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19のいのち

美帆さん(19歳)

美帆さん(19歳)

更新2020年03月 更新

母(3月16日の判決を受けて)

当然の結果だと思う。悲しみは変わらない。けれど1つの区切りだと思う。大きな区切りであるけれど、終わりではない。19の命を無駄にしないよう、これから自分のできることをしながら生きていこうと思います。

2020年03月16日 美帆の母

更新2020年03月 更新

母親が法廷で語ったことば

私は美帆の母親です。美帆は12月の冬晴れの日に誕生しました。1つ上に兄がいて待ちに待った女の子でした。幼いころはとても音に敏感でした。大きな音、初めての場所、人がたくさんの場所が苦手でした。人に挨拶されただけで泣き叫ぶ子でした。3歳半で自閉症と診断されたあとは、とにかく勉強しました。本を読んだり、講演会に通い、少しでも美帆のことを理解しようとしました。他の親御さんたちと障害のある方や、その親の気持ちを伝えようと思い、学校や地域で語ったこともありました。にらまれたり、怒られたりするのがこわかったから理解してくれる人を増やそうと思いました。美帆が私の人生の全てでした。

多くの良い先生や、友達、支援してくれた職員さん、ガイドヘルパーさん、ボランティアさんに恵まれました。みんなやさしく接してくれたので、とても人が好きで人懐っこい子に育ちました。とても音楽が好きで「いきものがかり」、ドラマの主題歌や童謡、クラシック、アニメなどジャンルは問わず、いろいろな曲を聴いてノリノリで踊っていました。乗り物に乗っているとご機嫌で、よくドライブしたり電車やバスに乗りました。小さいときはブランコが大好きでした。プール、ジェットコースター、プラネタリウム、水族館、パレード、ラーメン博物館、公園等、本当に大好きでいろんな場所に家族やガイドヘルパーさん、ボランティアさんと出かけていました。

成長するにつれて、美帆は落ち着いてきました。一方で9歳から大きなてんかん発作があり、小学校5年生ぐらいから多いときは週1、少ないときも月1回ぐらい発作がありました。家庭の事情で中学2年生の時から児童寮で生活していました。毎月会いに行くのが楽しみでした。仕事も娘のためと思うと頑張れました。多いときには4つの仕事をかけもちでしていました。
娘に障害のこと、自閉症のこと、てんかんのこと、いろいろ教えてもらいました。私の娘であり先生でもあります。優しい気持ちで人と接することが出来るようになりました。待つことの大切さや、人に対しての思いやりが持てるようになりました。人の良いところ、長所を見つけることが上手になりました。人を褒めることが上手になりました。
人懐っこくて言葉はありませんが、すーっと人の横、そばに来て挨拶をして、前からの知り合いのように接していました。笑顔がとても素敵で、まわりを癒やしてくれました。ひまわりのような笑顔でした。美帆は毎日を一生懸命生きていました。

(法廷で被告に)「お母さんのことを思うといたたまれません」と言われて、むかつきました。考えも変えず、1ミリも謝罪された気がしません。痛みのない方法で殺せばよかったということなんでしょうか。冗談じゃないです。ふざけないでください。美帆にはもう、どんな方法でも会えないんです。

(事件)当日は7時30分頃「美帆が被害にあっている」との連絡をもらい9時から10時の間ごろ、やまゆり園に着きました。名簿の×を見たときから、もう何がなんだかわからなくなり、頭も真っ白でした。何回も夢じゃないかと思い、ほっぺたをつねってみたのですが、夢か現実か、自分が誰なのか、どうしてここにいるのかも、わからなくなっていました。
だいぶ時間が経ってから美帆に会えました。顔しか見せてもらえませんでした。ストレッチャーに乗せられていて「美帆ちゃん、美帆ちゃん」と何度呼んでも答えてくれなくて、自分で体温調節するのが苦手で、汗をあまりかかない子だったので、いつも温かい子が、その時はすごく冷たくて、冷たくて、そんなことは一度もなかったのにすごく冷たくて一生忘れることのできない冷たさでした。会ったのは数分だと思います。

プリント等配っていましたが、何を手にしているのだろう、皆、何を言っているのだろうと不思議でした。私は頭痛がひどくて「診療所の先生が園に来ているから具合の悪い人は言って下さい」と園長先生に言われて診てもらったら「血圧がすごく高いので頭痛は治らないけど点滴するので診療所に来られるようなら来て下さい」と言われ警察の車に乗せて頂き点滴を受けました。警察と園と遺族の話で、名前を出すか出さないかでとても揉めていたのを覚えています。私は言葉がでなくて一言も発することが出来ませんでした。

葬儀は、地元の斎場で音楽葬でしました。マスコミが多く来ていたようですが、弁護士会から来て頂いている弁護士や警察が協力して入れないようにしてもらえました。美帆の好きな童謡や「いきものがかり」などの音楽を流し、参列者には娘の顔も見てもらいました。美帆のアルバムや額に入った写真を見てもらいました。着物を着せて見送りました。のべ200人位の人が見送ってくれました。

事件後、家はめちゃくちゃになりました。社交的で老人会や自治会の活動に積極的に参加していた祖母が家に引きこもってしまい、一歩も外に出なくなりました。人と話をするのが好きだったのに誰とも話さなくなりました。料理や庭の手入れをするのが好きでしたが全くしなくなりました。笑顔が消え、表情がなくなりました。兄は具合が悪くなり、休み休み仕事をしていましたが入院することになり仕事を辞めました。私は食事をしても味がわからなくなり、9キロやせました。心療内科に通い薬を飲むようになりました。体が痛くて寝る時に骨が当たって痛くて眠れませんでした。1人で外出するのが怖くなり、外に出られなくなりました。がんばって外に出ると心臓の動悸がすごく、ドキドキしてブルブル全身が震えてしまうことがよくありました。今でもこの発作で震えてしまうことがあります。私の人生はこれで終わりだと思いました。自分の命より大切な人を失ったのだから。美帆がいなくなったショックで私たち家族は、それまで当たり前にしていたことが何一つできなくなりました。私たち家族、美帆を愛してくれた周りの人たちは皆、あなたに殺されたのです。未来を全て奪われたのです。美帆を返して下さい。

他人が勝手に奪っていい命などひとつもないということを伝えます。あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。ご両親から教えてもらえなかったのですか。周りの誰からも教えてもらえなかったのですか。何て、かわいそうな人なんでしょう。何て、不幸な環境にいたのでしょう。本当にかわいそうな人。私は娘がいて、とても幸せでした。決して不幸ではなかったです。「不幸を作る」とか勝手に言わないでほしいです。私の娘はたまたま障害を持って生まれてきただけです。何も悪くありません。

あなたの言葉をかりれば、あなたが不幸を作る人で、生産性のない生きている価値のない人間です。あなたこそが税金を無駄に使っています。あなたはいらない人間なのだから。あなたがいなくなれば、あなたに使っている税金を本当に困っている人にまわせます。あなたが今、なぜ生きているのかわかりません。私の娘はいないのに、こんなひどいことをした人がなぜ生きているのかわかりません。何であなたは1日3食ごはんを食べているのですか。具合が悪くなれば治療も受けられる。私の娘はもうこの世にいなくて何も出来ないのに。

あなたが憎くて、憎くて、たまらない。八つ裂きにしてやりたい。極刑でも軽いと思う。どんな刑があなたに与えられても私は、あなたを絶対に許さない。許せません。私の一番大事な大切な娘、美帆を返して下さい。美帆はもうこの世にいなくて、好きなことは何もできません。私たち家族と会うこともできません。失われた時間はもう二度と取りもどせません。

でも、あなたは、こうして生きています。ずるいです。おかしいです。19人もの命を奪ったのに。美帆は、一方的に未来を奪われて19年の短い生涯を終えました。だからあなたに未来はいらないです。私は、あなたに極刑を望みます。一生、外に出ることなく人生を終わりにしてください。

2020年02月17日 美帆の母

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

突然の出来事に理解が追いつかず「美帆がまだ生きているのではないか」「いや、いないんだ」という繰り返しです。平成28年7月26日の午前6時すぎ、美帆の兄のお弁当を作っていると携帯電話のメールが頻繁に届きました。「美帆ちゃん大丈夫?」と心配する内容でした。テレビをつけると事件が報道されていて、施設との電話で「美帆さんが被害にあわれました」と言われました。「美帆は大丈夫ですか」と聞くと、「すぐに来て下さい」と言われ、殺されているとは思わず施設に向かいました。

到着すると名簿が置いてあり、名前の横に「○」が書いてあれば大丈夫だと言われ美帆の名前を確認したところ「×」が書いてありました。見た瞬間、信じられない気持ちと衝撃で頭が真っ白になりました。警察と施設の職員から説明を受けましたが、内容は覚えていません。会った美帆はとても冷たく、私の呼びかけには反応してくれませんでした。

美帆は3歳の時に自閉症で重度の障害があると認定されました。程度は最も重いものでしたが、身体能力には異常なく、走ったり踊ったりしていました。会話によるコミュニケ-ションはできませんでしたが、私や施設の職員が話している言葉を理解し、笑ったり怒ったりしていました。会話が出来なくても、一生懸命自分の意思を伝えようとしていました。娘に障害があると知らされた日はショックでしたが、私が美帆を支えなければいけない、一番の理解者にならないといけない、守りたいと思い、いろんな本を読んだり話を聞いたりして勉強するようになりました。美帆にあった育て方を考えるようになりました。

やまゆり園の職員は、美帆の成人式のことを気にして「着物を着るために髪の毛を伸ばしましょうか」などと言ってくれ、良い印象を持っていました。成長してもかわいい、いたずらっ子でした。(事件の2日前の)7月24日に会いに行った際、美帆は「キャー、キャー」と大きな声を出して喜んでいましたが、プールの説明などがあり10分ほどしか一緒にいられませんでした。一時帰宅もあるからと手を振ると、美帆はいすに座ったままじっと私をみていました。「また会えるから」とあっさり出てしまい、仕事に向かいました。この時、もっと美帆と遊んでおけばよかった、もっと一緒にいればよかったと思ってしまいます。

被告に言いたいことは、とにかく美帆をかえしてほしい。元気な状態でかえしてほしい。どんな罰を与えられても、許すことはできません。何で美帆だったのか、美帆は事件の年に施設に入っていて、被告は美帆を知らないはずです。美帆は何も悪いことはしていません。なぜ手をかけたのか聞きたい。女手一つで大事に大事に育ててきました。中学2年で施設に入り、一緒に生活できずに寂しい思いをしました。美帆は理不尽な形で19歳という短い期間で突然終わりを迎えました。
365日24時間、忘れたことはありません。表情豊かで、楽しい顔や嬉しい顔や怒った顔をしました。私にはどの顔もとてもかわいかったです。幼い頃は子育ての中で自分の命を絶とうと思ったこともありましたが、美帆に希望をもらって生きて来られました。美帆はいま、天国で元気に過ごしていると思います。すぐにはそちらには行けないけれど、いつか行くまで、待っていてほしいと思います。

更新2020年01月 更新

母親

生後半年の美帆です。
音に敏感でしたがミルクをよく飲みました。
8歳の美帆です。
父のあぐらに乗っています。
口の中に中指、薬指を入れるのが癖でした。
中学1年生の時の美帆です。
お出かけしたときの写真です。言葉はありませんでしたが、いろいろな事を理解しているようでした。言いたいことを態度で示し、カード(人や物や場所が写真で示されています)を使い伝えてきました。音楽が大好きで、いきものがかりの歌にあわせて踊っていました。
遺影に使った写真です。葬儀にはのべ200人位が来てくれました。
19歳の美帆です。
平成28年4月にやまゆり園に入所しました。
敷地内の作業室に休まずに通っていました。
ボールペンを組み立てるなどの作業をしていました。
最後に会ったのは7月24日(日)です。
もう少し髪が伸びたら晴れ着を着て、一緒に写真を撮るのが楽しみでした。

大好きだった娘に会えなくなって3年が経ちました。時間が経つほどに会いたい思いは強くなるばかりです。会いたくて会いたくて仕方ありません。本当に笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。アンパンマン、トーマス、ミッフィー、ピング-等のキャラクターが大好きでした。音楽も好きでよく“いきものがかり”を聞いていました。特に“じょいふる”が好きでポッキーのCMで流れるとリビングの決まった場所で、ノリノリで踊っていたのが今でも目に浮かびます。電車が好きで電車の絵本を持ってきては指さして「名前を言って」という要求をしていました。よく指さしていたのは、特急スペーシアと京浜東北線でした。ジブリのビデオを見るのも好きでした。特にお気に入りは魔女の宅急便と天空の城ラピュタ、他のビデオも並べて順番に見ていました。

自閉症の人は社会性がないといいますが、娘はきちんと外と家の区別をしていて、大きな音が苦手でしたが、学校ではお姉さん顔をしてがんばっていたようでした。外では大人のお姉さん風でしたが、家では甘ったれの末娘でした。児童寮に入っていた時、一時帰宅すると最初のうちは「帰らない、家にいる」と帰るのを拒否していました。写真を見せて「寮に帰るよ」と声かけすると、一応車に乗り、寮の駐車場に着くものの車からは出てきません。「帰らない」と強く態度で表していました。パニックを起こして大変だったけれど、うれしい気持ちもありました。2年くらいは続いていましたがそれ以降は、自分は寮で生活するということがわかってきたようで、リュックをしょって泣かずに帰っていくようになりました。親としては、淋しい気持ちもありましたが、お姉さんになったなあといつも思っていました。

月1くらいで会いにいき、コンビニでおやつと飲み物を買い、一緒にお庭で食べるのですが、食べおわると部屋にもどることがわかっていて、食べている間中、「歌をうたって」のお願いをされ、よくアンパンマンの“勇気りんりん”と、ちびまる子ちゃんのうた、犬のおまわりさん等、うたっていました。私の歌をBGMにしておやつをおいしそうに食べていました。自分の部屋にもどる時も「またね」と手を振ると自分の腰のあたりでバイバイと手を振ってくれていました。泣きもせず、後おいもせず、部屋にもどっていく後ろ姿を見ているとずいぶん大人になったなと思っていました。

美帆はこうして私がいなくなっても寮でこんなふうに生きていくんだなと思っていました。人と仲よくなるのが上手で、人に頼ることも上手でしたので職員さんたちに見守られながら生きていくのだと思っていました。言葉はありませんでしたが、人の心をつかむのが上手で何気にすーっと人の横に近づいていって、前から知り合いのように接していました。皆が美帆にやさしく接してくれたので人が大好きでした。人にくっついていると安心しているようでした。

美帆は一生懸命生きていました。その証を残したいと思います。恐い人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが、美帆の名を覚えていてほしいです。どうして今、名前を公表したかというと裁判の時に「甲さん」「乙さん」と呼ばれるのは嫌だったからです。話しを聞いた時にとても違和感を持ちました。とても「甲さん」「乙さん」と呼ばれることには納得いきませんでした。ちゃんと美帆という名前があるのに。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。家の娘は甲でも乙でもなく美帆です。

この裁判では犯人の量刑を決めるだけでなく、社会全体でもこのような悲しい事件が2度とおこらない世の中にするにはどうしたらいいか議論して考えて頂きたいと思います。障害者やその家族が不安なく落ち着いて生活できる国になってほしいと願っています。障害者が安心して暮らせる社会こそが、健常者も幸せな社会だと思います。

2020年1月8日 19歳女性 美帆の母

更新2019年12月 更新

以前いた施設で担当職員だった女性

あなたの存在は、沢山の人の喜びでした。あなたが笑ったり泣いたり食べたり寝たりするだけで、どうして一緒にいた私達の心があんなに動かされたのか、とても不思議です。今もそれは変わりません。あなたのことを思うだけで、あなたと一緒にいたときと同じように心は揺れ、あたたかくなります。
もう会えないことがとても悲しいです。あなたに出会わなかったら、あのような形でお別れしなかったら、私の人生はどうなっていたことだろう、と考えることがありますが、「出会う前の時点に戻してあげるから、関係のない人生を選んでいいよ」ともしも言われたとしても、それを選ぶことは決してありえません。
喜びだけでなく、(事件によって)とても乗り越えられないと感じる悲しみも、あなたと出会ったことで受け取ったけれど、これもまたあなたがくれた幸せと一緒に抱きしめて生きていきます。
そうすることで、同じように悲しんでいる人に優しく出来る人になれたらいいなと思います。あなたのように、「そこにいるだけで」周りの人を幸せに出来るなんてことは誰にも出来ないけれど…。あなたのことが、いつまでも大好きです。沢山の幸せをありがとう。

