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2018年09月18日 (火)
学校が「いざ!」の際の避難所 その2
学校での避難所生活の疑似体験
防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプ・非常食用の手づくりパンをこねる子どもたち
「おじちゃ~ん! こねこね、たのしいよ!」と、子どもたち。
「お! うまくこねてるねぇ」と、私。
ある年の「防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプ」。今回は、夕食用の非常食を、子どもたちが素材に水を加え、手でこねて焼くパンづくりに挑戦した。
子どもたちは、満面に笑みを浮かべて、まるで工作の粘土遊びのように楽しんでいる。
非常食は、年により、お父さんたちが仕入れてきた新ネタで工夫を凝らす。
初期には、市販のビニール袋にお米一合分を入れて軽く水洗いし、お湯に浸すだけで炊くこともやった。
料理釜は、1995年の阪神淡路大震災の教訓から、市が全市立学校に設置した防災倉庫から借りた。
この釜のエネルギーは、災害時の停電でも使える灯油の使用での発電機から得る。夜の暗闇を明るく照らす電灯も使える優れものの発電機である。
防災倉庫には、簡易トイレや組み立て式の担架などもある。
担架を組み立て、子ども1人を乗せ、お父さん4人で疑似救出の体験をした。
子ども1人なのに意外に重い。
本当の「イザ!」の際に、もし寝たきりのお年寄りを搬出しようとしたら、若い男性がその場にいないと大変であることを実感した。
また、通称サバ缶と称する350mlの空き缶でお米を炊くサバイバル缶もやった。
空き缶2つと水約180ml、牛乳パックを切って熱源にし、炊きたてご飯が食べられる、お遊び感覚の非常食づくりである。
1つの缶は炊飯器用。缶の底の両わきに風通しの2cm角の穴をあけ、牛乳パックを切って燃やす。
もう1つの缶に米と水を入れてアルミホイルでふたをして、炊飯器用の缶の上に置きご飯を炊く。
そうやって、昼はお父さんと子どもが主体で夕食づくりを楽しんだり、一泊用のテント張りをする。
で、あとは巨大シャボン玉をつくり遊んだり、日が暮れるとキャンプファイヤーをしたりもする。
そして、9時には子どもたちをテントで寝かす。すぐには寝ないけどね。
で、大人は、懇親の「アレの会」へとなだれ込む、はい!
翌日は、ラジオ体操後にパンと牛乳で朝食をし、片づけて解散となる。
左:防災倉庫にある組み立て式の担架に子どもを乗せて疑似搬出体験をする若いお父さんたち。防災訓練を兼ねた一泊キャンプで。
右:サバ缶でお米を炊く子ども。防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプで。
あっ! 遊び的なことだけではなく、マジに防災訓練もしまするよ、と。
消防署に参加を呼びかけた際は、するする伸びるはしご車もやって来て、子どもも大人も乗せてくれた。
また、防災の心得のレクチャーや、消火などを体験させていただいた。
その際、面白かったことは、子ども用の消防服を持参して着させてくれたこと。
まさか、子ども用の消防服があるなんて、誰も知らなかったのだから――だって、子どもが火事場で消火するなんてことはないだろうから実用的じゃないしね――親たちは、写真をパチリと撮り記念にしていた。
もちろん、市役所の防災課の職員にもご参加いただき、防災倉庫の非常食(例の乾パン)を試食させていただいたり、防災釜の使い方や簡易トイレの組み立て方などもレクチャーいただいたりもした。
普段から住民が防災倉庫の中身や使い方を学んでおくことが、本当の「いざ!」の際には大切だからね。
巨大シャボン玉をつくり遊ぶ子どもたち。防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプで。
嫌いなことを「きっかけ」に「良いこと循環」
さて、何か新しいことを興すための「きっかけ」の話をしよう。
私事でかつ小さな話で恐縮であるが、わが家は5階建ての集合住宅の1階である。
猫の額ほどの専用庭もついている。
しかし、猫の額ほどと言っても、放っておくと雑草がぼうぼうに生える。
で、草むしり。
でも草むしりは大変である。
とくに春から梅雨期、真夏、秋口まではどんどん草が生え、むしってもむしっても生え続ける。蚊にも襲われるし。
集合住宅なので「庭の管理」に、雑草ぼうぼうはダメなのである。
で、私は草むしりが大嫌い(「そんなら1階を買わなければよかったのに」と、誰かが耳元で囁く)。
だって、もくもくと黙りこくって、草をむしっていると空しくなるからね。しかも、小笹の根っこが地中に根を張り抜くのに苦労するし。とくに暑い日は、辟易する労働だ。
成人して家から出た子どもたちが小さいころは、なんだか楽しく一緒にやれたのに。
で、庭に楽しみながら出られるようになる「きっかけ」を考えた。
思いついたのが、家庭菜園。
菜園用の土にするために、本を読んで10日ほどかけてそれなりの準備をした。
その際、庭の三分の一ほどの菜園に決めた面積を耕しながら、草を苦もなくむしれたのである。
で、ミニトマトやナス、きゅうりにシシトウの苗を買ってきて植えた。
すると、毎朝必ず庭に出るようになった。
野菜を育てるための作業にである。
で、不思議と言うかやはりと言うか、菜園まわり以外の雑草も、苦もなくむしるようになったのである、えへん!
