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19の命

19歳の女性

19歳の女性

母親

今は突然のことで混乱し、何と言ったらいいのか、わかりません。可愛い娘を失い、ただ悲しく、事実を受け入れられない状態ですので、落ち着くまでそっとしておいて欲しいと思います。(事件直後のコメント)

施設関係者

短期で施設を利用していたころから、かわいらしい笑顔で人気者でした。

40歳の女性

40歳の女性

施設関係者

あなたの笑顔に会いたくて、ホームを訪れる人もいました。毎日の食事をおいしそうに食べ、お散歩やドライブ、ひとつひとつを楽しみながら過ごしていました。

26歳の女性

26歳の女性

更新2017年07月 更新

母親

娘を亡くしてから時が気ぜわしく過ぎてゆきました。一周忌を終えて一年がたっても、いたたまれない。小さい頃からお友達に好かれ、時にはわがまま言ったりしても、かわいがられてきました。水遊びが大好きで園のお風呂も大好きでした。学校では、音楽部に入っており、カラオケでマイクを持って満面な笑顔の娘の写真を見るといとおしくて涙があふれてしまいます。

娘の事を思い出さない日はありません。よくそばによりそって甘えてきたね。そんなあなたと共に一緒に歩んで来ました。今、思うと、もっといっぱい遊んであげれば良かった。もっと思いをわかってあげたかった。心残りがいっぱいあります。娘の好きだったスピッツの「チェリー」のCDを探しに行くと店頭にアイドルの横にならんでスピッツのヒット曲がかざられてあり、まるで娘が導いてくれたかのようでした。たまにかけて娘と一緒に聞いています。

キラキラした瞳で多くの人に安らぎを与えてくれ、いろんな人に力をくれ愛されていたのに、何でこんな事になってしまったのか。あまりにもひどすぎる。障害を持っているのはとても大変だけれど、望んで障害者になったわけではない。偏見を持たないでほしい。障害者がいやでもいらない命はないのです。けっして傷つけたり殺してはならない。絶対に。

更新2017年01月 更新

母親

娘は自閉症で、言葉で伝えることは苦手でしたが、しぐさや行動で自分の気持ちを伝えてくれました。家ではアイスクリームが大好きで喜んで食べていました。パンも好きで固めのパンを好んで食べていました。親が言うのはおかしいかもしれませんが、本当にかわいい子で小さなころから友だちに好かれる子でした。バレンタインデーに女の子から手作りのチョコをもらったこともありました。本当に愛おしくて、娘の顔をずっとみつめてしまうこともありました。障害に合った専門的な学びを受けられる場がいいか、多くの子どもたちに受け入れられる状況が良いかなど、「少しでも娘にとって良い環境を」と考えて育ててきました。幼いころは階段をのぼるのも一歩一歩という感じでしたが、保育園に通うようになって長距離の散歩やマラソンもできるようになりました。保育園から高等部に通うにあたって、みんなの手助けもあり成長していきました。おちゃめなところもあって、夏場に教室でみんなが暑さにバテてしまっている時には、気がついたら隣の部屋に行って扇風機で涼んでいたこともありました。娘がいたことで「クラスが明るくなった」と伝えてくれた同級生もいました。良い先生たちにも恵まれ、ある担任の先生は娘との出会いをきっかけに特別支援学校の教師への道を選んだと話してくださいました。娘の思いも伝わっていたのだと思います。

やまゆり園には4年前に入所しました。事件の日、夜になって初めて娘と対面しました。すでに棺に納められていて、抱きしめることさえできずに嗚咽しました。ずっと顔を見ていたかったけれど「次の人もいるので」と言われ、去らざるをえませんでした。告別式には、友だちや元同級生の親御さん、それに先生や園でお世話になった多くの人が集まってくれました。娘は友達が歌っているのを聞いてからスピッツの「チェリー」という歌をとても気にいっていたので、皆で聞いて、たくさんの花で囲まれながらお別れしました。しんみりしたお葬式と違って、娘が残してくれた楽しかった思い出も振り返りながら偲びました。

まま

娘は中学生の時、書き初めで「まま」という字を書きました。他の字を書いていたのに、だんだん「まま」「まま」とばかり書くようになって、それが嬉しくて、告別式の時に「まま」という字を写真にしました。娘の写真とともに、いまも肌身離さず持ち歩いています。
事件後、気落ちしていた時に、小さい頃の娘が夢に現れてくれたときは「やっと会えた」と嬉しかったです。また夢に現れてほしいと願っています。