更新2019年07月 更新

母親

本当に笑顔が素敵で、かわいくてしかたがない自慢の娘でした。ミッフィーや機関車トーマスがお気に入りで、歌も大好きでした。言葉はなくても、表情豊かに意思を伝えてくれました。活発で、ジェットコースターも「キャー」と言いながら、ニコニコと乗っていたのを思い出します。バニラ味のアイスが好きだったので、ソフトクリームの上だけ食べていた姿が懐かしく、街で売っているのを見かけると思わず買ってしまいます。もう、一緒に食べられないのが本当に残念です。

幼い頃、音に敏感で、雨が降っても、外出しても激しく泣き続けました。まだ障害が分かる前で、周囲からは「育て方が悪い」と厳しい目を向けられ、自分を責め、親として自信をなくすこともありました。3歳半で自閉症と診断されたあとは、とにかく勉強しました。専門家の本を読み、講演に通い、少しでも娘のことをわかりたいと向き合ってきました。ほかの親御さんたちと、障害のある子やその親の気持ちを知ってほしいと、学校や地域で語ったこともありました。娘が、私の人生のすべてでした。

津久井やまゆり園には、事件の4か月ほど前に入所しました。何か所か見学した中で、やまゆり園の方だけが「今度は娘さんを連れてきてくださいね」と言ってくれ、本人を尊重してくれるように感じて決めました。事件後は、誰に言われるわけでもないけれど、「私があそこに決めなければ」と、いまも自分を責め続けてしまいます。

娘は成長するにつれ、落ち着いて過ごせるようになり、多くのいい先生や友達に恵まれました。障害ゆえに本当に大変な時もありましたが、その分、何かできたときの嬉しさは倍増し、信じて待つことの大切さも教えてもらいました。何より、嘘偽りのない笑顔に助けられてきました。そんな思いで育ててきた娘を「不幸をつくる」と勝手に決めて奪われたことに、やり場のない思いを抱えています。全然、不幸なんかじゃなかったのです。娘が私のもとにうまれてくれて本当に幸せでした。

娘を亡くしてから、悲しくて悲しくて辛い日々を過ごしてきたけれど、そんな中で、日航ジャンボ機墜落事故の遺族や、東日本大震災の遺族との出会いがありました。私が7月が来るのがつらいように、3月が来るのがつらいと聞き、私だけではないのだと思えました。娘がたくさんの人に出会わせてくれ、その人たちに支えられてきました。

3年経った今も、娘に会いたくて会いたくて仕方なく、あの笑顔がもう一度見たい。時間が経っても気持ちは全く変わりません。世間の人には何をどうして欲しいと言うことはないけれど、娘が一生懸命に生きたことを覚えていてもらいたいと思っています。

更新2018年07月 更新

妹が事件で重傷を負った男性(50代)

妹と同じホームにいた方でした。若くて活発で元気に動き回っていた姿が思い出されます。ある日、妹の部屋に2人でいたところ、戸を開けて部屋に入って来られたのを覚えています。女性のホームですし、私くらいの年齢の男性が来ているのが珍しくて、様子を見に来たのかなと思いました。興味深そうにじっとこちらを見つめていた表情がとても印象的な方でした。事件については2年がたつ今も、悲しいとか気の毒とか、そういった言葉ですら、簡単には言葉にできないと感じています。

更新2017年01月 更新

母親

今は突然のことで混乱し、何と言ったらいいのか、わかりません。可愛い娘を失い、ただ悲しく、事実を受け入れられない状態ですので、落ち着くまでそっとしておいて欲しいと思います。(事件直後のコメント)

施設関係者

短期で施設を利用していたころから、かわいらしい笑顔で人気者でした。

40歳の女性

40歳の女性

更新2020年03月 更新

法廷で代読された母親のことば

植松被告には死刑を求めます。障害者だからといって、命を奪うなど絶対に許されることではありません。娘は40歳でした。健康な娘はまだまだ生きて、楽しいことや、帰宅して両親・弟と一緒にゆったりした時間を過ごしたり、好きな揚げ物やピザ、手作りのプリン等を食べ、そして大好きなコーヒーを飲んだりして、笑顔を振りまいてくれたことでしょう。

娘の笑顔は周囲の人を幸せな気持ちにしてくれました。そして癒やしてもくれました。 生活面で全介助が必要だった娘は、たくさんの方々にお世話になりました。ご迷惑をかけたかもしれませんが、かわいがっていただきました。愛された子でした。

親の体力の衰えや死後の事を考え、娘が35歳のときにやまゆり園への入所申し込みをしました。何年先の事になるかと思っていましたが、37歳の時に入所できることになりました。お嫁に出すような気持ちで送り出しました。娘は毎月帰宅する時は、車が家の近くまで来るとニコニコして声を上げて笑い、喜んでいました。家に入るとまずコーヒーメーカーに向かいます。飲みたくて仕方ありません。まず飲んで、いつものお気に入りのソファーに座ります。家の中を確認するように動き、またソファーに戻ります。何気ないこんなことが娘にとっては喜びであり、私たち家族にとっても喜びでした。

今はそのささやかなこともできません。毎朝娘の写真にコーヒーを供えてあげることしかないのです。何か特別なことを望んでいた訳ではありません。穏やかな日々を過ごし、毎月元気に帰宅をして一緒に過ごし、長生きしてくれる事が普通のことだったはずです。突然の別れは未だに信じられない思いです。娘の笑顔に会いたい。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

娘が突然殺されてショックです。娘は両手足の自由がきかず、成長とともに悪化していったので、全ての行為に人の助けが必要で、目的にあった行動ができませんでした。しかし、興味をもてば不自由ながら歩くことはでき、寝たきりではありませんでした。障害があっても、何があってもちゃんと育てていこうと、本当に大切に育ててきました。入所するまでの36年間、大変だったことも難しいこともありましたが、娘は人なつこくかわいい存在でした。できることなら自宅で生活をともにしたかったですが、私たち夫婦が引退する世代になってしまい、娘の手助けが出来なくなってしまいました。私たちが死んだ後のことなどを考えやまゆり園でお世話になることにしました。

事件当日はテレビのニュースを見て、園に電話をすると状況を確認中だと言われ大急ぎで車で向かいました。焦るばかりで何時間にも感じる長さでした。園は普段ののどかな風景と全く違い、救急車やパトカーが集まり、カメラを持ったマスコミやヘリコプターが詰めかけていて、他の世界で起きている出来事のように感じました。娘の部屋は目と鼻の先でしたが、娘の部屋の扉の前でも警察が鑑識作業をしていたので、娘に何かあったのかもしれないと思い、胸が締めつけられるような思いがしました。ホーム長を見つけて質問すると、ただ涙を流すだけで何も答えてくれませんでした。名簿の娘の名前の横に「×」印が書かれていましたが、最初は意味が理解できませんでした。検視が終わって娘に会えたのは午後5時ぐらいだったと思います。本当に苦しそうな痛みをこらえている様子でどれだけ無念だったか表情にあらわれていて、涙があふれました。

娘はやまゆり園に入って4年目ですが、一時帰宅は月に1度は必ずしていて、月に1度の一時帰宅ではお気に入りのソファーに座って離れようとしませんでした。意思疎通は難しい面がありましたが、家族の間には確かな絆がありました。私たちがいとおしく思っているのは通じていて、娘はまぎれもなくかけがえのない大切な家族でした。娘が自宅に戻ってきたときに苦痛の表情は少し和やかになっていて娘も喜んでいると感じて家族全員で泣きました。

7月8日から9日の最後の一時帰宅の時、大好きなピザや揚げ物を用意して食事しました。近くのカフェにも行き、小さい頃から知っている人たちにも会って喜んでいる様子でした。まさかこれが最後で娘に会えなくなるとは誰も思っていませんでした。そのときに娘が喜んでいる様子を写した写真があります。私たちはもう2度と娘の笑顔を見ることはできなくなりました。奪われた命がどのようなものか、家族が癒やされていた娘の笑顔がどのようなものか知って欲しい。被告に娘の笑顔を見せて悪魔のような行為を自覚させたい。
奪った命が写真にうつる娘のものだと伝えて欲しい。この日が本当に家族4人が過ごした最後のときでした。私たち夫婦でどちらかが死んだときに入るために買った、街が見下ろせる霊園にまさか娘が先に入ることになるとは思っていませんでした。被告には19人の命を理解して全員に心からの謝罪と、死をもって償うことを希望します。

更新2020年01月 更新

母親(事件直後のコメント)

非常に悲しいし、つらいです。まだ信じられません。今は娘の魂が安らかに眠って欲しいと願うばかりです。遺族としても、落ち着くまで静かにして欲しいと思います。ただ犯人を許すことは絶対にできません。

更新2017年01月 更新

施設関係者

あなたの笑顔に会いたくて、ホームを訪れる人もいました。毎日の食事をおいしそうに食べ、お散歩やドライブ、ひとつひとつを楽しみながら過ごしていました。

26歳の女性

26歳の女性

更新2020年03月 更新

母親が法廷で語ったことば

私はどうしても娘の思いを伝えたいのです。私が病気になってしまい娘がやまゆり園でお世話になりました。園の行事ではフランクフルトやチョコバナナを自分で選んでおいしそうに食べていました。大好きなアイスクリームをうれしそうに食べて職員さんも喜んでいました。ブランコに乗って楽しそうに遊んでいました。

好きなテレビを見ていた、と写真とともに聞きました。いろんな思い出がたくさん娘の心の奥に残っていると思います。私は娘をいとおしく大切に思っていました。かわいくて、かわいくて、大好きでした。被告に大事な命を奪われてしまいました。娘はもういません。月日がたっても悲しみは癒えません。とても寂しくつらいです。この思いは永遠に続いて、消えることはありません。毎朝、遺影の笑っている娘の顔を見つめると、ずっと話しかけていたい、でももう会えない思いに、涙がこみあげてしまいます。さみしい思いをこらえて娘のことを思い頑張っています。

娘のことを思い出します。プールや川が大好きで、気持ちよさそうにほほえんでいたわね。ひなあられを私に食べさせてくれてうれしかった。双子を見て「おんなじ」と言えたのです。動物園の象を見て「大きい」とびっくりしていたわね。娘と学校に通ったことを思い出します。たくさんお友達ができて仲良く遊んでいましたね。浴衣を着てみんなでお祭りに行ったときのうれしそうな笑顔、いろんな姿が浮かんできます。

娘には色んなことを教えてもらいました。手を合わせお願いしたり、ジュースを買ってと指をさし思いを伝え、早く行こうと私の手を引いたり、写真を撮るときピースサインをし、意思を表現できました。笑ったり怒ったり泣いたりほほえんだり、色んな表情を自分で表していました。誕生日のケーキのろうそくを吹き消し、うれしそうに喜んでいて、感情もあり、吹く練習もしていました。私がお財布からお金を取り出すところを見て、買い物を覚えました。料理も野菜の皮をむいて切ったりフライパンで炒め野菜炒めを食べました。見たり聞いたりしながら、ひと針ひと針一生懸命つくった刺繍も上手でした。いろんなことができました。

外出のとき、私が行くととてもうれしそうにしていました。そして大好きなドライブを楽しみました。食後にはパフェをおいしそうに食べていたわね。外出するのは楽しく「娘の鼻が高いな」「足が長いな」「かわいいな」と娘のことばかり見ていてすぐに時間がすぎてしまい、帰るのがつらく心苦しくなってしまいました。それでもまた会えると思っていました。それもかなわなく、とても残念です。

被告に言いたいことがあります。包丁を持つのが怖くなってしまいました。こわいニュースやサスペンスドラマも見られなくなり、当時のことを思い出してしまいます。私、心を閉ざしてしまいました。それでも娘のことを言いたいのです。
告別式のときには気丈にふるまっていましたが、お骨になった娘の姿を見たときはあまりにもつらかった。こんな姿になってしまい、悲しく、二度と会えなくなってしまったことに気づかされました。急に命をとられもう会えません。もっと生きていてほしかった。 娘は多くの人の心を癒やし、愛されて、娘の笑顔はたくさんの人を幸せにしてくれました。娘のことを心配して悲しんでいる人がたくさんいるのです。

私の娘は、気遣ってくれ、優しい子でした。娘を奪われどんな気持ちになると思いますか。もう抱きしめることもできない。私、とても傷ついています。言葉が出なくても娘は幸せでした。大好きでした。大事な心もありました。私の人生で欠かせない存在でした。
もっともっと生きていてほしい。娘は二度と戻ってこない。被告に大事な命をとられた。あなたが娘を奪った。娘と同じにしてください。死刑にしてください。

娘はいつも私のそばにいました。私に気持ちを伝えてくれ、安心しました。安らぎを与えてくれ、幸せでした。いつまでも忘れません。大好きです。障害を持っていても優しい気持ちで見守ってほしい。障害を持っていても大切な命です。19人のいのちは大切でした。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

3歳ごろまでは他の子どもと同じようにおしゃべりができましたが、3歳の定期検診の時に名前を呼んでも反応がなく、病院で自閉症と診断されました。話すことは出来ませんが、園では職員がカードを使って意思を確認していたと聞いています。体は丈夫で不自由はありません。嬉しいことがあるとにこにこして飛び跳ねて、欲しいものがあると「あー」とか「うー」などと声を出して私の手を引っ張るなど、愛らしい仕草をしていました。

最後に会った日、友人の車で連れてきてもらったと思います。私が車でどこかに連れて行ってくれると思ったのか、駐車場に止まっている車のノブをつかんで「ドライブに行こう」とアピールしていて、嬉しそうで素敵な顔をしていました。本当にかわいかったです。
あれが最後になるなんて考えもしませんでした。

事件のことは当日の朝のニュースで知りました。けがをしていると聞き、友人の車で施設に向かう途中に、後見人の方から娘が亡くなったと言われました。信じられない思いでした。あんなにいい子がどうして亡くならないといけないのかと思いました。

いつもセーラー服がよく似合っているお気に入りの写真を持ち歩いています。今でも写真を見ると涙が出ます。遺体と対面し「痛かったでしょ。怖かったでしょ。ママが来たよ」と言って頭をなでてあげました。

娘は個性があって一生懸命生きていました。かけがえのない存在でした。
被告には日本でできる一番重い刑になって欲しいと思っています。

更新2019年07月 更新

母親

あれから3年月日がたちました。当時の事を思い出すと胸がつまって苦しくなり、いまだに、つらい思いは消えません。「もういないの」「本当にいないの」という時があります。さみしくてたまりません。

町で障がいを持ったお子さんに出会うと、なぜか娘の事を思い出しなつかしさを感じます。一生懸命頑張っている姿に胸があつくなり応援したい気持ちになりました。
ある日の事、なにげなく用紙を取り出してみると、それは、やまゆり園さんのお便りで、娘の名前が書かれており「娘さんは元気にしておられます」という内容が目にとまり、それを見たとたん悲しみがこみ上げてきてしまい、申し訳ないのですがそのお便りを取っておく事は出来ませんでした。
告別式の時の遺影は、少しおさなくて、お気にいりの写真をもう一度遺影にしてもらいました。明かりをともすと、はい景の色とかさなりほほえんでいる娘がうかびます。いつまでも見ていたくなるようなそんな素敵な遺影でした。
三回忌の時にはお気にいりの写真を置かせてもらいました。お経をあげてもらうと、どこかで娘が聞いているような気がします。時おり娘の笑っている写真を見つめると、いとおしい思いで私の心はいっぱいになりました。終わってから写真をかたづける時、娘に「おうちに帰るからね」と声をかけました。
お墓にお参りしていても、まだ実感がわいてきません。そこに眠っている事は頭では分かっているのですが娘の死を受け止めきれないからでしょうか。それでもいろんな話をしていてなかなか帰る気持ちになれない自分がいます。
「今度くる時には大好きだったアイスを持っていこう」「持っていくからね」。

娘は多くの人々に安らぎをあたえてくれ、たくさんの人達に愛されていて、大切な大切な娘だったのにもう会う事が出来ないなんてあまりにもひどいです。
たとえ重度の障がいがあっても一生懸命生きている。その存在をけっして無理やりうばう事は絶対に許されない。娘のためにも、早く裁判が始まってほしいと思っています。

更新2018年07月 更新

母親

2年もたったのに、私の心の中は、娘の事でいっぱい。おいしそうによくアイスを食べていましたね。プールや川が大好きで気持ちよさそうにしていた姿を思い出します。4歳の頃に男の子に好かれ抱きつかれていましたね。保育園に入るとお友達にお人形さんのようにかわいがられていましたね。いろいろある行事の中でみんなが支えてくれ、まるで家族のようでした。小学校に入学し、たくさんお友達が出来たよね。中学生になり、バス通学し、運動会ではリレーの選手にえらばれ、楽しそうに笑っていましたね。高校生になり私と一緒に電車で通っていたね。 たくさんお友達ができ、娘によりそってくれる女の子や大好きになってくれた男の子もいましたね。保育園、小、中、高とも良い先生やお友達に恵まれ、とても人気者でした。やまゆり園さんではスタッフの方々にかわいがられ行事に参加させてもらいました。園でのお風呂が大好きで楽しみにしていましたね。

