました。亡くなった方々が天国でゆっくり休んでいることを願っています。
社会に貢献しなければ生きてはいけないの?…
私は障害者ではないですが、学校に行けていません。色々な事があり、行きたいと思わなくなりました。また、生きる気力というのも前より減りました。しかし、この19人の方は生きたいと思い、生きていた方々です。とても胸が痛くなりました。社会に貢献しなければ生きてはいけないの?誰にも迷惑をかけないようにしている、学校に行けるように努力しているのに生きてはいけないの?私はこう思いました。確かに障害者の方や私のような不登校児は社会に貢献をしていないかもしれません。しかし、生きたいのです。一時期は死のうと思うことがありました。しかし、生きています。それは家族という大切な人がいたからです。友達はいません。クラスでも一人です。それでも生きているんです。自分勝手な判断で、人を殺めて殺された人の家族はどう思うのですか?嬉しいなんて絶対思いません。ただただ生きて欲しかったと思っているはずです。だから私は犯人を許せません。
自分のできる限りこの事件を風化させないようにしたい…
19人の方々の名前などが報道されず、このままでは、この事件が風化してしまうのではととても不安でした。だから、このサイトの存在ができて、ホッとしています。事件や犯人と同時に、許せないのが犯人の考えに同調するネットなどの書き込みでした。「何を考えているんだ!!」という思いです。できるなら、自分のできる限りこの事件を風化させないようにしたいと思います。
ご遺族の方や職員の方の文章を読んで、自然と涙がでてきました…
ご遺族の方や職員の方の文章を読んで、自然と涙がでてきました。特に印象に残ったのは、容疑者のように考える人もいると、社会はそういうものだと考えているご遺族の方のコメントでした。私自身障害者を否定した考えは持ってないつもりなのですが、意外と「年寄りや障害者は全員死ねば良い」とか、そういう事を簡単に言う人って結構いるな、と生活してて思います。でもそう言ってるその人自身もいつか年をとるし、事故などで障害を持つかもしれないのに、何故そんな事を言うんだろうと思います。
安らかに眠ってください、私たちはこの犯人を、絶対に許さないので…
介護福祉の仕事を夢見る中学生です。最初、この事件を聞いたときは怒りを通り越して、正直あきれました。たとえ障がいがあっても同じ人間なのに、どうしてこんなことができるのでしょうか!安らかに眠ってください、私たちはこの犯人を、絶対に許さないので。
この事件から、障害者・家族は不幸という、間違った偏見を持つ人に分かって欲しい…
息子に障害があった事で、色々な方と出会い、助けられ、支えられて過ごしています。息子に障害がなければ、息子はもっと自由に、好きな事も、もっとたくさん出来たかもしれないという思いをする事もあります。でも、今関わっている方々との出会いはなかったのかもしれません。だから、不幸では無いのです。この事件から、障害者・家族は不幸という、間違った偏見を持つ人に分かって欲しいです。健常だろうと、障害があろうと、家族なんです。親は、一生守っていきたいんです。
障害者を差別せず、区別するでもなく、障害者に配慮できる人間でありたい…
いま、健常者と呼ばれる人達は、たまたま障害を持たず産まれ、たまたま現在まで障害者にならず生きてこれただけなのです。障害を持つ方々と接する中で、健常である事のほうが、稀なのだと感じています。障害の有無で、人の価値は左右されてしまうものなのでしょうか。そもそも、人に価値なんて、つけられるのでしょうか。障害者を差別せず、区別するでもなく、障害者に配慮できる人間でありたいと思います。
障がい当事者としてメッセージを発信していきたい…