で、もうひとつおまけを考えついた。
糠漬けを始めたのである――と言っても、糠を炒ったり食塩を加えての糠床づくりは、ワイフがやってくれたのであるが――感謝!
で、毎日のそれなりの野菜の収穫が楽しみになった。
なかには、かたつむりのようなユーモラスなきゅうりもとれる。
で、ナスときゅうりはせっせと糠漬けにする。
「あら、おいしいじゃない!」と、ワイフがよろこんでくれた。
おかげで励みになり、今もせっせと糠漬けに、草むしりにいそしんでいる。
こういうあり方を「良いこと循環」と、私は言っている。
つまり、
⇒草むしりが嫌い(でもやらなきゃいけない)
⇒なにか「きっかけ」を考える
⇒で、家庭菜園を始める
⇒野菜づくりのために、嫌いだった草むしりもするようになった
⇒収穫野菜を糠漬けにする
⇒糠漬けをワイフがよろこぶ
⇒私はいっそう励む
といった、過を転じて福となし、良いことが次の良いことへ発展し、またその次の良いことへ一石三鳥のように、ぐるぐると螺旋階段を登るかのごとく深化・進化して循環するのである。
かたつむりのようなユーモラスなきゅうり。著者の家庭菜園で収穫
「良いこと循環」から「防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプ」を開始
さて、冒頭で紹介し、今回の主題でもある学校での避難生活の話に戻す。
前回に少し紹介したが、秋津コミュニティ主催で、毎年夏休みに実施の「防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプ」を始めた「きっかけ」は、1995年1月17日早朝5時46分に起きた阪神・淡路大震災である。
その一泊キャンプを始める「きっかけ」の、その前の「きっかけ」がある。
それは、阪神・淡路大震災の同じ年、1995年の9月に公設民営で開設された「秋津小学校コミュニティルーム」である。
コミュニティルームの市への開設要望は、開設2年前の1993年から、秋津コミュニティの前身団体であり、私が会長の「秋津地域生涯学習連絡協議会」から出していた。
市へ出した要望内容は、以下である。
「生涯学習で、秋津小学校の敷地をお借りしていろいろと行っております。ついては、一階の空き教室を地域に開放していただきたく要望いたします。その為には、使用外の部屋などへ行かない様、仕切り扉を付けていただけますことも、併せて要望いたします」
この文書とともに、開放いただきたい4教室や仕切り用の扉の設置場所を示した図も添付した――この開放の要望は、当時の秋津小学校校長の了解のもとに行った。
しかし市は、「……学校及び関係する組織などと協議を進める中で、検討してまいりたいと考えております」との、つれない返事であった。
で、翌1994年には、当時の市長が行政設置した「秋津まちづくり会議」を通して、前年と同じ内容で市へ要望書を出した。
返事は、やはり前年と同様のつれない内容であった。
しかし、年を越えた1995年1月に阪神・淡路大震災が勃発した。
で、2月に教育委員会の旧知である生涯学習部長に私は呼ばれた。
「岸さんね、じつは3月議会に秋津小学校の余裕教室の開放のための、管理人の人件費を含めた700万円の初年度の予算案を提出予定だったんです」と、生涯学習部長は切り出した。
私は語尾の「~だったんです」の過去形の文言が気になった。
でも、「おお! 生涯学習部長は開放しようと内部でガンバしてくれていたんだ!」と思い、内心ではうれしかった。
「けれど、阪神・淡路大震災が起きたために、市の防災体制の充実予算を急に計上しなければならなくなり、開放予算を減額し、残る300万円で管理人を置くことができない利用者住民による鍵の管理も含めた自主運営施設として開放せざるを得なくなりました」と、部長が少し気落ちした面持ちで続ける。
「いえいえ、それは、以前から私たちが望んでいた人件費を掛けない住民自治のあり方なので、大歓迎です!」と、私は思わず部長の手を握り締め、小躍りしたのである。