娘が生きて来た中で、多くの人達と出会い係わりを持って、愛されてきました。話す事が出来なくても、身ぶり、手ぶり、視線で表現し、愛らしい瞳で、いやしてくれました。障害をもっていても、いなくても、大切な存在です。それなのに私の娘はうばわれてしまいもうここにはいない。まだ、いなくなった実感がわかない。でも、それを認めなければならない現実があります。とても、さびしく、悲しく、つらいです。毎日、思い出がよみがえるけれど、いっしゅんであわの様に消えてなくなり、涙が、こみあげて来てしまいます。 2年たった今でも、つらい思いは増すばかりかけがえのない命をうばわれてしまい、どれだけたくさんの人達が悲しみにうちひしがれている事か被告には自分のした事を認識し罪をつぐなってもらいたい。もう私の娘は二度ともどってこないから。

娘と共に歩んで下さった皆様、そして共に共感して下さった方々に、お礼を申し上げます。

更新2017年07月 更新

母親

娘を亡くしてから時が気ぜわしく過ぎてゆきました。一周忌を終えて一年がたっても、いたたまれない。小さい頃からお友達に好かれ、時にはわがまま言ったりしても、かわいがられてきました。水遊びが大好きで園のお風呂も大好きでした。学校では、音楽部に入っており、カラオケでマイクを持って満面な笑顔の娘の写真を見るといとおしくて涙があふれてしまいます。

娘の事を思い出さない日はありません。よくそばによりそって甘えてきたね。そんなあなたと共に一緒に歩んで来ました。今、思うと、もっといっぱい遊んであげれば良かった。もっと思いをわかってあげたかった。心残りがいっぱいあります。娘の好きだったスピッツの「チェリー」のCDを探しに行くと店頭にアイドルの横にならんでスピッツのヒット曲がかざられてあり、まるで娘が導いてくれたかのようでした。たまにかけて娘と一緒に聞いています。

キラキラした瞳で多くの人に安らぎを与えてくれ、いろんな人に力をくれ愛されていたのに、何でこんな事になってしまったのか。あまりにもひどすぎる。障害を持っているのはとても大変だけれど、望んで障害者になったわけではない。偏見を持たないでほしい。障害者がいやでもいらない命はないのです。けっして傷つけたり殺してはならない。絶対に。

更新2017年01月 更新

母親

娘は自閉症で、言葉で伝えることは苦手でしたが、しぐさや行動で自分の気持ちを伝えてくれました。家ではアイスクリームが大好きで喜んで食べていました。パンも好きで固めのパンを好んで食べていました。親が言うのはおかしいかもしれませんが、本当にかわいい子で小さなころから友だちに好かれる子でした。バレンタインデーに女の子から手作りのチョコをもらったこともありました。本当に愛おしくて、娘の顔をずっとみつめてしまうこともありました。障害に合った専門的な学びを受けられる場がいいか、多くの子どもたちに受け入れられる状況が良いかなど、「少しでも娘にとって良い環境を」と考えて育ててきました。幼いころは階段をのぼるのも一歩一歩という感じでしたが、保育園に通うようになって長距離の散歩やマラソンもできるようになりました。保育園から高等部に通うにあたって、みんなの手助けもあり成長していきました。おちゃめなところもあって、夏場に教室でみんなが暑さにバテてしまっている時には、気がついたら隣の部屋に行って扇風機で涼んでいたこともありました。娘がいたことで「クラスが明るくなった」と伝えてくれた同級生もいました。良い先生たちにも恵まれ、ある担任の先生は娘との出会いをきっかけに特別支援学校の教師への道を選んだと話してくださいました。娘の思いも伝わっていたのだと思います。

やまゆり園には4年前に入所しました。事件の日、夜になって初めて娘と対面しました。すでに棺に納められていて、抱きしめることさえできずに嗚咽しました。ずっと顔を見ていたかったけれど「次の人もいるので」と言われ、去らざるをえませんでした。告別式には、友だちや元同級生の親御さん、それに先生や園でお世話になった多くの人が集まってくれました。娘は友達が歌っているのを聞いてからスピッツの「チェリー」という歌をとても気にいっていたので、皆で聞いて、たくさんの花で囲まれながらお別れしました。しんみりしたお葬式と違って、娘が残してくれた楽しかった思い出も振り返りながら偲びました。

まま

娘は中学生の時、書き初めで「まま」という字を書きました。他の字を書いていたのに、だんだん「まま」「まま」とばかり書くようになって、それが嬉しくて、告別式の時に「まま」という字を写真にしました。娘の写真とともに、いまも肌身離さず持ち歩いています。
事件後、気落ちしていた時に、小さい頃の娘が夢に現れてくれたときは「やっと会えた」と嬉しかったです。また夢に現れてほしいと願っています。

事件は、精神鑑定にかなり時間がかかっていたのでどうなるのだろうかと不安でしたが起訴されたのは良かったと思います。被告は反省もしていないのでしょうが、裁判が始まったら、どのような形になるかはわかりませんが気持ちは伝えたいと思います。みんなそれぞれ考え方が違うと思いますが、私は事故や災害であれば名前を出したと思います。ですが、このような形で娘を奪われ、いなくなってしまったことがあまりに辛く、いまは伝えられずにいます。被告に一番言いたいことは、ただただ「私の娘を返して」ということだけです。

母の手紙・似顔絵

娘は一生懸命生きていました。

福祉関係者

パンが大好きな方でした。大きな瞳をくるくるさせている表情が、とても心に残っています。不思議な魅力があり、支援者からはとても人気がありました。彼女が亡くなったと人づてに聞き、絶句して涙を流すスタッフもいました。

写真
70歳の女性

70歳の女性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた兄の調書から

私より16歳年下で、亡くなったときは70歳でした。昭和39年に津久井やまゆり園に入所し50年間、ほぼ欠かさず月に1回会いに行っていました。車で行ったり、電車とバスを乗り継いだりして行っていました。1時間以上かかることもありましたが、会いにいく日が楽しみで待ち遠しく思っていました。園に行くと妹はにこにこした笑顔でうれしそうで「散歩に連れて行って」とお願いしてきました。園をぐるっと回ったり、ドライブしたり、面会できるぎりぎりの時間まで一緒にいました。私が「帰るからね」と言うと、さみしそうな顔をしてまだいてほしそうな表情をしていました。もう一度手をつないで散歩をすると、今度はコクリとうなずいて私は振り返り振り返りしながら自宅に帰りました。

最後に会ったのは平成28年7月10日で、いつもと同じような時間でした。ことばに出さなくても私の話していることを理解している様子で、「ありがとう」とか短いことばを話すことはできました。私にとっていとおしい存在で、亡くなってショックでいたたまれない気持ちです。亡くなった後は気力がなくなり、体調を崩して入院もしました。

被告は園に勤めた当時は優しい気持ちだったと思うが、どういう思いで凶行に及んだのか知りたい。かわいかった妹を殺され、被告を厳しく処してほしい。被告も自分が生きていられることはないと分かっていると思います。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれためい(上記兄の娘)の調書から

父は両親に代わって叔母の面倒をみてきましたが、事件に衝撃を受け、体が弱々しくなり叔母のことばかり考えています。叔母は6歳で風邪をこじらせて脳に障害をもち、脳炎のため入院しました。退院後も学校に通うことができず、自宅で面倒をみていました。家族でみることができなくなり、仕方なく施設へ預けました。父は施設によく会いに行き、叔母は「お兄ちゃん」と寄ってきて一緒に歌を歌っていました。
叔母は体を動かしているだけでしたが、それでも父は「『お兄ちゃん』と言って一緒に歌っている」と言っていて、心が通じているようでした。

最後に父が叔母に会ったのは平成28年7月10日でした。叔母は施設で待ち構え、父が園につくや手を引いて部屋まで連れて行ってくれたと、父はうれしそうに言っていました。これが最後になりました。父はいつも叔母の顔が目に入るようにいろんなところに写真を置いていました。どの写真も笑っていました。末っ子で障害のある叔母は特別で、特に目をかけていたのを知っています。

事件のことはたまたまテレビで知りました。午前7時半ごろ、職員から涙声で電話があり「被害にあっている人がいるので園に来て下さい」と言われ向かいました。園からの説明で叔母が亡くなったことが分かると目の前が真っ暗になるほど衝撃を受けました。
入所者名簿には「×」と書かれそれは亡くなったことを示していました。
私が、叔母のところを指さすと父は指の先をしばらく見て「死んじゃったのか」と叫びました。その声は震えていて父の心の痛みを感じ胸が詰まりました。その後叔母に会うことができた時、父は眠っているような叔母に「かわいそうに。こんな風になって」と言って顔を両手で包んで声を押し殺して泣き、何も言いませんでした。父は叔母のことで心がいっぱいになっているようで独り言のように叔母の名をつぶやくようになりました。

被告には罪の重さを十分に分かってほしい。被害者が味わった恐怖は想像を超えます。
かけがえのない家族を失った私たちの痛みや悲しみを、被告自身に分かってほしいです。

更新2019年07月 更新

やまゆり園元職員(60代・女性)

今から30年余り前、生活介助を担当させてもらいました。いつも笑顔で「お兄ちゃん来る?お兄ちゃん来る?」と繰り返し聞いてくれるのがうれしく、「来るよ、来るよ、いつ来るかな」などと答えていたのを覚えています。歌を歌っていたり、体を揺らしたりするしぐさが懐かしいです。食事のときに彼女だけ食堂に来ないこともあったので迎えに行くと、ニコニコしながら私の顔を見てくれました。また、お風呂の介助で、洗髪後に髪をタオルで拭いていた時、ふさふさとした真っ黒な直毛がぴんぴんとはねていたのを今でも思い出します。髪の毛が白くなった姿の写真を見せてもらう機会がありましたが、お互いに年を重ね、自分にもいろいろあったように、彼女の人生にもいろいろな出来事があったんだろうなと感じました。

今回の事件では、亡くなった方たちの名前がわからなかったので、自分と関係がある事件だと実感が持てませんでした。しかし、時間が経って、当時の同僚から犠牲になった方の名前を聞いたとき、彼女の着ていた洋服や言葉をはっきりと思い出して涙があふれ、ともに生きた彼女の生涯を重く感じました。
事件から3年が経ちます。彼女には「今でも笑顔をはっきりと覚えています。一緒に生活できたことに感謝しています。安らかに眠ってください」と伝えたいです。

更新2018年07月 更新

同室で重傷を負った女性の兄(男性・50代)

事件が起きた当日は、妹が病院に運ばれたと聞いて、すぐに向かいました。妹は顔やのどにけがをして2日ほど意識がなかったものの、その後回復しましたが、2人部屋で、一緒に生活していた女性は亡くなったと、あとから母に聞きました。それを聞いて、すぐに思い出したのが、その女性とお兄さんの姿です。私たちより20歳くらい年上の兄妹で、女性は少し言葉も話せたので、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、お兄さんをとても慕っていたのを覚えています。やまゆり園の祭りにも来られていて、私の妹が私の肩に手をかけてくっついてきたのを見て、お兄さんは「妹さんは本当にお兄ちゃんのことが好きなんだね」と、私たちに声を掛けてくれました。そのときは「はい」としか答えられなかったんですが、私は、亡くなった女性の方が、よほどお兄さんのことを大好きだと思いますよ、と思っていました。私たち兄妹も、同じように年を重ねていくのかなとか、お2人のように仲良く過ごしていければいいなという風に思っていました。

亡くなられた女性は、A4くらいの大きさの紙に印刷されたお兄さんと映っている写真を持っていました。職員の方がお兄さんを大好きな女性のために印刷したのだと思います。いつもそれを見て、ニコニコ笑って、うれしそうにしていました。うちの妹は、そこまでの意思表示はありませんから、いいなぁと思って、見ていたことを思い出します。

お兄さんも高齢になられて、たびたび施設を訪れるのは大変なのではないかと思いましたが、母の話だと「お兄ちゃんお兄ちゃんと言われるから、来ないわけにはいかないね」と話していたそうです。

私の妹は、たまたま生き延びましたが、もし妹を亡くしてしまう立場だったらと思うと、本当に厳しく、どれほどの気持ちだろうかと思います。どうしても自分と重ねてしまいます。事件のあとは、連絡を取っていません。お見かけすることもありません。どのようにお過ごしなのか、とても心配しています。

犯人には憎しみを感じます。意思疎通ができない入所者を狙ったということですが、個人的には、意思の疎通はできます。言葉が話せないので、どうしてもわからないことはあるけれども、表情や視線や行動で伝わることはある。それは、私たちもそうですし、同室の方のご兄妹を見ていても、そうだと言えます。

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

お兄さんのことが本当に好きでした。お兄さんが来ていないときも、近い年代の職員と手をつないでニコニコしていました。歌もすごく好きで、園の盆踊りでみんなで踊ったドンパン節がお気に入りで、ふだんから職員といっしょに歌っていました。朝が苦手でなかなか起きられませんでしたが、「おりんごむきましたよ」と言うと起きてもらえました。朝ごはん用に園で専用のリンゴをストックしていたほどです。人の輪に積極的に入っていく方で、みんなで温泉施設に行ったときは全く違うグループの人たちのところにちょこんと座り、ほほえんでいたこともありました。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

お兄さんのことが大好きで、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕っていたようで、いつもお兄さんが施設に来るのを心待ちにしていました。お兄さんが来るとよく手をつないで2人で散歩をしていた姿が非常に印象に残っています。私たちにも「お兄ちゃんのことを話してよ」ってせがんできたように感じて、話をしてあげると、すごく喜んでニコニコと笑顔を見せてくれました。歌が好きで、お兄さんが教えてくれた歌をよく口ずさんでいるようでした。いろいろなことに挑戦する一面もあって、私たちを驚かせてくれました。みんなで遠足に行った遊園地では、いろいろな乗り物に挑戦していました。水族館もお気に入りで、水槽の前で泳ぐ魚の姿をじっと見つめ、離れようとしなかった姿が思い出として心に残っています。

60歳の女性

60歳の女性

更新2020年03月 更新

姉は物静かな人で、園の部屋の中でいつもゆっくりと過ごしていました。園に行くと、よく一緒に庭を散歩して、その穏やかでニコニコした表情をみるのが好きでした。姉は言葉を発することはありませんでしたが、好物のパンを食べたくて手をのばしたり、表情をみたりしてコミュニケーションをとっていました。みんなで一緒にご飯を食べて、そんなごく普通の毎日が幸せでした。60年、毎日暮らしてきて、振り返ってみてその日常が幸せだったんだろうと思います。それがなくなってしまいました。

事件の当日、姉の名前がテレビに流れ続けると思うとあまりにもつらく、匿名にしてほしいとお願いしました。一方で事件後は「匿名を望む自分は姉を否定しているのか」と絶えず悩んできました。それもあり、裁判では遮蔽をせず、傍聴席からも被告からも顔が見えるかたちで法廷に立つことにしました。

私は裁判で被告を死刑にするようにお願いをしました。両親からすれば大事な一人息子のはずで、その人に対して死刑を求めることはおわびしたい。しかし被告は現実の話をしておらず、何を語りかけてももう無駄だと切なくなりました。何かひとつでも正直に話してくれれば死刑を求める気持ちも変わったかもしれません。
被告は最後まで自己主張を通し、あまりにもひどい話だと思いました。自分の思いを他人に押しつけることで、自分の心の整理をしているのだと思います。心が少しでもあれば救われるかと思いましたが、それもありませんでした。

事件から時間がたつたびに段々と落ち着きを取り戻してきましたが、話をするたびにあの日に戻ってしまいます。事件は自然に風化していくかもしれませんが、事件をきっかけに障害のある人や社会的に弱い立場の人が安心して暮らせるようになってもらいたいです。

更新2020年03月 更新

弟が法廷で語ったことば

私は、植松聖さんに死刑を求めます。(拘置所にいる)植松聖さんの所へ12回行き、9回会ってくれましたね。そして2月5日。今日は最期になりますね、多分。
今日は2016年8月6日土曜日のことをお話させていただきます。場所は千木良のやまゆり園の体育館です。みどり会の後でしょう。皆さんがいらっしゃいました。神奈川共同会の方から事件の説明がありました。もちろん黙祷の後です。終わりの方になると、どこからか「被害者づらしてるな」と声が上がりました。