私は生まれつき脳性マヒというハンデを持っており、手足と喋ることが不自由です。着替えること・食事をすること・入浴することなど、ごく当たり前のことが一人ではほとんどできず、26年間ずっと朝、目が覚めた時から夜ベッドに入るまで母に手伝ってもらいながら生活しています。普通小学校・中学校に行きましたが、障がいがあることからいじめられたり、まともに相手にされず「死ねばいいのに」とさえ言われたりしましたが、先生は問題視しませんでした。今回の事件を知った時、小学生の時に「死ねばいいのに」と言われたことが現実になりかねないことだと改めて思い知らされ、生きていることを否定されたようで言葉にできない悔しさとショックな気持ちになりました。確かに障がい者は一人ではできないことが多くあり、目に見える形で社会に貢献することはできないかもしれません。しかし障がい者は自らの存在を通して、すべての人が暮らしやすい社会にするためにはどのような社会システムが必要かなど、何らかのメッセージを伝えているのではないでしょうか。障がいを持って生活することは決して簡単なことではありませんが、生まれつき障がいがある私にとっては障がいがあって当たり前なのです。発達障がいの子どもとその家族への支援について、研究している今、私は「障がいという資格を持っている」と胸を張って障がい当事者として、また一人の支援者・研究者の卵として研究しています。この先もいくつもの壁を越えながら社会の一員として生きていきたい。自分でできないことがあると「障がいがなければ」と悔やんでしまう時もありますが、前を向いて自分らしく歩んでいきたいと思います。誰もが肩身の狭い思いをせずにそれぞれの違いを認め合える社会になるように、障がい当事者としてメッセージを発信していきたいと思います。
必要のない「いのち」なんてこの世にひとつもないと思います…
障がい者を排除する思想に断固反対します。わたしも発達障がいがあります。知的障がい者施設の職員として勤務しています。職員としてできないことも多々あり、他の職員や利用者にも迷惑や心配を多くかけていると思います。障がいがあってもその人なりに精一杯生きています。その人なりに与えられた「生き役」を持っています。必要のない「いのち」なんてこの世にひとつもないと思います。二度とこのような事件があってはならないと思います。障がい者の差別・排除されない、ともに生きる社会がほんとうに実現される日が一日も早く実現されるとことを切にねがいます。
私は幸せです。幸せ不幸せは他人が決めることではない…
私は幸せです。幸せ不幸せは他人が決めることではない。自分の心が決めるのではないでしょうか。7才の知的障がいを伴う自閉症の息子がいますが、日々の小さな成長に喜びを感じ、可愛らしい笑顔に癒されています。毎日楽しく支援学校に通っています。息子の障がいについて、心配だったり不安だったり不便だったりとありますが、不幸だと思ったことはありません。だから、容疑者がご遺族の気持ちを勝手に決めつけていることが許せません。この社会は、助け合いではないでしょうか。私は親せきなどに障害がある方がいなかったので、観念的、道徳的には理解していましたが、障害がある子を産んで、より理解が深まりました。人は突然事故にあったり、病気になったり年老いたりして、障害者、弱者になるかもしれません。ある時は誰かを助け、ある時は誰かに助けられ、皆ひとりでは生きてゆけないのだと思います。障害者は何も役に立たない?いいえ、その笑顔、優しさ、たんたんと生きる姿に、今日も誰かが勇気づけられ生きているのではないでしょうか。
生きる価値があるか無いかなんて、ひとりが決められるものじゃない。…
障害があってもなくても、みんな、誰かの愛する人であり、大切な人。生きる価値があるか無いかなんて、ひとりが決められるものじゃない。生きなければ。命の尊さをもっと知るために。
被告を世間的に排除することは、被告が被害者にしたことと同じ…
『障害者=世の中の役に立たない、いらないもの』という被告の考えは、偏っていると思います。しかし、被告自身が自らのことをそのように痛感していたのではないかとも思います。自分を見て欲しくて、寂しくて、自分を特別な存在だと思いたくて、苦しかったのではないかと思います。被告のしたことは決して許されることではありません。しかし、被告を世間的に排除することは、被告が被害者にしたことと同じ、『いらないものを排除する』ということと同じだと思うのです。どんな人も一人だけで生きている人はいないと思います。その人だからこそ出来ることもあれば、難しいこともあります。だからこそ、誰もが支え合って生きていること。支える力があること。時には支えてもらってもいいこと。これらを周りに伝えていきたいと思います。
この事件をきっかけに「優生思想」について真剣に考えました。…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