事件は、精神鑑定にかなり時間がかかっていたのでどうなるのだろうかと不安でしたが起訴されたのは良かったと思います。被告は反省もしていないのでしょうが、裁判が始まったら、どのような形になるかはわかりませんが気持ちは伝えたいと思います。みんなそれぞれ考え方が違うと思いますが、私は事故や災害であれば名前を出したと思います。ですが、このような形で娘を奪われ、いなくなってしまったことがあまりに辛く、いまは伝えられずにいます。被告に一番言いたいことは、ただただ「私の娘を返して」ということだけです。

母の手紙・似顔絵

娘は一生懸命生きていました。

福祉関係者

パンが大好きな方でした。大きな瞳をくるくるさせている表情が、とても心に残っています。不思議な魅力があり、支援者からはとても人気がありました。彼女が亡くなったと人づてに聞き、絶句して涙を流すスタッフもいました。

写真
70歳の女性

70歳の女性

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

お兄さんのことが本当に好きでした。お兄さんが来ていないときも、近い年代の職員と手をつないでニコニコしていました。歌もすごく好きで、園の盆踊りでみんなで踊ったドンパン節がお気に入りで、ふだんから職員といっしょに歌っていました。朝が苦手でなかなか起きられませんでしたが、「おりんごむきましたよ」と言うと起きてもらえました。朝ごはん用に園で専用のリンゴをストックしていたほどです。人の輪に積極的に入っていく方で、みんなで温泉施設に行ったときは全く違うグループの人たちのところにちょこんと座り、ほほえんでいたこともありました。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

お兄さんのことが大好きで、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕っていたようで、いつもお兄さんが施設に来るのを心待ちにしていました。お兄さんが来るとよく手をつないで2人で散歩をしていた姿が非常に印象に残っています。私たちにも「お兄ちゃんのことを話してよ」ってせがんできたように感じて、話をしてあげると、すごく喜んでニコニコと笑顔を見せてくれました。歌が好きで、お兄さんが教えてくれた歌をよく口ずさんでいるようでした。いろいろなことに挑戦する一面もあって、私たちを驚かせてくれました。みんなで遠足に行った遊園地では、いろいろな乗り物に挑戦していました。水族館もお気に入りで、水槽の前で泳ぐ魚の姿をじっと見つめ、離れようとしなかった姿が思い出として心に残っています。

60歳の女性

60歳の女性

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

魚がすごく好きで、焼き魚でも煮魚でもよく食べました。食事に魚が出ると、いつの間にか職員のお皿にまで手を伸ばしていました。魚以外は食が進まないこともありましたが、マヨネーズをかけると何でも食べていました。職員にとっては新人泣かせなところがありました。というのも、ベテランと新人をすごく見分けていたんです。慣れている職員が食事を介助すると全部食べますが、新人がやるとなかなか食べてくれませんでした。利用者との関わり方を学ぶ上で鍛えられた職員も多いと思います。
音楽が好きで、童謡など誰かが聞いている歌のメロディーに合わせて首を振っていました。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

ぬいぐるみが好きで、部屋にはたくさんのぬいぐるみがありました。特にパンダのぬいぐるみがお気に入りのようでした。本当に穏やかな人で、話すことはあまりできませんでしたが、目をじっと見つめてきて、そうすることで自分の思いを伝えようとしていました。うれしいときは体を左右に揺すって、にっこり笑う姿が印象的でした。人に迷惑をかけることもなく、本当に“天使のような女性"でした。私たちが声をかけた時に見せてくれる、ほほえんだ顔が大好きでした。なぜ、あんなにいい人を無残にも手にかけたのか、絶対に許せません。

施設関係者

どんな困難にも負けない強い人でした。重い病気になったときも、家族の励ましに応えるようにしていた姿が思い出されます。

65歳の女性

65歳の女性

施設関係者

いつも笑顔で仲間の中心にいる方でした。ご家族と一緒に外出したとき、とても嬉しそうにしていたことを覚えています。

46歳の女性

46歳の女性

元施設職員(女性・70代)

お話し好きで、人なつっこくて、よく職員の会話に入ってきました。中山美穂さんや工藤静香さんなどアイドルに興味があって、テレビを見たり、雑誌を見たりしていました。持病を抱え、つらい時もあったろうにすごく努力していました。ちゃめっ気があって本当にかわいい人でした。