職員の皆さんは声を押し殺して泣いていました。植松聖さん、職員の皆さんの気持ちが分かりますか。この3年半、傷つけられた入園者を一生懸命面倒を見て、共に暮らしているのですよ。人が亡くなり、刃物で重傷をおい、職員が、家族が、世の中の人が心に大きな忘れられない傷を背負って生きていくのですよ。現実は残酷ですよ。

植松聖さん、あなたはどうですか?三食昼寝つきで、好き放題言うわ、絵は描くは、手紙は書くは、マンガまで出すは、あまりにもひどいですね。
植松聖さん、そろそろ人の事はいいから、自分の人生、そして起こした事件に真剣に向き合う時ですよね。植松聖さん、あなたは若く、あまりにも幼い。いずれ判決が下った時受け入れるのか、納得いかずに控訴するのか、今から心の準備をするべきですよ。人生は1度です。しっかり考え、決めて下さい。

ひとつお願いがあります。ご両親に私の連絡先を教えて下さい。多分、私と同世代でしょう。大事なひとり息子に私は死刑をお願いしました。一言おわびを言いたいのです。

匿名についてお話しさせていただきます。匿名により、県、県警、地検、地裁、そしてやまゆり園の皆さん、この3年半、本当にやさしく助けていただきました。匿名により非難され申し訳ありませんでした。後ろにいらっしゃる報道の皆さん、匿名により取材に苦労され、世の中に伝えるのに大変だったと思います。この事件を機に報道の仕方をもう少し考えていただければありがたく思います。こんな事件が少しでも少なくなるよう、人の良心に訴えていただければと思います。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた弟の調書から

姉は60歳で犠牲になりました。難産の末に生まれたと聞いています。知的障害がありコミュニケーションをとることはできませんでしたが、時折うれしそうな表情や渋い表情をすることがあって姉の生きている証や成長の証を見ているようでした。食パンが大好きで表情には出しませんでしたがちぎってあげるととても喜んでいる様子でした。鮭も大好きでした。嫌いなものは口に入れないなど頑固な一面もありました。介助が必要でしたが補助がなくても立ったり座ったり、ゆっくりですが歩き回ることもありました。

姉は誰かの助けがないと生きていけないため、父、母には少なからず苦労もありました。
姉が28歳の時に津久井やまゆり園をすすめられて入所しました。施設の職員はとても熱心に接してくれ、それまで使えなかったスプーンを自分で使えるようになりました。姉が成長していると実感し、施設には親以上に面倒を見てもらい感謝のひとことしかありません。事件の年の正月に姉を囲んで食事をしました。毎年恒例の行事でした。新年会のように集まることが私たちの幸せで、きっと姉の幸せでもあったと思います。新年会の時の写真を見ると、幸せな時間を思い出します。もう2度と集まることはできないという無念さと被告に対する怒りの気持ちがあります。

最後に父が面会したのは事件の2週間ほど前で父は名前を呼んで「元気かい?体の調子はどうだい」などと尋ねていました。姉は返事をしませんでしたが、父は肌で幸せを感じることができたようで、姉も幸せを感じているようでした。他の入所者とともに穏やかな日々を送っていましたが、被告が一瞬で奪ったのです。

7月26日の朝、テレビをつけると19人が心肺停止というニュースが流れていて、不安と緊張で心臓が張り裂けそうになりながら父は娘の無事を願っていました。そのあと連絡を受けて父と園に向かいましたが、到着すると人だかりと警察官で混乱していて、とても現実の光景とは思えませんでした。「姉は大丈夫」と信じて待っている私たちに知らされたのは、亡くなったという残酷な現実で、愕然と立ち尽くすことしかできず、なぜ殺されなければいけないのかという思いでした。

人間が起こしたものとは思えない事件を起こした被告は施設で働いていたと知りました。
被告は「障害者は不幸をつくる」という差別思想から事件を起こしたと言いますが、家族の苦しみ、一緒に暮らしていた家族の幸せをどれだけ分かっているのかと思います。
悔い改めるよう厳重に処罰されてほしい。

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

魚がすごく好きで、焼き魚でも煮魚でもよく食べました。食事に魚が出ると、いつの間にか職員のお皿にまで手を伸ばしていました。魚以外は食が進まないこともありましたが、マヨネーズをかけると何でも食べていました。職員にとっては新人泣かせなところがありました。というのも、ベテランと新人をすごく見分けていたんです。慣れている職員が食事を介助すると全部食べますが、新人がやるとなかなか食べてくれませんでした。利用者との関わり方を学ぶ上で鍛えられた職員も多いと思います。
音楽が好きで、童謡など誰かが聞いている歌のメロディーに合わせて首を振っていました。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

ぬいぐるみが好きで、部屋にはたくさんのぬいぐるみがありました。特にパンダのぬいぐるみがお気に入りのようでした。本当に穏やかな人で、話すことはあまりできませんでしたが、目をじっと見つめてきて、そうすることで自分の思いを伝えようとしていました。うれしいときは体を左右に揺すって、にっこり笑う姿が印象的でした。人に迷惑をかけることもなく、本当に“天使のような女性"でした。私たちが声をかけた時に見せてくれる、ほほえんだ顔が大好きでした。なぜ、あんなにいい人を無残にも手にかけたのか、絶対に許せません。

施設関係者

どんな困難にも負けない強い人でした。重い病気になったときも、家族の励ましに応えるようにしていた姿が思い出されます。

65歳の女性

65歳の女性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた妹の調書から

殺された姉の無念を思うと、ふつふつと怒りがわいてきます。私は幼いころは存在を知らされておらず、10歳ぐらいになった時、姉のことを聞かされました。施設に入っているということで初めて会いに行ったときは緊張しました。明るく人なつっこい性格で初対面の私ににこにこ笑ってきて、すぐ打ち解けることができました。私が1人で訪ねても寄ってきて、交互に指を差して職員などに「私の妹だ」と言っているように感じました。

姉は耳は聞こえずことばもできず、歩行も安定しませんでした。知的障害があり、自立して生活することができませんでしたが、身ぶり手ぶりでコミュニケーションがとれるようで、ご飯をたべることや、行き先の写真を見せればでかけることも理解できていました。物事が全く分かっていない訳ではないと思っていました。一緒に道を歩いていたとき車が来たら、私を道路の脇に両手で寄せてくれました。周囲の危険を察する能力があり、家族の私を守ろうとそのような行動をとったと思うので、重度障害者とは私は思えません。

20年ほど前に津久井やまゆり園に入りました。買い物が好きで、目を輝かせて欲しいものを指で差して、全力でおねだりしてきました。笑顔になるので、甘やかして買ってしまっていました。買った服を職員が「かわいい」と褒めると服を見せびらかすようにして私を指さし、「妹に買ってもらった」と言っているようでした。何か買ってあげるために仕事を頑張ることが生活の張り合いになっていました。姉にとってはやまゆり園も家で家族でした。職員にも優しくしてもらっていたと思います。人が好きでいつもにこにこしていて、いつもリビングで楽しそうにしていました。

事件当日は職員から「来て欲しい」と連絡を受け、姉がけがをしたのかなと心配になって施設に向かいました。私はけがをしただけだと思っていましたが、「亡くなった」と言われそこで初めて死亡したという現実を理解しました。でも、死を受け入れることができず「何かの間違いだ。死ぬはずがない」と自分に言い聞かせ、ぼんやりと座っていました。対面した姉は目をつぶっていて、私は「苦しまなかった?」と心の中で聞きました。苦しかったかな痛かったかなと思うと、耐えられない怒りがこみ上げてきました。どうして殺されないといけなかったのかと、体がバラバラに引き裂かれるようでした。

被告は姉がどんなにみんなに愛される存在だったか知るわけがない。好き嫌いせずに誰にでも愛される姉を、見ず知らずの姉を障害者というくくりにして殺してしまった。いろんな人がいて個性を持っていることをわかっているはず。みんな好きなものがあり、明るく懸命に生きているのを被告は知っていたはずなのになぜ殺してしまったのでしょうか。私は全く理解できません。ある人から「被告は死んで地獄に行く」と言われたけれど、そんなことではなまぬるいと思います。私の手で存在そのものを消してやりたいです。極刑になることを望みます。

更新2017年01月 更新

施設関係者

いつも笑顔で仲間の中心にいる方でした。ご家族と一緒に外出したとき、とても嬉しそうにしていたことを覚えています。

46歳の女性

46歳の女性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

人生の中でこのようなことが起きると思っていなかったので、心がどこかに置き去りにされているような感じです。娘に線香をあげながら「痛かったね、怖かったね」と声をかける日々です。事件の日の朝、職員から「とにかく園に来てください」と連絡を受けて向かいました。家族控え室に通され、娘が怖い思いをしているのかな、早く抱きしめてあげたいと思っていました。集まったのは亡くなった人の家族だと言われ、震えて周りの音が聞こえなくなり、立っていられなくなり、いすに座りこんでしまいました。娘はベッドに横たわって寝ていて、何度も名前を呼びましたが返事はなく、ほおに触れると冷たかったです。

娘は長女で生まれながらに知的障害があります。一定の単語は発することができますが、意味のある言葉は話すことができません。身振り手振りをつかって伝えたものを、私が理解するという感じですが、感情や表情が豊かで本当にかわいい娘です。2歳か3歳の頃に医師から知的障害だと言われました。障害だと聞いたとき「何でうちの子が」という気持ちと「やっぱり」という納得の気持ちが同時にありました。娘は他の子に比べて言葉が出るのやハイハイが遅く心配していました。それでも初めての子どもで、他に代えがたいかわいさがあって、純粋に娘としてかわいがっていました。

幼稚園では友だちにもめぐまれ楽しそうに過ごしていました。小学校は特別支援学級に入りました。他の子よりもゆっくりでも、娘が成長していく姿をみるのが幸せでした。小学校の先生は娘の写真をいっぱい撮ってくれて、その写真がいまとなっては宝物です。中学校になると娘は学校に行くのを嫌がるようになりました。バスや電車に乗って遠くに行ってしまうようになり、新幹線で愛知県まで行ってしまったこともあります。遠くへ行く楽しみを覚えたのか、目を離したらどこかに行ってしまうようになりました。迎えに行ったら嫌な顔をして私を見ていて、そのしぐさをする娘が本当にかわいくて思い出すと温かい気持ちになりました。小さな喜びがいくつもありました。

娘が26歳の時に、さみしかったですが糖尿病などもありやまゆり園にお世話になることを決めました。入ったばかりの時は「ママ、ママ」と言って手を離さず身が引き裂かれる思いでしたがだんだんと職員さんに心を開いたのか、どこかに行くこともなくなりました。やまゆり園が外の世界より楽しい場所になったんだと思い、職員さんには感謝しています。会いに行くと「ママ、ママ、おはよう」と言ってにっこり笑ってくれました。今でもまぶたに浮かび、声が聞こえてくるようです。

最後に会ったのは7月12日でマニキュアを塗っていて、うれしそうに両手の爪を見せてくれました。娘はファッション誌を見るのが好きで、「8月6日はお祭りだね、浴衣が着れるからね」と話していました。娘は毎年、浴衣を着るのを楽しみにしており、満面の笑みで応えてくれました。娘と別れてから、もう1度浴衣を着せてあげたかったと叶わぬ思いを持っています。被告に対しては、私自身がこうしてほしいという気持ちを持つまではいっていません。「被告を許せるか」と聞かれたら到底許すことができませんが、怒りがわくとか、どうなってほしいとか、考える余裕はまだありません。それほど娘を失ったことがショックなのだと思います。娘が失ったことをどこかで認めていない、防衛本能が働いている気がします。娘がいない現実を見ると心が壊れてしまうと思うのです。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

お話し好きで、人なつっこくて、よく職員の会話に入ってきました。中山美穂さんや工藤静香さんなどアイドルに興味があって、テレビを見たり、雑誌を見たりしていました。持病を抱え、つらい時もあったろうにすごく努力していました。ちゃめっ気があって本当にかわいい人でした。

施設関係者(男性)

おしゃべりと人が大好きな、にぎやかな人でした。彼女なりの理由があると思うのですが、集団でいると急に「怒るよー!」「何やってんのー!」と強めの言い回しで周囲を「えっ、なに?」と驚かせます。と思いきや、一瞬、間をおいて「……ごめんねーっ!」と言ったりで、その間の良さ、見事な緊張と緩和に吹き出してしまいました。
薄いピンク色が好きで、外出の訓練で一緒にカラオケに行ったときも薄ピンクのパンツに黄色いリュックを背負っていた姿が印象的でした。あんなふうに命を奪われるいわれは何一つない、楽しい人でした。

65歳の女性

65歳の女性

更新2020年03月 更新

弟(2017年8月の手記に追記)

姉が私にとってどんな人か、と問われれば「姉は姉でしかない」と答えます。姉は知的障害があり、言葉を発することはできませんでしたが、両手の指を使い、ジェスチャーや表情で意思の疎通ができました。私にとって、大切な姉であり、大切な家族でした。

姉が施設に入ったのは、小学校3~4年生頃のことです。離れて暮らすようになるまでは、両親は、普通に私と一緒に外を連れて歩いていました。
姉は気が強いところと優しいところがある人で、気が強いところは父親似、優しいところは母親似です。一緒に電車やバスで出かけた時、お年寄りや子連れの人を見つけると、席を替わってあげていました。少し離れたところにいる人にも、わざわざ手を引いて連れてきて、替わってあげるのです。母がそうするのを見て、覚えていたのだと思います。
他方で、気が強いところもあり、幼い頃は物の取り合いなどでよくケンカをしていました。施設に入ってからも、帰宅訓練といって家に帰ってくることがあるのですが、ひっかき傷を作って学校に行くと「またお姉ちゃんにやられたの?」と先生に言われていました。姉の気が強いところは、父が意識してそう育てたところがあると思います。施設で離れて暮らさざるを得なかったので、一人でも泣かないように、強く生きられるように、との想いからです。

気が強いところもあった姉ですが、言葉が話せず、近所の子から、からかわれたり、いじめられたりすることがあったのは事実です。こんなことがありました。何歳のときだったか、記憶がはっきりしませんが、私がまだ小学生のとき、姉が何人かの子にからかわれ、いじめられているのを見つけたことがあります。私は怒って、怒鳴りながら彼らに向かっていきました。そして、逃げていく彼らに向かって石を拾って投げたら、一人の頭に当たって、怪我をさせてしまいました。
そのあと、母から「怪我をさせた子のところに行くから、ついて来なさい」と言われました。怒られるんだろうなぁ、と思っていましたが、母は私のことを怒りませんでした。母は、怪我をさせた子の家に行き、その子のお母さんに言いました。「怪我をさせてごめんなさい。治療費は払います。だけど、この子のしたことは、怒ることはできないんです」。その子のお母さんも「娘さんをからかってごめんなさい。許されることではないことをしました」と言って、怪我をした子を連れてきて、頭に包帯を巻いているその子にも、私たちに謝らせてくれました。

姉のやまゆり園での生活は、約40年に及びます。ここ2~3年は病気のために体が不自由でしたが、それまでは支援員の指導のもとで、組紐の絨毯編みやビーズ細工を楽しんでいました。
月に一度の面会には、必ず行っていました。姉も面会を楽しみにしてくれていて、ちょっと遅れたりすると、他の家族に、まだ来ないのかと聞いたりしていたそうです。入所していた人たちは、みんな、家族との面会を楽しみにしていて、家族が来れない時には不機嫌でしたし、来ると本当にニコニコしていました。被告人は、家族からの愛情がないなどと言っていましたが、そんな家族は一つもないと思っています。

今回、匿名で報道されたのは、障害のある姉を恥ずかしいとか、知られたくないと思ったからではありません。最初、匿名を希望している人がいると聞いたとき、私は「なぜ?」と思いました。けれども、私自身、今は乗り越えたものの、妻と結婚することになったときに反対する人がいた経験もあり、家族に障害者がいることで差別を受けることがある現実を知っています。各家庭でいろいろなご事情があるのは察することができたので、全員について匿名報道にすることに同意しました。
事件後、記者の人が家に来るたびに、今は亡き母は「なぜウチがこういうことを聞かれなければならないのか」と怒っていました。葬儀では、静かに姉を見送ることができ、自宅に大勢記者が押しかけるということも避けられたので、そういう意味では匿名報道をされて良かったと思っています。

今後も静かな生活を乱されたくありませんし、凄惨な現場や、遺体袋に入れられた姉の姿を思い出すだけで、胸が締め付けられます。
姉は、子どもの頃、障害のせいでいじめられていました。姉にはハンデがありましたが、私たちにとってかけがえのない家族でした。その姉が、このような形で命を奪われることになり、本当にかわいそうでなりません。被告人のことは絶対に許すことができません。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