怖かったでしょう。痛かったでしょう。一番身近にいて、信頼もしていたであろう元職員からの犯行でうまく言葉になりません。自分たち障害者にかかわるものが先頭に立ってこの事件をしっかりと考え、避けることなく真剣に向き合っていかなくてはいけないと思います。無関心であっては絶対にいけません。
◎今回の事件についてのご意見
私は、この事件をきっかけに「優生思想」について真剣に考えました。恐らく、ほとんどの人間がこの考え方は持っているのだと思います。目を背けているのだと思います。100%障害を持って子供が生まれるとなれば、ほとんどの人が生まない選択をします。法律は変わっても、その考えまでは根本から変えていくことはできないのだと思います。自分は、その考えがあることを踏まえて、それでもその考え方に抗っていく行為が大切だと考えます。ある人にとっては綺麗ごとと捉えられるかもしれませんが、それを真っ向から否定していく過程にこそ、障害者だけでなく、人間が生きていく意味を探求していくことにつながるのだと信じています。
「いなくなってもいい人間なんて一人もいない」…
この事件を知り、激しい怒りと悔しさを感じました。亡くなられた方々と会ったことはありません。しかし、絵や紹介文を見る限り、いつも笑顔で、毎日を明るく一生懸命生きておられたように思います。その19人の方々の、大切で尊い命を「いなくなればいい」という理由で簡単に奪った犯人を、決して許すことはできません。そしてご家族が感じている悲しみや苦しみを思うと、胸が張り裂けそうです。「奪っていい命なんて一つもない」ということ、「いなくなってもいい人間なんて一人もいない」ということを決して忘れて欲しくないと思います。
逮捕された元職員の言動には腸の煮えくり返る思いがしました…
◎亡くなった方たちへのメッセージ
皆さんの生きてきた証、このサイトが全てではないですが、垣間見させていただきました。皆さんの生きてきた証は私の中で生き続けます。そして、皆さんの途切れた証は無駄にせず、周りに、未来に伝えて生きます。あなたがいてくれてありがとう。私が命つきたあと、皆さんのこともっといろいろ教えてください。今すぐそちらの世界にはいけませんが、楽しみにしています。
◎今回の事件についてのご意見
テレビをつけると衝撃のニュースが入ってきました。逮捕された元職員の言動には腸の煮えくり返る思いがしました。大学のゼミの教授からゼミ生に緊急のコメントも送られてくるような事態で、誰もが憤っていました。中学校まで私の同級生に知的障害の子がいました。彼は親の方針で特支ではなく普通に公立学校に通っていました。私が初めてあったときに、彼は何か違うと思いましたが、次第に彼の実情を理解して接するようにしました。障害は障害をもたない人にとってカルチャーショックのようなことだろう。それでも、皆が一つ同じ場所で互いに笑顔を見せあえる日が実現できるように努めねばならないだろう。
サイトを立ち上げること自体が故人の方などを特別の角度の視点で見ている…
1人1人の命の重み、障害があろうとなかろうと・・・痛いほど感じて生きてきました。私、個人的にはこのようなサイトを立ち上げなくても「一人の人」として当たり前に生きていれば故人の方の人生、命などは事件がおきた時点でもう考えていることだと思います。わざわざサイトを立ち上げること自体が故人の方などを特別の角度の視点で見ているような気がして私自身はこのようなサイトは好きではありません。
犯人の言葉が何回も流された時、子供から僕は不要な人間なの?と質問され…
うちにも発達障害の息子がいます。この事件の報道で障害者は社会的に不要という犯人の言葉が何回も流された時、子供から僕は不要な人間なの?と質問されました。何度もその言葉を報道することにたいしても、その言葉に同調する意見をいう人達にも強い憤りを感じます。そういう考えの人たちはどれだけ周りに貢献しているのでしょうか?そういう考えの人が周りの人を幸せにできているのでしょうか?まともに働くことだけが生きている価値なのでしょうか?うちの子供は天使みたいに純粋な心を持っています。家族にも周りの人にも幸せをくれています。それだけでも生きている価値はあると思います。障害者が不要というような心を持っている人の方が、よっぽど心の障害者だと思います。
ご意見をお寄せください
相模原障害者殺傷事件についてのご意見や、
亡くなられた方へのメッセージを募集しています