施設関係者(男性)

おしゃべりと人が大好きな、にぎやかな人でした。彼女なりの理由があると思うのですが、集団でいると急に「怒るよー!」「何やってんのー!」と強めの言い回しで周囲を「えっ、なに?」と驚かせます。と思いきや、一瞬、間をおいて「……ごめんねーっ!」と言ったりで、その間の良さ、見事な緊張と緩和に吹き出してしまいました。
薄いピンク色が好きで、外出の訓練で一緒にカラオケに行ったときも薄ピンクのパンツに黄色いリュックを背負っていた姿が印象的でした。あんなふうに命を奪われるいわれは何一つない、楽しい人でした。

65歳の女性

65歳の女性

更新2017年08月 更新

姉は知的障害というハンデがありましたが、私たちにとってかけがえのない家族でした。姉は気が強いところと優しいところがある人で、気が強いところは父親似、優しいところは母親似です。一緒に電車やバスで出かけた時には、お年寄りや子連れの人を見つけると、席を替わってあげていました。少し離れたところにいる人にも、わざわざ手を引いて連れてきて、替わってあげるのです。母がそうするのを見て、覚えていたのだと思います。
被告人は、障害者は生きている意味がないなどと言っていますが、そんな風に思っていた家族は一つもないと思います。今回、匿名で報道されたのは、障害のある姉を恥ずかしいとか、知られたくないと思ったからではありません。最初、匿名を希望している人がいると聞いたとき、私は「なぜ?」と思いました。けれども、私自身、今は乗り越えたものの、妻と結婚するときに反対する人がいた経験もあり、家族に障害者がいることで差別を受ける現実があることは知っています。各家庭でいろいろなご事情があるのは察することができたので、全員について匿名報道にすることに同意しました。
葬儀では静かに姉を見送ることができ、自宅に大勢記者が押しかけるということも避けられたので、そういう意味では匿名報道をされて良かったと思っています。今後も、静かな生活を乱されたくありませんし、凄惨な現場や、ストレッチャーのうえの遺体袋に入れられた姉の姿を思い出すだけで、胸が締め付けられます。自宅への取材・訪問はやめて頂きたいです。
子どもの頃、障害のせいでいじめられていた姉が、このような形で命を奪われることになり、本当にかわいそうでなりません。被告人のことは絶対に許すことはできません。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

明るくて世話好きな方でした。洗濯物を畳むのが大得意で、ほかの入所者の衣服やタオルを畳んで、決められたタンスにしまってくれるなど、よく私たちを手伝ってくれました。うれしいことがあると声を出して楽しそうに笑っていたことを思い出します。
積極的で行動力もあって、遠足ではどこに行くにも先頭でした。職員を「急いで、急いで」と、ひっぱる姿が目に浮かんできます。話すことが少し苦手でしたが、言葉はちゃんと理解していました。ふだんから、利用者さんが転んだり困ったりしていると職員のところにきて、手を引いて連れていってくれました。ご家族との関係もすごく良い方でした。

35歳の女性

35歳の女性

更新2017年07月 更新

父親

この1年間、娘のことを思い出さない日はありませんでした。風呂に入っている時は「一緒に入ったな」、ひげを剃っていると「こんな時に寄ってきて、足をトントンたたいてだっこをせがんでいたなあ」と。ふとしたことで何かしら思い出し、嗚咽します。
1番思い出すのは、だっこした時に妻のほうを向く姿です。得意そうにするんですよ。「勝ったよ。父は私のほうが好きなんだよ」って様子で。めちゃめちゃかわいかったです。
でも事件の3週間ほど前、やまゆり園で最後に娘と会った際は、私の右肩が動かなくてだっこしてあげられませんでした。今でもずっと心残りです。

写真

犯人が衆議院議長に書いた手紙の内容の通りの形で事件が起きたことについては、悔しい思いがあります。一方で、彼が障害者に対してあのようなことを言っていることについては、私が否定しようが反論しようが、彼が思っていることですから、どうしようもならないと思っています。社会のせいで事件が起きたとも思っていません。そんなことを考えてもきりが無いですから。
裁判を見届けたいという気持ちは特にないです。法廷で犯人のことばを聞いたところで娘が戻ってくるわけではありません。犯人の気持ちは特に考えたくもないですし。やったことの事実は事実として、裁判所に判断してもらえればと思います。