事件のことは思い出したくもありません。何を話しても娘が戻って来るわけではありませんが、思い出はたくさんあって、あの子の気持ちの優しさが印象に残っています。障害はありましたが、すごく優しい子で電車やバスに乗ると、立っている小さい子どもを連れた人やお年寄りに席を譲ることができました。常に弱い人や子どもに思いを寄せることができる子どもでした。

しゃべれなくても私には娘が何を考えているか分かりましたし、私の思っていることを理解していたと思います。何の罪もない娘が事件で殺害されたことは、悔しくて悔しくて受け入れられません。親より先に逝ってしまったと思いたくもありません。被告がどんな罰を受けても娘は生き返りませんが、最も厳しい罰を与えていただきたいです。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた弟の調書から

両親が年をとってきて支えられないことや姉の将来を考え、やまゆり園に入所するという苦渋の決断をしたと聞きました。私が会いに行くと唯一動く左手で手招きしたり、母を示す小指を使ったりして母を案じ、一生懸命気持ちを伝えてくれていました。私たちは姉をずっと見ているので、思っていることはなんとなくわかります。意思疎通が全くできないわけではありません。

事件の当日、園から連絡がなかったので無事だと思っていましたが、何かやらなくてはいけないことがあるかもしれないと思い向かいました。施設の部屋に入ると名簿があり「○」や「×」が書いてありました。姉は無事だと思っていたのですが、名前を見ると「×」が書いてあり、姉が何かの被害に遭ったかもしれないと思い、名簿を改めてみると死亡確認と書いてありました。一瞬目を疑いましたが、書いてあることに間違いはありませんでした。姉の顔は青白かったですが眠っているようでした。「お姉ちゃん」と声をかければ起きるのではないかというくらい穏やかな顔で、声をかけましたが反応がありませんでした。涙が止まりませんでした。即死ではなかったと聞き、絶命するまではどれほど痛くて苦しくて、地獄の数分間を耐えていたかと思うと、かわいそうでなりません。

最後に会ったのは7月10日のことでした。ホームを訪ねると嬉しそうに寄ってきて、私の姿を見るやにこっと笑って喜んでくれました。いつも私が帰ろうとすると泣いてしまって、この日も「じゃあ帰るね」と言うとすぐに泣きだしてしまいました。まさかこの日が姉と会う最後の日になるとは想像もできませんでした。

姉は純粋で優しく、その優しさを人に分け与えられる人でした。被告には姉の命が家族にとってどれだけ大切で、どれだけ尊いかを知ってもらいたいと思います。遺族の苦しみ、その人がどんな思いで絶命したかを考えてもらいたい。もし被告を私の前に連れて来てくれるのなら自分の手で命を奪ってやりたいと思います。現実にはそれはできませんが、それぐらい被告には憎しみを持っています。司法の判断で罪を償ってもらいたいと思います。

更新2019年07月 更新

やまゆり園元職員(60代・女性)

高齢の方が多かった施設の中で、同年代の入所者は少なかったのですが、私よりもちょっとお姉さんの彼女は、私にとって頼りになる存在でした。ぞうきんを縫ったり、一緒に洗濯物をたたんだりして、元気に作業していた姿を思い出します。わざとお腹を出して叩いて、みんなを笑わせてくれるひょうきんな面もありました。言葉で伝えることは難しかったのですが、私たち職員が話す内容は理解してくれていて、よく気配りができる人でした。何か周囲でまずいことが起きると、合図をしてくれたり、私の体を叩いたりして、私たちの気が付かないことも教えてくれました。自分の働きかけに対して、何らかの反応を返してくれ、自分自身教えられることも支えられることも多くありました。

事件から3年。彼女には「一緒に生活する中で、あなたが元気に頑張る姿を見て、私自身成長させてもらったり、支えてもらったりしました。3年が経っても、まだ事件は終わっていないように思いますが、私に何ができるのか考えています。安らかにお眠りください」と改めて感謝の思いを伝えたいです。

更新2017年08月 更新

姉は知的障害というハンデがありましたが、私たちにとってかけがえのない家族でした。姉は気が強いところと優しいところがある人で、気が強いところは父親似、優しいところは母親似です。一緒に電車やバスで出かけた時には、お年寄りや子連れの人を見つけると、席を替わってあげていました。少し離れたところにいる人にも、わざわざ手を引いて連れてきて、替わってあげるのです。母がそうするのを見て、覚えていたのだと思います。
被告人は、障害者は生きている意味がないなどと言っていますが、そんな風に思っていた家族は一つもないと思います。今回、匿名で報道されたのは、障害のある姉を恥ずかしいとか、知られたくないと思ったからではありません。最初、匿名を希望している人がいると聞いたとき、私は「なぜ?」と思いました。けれども、私自身、今は乗り越えたものの、妻と結婚するときに反対する人がいた経験もあり、家族に障害者がいることで差別を受ける現実があることは知っています。各家庭でいろいろなご事情があるのは察することができたので、全員について匿名報道にすることに同意しました。
葬儀では静かに姉を見送ることができ、自宅に大勢記者が押しかけるということも避けられたので、そういう意味では匿名報道をされて良かったと思っています。今後も、静かな生活を乱されたくありませんし、凄惨な現場や、ストレッチャーのうえの遺体袋に入れられた姉の姿を思い出すだけで、胸が締め付けられます。自宅への取材・訪問はやめて頂きたいです。
子どもの頃、障害のせいでいじめられていた姉が、このような形で命を奪われることになり、本当にかわいそうでなりません。被告人のことは絶対に許すことはできません。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

明るくて世話好きな方でした。洗濯物を畳むのが大得意で、ほかの入所者の衣服やタオルを畳んで、決められたタンスにしまってくれるなど、よく私たちを手伝ってくれました。うれしいことがあると声を出して楽しそうに笑っていたことを思い出します。
積極的で行動力もあって、遠足ではどこに行くにも先頭でした。職員を「急いで、急いで」と、ひっぱる姿が目に浮かんできます。話すことが少し苦手でしたが、言葉はちゃんと理解していました。ふだんから、利用者さんが転んだり困ったりしていると職員のところにきて、手を引いて連れていってくれました。ご家族との関係もすごく良い方でした。

写真
35歳の女性

35歳の女性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた父親の調書から

妻が亡くなったあと私が娘の一番の理解者で、娘もそう思ってくれていたと思います。事件のあとは何も手がつかないし、気持ちが追いつきません。娘が殺されたことと向き合えず、ひと事のように感じている自分がいましたが、このままではだめだと、事件と向き合わないといけないと思っています。

妻はできることはすべてしてあげたいと、幼稚園や保育園には入れず、自分で世話をしていました。家族で海や川にドライブや、キャンプに行ったり、紅葉を見に行ったりしました。人見知りな性格で知らない人には近づくことはできなかったが、家族はして欲しいことをしてくれるとわかっていて、ことばは話せなくても、家族はある程度理解できていました。

かわいい娘と離ればなれになるのはつらかったですが、妻の病状が悪く入所させたほうがいいと判断しました。娘はいつも食堂にいて、私は手を握って話しかけたり、園内を車椅子で散歩したりしていました。7月に会いに行ったときは私の腕に力が入らず、だっこができず、散歩ができなかったので、すごくさみしそうな顔をしていました。そのさみしそうな顔が最後に見た姿になってしまいました。ニュースで事件を知って「大丈夫なのか」と心配になり、すぐに津久井やまゆり園に電話をしました。亡くなった中に娘がいると分かり、「どうして娘が殺されなければいけないのか」という思いでした。

娘は私が「先に寝るね」と言うと、先回りしてベッドに入るようなかわいい子でした。トイレを上手にできたと褒めると本当にうれしそうにしていました。ドライブが好きで窓から見える景色が移り変わる様子を楽しそうに見ていました。弾けるような笑顔が今も心に残っています。娘との思い出はもう増えません。笑いかけることもありません。娘は娘なりに一生懸命生きてきました。娘がいることが当たり前で、その笑顔が何度も私を救ってくれました。もう笑顔を見ることができず、残念な気持ちです。人の人生を終わらせる権利はないはずです。障害があったからだと言われ、「そんな理由で殺されたのか」と被告を絶対に許すことができません。障害がある人が生きているだけで迷惑なのでしょうか。何を思うかは個人の自由ですがその価値観を私たちに押しつけるなと言いたい。私たち家族は娘と一緒にいられて本当に幸せでした。この感謝の気持ちをもっと伝えてあげたかった。被告が早く極刑になることを願います。

更新2017年01月 更新

施設関係者

フルーツとコーヒーが大好きな方でした。施設で暮らすようになってからも、ご家族から受けた愛情に包まれながら笑顔で過ごしていました。

55歳の女性

55歳の女性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた弟の調書から

姉は脇を抱えながらであれば歩くこともできたし、スプーンを持たせてあげれば自分で上げ下げすることもできました。水を飲みたいときは「み、み」と言い、トイレに行きたいときは腹をぽんぽんと叩いていました。私たち家族にとっては特別なサインで、言葉による意思疎通はできませんでしたが、母がつくったご飯に顔をくしゃくしゃにして喜ぶなど、動作によるコミュニケーションはとれていました。

テレビで事件が起きたと言っていましたが、まさか自分の姉が入所している施設だとは思わず仕事に向かいました。その後、「亡くなった」と連絡があり、「なぜ。どうして姉さんが」と取り乱しそうでした。姉と対面したのは午後10時ごろでした。横になっている姉の姿はとてもきれいで、まるで眠っているようでしたが体はとても冷たく、目をあけることもなく、起き上がることもありませんでした。この時、死んだのだと理解しました。姉の恐怖や痛みを考えると涙が止まりませんでした。自宅に帰ったあとも「まだ生きているのではないか」とか「施設に行けば会えるのではないか」と考えていました。

被告は「犯行を後悔していない」など身勝手な供述をしていると聞きはらわたが煮えくりかえる気持ちです。姉さんはまだ生きていたかっただろう、痛かっただろう、怖かっただろうと思います。自分勝手な思想で姉の命を奪った被告には更生ではなくできるだけ早く死刑になり、命をもって償ってほしい。

更新2018年07月 更新

妹が事件で重傷を負った男性(50代)

以前、妹と同じ部屋で暮らしていた方でした。とても静かな方で、糸をクルクル回していた姿をよく覚えています。いつも集中している様子で、楽しそうにされていた姿が印象的でした。妹もその女性も言葉を交わすことはありませんでしたが、互いにちょうどよい距離感で、穏やかに過ごしていました。事件で、あののんびりとした大切な空間が奪われてしまったという、喪失感が今も残っています。

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

穏やかな方でした。ほかの利用者でとっても仲のいい方がいて、散歩の時にはよく名前を呼ばれて手を引かれていました。葉っぱやひもで遊ぶことが好きというのは、職員の間で引き継ぎ事項になるほどみんなに知られていましたよ。食べ物は好き嫌いなく何でもよく召し上がりましたが、水分補給はいつもブラックコーヒーで、お茶とかほかのものは飲みませんでした。
言葉はほとんど話しませんでしたが、周りが言っていることはすごくわかっているなと思うことがたくさんありました。私がちょっとしたことで注意をするために名前を呼ぶと、ごまかすように「らー」と言いながら片手を伸ばしてきて、私の体を自分に引き寄せていました。
私がいた時は毎月ご家族が面会に来ていました。ご家族が来られない月があると「いつもと違う」という様子で、自室から建物の入り口までトコトコ歩いて立っていました。ご家族に会いたくて探しているんだなと思い、印象に残っています。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

いつもニコニコしている、穏やかで純粋な方でした。施設の周りに散歩に行くと、道ばたの草や葉を手に取って、その草を自分の目の高さにあげて、じっと見つめながらくるくると回して喜んでいました。私たちはその姿を見るのが大好きで、和やかな気持ちにさせてくれました。

55歳の女性
41歳の男性

41歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

生まれつきのダウン症で人生にハンディキャップをもってきました。被告は「障害者は生きていてもしょうがない」と言っています。被告が何を言おうと勝手ですが、これまでの生活は本当に幸せでした。息子は私たちにとっては初めての子どもでした。生まれてきた息子を見たときは本当にうれしかったです。ただ一度にミルクを飲む量がほかの子よりも少なく、医師からはダウン症だと言われました。ダウン症について調べると3歳くらいまでしか生きられない可能性があることがわかりました。短期間で亡くなってしまうのではないかと不安でしかたありませんでしたが、寝顔を見ていると不安よりも一生懸命生きていこうという前向きな気持ちになれました。抵抗力が弱く夜熱を出したときには「短命」と言うことばが頭をよぎりました。そして3歳の誕生日を迎えたとき、息子は生きていました。本当にうれしくて家族でケーキを買ってお祝いをしました。

成長するにつれて、身の回りのこと食事や排せつなど基本的なことはできるようになりました。「はい」「うん」「ごめんなさい」ということは話せます。計算をしたり文字を読んだりすることは出来ませんが、頼むとものを取りに行ってくれるなどジェスチャーでコミュニケーションをとることができました。ふだんの生活で学んだのか、私が洗濯をしていると頼んでもないのに物干し竿を運んできてくれて、人を気遣うこともできました。

障害についてかなり重い症状を想像するかもしれませんが、私にとっては年齢にみあった知能が追いついていないだけでした。週末は夫と3人で出かけるのが楽しみで、息子自身も家族の大切さを感じていると思っていました。ドラゴンボールを見てかめはめ波のまねをして笑わせてくれたり、熱湯を浴びて心配をさせたり、時間がないのにゆっくりと準備をして私たちをやきもきさせたりもしていました。施設に通い始めましたが自立させたかったので慣れた頃に1人で行かせるようになりました。電信柱から隠れて見ていると、違うところで曲がったりすることもありましたが、最後には1人で施設まで行けるようになりました。私は心からうれしく、本人も誇らしかったのか満面の笑みでした。

津久井やまゆり園には2日前から短期入所中でした。無事を早く確認したい、それだけの気持ちで施設に向かいました。亡くなったことを職員に告げられ、ことばでは理解していましたが頭が真っ白になってその場で泣き崩れるしかありませんでした。夜に対面しましたが必死に名前を呼んでも応えてくれずただ涙があふれてきました。何でこうなったのか、何で息子が死なないといけないのか、入所させたからこうなったのかと後悔しました。私はいつまでも横にいて、成長を見守ることができると思っていました。被告にはもちろん極刑を望んでいます。そうしないと息子の死を私自身受け入れられないし、息子に報告ができません。

更新2018年11月 更新

家族

息子は、生まれたと同時に、ダウン症であること、3年くらいしかもたないだろうということをお医者さんから告げられました。それでも授かった大事な命ですから、夫婦で「いい薬がないか」、「いいお医者さんはいないか」と一生懸命に探しました。そうしたところ、主人の恩師の奥様が看護師をしていらして、いろいろと調べて下さいました。そして千葉に良い病院があるとご紹介頂きました。その後、当時在住していた実家から千葉まで、その病院に通いました。実家は千葉からは距離があり、通院するのは大変だったので、少しでも通院を楽にするため、家族3人で相模原に越すことにしました。こうして息子は相模原で、幼稚園から、養護学校の高等部まで通うことになったわけです。

私たちはご近所に息子のことを隠したりせず、普通に生活をしていたので、ご近所の方からは私たちに対して、声をかけてもらったり、気にかけて頂いたりしました。近所の方々に支えて頂いて生活でき、心強く思ったものです。ある日、「この頃姿を見ませんね」と声をかけられ、亡くなったことを話したところ、施設に入所したのではと思われていました。亡くなったことを聞いて驚かれ、お花を頂戴したりしました。毎日デイケアセンターに通う姿を温かく見守って下さったことに、あらためて感謝をしました。

振り返ると、いろいろな思い出が頭をよぎります。
小学校の低学年のころ、ちょっと目を離したすきに自転車に乗っていなくなったことがありました。近所の方々や主人の会社の人たちが探してくれましたが見つからず、ただ自転車に乗って自宅からかなり離れた駅の方に向かって行ったという目撃情報があっただけでした。その情報を頼りに、私たちは車で駅近辺を探していましたが、見当たりませんでした。その後、乗っていた車を停めようと入っていった駐車場に、自転車に乗った息子が同じタイミングで入ってきたのが目に入ったのです。息子は白内障で、夜になるとよけい目が見えなくなります。ですから、車は見えたとしても、その車に私たちが乗っているのは見えなかったはずです。大声で名前を呼んだところ、泣きながら抱き着いてきました。同じタイミングで親子そろって駐車場で出会えたことに、奇跡を感じずにはいられませんでした。