そして、3月議会で減額された予算案が通り、新年度の4月から4つの教室の一部の改造や、学校の管理部分と仕切る2か所への開閉式のシャッターの設置に入ったのである。
で、9月1日に、行政が設置し、住民が鍵も預かって運営する自治施設として、全国に先駆けて開放・開設されたのである。
その際、教員職でもある生涯学習部長が言ったことが忘れられない。
「体育館や校庭開放と違い、本丸の校舎内を開放するのですから、心して使ってくださいね」と。
私は思った。だからお城の「登城・下城」の意味のような、「登校・下校」と言うのだな、とね。
でも、開放施設の管理責任者は教育長に変わった。学校長の管理から切り離したのである。
教育長が管理責任者になり、しかも利用者住民に学校の鍵も預けることは、部長もそうであるが、教育長の大英断であったことは間違いない。
この「秋津小学校コミュニティルーム」の名称での開放・開設により、前身団体名を「秋津コミュニティ」に改称し、同時に秋津コミュニティの委員が重任するかたちで、行政認知の「秋津小学校コミュニティルーム運営委員会」を発足させたのである。
ところで、開放施設には、校舎内の4教室のほかに、校舎外部の空き花壇約300㎡と、使われなくなった陶芸窯との3つの機能が含まれる。だから、陶芸同好会も秋津コミュニティのサークルとして、開放前から校長裁量で使用していたのである。
開放・開設から23年たった今も、コミュニティルームや花壇などが、さまざまなサークルや催しに活用されていることを思い、当時の部長や教育長に感謝している。
で、「良いこと循環」の話。
⇒まず、住民要望で、空き教室の開放を市へ要望したがダメであった。
⇒そこに阪神・淡路大震災が勃発した
⇒悲劇ではあるけれども阪神・淡路大震災の「おかげ」で、結果的に住民による自主管理施設として開放・設置され
⇒その阪神への支援――実際に、秋津っ子と大人のバザーを開催し、収益金を阪神に寄付していた――と感謝の気持から「防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプ」を開始
⇒さらには、被災時の洗濯やお風呂などの水の確保のために、千葉県伝統の手掘りの井戸掘り技術である「上総掘り」をお父さんらが学び、延べ1.000人が参加して防災井戸も掘った。
⇒その井戸水を利用して「簡易露天風呂」もやってしまった。しかも、かけ流しで。
⇒で、その後も続けた「防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプ」の住民自治の高まりから、2011年3.11東日本大震災の際には、コミュニティルームが避難所として住民自治で運営できたことは、前回紹介した通りである。
この経緯も、阪神には誤解されると困るのであるが、ある「良いこと」から次の「良いこと」へと展開する「良いこと循環」の好例だろうと思うのである。
左:千葉県伝統の、手で掘る井戸掘り技術の「上総掘り」。子どもも含めて延べ1.000人が参加した防災井戸掘りの様子
右:手掘りで掘った防災井戸の水を沸かした「簡易露天風呂」に入る子どもたち。防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプで。
学校と地域との協働が、避難所としての学校機能を高める
さて、今年はたびたびの台風に続き、9月6日(木)午前3時8分に発生した「平成30年北海道胆振東部地震」でも、多くの被害がでた。
最大震度7は、東日本大震災と同じ激震とのこと。
この原稿を書いている9月11日現在でも、多くの方々が避難所生活を強いられておられる。
一日も早く、安心して生活できるように復興することを祈念するばかりである。
また、今年の災害でも多くの学校が避難所になった。
今後も予想される大災害での命を守るために、避難所としての学校機能を住民自治で高めることの必要性を痛感している。
その機能を高めるためには、学校と地域との日常でのさまざまな協働が欠かせないと、あらためて思うのである。
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