星空紀行 ~銀河鉄道の夜汽車に乗って~ 渡部潤一教授

2017年03月21日

そして賢治は宇宙へ(6)

 明るい銀河の光に包まれ、鉄道は高次の幻想空間を走っていく。そして、車窓を流れる景色の説明が次のように挿入されている。

 「けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼のかげんか、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三角形、あるいは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。」

 ここで、宇宙に浮かぶ星が光る三角標に見立てられていることに注意して欲しい。三角標という言葉は、ジョバンニが幻想空間に入り込む、天気輪の丘の場面でも登場している。天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって光り出すのだ。

 この三角標とは、測量で使われる三角点に由来する用語で、馴染みがない方が多いかもしれない。実は賢治が生きていた時代、正確な地図を作成するために日本全国でさかんに三角測量が行われており、その基準となる三角点が決められていった。そして、三角点同士の方角を定めるため、おのおのの三角点の上に四角錐型の櫓を建て、その上に鏡をおいて太陽光を反射させ、測量を進めていったのである。賢治の時代には、ちょうど岩手県のあたりの測量がなされており、賢治は、その櫓を実際に目撃していると推察される。その証拠に、盛岡中学時代の賢治の短歌にも登場している。

 「雲くらく 東に畳み 岩山の 三角標も 見えわかぬなり」

 この岩山は盛岡市に実在する山で、二等三角点が実在する。私が勤める国立天文台の三鷹構内にも一等三角点が存在し、その上に櫓が組まれている写真も残されている。この櫓は正式には「三角覘(てん)標」と呼ばれていたが、明治中期には陸軍参謀本部測量局の文献には一時期「三角標」と記され、その後、公式には使われなくなったものの、登山家やなどの間では使われ続けていた(「銀河鉄道の夜の用語「三角標」の謎」、米地文夫著、総合政策 第13巻第2号(2012))。
 賢治は、登山にも親しんでいたことから、三角測量や三角点などに関しても見識は深かったはずで、三角標という言葉も中学時代には触れていたのだろう。

 作品の中で、これを星に見立てたところも賢治らしい。三角覘標に設置された太陽光反射装置(回照器)が光るところは、まさに星の光そのものといえる。また、同じ三角覘標でも櫓の大きさは大小様々で、しかも三角点の測量上の重要度によって一等から五等までランク付けされているところも、星の等級と同じである。さらに、賢治は天文学でも三角測量の応用で恒星までの距離が測定されていることも知っていたはずだ。賢治の時代には、すでに数多くの恒星の距離が推定されていた。何よりも理科好きとして鉄道や天文学をよく理解していた賢治である。地上の測量観測網の要となる三角覘標を、宇宙の距離測定の要である星に結びつける発想は、自然に沸いてきたに違いない。色とりどりの燐光を発する大小様々の三角標がちりばめられた車窓の景色に見とれて、ジョバンニはつぶやく。

 「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」

 そして天の野原には、もうひとつ重要な景色を彩るアイテムも登場する。

(続く)

渡部 潤一(わたなべ じゅんいち)
最新・難解な天文学の成果を誰にでも判るように伝えてくれる人は、渡部教授をおいて他にはいない。流星や彗星など太陽系天体の研究の傍ら、国立天文台の副台長も兼任され、テレビ、講演、執筆などで大活躍中。
東京大学大学院、東京大学東京天文台を経て、1990年代のハワイ大学滞在中は、すばる望遠鏡建設推進の一翼を担い、2000年代には国際天文学連合の惑星定義委員として準惑星という新しいカテゴリーを誕生させ、冥王星をその座に据えた。活躍の場はワールドワイドだ。現在、自然科学研究機構国立天文台天文情報センター教授・副台長、総合研究大学院大学教授。理学博士。
1960年福島県生まれ。宮沢賢治に魅かれ、賢治の文学に現れる宇宙・天文について関心をもって調べてきた。当サイトでのコラム執筆には、賢治が星々をどのように表現して、どんな思いを込めたかについて、時代や風土も踏まえて見つめ直し、日本文藝家協会会員としての筆力を発揮して、東北の人々にエールを送りたいと意欲満々である。
主な著書、「新しい太陽系」、「ガリレオがひらいた宇宙のとびら」、「星空からはじまる天文学入門」、「天体写真でひもとく 宇宙のふしぎ」、「太陽系の果てを探る」)など一般向きの書物も多数。