娘が亡くなったのは施設に預けた自分のせいだと、今も思っています。でも一緒に暮らすのは無理でした。妻が入院して私も仕事があった中、食事がうまくできないと誤えん性の肺炎を起こす娘と暮らしていけるのか、怖かったのです。入所が決まったとき、私は「助かった」と思いましたが、娘は全く喜んでいませんでした。
事件以来、毎日遺影にコーヒーを供え、ごめんねと語りかけてきました。でも最近は私が体調を崩し、そういうこともできなくなってきました。私はがんで、あと何か月生きられるのかわかりません。娘には「もうすぐ行くよ」という言葉だけです。「行ったらだっこしてやるよ」と。娘が亡くなったことで、私には思い残すことはもうないのです。

写真

妹は、僕が小学生の頃から「長く生きられない」と言われ続けました。「次に発作が起きるともうだめだ」と母がよく話していました。一緒に遊んでいたときに急に発作を起こして救急車で運ばれ入院し、記憶をなくして僕のことが認識できなくなったこともありました。
妹の障害を意識して生活したことは全くないのですが、命は常に気がかりでした。「10歳までは生きられないよ」と言われ、「15歳は無理だね」とか、「奇跡が起きない限り20歳は越えられない」「成長期の発作に耐えられない」、そういう話をずっと聞いていました。成人すると、今度は「薬が強いから、実年齢よりも老化が進んで内臓が持たない」と言われました。でも妹は30歳を越えたのです。そうしていろいろな時期を乗り越えてきて、次第に緊張感もなくなっていました。僕は、妹は人よりもちょっと短い命になるかもしれないけれども、老衰という形でまっとうして最期を迎えると信じていました。それが最後、あんな形で…。

犯人に、妹のことを分かってくれとは思いません。ただ犯人が言った「意思疎通ができない人」というのは違います。妹は、うちの家族みんながコミュニケーションとれていました。自己主張の強い妹でした。「コーヒーが飲みたい」とすぐ甘えてきて、あげれば「まずい」と文句を言う。よければ「まあいいんじゃないか」って表情をしました。自分の中で悪いと思っていることをすれば隠れたり、逆に甘えたりしてきました。遊んでほしいときには遊んでほしい、嫌なことは嫌だ、意思の表示はしっかりできていました。犯人が言っていることは、僕にはさっぱりわかりません。犯人が今後どんな話をしようが、納得も理解もできないと思います。

イラスト
更新2017年01月 更新

ご家族

コーヒーが大好きで、朝起きたらカップ1杯飲んでいました。みかんやいちごも好きでした。足をたたいてくるのが抱っこをせがむ合図でした。膝に乗せて、抱きしめると喜んでいました。いくつになっても甘えん坊でした。
4年ほど前に母親ががんで亡くなりました。身の回りのことは助けが必要でしたが、父親も仕事があったため、やむなく施設に入所してもらうことになりました。職員に本当によくしてもらったと思います。ただ家にいるほうが好きだったんだと思います。面会に行くと怒っているような表情を浮かべていて、心苦しい気持ちがありました。お土産にぬいぐるみを持っていくと、抱きかかえたり振り回したりして喜ぶので、ベッドの周りが全部ぬいぐるみになっていました。近くの相模湖や宮ヶ瀬ダムに行き、車いすに乗せていっしょに水辺を散歩して過ごしました。施設に戻って「じゃあね」と言うと、「え、帰っちゃうの」という表情をしていました。
棺の中には、好きだった「となりのトトロ」の絵本を入れました。今も毎朝、コーヒーを供えて手を合わせています。ふとした時に、一緒にお風呂に入ったり、テレビを見たりしていた日常を思い出します。
いま思うことは、「ごめんね」というおわびの気持ちだけです。犯人への憎しみよりも、施設に預けた方が悪いという気持ちが強いのです。容疑者の「障害者は不幸を作る」という言葉には憤りを感じ、違うという気持ちは当然あります。でも社会の中にはそう考える人はいるし、それ以上に優しい人もいます。社会を変えなくてはと思うより、社会はそうしたものだと受け止めています。最近は家族の間で彼女のことを話題にもしないようにしています。つらくなるからかもしれません。静かに過ごしたいため、このまま名前を公表せずにいることを望んでいます。