好奇心が旺盛な子で、じっとしておられず、ちょくちょく学校からいなくなりました。
小学校の入学式で、集合写真を撮るためにほかの子がいるところに連れて行っても、写真を撮り終わるまでにはいなくなっていました。猫とか犬が本当に大好きで、実家に帰った際、いないと思ったら、家の軒先の犬小屋の中に犬と一緒にいたりしたこともありました。実家で目を離したときにいなくなってしまい、探していたところ、家のそばの小さな池に落ち、すました顔をして這い上がってきたこともありました。実家には、お盆のお墓参りに毎年帰っていました。息子はとても楽しみにしていました。事件のあった年も、早めに実家行きを予約していました。今回の事件を受けてキャンセルしようかと思いましたが、息子の写真を持って、一緒にお墓参りに行ってきました。今年も写真を持って、行ってきたばかりです。楽しみにしていたお墓参りに行けなくて、息子も残念がっていると思います。

2年たった今も私たち家族にとってつらい気持ちで、日々過ごすことに変わりはありません。息子に会いたいという思いは強くなるばかりです。頑固でやさしく、ひょうきん、争いごとはこのまず避ける。ダンスが好きで、休みはB'zのCDをかけて踊っていました。畳がすり減り、カーペットを敷いても同様です。ドラゴンボールも大好きで、DVDを大切にし、短期入所のたびに、本と一緒にもっていくため、大荷物でした。
持ち物の整理は、当初していましたが、買ったばかりのものはともかく、本人がよく着ていた服や、気に入っていた物などは本人の気持ちや思いが詰まっており、そう簡単には捨てられませんし、目にするたびに思い出してしまい、辛くなるので、やめてしまいました。今でも、みんなでいるときはいいのですが、一人で写真の前に立つといたたまれない気持ちになります。

事件の2日前、5日問の短期入所ということで、やまゆり園に家族みんなで送ったばかりでした。2日後には迎えに行く予定だったのに、事件に巻き込まれてしまい、迎えに行くことができなくなりました。葬儀の折、死を解さない小さな孫に、「おじちゃん、いつ帰ってくるの?」と聞かれたときは、答えることができませんでした。今では写真を見て「おじちゃんは死んだんだよ」と言います。受け容れたくない気持ち、悔しい気持ちを抱えて日々を過ごしています。

私たちははじめ、意見を発表するつもりは全くありませんでした。そっとしておいてほしかったからです。亡くなったということを否定したいのに、周りから何か言われれば、亡くなったということを押し付けられているみたいで、余計落ち込んでしまうからです。今でもその気持ちに変わりはありません。
でも、犯人が言っていることに賛同している人たちがいるということを聞き、ショックを受けました。「もしそういう人たちが犯人のほかにも出てきたら怖い」、「障害者がつらい立場に置かれる」と、居ても立っても居られなくなりました。
意見を出すといってみたものの、自分には無理だと思いました。何度も弁護士さんに連絡をして、「やっぱりやめておきます」と言いかけました。でもここで声を上げなければ後悔すると思いました。声を上げないと息子に申し訳ない、とも思いました。

事件から2年経ち、やまゆり園の事件も耳にすることが少なくなってきています。
息子は亡くなりましたが、障害をお持ちの方はほかにもいらっしゃる。障害者に対してもっと目を向けて欲しい。今回の件をきっかけに、障害者についてもっと議論して欲しい。そう思っています。

裁判がいつ始まるかはまだ正確にはわからないそうです。でも一日も早く始まって欲しい。たとえ犯人の刑が決まり、裁判が終わっても、私たち遺族にとって、それは事件の終わりではありません。それでも一日も早く裁判が始まってほしいと願うのは、犯人がどうしてこういう事件を起こしたのか、なぜ息子が死ななければならなかったのかを知りたいからです。
そして、犯人に聞きたいからです。
もしあなたの家族、親、兄弟、子供が障害者となったら、同じような行動がとれるのか?自身を含めて、いつ障害者の立場になるかわからないのに。

更新2017年01月 更新

施設関係者

短期で施設を利用していた方でした。作業のときもふだんから、ホームの仲間たちを優しく見守ってくれていました。

43歳の男性

43歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

園では楽しそうに生活していていつも笑顔でした。今でも園で生活を続けていると錯覚することがあります。そのたびに「死んだんだ」「会えないんだ」と思い直します。火葬が終わり、お骨も家に戻ってきていますが息子の死を受け入れきれていません。

息子が幼い頃、医者からは障害を持っている子はどんどん衰弱し、命を落とす子もいる、治す方法はないと言われ、何で死ぬ前提で話をしているのかと思いました。死なせてなるものかと反骨心やエネルギーがわいてきました。息子は親や職員など身近な人の話は理解できるようで、2つ程度の単語を組み合わせて話すこともできました。歩くことも物を取ることも、状態がいいと走ることもありました。意思疎通ができないことはありませんでした。

最後に会ったのは7月10日でした。会うときはいつも食堂で食事をとることにしていたのでこの日もバスで食堂に行きました。息子はフライ定食と焼きそばを注文し1人ですべてを平らげて楽しそうに笑っていました。苦しい家計のなかでも息子との食事のときには奮発して注文したいものを注文させてあげました。帰りに駅前でバスを待っていると季節外れにツバメが巣をつくっていて、息子は興味津々でいつまでも見ていました。今となっては息子と一緒にいるときに神様が最後に美しい光景を見せてくれたのかなと思っています。今でも食堂やツバメのことを思い出して心が壊れてしまうような気持ちになります。

事件が起きた日、施設に着くと園長に誘導されて部屋に入りました。息子が生きているのかどうかと聞くと、園長は震える声で「申し訳ありません。亡くなりました」と言いました。突然のことで涙も出ませんでした。息子に会えて顔をのぞき込むと、口を少し開けて笑っているような表情をしていました。「いままでありがとうね。お母さんはあなたが生まれてきてくれて幸せだったよ」と話しました。息子は言葉も少しできたので、事件のときに「助けて」「お母さん」と叫んでいたのではないかと思うと耐えがたく、早く息子のもとにいってあげたいと思ってしまいます。

被告には自分がやったことでどれだけの人が苦しんでいるのか、自分の考えが間違っていたと気づいて欲しいです。私は被告に死刑を望みます。自分の罪に気づき、悔やみながら刑を受けてもらいたいです。被告が死刑になったという話をもって息子のところにいきたいです。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・30代)

野球が好きな人でした。男性のタンスにはたくさんの野球のユニホームが入っていたのを覚えています。箸を使って食事もできるし、1人で風呂に入って体も洗えるし、しっかりと自立していつもニコニコしていた人でした。

66歳の男性

66歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた兄の調書から

弟は生まれつき知的障害がありました。身ぶり手ぶりで一生懸命何かを伝えようとしていました。他人のしゃべっていることを理解しているようで、嬉しそうな顔や嫌な顔をしていて、自分の気持ちを伝えることができました。活発な子どもでいつも走り回っていました。3年前からは車いすで生活するようになりました。それでも車いすは嫌なようで床をはって移動することもありました。食事や排泄は、時間はかかりますが自分でできました。

ラジオのチューニングが好きで、ダイヤルを合わせてきれいな音が出ると嬉しそうな顔をしていました。ラジオを分解して組み立てることも好きでした。うまく組み立てられたことはありませんでしたが、面会の際は「あー」と言って「ラジオを持って来たでしょ、ちょうだい」というようでした。人なつっこいのと寝起きが悪いのが特徴でした。

戦後の時代だったので弟は小中学校には通っていませんでした。私は弟と遊ぶことが楽しく毎日遊んでいました。両親も疲れつつも一生懸命育てていました。特に母は弟のことを溺愛していて、弟も母のことが大好きでした。役所の人に施設が出来たので入らないかと言われ、いつまでもこのままではいけない、集団生活に慣れさせた方がよいと考え、やまゆり園に入所させることにしました。やまゆり園は本当によくしてくれて、感謝しかありません。弟も本当に好きで楽しく過ごしていて、そのことは弟の表情からよくわかりました。

弟は面会を楽しみにしていました。特に母親が生きているときは、面会日だと分かると朝から玄関で座り込んで待っていることもあったと職員から聞き、みんなで苦笑しました。最後に会ったのは7月10日でした。いつもと変わることはなくお土産のラジオを渡し、一緒の時間を過ごし、「また来るな」と声をかけて別れました。最後の姿を覚えていません。それほど普通の日常でした。その日が最後なのに普通に別れてしまって思い出せません。「もっと話せばよかった」「大好きなラジオも、もっと大きなものを買ってあげればよかった」と後悔する気持ちです。だびに付すときはラジオのおもちゃを入れました。天国では大好きな母親を独り占めし、ラジオを分解して遊んでいる姿が目に浮かびます。

被告を許すことはできません。ただ病的な精神異常者なら憎むことができません。遺族としてはおかしいのかもしれませんが、一方で障害者の家族としての気持ちがあるからです。私は精神障害者、身体障害者に関わることが多かったです。知的障害や精神障害というのは奥深いもので、簡単に人が理解したり説明できたりするものではないと思います。ですので弟を奪ったことは決して許さないが、恨みきれる自信がありません。でもニュースを見ると病的な精神異常者ではなく、ただの殺人者という面も見えてきているので、そうであれば絶対に許すことはできません。裁判では家族の無念を晴らしてほしいという思いもあります。また被告1人を死刑にすることでは解決できない、障害者への差別が深まることがないように願うばかりです。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・70代)

とにかくラジオが大好きで、小さな携帯用のトランジスタラジオをいつも手に持ったり、ポケットに入れたりして持ち歩いていました。音を楽しそうに聴いていたのを覚えています。家族が面会の時に新しいラジオを持ってくると、とてもうれしそうに新しいラジオをいじっていました。
言葉が不自由な面もありましたが、日常生活にはほとんど支障がなくて、時々、おちゃめないたずらをする姿を見ていると、ほっとして癒やされるような気持ちになりました。何かというとちょっと声をかけたくなる存在でした。そんな無抵抗の彼を襲った行為は、絶対に許すことはできません。

元施設職員(男性・70代)

ラジオにこだわりがあって、365日、散歩に行くときも、寝るときも風呂にいくときも肌身離さずに持っていました。だから壊れたり電池が切れたりすると大騒ぎしていたことが懐かしいです。とにかく明るい人で、いつもニコニコしていてみんなに好かれていました。亡くなったと聞いて、「なぜなのだ」と強い憤りを感じました。いまも信じられません。

元施設職員(男性・30代)

ラジオが好きで、いつもラジオを持ち歩いていました。どこかに遠出する時は、行った先でラジオを買うのを最も楽しみにしていました。ラジオだけではなく、ボタンを押したら光る機械も好きでした。男性との思い出で最も印象に残っているのは、夜勤で泊まっていた時、ホームの中から「ひー、ひー」といった音が聞こえてきて、恐る恐る部屋の中をのぞくと、当時流行していた、押せば「へぇ~」と鳴るボタンを連打して遊んでいました。こちらはすごく怖い思いをしていたのに男性はニコニコしていて、拍子抜けしたことを鮮明に覚えています。そんなおちゃめなところがある人で、いまでも当時の同僚たちと集まれば、このときのことが話題になり、皆で男性のことを思い出しています。

66歳の男性

66歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた姉の調書から

被告は障害者の人権を無視し、それまで家族がどれだけの思いで支えてきたかという心情を無視してゲームのように尊い命を奪い去りました。事件のあと「なぜ、どうして」と終わりなき自問自答を繰り返す日々を過ごしています。被告には弟が味わった以上の苦痛を味わわせてやりたいと思いますが、そんなことをしても大切な弟はかえってきませんし弟は悲しむと思うのでできません。このやり場のない怒りや思いはどこにぶつければよいのでしょうか。

弟は言葉は話せませんが「あー」「うー」と一生懸命意思表示をしようとしていました。歩いたり食べたりトイレに行ったりは自分でこなすことができていました。車いすに乗っていましたが歩けないからではなく、全盲で危険だからでした。歌が大好きで、好きな曲が流れると身振り手振りで「あー」「うー」と歌ってくれて、家族を楽しませてくれました。楽しい雰囲気も大好きで、家族が楽しくしゃべっていると、まるで会話に自分も入っているように笑顔を見せてくれました。私たち家族は弟の笑顔が見たくて、いつも楽しい会話にあふれていました。

施設で面会したことも楽しい思い出です。弟はドライブが好きで、自分でドアを開けて乗り込み「早くどこかへ連れて行って」とばかりに「あー」「うー」と話し、はちきれるような笑顔でした。果物も大好きで、特にさくらんぼと桃狩りに行くのが好きでした。やまゆり園のバス旅行では甘い果物をいっぱい食べていました。事件が起きた年には車いすで新江ノ島水族館に行きました。弟は目が見えないので魚やイルカを見ることはできませんでしたが、私たちが後ろで「きれい」「すごい」としゃべっていると楽しい雰囲気を察するのか、にこにこしていました。何気ない1つ1つの出来事が特別な時間で、楽しい記憶を残そうと弟と会うときは必ず写真を撮ってアルバムに保存するようにしていました。今は写真を見ると凄惨な事件を思い出し、弟がいなくなった現実を突きつけられるようで、写真はほとんどひつぎに入れて一緒に天国へやりました。

私の大好きな弟の笑顔を奪った被告が憎くてしかたありません。テレビで、被告が「障害者は価値がなく死んだ方が日本のためだ」と話していると聞きましたが、自分がしたことを反省せず、悪びれずに日本の福祉制度や私たちのような家族のためだと言わんばかりで、被告への憎悪が募るばかりです。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・30代)

音や香りにとても敏感な方でした。とにかく散歩して外の空気を吸うのが好きだったと覚えています。ラベンダーやミントなどのにおいがするアロマオイルもお気に入りで、香りを嗅いでうれしそうにしていました。そんな穏やかな日々を過ごしていた方でした。

元施設職員(男性・70代)

本当に家族に大切に育てられていて、優しい人でした。メンソールの香りが好きで、鼻の下にちょっぴりつけてあげるとご機嫌になったことを覚えています。とにかくご家族のことが大好きで、ご家族も彼のことを大切にしていて、毎月必ず面会に来られていました。面会の時はもう大喜びでドライブに出かけたりしていました。

55歳の男性

55歳の男性

更新2020年03月 更新

妹が法廷で語ったことば

被害者の遺族として、裁判所に意見を申し上げます。被告がこれまで重度障害者について考えてきたこと、話してきたこと、実行したことは全く間違っています。それを強く言いたいです。

私の兄は、ちゃんと感情がありましたし、私たちが兄に伝えることをちゃんとわかっていました。言葉でのコミュニケーションは取れなかったけど、うれしいこと、悲しいこと、びっくりしたこと、いやなことは、体の動作で全身を使って会話をすることができました。兄は、生後、高熱で病気になって障害を持ちましたが、両親から深い愛情をもらい、褒められたり、叱られたりして育ちました。だから、兄としての自覚もあって、正義感もありました。兄は私たち妹と一緒に遊んでいました。留守番もしてくれました。家族の誕生日も知っていて、誕生日のカレンダーの日付を指さしておめでとうという気持ちを表現してくれました。

こういう兄が、人としての尊厳もなく殺害されていいわけがありません。私は、被告が意思表示ができない人は安楽死させるとか、それが世界平和につながるとかいった考えは全く理解できませんが、被告なりに考えに考えた末に到達した考えだと思っていました。しかし、被告が言っていることを聞いてみると、単なる思いつきだったと思いました。こんなことのために亡くなった兄がかわいそうになりました。兄もさぞ無念だっただろうとあらためて悔しい気持ちでいっぱいになりました。私は、被告のことも、偏った考えも絶対に許すことはできません。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた妹の調書から

現実だと思えない恐ろしい事件が起きてしまいました。愛する兄を失い、頭が真っ白になりました。何の落ち度もない人たちが殺されたと思うと、被告への憎しみは増すばかりです。

兄は会話によるコミュニケーションはできませんでしたが、こちらから注意したことはある程度理解でき「お客さんが来るから静かにしていて」と言えば部屋で静かに過ごすことができました。小学校のころは先生に家に来てもらって勉強していました。先生が熱心に教えてくれ、数字とひらがなは理解できるようになりました。例えば紙に「りんご」と書けば台所からりんごを持ってきたり、家族の誕生日の日付を書けば、家族を指さしたりしていました。家族の誕生日が近づくと「お祝いしよう」とジェスチャーをしていました。

言葉を話すことはできませんでしたが、こちらが話しかけたことは理解していて「あー」「うー」と意思や喜びを伝えられました。歌番組を見て踊り回ることもありました。兄は30代の半ばごろにやまゆり園に入所しました。着替えや食事は少し自分でできました。食事は少しだけですがスプーンとフォークで口に運ぶこともできました。好き嫌いはなく何でも食べていました。兄の表情から園では楽しそうに生活していたと思います。