施設関係者

フルーツとコーヒーが大好きな方でした。施設で暮らすようになってからも、ご家族から受けた愛情に包まれながら笑顔で過ごしていました。

55歳の女性

55歳の女性

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

穏やかな方でした。ほかの利用者でとっても仲のいい方がいて、散歩の時にはよく名前を呼ばれて手を引かれていました。葉っぱやひもで遊ぶことが好きというのは、職員の間で引き継ぎ事項になるほどみんなに知られていましたよ。食べ物は好き嫌いなく何でもよく召し上がりましたが、水分補給はいつもブラックコーヒーで、お茶とかほかのものは飲みませんでした。
言葉はほとんど話しませんでしたが、周りが言っていることはすごくわかっているなと思うことがたくさんありました。私がちょっとしたことで注意をするために名前を呼ぶと、ごまかすように「らー」と言いながら片手を伸ばしてきて、私の体を自分に引き寄せていました。
私がいた時は毎月ご家族が面会に来ていました。ご家族が来られない月があると「いつもと違う」という様子で、自室から建物の入り口までトコトコ歩いて立っていました。ご家族に会いたくて探しているんだなと思い、印象に残っています。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

いつもニコニコしている、穏やかで純粋な方でした。施設の周りに散歩に行くと、道ばたの草や葉を手に取って、その草を自分の目の高さにあげて、じっと見つめながらくるくると回して喜んでいました。私たちはその姿を見るのが大好きで、和やかな気持ちにさせてくれました。

55歳の女性
41歳の男性

41歳の男性

施設関係者

短期で施設を利用していた方でした。作業のときもふだんから、ホームの仲間たちを優しく見守ってくれていました。

43歳の男性

43歳の男性

元施設職員(男性・30代)

野球が好きな人でした。男性のタンスにはたくさんの野球のユニホームが入っていたのを覚えています。箸を使って食事もできるし、1人で風呂に入って体も洗えるし、しっかりと自立していつもニコニコしていた人でした。

66歳の男性

66歳の男性

元施設職員(男性・70代)

とにかくラジオが大好きで、小さな携帯用のトランジスタラジオをいつも手に持ったり、ポケットに入れたりして持ち歩いていました。音を楽しそうに聴いていたのを覚えています。家族が面会の時に新しいラジオを持ってくると、とてもうれしそうに新しいラジオをいじっていました。
言葉が不自由な面もありましたが、日常生活にはほとんど支障がなくて、時々、おちゃめないたずらをする姿を見ていると、ほっとして癒やされるような気持ちになりました。何かというとちょっと声をかけたくなる存在でした。そんな無抵抗の彼を襲った行為は、絶対に許すことはできません。

元施設職員(男性・70代)

ラジオにこだわりがあって、365日、散歩に行くときも、寝るときも風呂にいくときも肌身離さずに持っていました。だから壊れたり電池が切れたりすると大騒ぎしていたことが懐かしいです。とにかく明るい人で、いつもニコニコしていてみんなに好かれていました。亡くなったと聞いて、「なぜなのだ」と強い憤りを感じました。いまも信じられません。

元施設職員(男性・30代)

ラジオが好きで、いつもラジオを持ち歩いていました。どこかに遠出する時は、行った先でラジオを買うのを最も楽しみにしていました。ラジオだけではなく、ボタンを押したら光る機械も好きでした。男性との思い出で最も印象に残っているのは、夜勤で泊まっていた時、ホームの中から「ひー、ひー」といった音が聞こえてきて、恐る恐る部屋の中をのぞくと、当時流行していた、押せば「へぇ~」と鳴るボタンを連打して遊んでいました。こちらはすごく怖い思いをしていたのに男性はニコニコしていて、拍子抜けしたことを鮮明に覚えています。そんなおちゃめなところがある人で、いまでも当時の同僚たちと集まれば、このときのことが話題になり、皆で男性のことを思い出しています。

66歳の男性

66歳の男性

元施設職員(男性・30代)

音や香りにとても敏感な方でした。とにかく散歩して外の空気を吸うのが好きだったと覚えています。ラベンダーやミントなどのにおいがするアロマオイルもお気に入りで、香りを嗅いでうれしそうにしていました。そんな穏やかな日々を過ごしていた方でした。

元施設職員(男性・70代)

本当に家族に大切に育てられていて、優しい人でした。メンソールの香りが好きで、鼻の下にちょっぴりつけてあげるとご機嫌になったことを覚えています。とにかくご家族のことが大好きで、ご家族も彼のことを大切にしていて、毎月必ず面会に来られていました。面会の時はもう大喜びでドライブに出かけたりしていました。

55歳の男性

55歳の男性

更新2017年07月 更新

家族

あの日、ラジオで事件のニュースが流れてきて「津久井やまゆり園だ」「まさかな」と思っていたら朝7時過ぎに園から電話があって兄が犠牲になったことを知りました。障害者を狙うなんてとショックが大きく、今でもパトカーや救急車の映像を見ると辛くなってしまいます。
事件直後は大きな騒ぎになりましたがすぐに消えてしまい、1年経ったいま何もなかったようにすら感じて怖いです。でもいろんな事件があるから仕方ないのかもしれませんね。

家では毎日家族と兄の仏壇にお線香をあげ、兄が好きだったものを買ってきて供えて、兄との思い出話をしています。怒られた時はしゅんとして、ほめられるとすごい笑顔になる喜怒哀楽が豊かな兄でした。言葉で表現するのは苦手でも「あー」や「うー」と声やトーンを使い分けて伝えてくれました。黒い服が似合わない父を見て母が「あなた本当に黒が似合わないわねえ」なんて言うと、兄がケラケラと笑って、それを見て父が「なんで笑うんだよ-」と笑いながら声をかけていたことも懐かしく思い出します。一度覚えたことは忘れなくて、家族の誕生日が来ればカレンダーを指さして「今日だね」と言うように教えてくれました。

両親は「障害あって大変でしょう」と言われるのが嫌で、あまり兄に障害があることを周囲に伝えていませんでした。ただ実際には大変だと思ってなかったようで、私たち他の子どもと同じように愛情深く育てていました。子どもが好きだったんだと思います。兄は障害はありましたが、体はとても健康で園から届く健康診断の結果もいつも良かったので、母は「きっと親より長生きできるね」と喜んでいました。
事件のあと、数年前に亡くなった父がお世話になっているお寺に兄がいつか寿命を迎えたときの葬儀代を事前に払っていたことを知りました。まさかこんな事件で両親を追いかけるように亡くなるなんて思っていなかったと思います。

匿名を希望したのはさらに差別を受けるのではないかと怖かったからです。事件後、長年つきあいがあり兄のことも知っている近所の人に「事件があったことは悲しいけど、でもよかったんじゃない?」と言われたことが悔しくて、そう思う人がいるのならばと思いました。

被告に対してはずっと許せないという思いが続いています。被告にも家族がいたのに、どうしてあんなことをしてしまったのかと。被告が「障害者は生きる意味がない」「社会の役にたたない」と言い、インターネット上でそれに同調する人たちがいましたが、それは絶対に違う。兄にたくさん助けてもらったし私たち家族は障害を理由にそんなことを考えたことはありません。
正直、もうあの事件のニュースはあまりやってほしくない。でも二度と同じような事件が起こらないように障害者のことは伝え続けて欲しい。思い出したくないけれど、忘れてほしくない、それが今の気持ちです。

写真
更新2017年01月 更新

ご家族

20年ほど前に津久井やまゆり園に入所しました。両親は幼い頃から、障害のあるなしにかかわらず、他の兄弟と分け隔てなく育てていました。とても愛情を持っていて、叱るときは叱り、褒めるときはたくさん褒めていました。本人も両親のことが大好きで、園に面会にいくと本当にうれしそうにしていました。かわいらしいところがある人でした。
一方で、障害があることはごく親しい人以外には伝えていませんでした。「差別を受けるから」と言うことでした。
今回の事件では、体の傷があまりにひどく、棺の中の顔だけをみてお別れをしました。今も事件の衝撃を受け止めきれずにいます。あんなふうに殺される人は19人で止めなくてはいけない、20人目は絶対に出してはいけないとも思っています。そのためにも、いつか名前を出して伝えたほうがいいという気持ちもあります。ですが、名前を出せば何か差別を受けるのではないか、誰かが家に押しかけてくるのではないかと、社会の反応が怖く、今はまだそういう心境にはなれないのが現状です。

元施設職員(男性・30代)