被告が「障害者は生きていても仕方がない」と言っていると知り憤りを感じます。家族の苦労や幸せを無視した身勝手な発言です。何度死刑にしても気がすみません。

兄に意思が思うように伝わらず、家族が苦労したのは事実です。特に両親は仕事をしながら、大変な苦労をしてきたと思います。でも兄は私たちにとって大切な家族であり、一生懸命ジェスチャーする姿を見ることは家族にとって幸せな瞬間でした。月に1回の面会には両親が行っていて、父が亡くなってからは母がタクシーで行っていました。タクシー代がかなりかかっていたようですが母は「会うためだもん」と、楽しみにしていました。

父と母も天国でとても悲しんでいると思います。母は自分の病気のことよりも兄のことを心配していましたし、父は写真が好きでよく兄のいろんな表情を撮っていました。両親は障害があっても特別扱いせずに兄を育てていました。兄との思い出があふれ出てきます。

更新2020年01月 更新

元施設職員(40代・男性 ※過去にも30代で紹介した方)

男性は車が好きだったようです。私の車の脇を通ったとき、興味がありそうだったので『かっこいいだろう?』と聞くと、にこっと笑っていました。運転席に座ってもらって、エンジンをかけると、うれしそうな様子でした。また、ある日、私のズボンのポケットから車の鍵が落ちそうになっているのを見つけて走り寄ってきて、指で鍵をつついて乗りたそうにしていたこともありました。一緒に洗車もしました。うまくできないんだけど、車に水をかけようとしたり、すごく小さな幅だけど、一生懸命に車をふいたりしてくれました。本当に表情や表現が豊かな人でした。自分と色違いのおそろいでスエットを買ったことがありました。その時、自分が着ていたスエットは、今も家にあります。穴が開いて、ぼろぼろだけど、捨てられずにいます。男性との大切な思い出です。

写真
更新2017年07月 更新

家族

あの日、ラジオで事件のニュースが流れてきて「津久井やまゆり園だ」「まさかな」と思っていたら朝7時過ぎに園から電話があって兄が犠牲になったことを知りました。障害者を狙うなんてとショックが大きく、今でもパトカーや救急車の映像を見ると辛くなってしまいます。
事件直後は大きな騒ぎになりましたがすぐに消えてしまい、1年経ったいま何もなかったようにすら感じて怖いです。でもいろんな事件があるから仕方ないのかもしれませんね。

家では毎日家族と兄の仏壇にお線香をあげ、兄が好きだったものを買ってきて供えて、兄との思い出話をしています。怒られた時はしゅんとして、ほめられるとすごい笑顔になる喜怒哀楽が豊かな兄でした。言葉で表現するのは苦手でも「あー」や「うー」と声やトーンを使い分けて伝えてくれました。黒い服が似合わない父を見て母が「あなた本当に黒が似合わないわねえ」なんて言うと、兄がケラケラと笑って、それを見て父が「なんで笑うんだよ-」と笑いながら声をかけていたことも懐かしく思い出します。一度覚えたことは忘れなくて、家族の誕生日が来ればカレンダーを指さして「今日だね」と言うように教えてくれました。

両親は「障害あって大変でしょう」と言われるのが嫌で、あまり兄に障害があることを周囲に伝えていませんでした。ただ実際には大変だと思ってなかったようで、私たち他の子どもと同じように愛情深く育てていました。子どもが好きだったんだと思います。兄は障害はありましたが、体はとても健康で園から届く健康診断の結果もいつも良かったので、母は「きっと親より長生きできるね」と喜んでいました。
事件のあと、数年前に亡くなった父がお世話になっているお寺に兄がいつか寿命を迎えたときの葬儀代を事前に払っていたことを知りました。まさかこんな事件で両親を追いかけるように亡くなるなんて思っていなかったと思います。

匿名を希望したのはさらに差別を受けるのではないかと怖かったからです。事件後、長年つきあいがあり兄のことも知っている近所の人に「事件があったことは悲しいけど、でもよかったんじゃない?」と言われたことが悔しくて、そう思う人がいるのならばと思いました。

被告に対してはずっと許せないという思いが続いています。被告にも家族がいたのに、どうしてあんなことをしてしまったのかと。被告が「障害者は生きる意味がない」「社会の役にたたない」と言い、インターネット上でそれに同調する人たちがいましたが、それは絶対に違う。兄にたくさん助けてもらったし私たち家族は障害を理由にそんなことを考えたことはありません。
正直、もうあの事件のニュースはあまりやってほしくない。でも二度と同じような事件が起こらないように障害者のことは伝え続けて欲しい。思い出したくないけれど、忘れてほしくない、それが今の気持ちです。

更新2017年01月 更新

ご家族

20年ほど前に津久井やまゆり園に入所しました。両親は幼い頃から、障害のあるなしにかかわらず、他の兄弟と分け隔てなく育てていました。とても愛情を持っていて、叱るときは叱り、褒めるときはたくさん褒めていました。本人も両親のことが大好きで、園に面会にいくと本当にうれしそうにしていました。かわいらしいところがある人でした。
一方で、障害があることはごく親しい人以外には伝えていませんでした。「差別を受けるから」と言うことでした。
今回の事件では、体の傷があまりにひどく、棺の中の顔だけをみてお別れをしました。今も事件の衝撃を受け止めきれずにいます。あんなふうに殺される人は19人で止めなくてはいけない、20人目は絶対に出してはいけないとも思っています。そのためにも、いつか名前を出して伝えたほうがいいという気持ちもあります。ですが、名前を出せば何か差別を受けるのではないか、誰かが家に押しかけてくるのではないかと、社会の反応が怖く、今はまだそういう心境にはなれないのが現状です。

元施設職員(男性・30代)

感情表現が豊かな人でした。介護士になって初めて担当させていただいたので右も左もわからない中、いろいろと勉強させてもらいました。
男性には片足がつま先立ちになってしまう症状があり、なかなか散歩に出られないのが悩みでした。何とかしたいと思い、靴メーカーに勤める知人に頼んで、バランスが保ちやすいよう靴のゴム底を足の甲の部分まで取り付けた特別なスニーカーを作ってもらってプレゼントしました。その後、歩くのが楽しくなったようで、よく散歩に出かけられるようになった姿を見て、担当職員としてうれしかったことを思い出します。
散歩では、施設から少し離れたところにある100円で缶コーヒーが買える自動販売機まで行くのが楽しみでした。甘いのが大好きで、園に持ち帰って専用のコップに入れて飲んでもらっていました。
事件は風化してしまうかもしれませんが、自分は男性のことを絶対に忘れないし、絶対に忘れない人間がいることをご家族の方々にもお伝えしたいです。

元施設職員(男性・50代)

部屋に貼ってある家族や行事の写真などを指差しながら、楽しそうにいろいろと話してくれたのを覚えています。言葉は少し聞き取りにくいのですが、ゆっくり聞いていると訴えたいことが聞こえてくる感じで、何を言いたいのかだいたいわかりました。それを元に「こういうことですか」と聞き返すと「うん」と返事をしてくれました。ふだんはリビングで職員の動きをじっと見ていることが多かったのですが、家族が来たり職員が出勤したりすると、いちもくさんに玄関に迎えに行って喜んでいました。玄関に貼ってあった早番とか夜勤とか職員の勤務体制を知らせるマグネット付きの写真を指さしながら、「きょうはこの職員が来るよ」と教えてくれることもありました。気持ちが上手く伝わらなかったり、言いたいことがうまく表現できなかったりすると、涙をボロボロ流すなど、感情表現が豊かで優しい方だったので、利用者の仲間にも好かれていました。

元施設職員(男性・70代)

歩きにくさを抱えていましたが、当時は日常生活に支障はほとんどありませんでした。おとなしい方で、ホームでは静かに全体の様子を眺めていることが多かったです。遠足に参加した時には、バスの中でうれしそうにはしゃいでいたことを思い出します。

65歳の男性

65歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた兄の調書から

テレビのニュースで事件を知り、電話で話した職員に弟が無事かどうか尋ねたら職員は一瞬黙ったあとで「亡くなりました」と言いました。自分の感情がなくなったようでした。そして「何で亡くなったんだ、そもそも何でこんな事件が起きたんだ」と疑問があふれ出てきました。施設に着いても説明のないまま時間が過ぎていきました。隣の部屋にあった名簿を見てみると、名前の横に「死亡」とだけ書いてありました。「文字だけでは分からないから、早く会わせてくれ」と思いました。その後、面会室のようなところに通されました。弟の遺体はそれほど冷たくなく寝ているだけなのかなと思いました。しかし何度名前を呼んでも返事はなく、亡くなったのが現実のことなのだと、この時やっと気づきました。

弟は生まれつき障害があり、生まれてすぐに施設に入りました。障害の程度は重いほうだと思いますが、「いい」とか「いや」とか簡単なことばなら話すことができました。弟は私の娘のことを「ちび」と呼んでいて、大人になり大きくなっても「ちび、ちび」と目を細めながら呼んでいてとても優しかったです。弟は動物が好きで、施設に行くときにお土産として動物の絵本を持って行くと、とても喜んでいたのを覚えています。特に犬が好きでした。

なるべく会いに行きたいと思っていましたが、足を悪くして行けていませんでした。最後に会ったのはおよそ2年前で、弟が十二指腸潰瘍で入院した時でした。弟とはこれから一緒に過ごしたいと思っていたやさきの事件で、とても悔しい気持ちです。被告には当然の結果として裁判を経てふさわしい処罰を受けてほしいと思います。それよりも、当時何が起きていたのか真相を明らかにして、同じような事件が2度と起こらないようにしてほしいと思っています。

更新2020年01月 更新

元施設職員(40代・男性)

たい焼きくらいの大きさの魚の形をしたブリキのおもちゃが大のお気に入りで、いつも枕元に置いていて寝る前になでるのが習慣でした。施設ではお手伝いをよくしてくれて、脱衣所のタオルの交換の時に替えのタオルを持って、職員の後ろについて行く姿が印象に残っています。また、いつも食事の茶碗を食卓に並べてくれる利用者さんの調子が悪いとき、代わりにやってくれていました。要所要所で存在感を示してくれる、スーパーサブみたいな存在で、いつもニコニコしていて穏やかな人でした。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・50代)

すごく温厚な性格の方でした。ふだんの生活では、ほとんど自立して生活していました。テレビが好きで、特に歌番組をほかの利用者と一緒によく見ていました。音にとても敏感で、盆踊りなどの行事で音楽が流れたりすると、すぐに音の方に走って行ったりすることもありました。動物も好きで、部屋に動物のぬいぐるみを置いていたのを覚えています。おちゃめなところがあり、出勤してくる職員を小走りに玄関まで迎えに行っていました。いつも散歩の時には声をあげてはしゃいでいました。職員、利用者問わず、誰とでも仲が良く好かれる方でした。

元施設職員

言葉は思うように話せませんでしたが、本当に活動的な方で、よく食事のあとの掃除や食器の片付けなどを自発的に手伝ってくれました。仲間思いで他の利用者が困っているとすぐに職員を呼びに来てくれて、すごく助かりました。「ありがとうね」と言うと、無言でスタスタ去って行くのですが、その姿が印象深かったです。

49歳の男性

49歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

息子が亡くなったと聞いて、息子との思い出が次々とこみ上げてきて、自然と涙が出てきました。息子は本当に手のかかる子でしたが、私たちにとってはかけがえのない子でした。その命を事件で奪われました。

息子は初めての子どもで、2歳から4歳くらいのころに同年代の子どもより言葉の発達が遅く、病院で診察を受けて障害があることがわかりました。夫は不安がらず「障害があってもなくても、自分の子どもは見捨てない」と語っていたので、私の不安も和らぎ夫と同じ気持ちになりました。息子は夫と囲碁を打ったり外出したりすることが好きで、特に囲碁を打っているときは、障害があるとは思えない様子でした。

グラタンが好きで、喫茶店でグラタンを食べているときはいい笑顔をみせていました。車に乗るのも好きで、夫と旅行するときは助手席に乗って安全確認をしてほめられると、うれしそうにしていました。成人を迎えたときは、本人の希望で当時はやっていたパンチパーマにしてスーツを着てうれしそうにしていました。私は「格好ばかり立派になって」と軽口を言いました。

息子は人に物を「ちょうだい」とか「貸して」とは言うものの、相手の意思を確認せずに行動することがあり、トラブルになる場面がありました。近所の友達にいじめられて逃げる際に、走って人にぶつかってけがをさせることもありました。私たちが年老いたときのことを考えて不安になり、私たちが亡くなっても安心して暮らせるように、入所させることにしました。私は息子を自立させることができなかったことを後悔していました。

園に行ったときには部屋で息子との時間を大切にして過ごしていました。5年くらい前に私が関節を痛め、2か月に1回のペースで施設の職員が自宅に連れてきてくれました。その時は亡くなった夫に線香をあげてしばらくその場に座っていました。その姿を見て本当に夫のことを大切に思っていたんだなと思いました。誕生日に施設に電話して本人に「おめでとう、何歳になったの?」と聞くと「49歳になった」と返事をし、照れくさそうにしていたのが最後の会話になりました。

動かなくなった姿を見たとき、息子の必死に生きてきた人生は何だったんだという気持ちになりました。息子は必死に生きていました。私は、息子が生きているだけで幸せでした。被告には極刑を望みます。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・70代)

10年以上担当させてもらいました。すごく元気が良くて、散歩で外を歩くのが好きでしたね。散歩の時に少し足が遅い人と手をつないで引っ張っていってくれました。
少し手がかかるところもありましたが憎めない人でした。悪いことをした時には叱ることもありましたが、信頼関係が築けていたので、自分で悪いことをしたなと思った時には必ず報告にきてくれたことが懐かしく思い出されます。
囲碁が好きで、日曜日の囲碁の番組を見ながら、いろいろと囲碁のことを話していたことをよく覚えています。ご両親は「子どもの頃から囲碁が好きだった」と言っていました。囲碁の月刊誌を買ってあげたらとても喜んで、よくベッドの上で雑誌を広げて「お前がこうなら俺はこうだ」などと、夢中になって囲碁の手を考えていました。「先生は囲碁は知らないんだよ、残念ながら」って言ったら、「今度、僕が教えてやるよ」なんて話をしたこともありました。天国で、楽しく本物の囲碁をやってこいよって伝えたいです。

元施設職員(男性・50代)

囲碁や将棋がすごく好きで、毎週日曜日になると囲碁や将棋の番組をみていました。眉間にしわをよせて、じーっと真剣に見ていたのを覚えています。どういう手を打てばいいか自分なりに勉強しているようでした。将棋の相手をしたことがあるのですが、なかなかの腕前でした。ルールもちゃんと頭に入っていたので、お父さんから教わったのかもしれませんね。普段はにぎやかなのですが、そういう時はすごく集中して静かでした。
電車も好きで、「ドアが閉まります。ドアが閉まります。ご注意下さい」と大きな声で言いながら廊下を何往復もして楽しんでいました。彼がそれをやると、他の利用者はみんな道をあけていて、その真ん中をうれしそうに歩いていましたね。とにかく元気な方で目立つ存在でした。あんなに元気な方だったのに、何でこんなことになってしまったのか、本当に悲しいです。

元施設職員(女性・70代)

囲碁が大好きで、日曜日の囲碁のテレビの時間になると必ず自分の部屋に戻って、かじりつくように放送を見ていました。買い物を体験する訓練で行ったデパートでは、プラモデルを買って自分で作ってもいました。精神的に落ち着かない時に手がかかる時もありましたが、ふだんは人なつっこく甘えてくる憎めない人でした。お父さんからとても大切にされていて、施設の運動会では一緒にご飯を食べたり、競技に参加したりと仲良しでした。

67歳の男性

67歳の男性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた兄の調書から

最後に弟に会ったのは平成28年7月10日でした。この日私は施設で20分ぐらい、弟の身の回りの世話をしました。弟は会話もできず、話しかけても理解しているのか理解していないのか分からないことのほうが多くありました。それでも弟は一生懸命伝えようとするので、何を言いたいかが何となく分かることもありました。帰り際、私は弟に「兄ちゃん帰るからな。また来るからよ」と言うと、弟はその言葉を理解したのか、右手をあげて「おー」と笑顔で挨拶をしました。その様子を見ていた職員は「1番いい顔をしているね」と言ってくれました。これが弟との最後になるとは夢にも思っていませんでした。

弟は生まれつき知的障害があったと親から聞いています。やまゆり園に入所した当初、弟は年に何度か家に帰省していました。弟はやまゆり園での生活が気に入ったようで、一時帰宅で自宅に来たときには、職員から着せてもらった服を見せながら言葉にならない言葉で「先生から着せてもらった」と話していました。私が脱ぐように言うと「これは脱げない」とジェスチャーしていました。弟は職員を本当に信頼していたのだと感じています。