感情表現が豊かな人でした。介護士になって初めて担当させていただいたので右も左もわからない中、いろいろと勉強させてもらいました。
男性には片足がつま先立ちになってしまう症状があり、なかなか散歩に出られないのが悩みでした。何とかしたいと思い、靴メーカーに勤める知人に頼んで、バランスが保ちやすいよう靴のゴム底を足の甲の部分まで取り付けた特別なスニーカーを作ってもらってプレゼントしました。その後、歩くのが楽しくなったようで、よく散歩に出かけられるようになった姿を見て、担当職員としてうれしかったことを思い出します。
散歩では、施設から少し離れたところにある100円で缶コーヒーが買える自動販売機まで行くのが楽しみでした。甘いのが大好きで、園に持ち帰って専用のコップに入れて飲んでもらっていました。
事件は風化してしまうかもしれませんが、自分は男性のことを絶対に忘れないし、絶対に忘れない人間がいることをご家族の方々にもお伝えしたいです。

元施設職員(男性・50代)

部屋に貼ってある家族や行事の写真などを指差しながら、楽しそうにいろいろと話してくれたのを覚えています。言葉は少し聞き取りにくいのですが、ゆっくり聞いていると訴えたいことが聞こえてくる感じで、何を言いたいのかだいたいわかりました。それを元に「こういうことですか」と聞き返すと「うん」と返事をしてくれました。ふだんはリビングで職員の動きをじっと見ていることが多かったのですが、家族が来たり職員が出勤したりすると、いちもくさんに玄関に迎えに行って喜んでいました。玄関に貼ってあった早番とか夜勤とか職員の勤務体制を知らせるマグネット付きの写真を指さしながら、「きょうはこの職員が来るよ」と教えてくれることもありました。気持ちが上手く伝わらなかったり、言いたいことがうまく表現できなかったりすると、涙をボロボロ流すなど、感情表現が豊かで優しい方だったので、利用者の仲間にも好かれていました。

元施設職員(男性・70代)

歩きにくさを抱えていましたが、当時は日常生活に支障はほとんどありませんでした。おとなしい方で、ホームでは静かに全体の様子を眺めていることが多かったです。遠足に参加した時には、バスの中でうれしそうにはしゃいでいたことを思い出します。

65歳の男性

65歳の男性

元施設職員(男性・50代)

すごく温厚な性格の方でした。ふだんの生活では、ほとんど自立して生活していました。テレビが好きで、特に歌番組をほかの利用者と一緒によく見ていました。音にとても敏感で、盆踊りなどの行事で音楽が流れたりすると、すぐに音の方に走って行ったりすることもありました。動物も好きで、部屋に動物のぬいぐるみを置いていたのを覚えています。おちゃめなところがあり、出勤してくる職員を小走りに玄関まで迎えに行っていました。いつも散歩の時には声をあげてはしゃいでいました。職員、利用者問わず、誰とでも仲が良く好かれる方でした。

元施設職員

言葉は思うように話せませんでしたが、本当に活動的な方で、よく食事のあとの掃除や食器の片付けなどを自発的に手伝ってくれました。仲間思いで他の利用者が困っているとすぐに職員を呼びに来てくれて、すごく助かりました。「ありがとうね」と言うと、無言でスタスタ去って行くのですが、その姿が印象深かったです。

49歳の男性

49歳の男性

元施設職員(男性・70代)

10年以上担当させてもらいました。すごく元気が良くて、散歩で外を歩くのが好きでしたね。散歩の時に少し足が遅い人と手をつないで引っ張っていってくれました。
少し手がかかるところもありましたが憎めない人でした。悪いことをした時には叱ることもありましたが、信頼関係が築けていたので、自分で悪いことをしたなと思った時には必ず報告にきてくれたことが懐かしく思い出されます。
囲碁が好きで、日曜日の囲碁の番組を見ながら、いろいろと囲碁のことを話していたことをよく覚えています。ご両親は「子どもの頃から囲碁が好きだった」と言っていました。囲碁の月刊誌を買ってあげたらとても喜んで、よくベッドの上で雑誌を広げて「お前がこうなら俺はこうだ」などと、夢中になって囲碁の手を考えていました。「先生は囲碁は知らないんだよ、残念ながら」って言ったら、「今度、僕が教えてやるよ」なんて話をしたこともありました。天国で、楽しく本物の囲碁をやってこいよって伝えたいです。