職員は「意思疎通がしやすい」と話していました。弟は園では職員の手伝いもしていたと聞いています。草刈りが得意で、職員に草刈りの仕方を教えていたとも聞いています。誕生日に職員から腕時計を買ってもらったようで、その時計をいつもしていました。入所した頃は、食事も着替えも全部できていましたが、年を重ねるにつれ目が見えづらくなったり、耳が聞こえづらくなったりし、車いすで移動することも多くなりました。

弟は外で小さい子が1人で歩いているのを見ると「危ないよ」と話しかける心優しい人間でした。小さい頃によく山に遊びに行きました。ザリガニをとるなどして遊び、手にけがをして血を見るとすぐ泣き出してしまう、繊細な性格でした。私は家を出て働いていましたが、弟は家で両親と一緒に家事をしてくれました。両親と家を守ってくれていたと思っています。父が亡くなり仕方なく施設に預けることになると、母はさびしそうにしていました。

弟は足が悪く、とっさに逃げられなかったんだと思います。血を見るだけで泣き出してしまう弟がどれだけ怖い思いをしたのかは計り知ることはできません。弟は今は何も言うことができません。私は弟の面倒をみてきて手を焼くことがありました。それでも弟を人間としてみなかったことは一度もありません。どんな人間でも命は命です。被告にはとにかく起こした事件の罪を償ってほしいと思います。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・70代)

10年以上担当させてもらいました。私をすごく慕ってくれて、シーツ交換や掃除などの仕事をよく手伝ってくれました。シーツは部屋の外にまとめて出してくれるなど丁寧な仕事ぶりですごく助けられました。草むしりや畑仕事もよくやってくれていて、以前、園で飼っていたヤギやニワトリの世話もしてくれました。いろいろと教わったり教えたり、今思えばいい相棒でした。
演歌が好きで、北島三郎さんのテープを100本近く持っていて、夜はいつもヘッドホンでテープを聴いていました。そのまま寝てしまうことも多く、夜の巡回の時にヘッドホンを外してあげたことを思い出します。一番思い出に残っているのは、横浜市のホールで行われた北島三郎さんのコンサートに2人で行ったことです。社会勉強のために電車を使って行き、切符も自分で買うことができました。会場で同じ湯飲みを2つ買うのでどうしてだろうと思ってみていると、そのうちの1つを「これはね、先生に記念にあげる」と言ってプレゼントしてくれて、本当にうれしかったです。その湯飲みを仲間にもうれしそうに自慢していました。私も、もらった湯飲みはそれからずっと自宅で使っていて、今も湯飲みを見ると彼のことを思い出します。亡くなったことを聞いた時には、まさかと思いました。なんで、あんないい人が亡くならなくてはいけなかったのか、今もわかりません。

元施設職員(男性・50代)

洗濯物をたたんだり、入浴の後に、利用者の脱いだものを洗濯物置き場に持ってきてくれたり、とてもよく職員を手伝ってくれたことが記憶に残っています。すごく助かっていました。外部から園に来た人だと、彼が職員なのか、利用者なのかわからないような感じで、私も最初は職員かと思ったくらいです。非常に温厚な方で入所者のリーダー的な存在でした。畑仕事が好きでイモ掘りで収穫したイモを調理して食べたりして楽しく過ごしていました。虫も好きで若い頃はよくカブトムシやクワガタを採っていたそうです。亡くなられたと聞いて、初めは、まさか、信じられないという気持ちでした。あんなにしっかりしていたのに、何でこの人がという気持ちです。

元施設職員(女性・70代)

職員から「準職員」と呼ばれるほど、本当に頼りになる人でした。入所者どうしのけんかがあっても、間に入ってやめさせてくれたこともありました。職員やほかの入所者たちからも一目置かれていて、私も本当に助けられました。演歌が好きで、特に北島三郎さんが大好きで、よくテープを聴いていました。

43歳の男性

43歳の男性

更新2020年03月 更新

母と姉(3月16日の判決を受けて)

裁判が始まるまではとても長かったですが、始まってからは長いようで短かったです。
けさは判決の日だと思うとソワソワして落ち着きませんでしたが、死刑という納得のいく判決が出て安堵しました。お彼岸も近いので、お墓に行って報告したいと思います。

更新2020年03月 更新

法廷で代読された母親のことば

息子が亡くなって4回目の正月がすぎたばかりの今年1月8日から、ようやく裁判が始まりました。しかし、この「ようやく」との思いとは裏腹に、私の時間は息子が亡くなった平成28年7月26日で止まったままです。

息子が亡くなってから、私は年賀状が書けません。「あけましておめでとうございます」が書けないのです。年賀状をいただいた方には返信するようにしていますが、「おめでとうございます」だけはどうしても書けません。息子は、お正月には毎年自宅に戻ってきていました。家族で箱根駅伝を見ながらのんびり過ごすのがいつものお正月で、息子と一緒に笑いながら過ごす時間はとても幸せでした。でも、もう息子と一緒にお正月を過ごすことはできません。毎年、お正月やお盆など息子が自宅に戻ってきていた時期がくると、もう息子がいない現実を突きつけられているようで、悲しくて辛くなります。私は、被告に息子を奪われ、同時に幸せも奪われたのです。

息子との思い出はお正月だけではありません。キャンプに行ったり、海へ行ったり、美術館に行ったり、楽しい思い出がたくさんあります。海へ行った翌年には山へ行くというように、夏には海と山を交互に行っていましたし、息子は車に乗るのが好きだったので、毎年家族みんなで長野の高原へドライブに行っていました。旅先で息子はとても喜んで、飛びながら歩いていました。そんな息子の笑顔は本当にかわいくて、私や家族を幸せにしてくれました。

夫が亡くなり、体の大きい息子に力でかなわない私は、平成16年7月に息子をやまゆり園に入所させました。息子と離れることは辛かったですが、入所後も息子が楽しそうに生活しているのを見て、ここを選んで本当によかったと思っていました。日中活動で農業をしたり、お散歩をしたり、ドライブに行ったり、息子はやまゆり園での生活が気に入っているようでした。自宅では私にべったりなのに、一時帰宅からやまゆり園へ戻るとニコニコしながら「もう帰っていいよ」と言わんばかりに私に手を振っている姿には、寂しさを感じながらも笑ってしまいました。

息子は優しい子で、私たち家族のことも常に気にかけていて、やまゆり園で小旅行に行けば、おまんじゅうや漬け物など、必ずお土産を送ってきてくれていました。亡くなる直前も、7月7日から8日にかけて御殿場へ旅行に行っており、息子から自宅へスイートポテトが届きました。もちろん職員さんが手配をしてくれているのですが、息子が私たち家族のことを思いながら何を送るか選んでくれていたのだと思います。また家族も一緒に行ける日帰りバス旅行が年に1回あり、平成28年は富士サファリパークへ一緒に行って、楽しい思い出ができたところでした。

私は、障害があっても息子にはいろいろな経験をして社会参加してもらいたかったので、養護学校へ12年間一緒に電車で通学しました。養護学校を卒業したあとは作業所で黙々と働き、少額ながらお給料をもらっていたこともありました。息子は、言葉こそ出ませんでしたが、理解力はありましたので、周りの言うことを理解して行動することはできました。自分が何か伝えたいことがあれば、私の手を引っ張ったりして伝えられましたし、嬉しいときにはよく笑い、怒ったときには声を出すなど感情表現もできたのです。

体はいたって元気で、特に病気などもしていませんでした。それなのに、どうして被告がこんなことをしたのか、最初から息子をいらない子だと思ったのか、思ったのならどこでそう思ったのか、面識はあったのか、なんで息子がいらないと思われてしまったのか、私たちには大切な子で幸せをたくさんくれたのに、この事件は分からないことばかりでした。

そのことを知りたくて、私は職場の理解を得て仕事を休ませていただき、1月8日の初日からおとといの2月10日まで、毎回、裁判所へ足を運んでいろいろな人が話す内容を聞きました。聞くのが本当に辛いことばかりでしたが、事件当時の様子が分かったので、この点については良かったと思っています。けれど、息子のことについて分かったのは、被告が、息子がだれなのか、どんな子なのかも分からないのに、刺してしまったということだけでした。被告は自分勝手な主張をしていますが、私には、息子は、被告が逃げる途中にたまたま入った最後の部屋で、無差別に殺されてしまったのだとしか思えません。私は息子の左腕の傷を見て、息子が刃物を払いのけるなど抵抗したのではないか、被告に襲われたときに何か声をあげたのではないかと思っているのですが、被告は当時の状況を覚えておらず、息子が最期どのようにして亡くなったのかを知ることはできませんでした。

また被告は障害者を施設に入れて面会に来ない家族もいると言っていましたが、中には身よりのない方だっていますし、体調の関係で面会に来たくても来られない家族もいます。誰でも、高齢になれば、体に不具合が出てくるかもしれないし、認知機能が衰えたり会話が難しくなるかもしれない。事故にあったり病気になることだってあるかもしれない。誰だっていつ障がい者になるかもしれないのです。障がい者だって1人の人間なのに、自分が理解できず勝手に思い込んだことだけで命を取るなんて、ただただ悔しいです。

また裁判では、被告の偏見に同調するような友人の言葉もありました。私は、こんなことが2度と起こらないように、障がいを持った人たちがどんな風に生きているのか、今を生きている障がい者たちの現実の姿を、もっと世間の人に知ってもらいたいですし、その人達がこれからもっと生きやすい社会になるようにしてほしいです。

私は、元気だった息子が急にいなくなってしまって、息子の死を受け入れることができませんでした。今もまだそうですが、ただ、この裁判にずっと出てきて、息子がいなくなってしまったというのを少しずつ理解し始めたような気がします。被告人は障がい者は不幸を作ると言っていますが、不幸を作ったのは被告です。息子は不幸なんて作っていません。いつも幸せを作っていました。大変なときもありましたが、苦労と不幸は違うのです。私は、息子を返して欲しい。息子にもう1度会いたいです。

更新2020年03月 更新

法廷で代読された姉のことば

植松が一番最後に殺したのが私の弟です。私のただ一人の、血を分けた兄弟でした。弟は、父の入院が続いていた時期に、やまゆり園の短期入所を利用するようになり、父が亡くなったころには、正式にやまゆり園に入所していました。弟は入所してからも、年末年始やゴールデンウィーク、お盆休みには毎年自宅に帰ってきました。生きていれば、殺された年の夏も帰ってくるはずでした。

弟がもうこの世にいないということが未だに信じられません。今でも、相模湖のやまゆり園に車で迎えに行ったら、ピョンピョンはねながら元気に出てきてくれるような気がします。やまゆり園という安全な場所で規則正しい生活をしている弟は、病気や事故にあうリスクは低いと思っていました。私よりも長く生きると当然のように思っていました。

しかし平成28年7月26日の未明、弟は植松に殺されました。痛ましかった弟の死を思うと、自分の中の何かが壊れ、考えれば考えるほど、自分がわからなくなります。私たちが植松に奪われたものは、弟の人生だけではなく、私たち家族の、弟とのこれからです。

裁判での植松の「意思疎通のできない重度障害者はいらない」「重度障害者は不幸をつくる」という言葉を聞いて、弟だけではなく、まるで世の中の障害者全体が殺されたような気持ちになりました。今回の事件がきっかけで、障害者の中には、自分がいなくなってしまったほうがいいのではないかと考えてしまう人、植松のような考えをもっている人に突然街中で襲われてしまうのではないかと外出が怖くなった人、障害者への偏見が強くなったと感じている人もいると聞いています。世の中には、心の奥底で、植松のように考えている人は少なからずいるのではないかと思います。

一方そういう自分も、重度障害者本人やその家族が不幸ではないと断言はしません。健常者同様に、障害者にも不幸な人も幸せな人もいるのだと思います。しかし植松の起こした殺人という行為に、納得や共感をする人はいないであってほしいです。
植松のように「障害者はいらない」と考えている人が、なんらかのきっかけで社会的立場が弱くなったときに、精神が弱ってしまったときに、植松のように一線を越えてしまう人が出てきてしまうかもしれない、そう考えると、大変不安で恐ろしくなります。

どんな事情があるにせよ、どんな動機があるにせよ、これだけの人間を殺傷して許されるようなことは決してあってはならないと思うのです。裁判で、植松が各入所者がしゃべれるかしゃべれないかを確認して殺した、ということがわかりました。しかししゃべれるかしゃべれないかということと、意思の疎通ができるかできないかということは、結びつかないと思います。そのことを障害者施設で3年も働いていた植松が知らないはずはないと思うのです。
家族が施設に障害者を入所させる理由に、家族が高齢となったり、病気になったりと、さまざまな理由があることを障害者施設で働いていて知らないはずがないと思うのです。 この裁判をみていると、どんどん疑問がわいてきます。むなしい、やるせない裁判です。

この裁判を見てきて、植松は世界平和のために革命をおこしたかったのではなく、自分の思い込む方法で、命をかけて、自己実現をしたかったのだと思いました。今は裁判や報道で自己表現ができてさぞかし満足していることと思います。植松は、措置入院のときにはおとなしい良い子のふりをして、生活保護を受給していたときには、うつ病のふりをしていたと聞きました。この裁判でも「自分には責任能力がある」と言いながらも、「責任能力がない人」を演じているように見えます。

事件から3年たっても、いまだ「自分の考えは正しい」と思っている植松は、機会があればまたなんらかの歪んだ方法で、自己実現をするのではないでしょうか。こんな身勝手な植松に、弟をふくめ19人が犠牲になったことが、本当に腹立たしく、悔しくてなりません。植松には、植松の考える定義の重度障害者、名前も年齢も住所も言えないような状態になって、自分の伝えたいことを身振り手振りで必死に伝えようとしても植松をわかろうとする人が一切いないような環境の中で生きる気力を失い、絶望しながら一生を過ごしてほしいです。しかし、日本には終身刑がないため、そのようなことは望めません。そうなると、選択肢は一つしかありません。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

息子は残酷な被告に殺されました。知的障害と自閉症があり、こだわりが強く意図が伝わらないとかんしゃくを起こすことがありましたが、私にとってはかけがえのないかわいい子どもでした。

事件の日、連絡を受けて何とか施設に行くと、息子は白いシーツをかけられベッドの上で横たわっていて、私は近づいて顔を見ました。抵抗したときにできたであろう生々しい傷跡が手にあり「痛かったよね、怖かったよね」と涙ながらに思いを巡らせ、氷のように冷たくなったほおに手を伸ばし息子を抱きしめました。私は大切に育ててきた息子を失ったのです。

息子は健康でトイレもお風呂も自分ですることができます。養護学校を終えたあと、息子にいきいき生活して社会貢献してほしいと作業所に通所させました。小額でも給料をもらっていました。私は感動して、すごくうれしかったです。20歳のころになると発作も落ち着き、娘にも協力してもらい4人で過ごしていましたが、夫が体調を崩して手術をすることになり、入院中は夫の世話をしながら息子の面倒をみることが難しくなりました。次第に夫の病気が悪化し、息子を入所させることが決まったのですが、その日が来る前に夫が亡くなりました。息子と離れるのはつらいと思いましたが、私も生活のために働きに出ないといけなくて、苦渋の決断をせざるを得ませんでした。

最後に会ったのは平成28年7月10日の家族会の時です。息子は楽しそうにしてアイスを食べジュースを飲み、かわいい姿を見て癒やされました。いつものように入り口まで見送って別れ、息子は元気に部屋に戻っていきました。これが最後に見た息子です。そして帰らぬ人になりました。

私は息子を愛しています。「障害のない体に産んであげられずごめんね」と後悔でいっぱいです。息子は私を恨んでいるだろうかと思いますが、息子は優しい子なのでそんなことは思わないだろうと思うのです。私がお母さんで良かったと思っていますか。私は息子と一緒に過ごせて本当に幸せでした。生まれ変わっても、また私の子になってほしい。ずっと天国から見守っていてね。幸せをたくさんくれてありがとう。直接伝えることはもうできませんが、息子も同じ気持ちならうれしく思います。

被告のゆがんだ考えがどこで生まれたのか、施設で働き始めたときの志や気持ちはどこにいったのか。こんなことをして満足している被告を、私は一生許すことがありません。ただ息子を返してほしい、それができないなら死ぬこと以外、償うことはないと思います。

更新2017年01月 更新

元施設職員(男性・50代)

すごく明るくて元気な方で、いつも跳びはねていた印象があります。

施設関係者

音楽が好きで、踊りのレクをとても楽しみにしていました。

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相模原障害者殺傷事件についてのご意見や、
亡くなられた方へのメッセージを募集しています

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