元施設職員(男性・50代)

囲碁や将棋がすごく好きで、毎週日曜日になると囲碁や将棋の番組をみていました。眉間にしわをよせて、じーっと真剣に見ていたのを覚えています。どういう手を打てばいいか自分なりに勉強しているようでした。将棋の相手をしたことがあるのですが、なかなかの腕前でした。ルールもちゃんと頭に入っていたので、お父さんから教わったのかもしれませんね。普段はにぎやかなのですが、そういう時はすごく集中して静かでした。
電車も好きで、「ドアが閉まります。ドアが閉まります。ご注意下さい」と大きな声で言いながら廊下を何往復もして楽しんでいました。彼がそれをやると、他の利用者はみんな道をあけていて、その真ん中をうれしそうに歩いていましたね。とにかく元気な方で目立つ存在でした。あんなに元気な方だったのに、何でこんなことになってしまったのか、本当に悲しいです。

元施設職員(女性・70代)

囲碁が大好きで、日曜日の囲碁のテレビの時間になると必ず自分の部屋に戻って、かじりつくように放送を見ていました。買い物を体験する訓練で行ったデパートでは、プラモデルを買って自分で作ってもいました。精神的に落ち着かない時に手がかかる時もありましたが、ふだんは人なつっこく甘えてくる憎めない人でした。お父さんからとても大切にされていて、施設の運動会では一緒にご飯を食べたり、競技に参加したりと仲良しでした。

67歳の男性

67歳の男性

元施設職員(男性・70代)

10年以上担当させてもらいました。私をすごく慕ってくれて、シーツ交換や掃除などの仕事をよく手伝ってくれました。シーツは部屋の外にまとめて出してくれるなど丁寧な仕事ぶりですごく助けられました。草むしりや畑仕事もよくやってくれていて、以前、園で飼っていたヤギやニワトリの世話もしてくれました。いろいろと教わったり教えたり、今思えばいい相棒でした。
演歌が好きで、北島三郎さんのテープを100本近く持っていて、夜はいつもヘッドホンでテープを聴いていました。そのまま寝てしまうことも多く、夜の巡回の時にヘッドホンを外してあげたことを思い出します。一番思い出に残っているのは、横浜市のホールで行われた北島三郎さんのコンサートに2人で行ったことです。社会勉強のために電車を使って行き、切符も自分で買うことができました。会場で同じ湯飲みを2つ買うのでどうしてだろうと思ってみていると、そのうちの1つを「これはね、先生に記念にあげる」と言ってプレゼントしてくれて、本当にうれしかったです。その湯飲みを仲間にもうれしそうに自慢していました。私も、もらった湯飲みはそれからずっと自宅で使っていて、今も湯飲みを見ると彼のことを思い出します。亡くなったことを聞いた時には、まさかと思いました。なんで、あんないい人が亡くならなくてはいけなかったのか、今もわかりません。

元施設職員(男性・50代)

洗濯物をたたんだり、入浴の後に、利用者の脱いだものを洗濯物置き場に持ってきてくれたり、とてもよく職員を手伝ってくれたことが記憶に残っています。すごく助かっていました。外部から園に来た人だと、彼が職員なのか、利用者なのかわからないような感じで、私も最初は職員かと思ったくらいです。非常に温厚な方で入所者のリーダー的な存在でした。畑仕事が好きでイモ掘りで収穫したイモを調理して食べたりして楽しく過ごしていました。虫も好きで若い頃はよくカブトムシやクワガタを採っていたそうです。亡くなられたと聞いて、初めは、まさか、信じられないという気持ちでした。あんなにしっかりしていたのに、何でこの人がという気持ちです。

元施設職員(女性・70代)

職員から「準職員」と呼ばれるほど、本当に頼りになる人でした。入所者どうしのけんかがあっても、間に入ってやめさせてくれたこともありました。職員やほかの入所者たちからも一目置かれていて、私も本当に助けられました。演歌が好きで、特に北島三郎さんが大好きで、よくテープを聴いていました。

43歳の男性

43歳の男性

元施設職員(男性・50代)

すごく明るくて元気な方で、いつも跳びはねていた印象があります。

施設関係者

音楽が好きで、踊りのレクをとても楽しみにしていました。

ご意見をお寄せください

相模原障害者殺傷事件についてのご意見や、
亡くなられた方へのメッセージを募集しています

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