地域づくり情報局

学校を拠点にまち(地域)育て

「秋津コミュニティ」顧問として、学校区の生涯学習の充実に尽力してきた岸裕司さんが、学校と地域が一体となった学びの場作りの極意を語ります。

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2018年08月13日 (月)

学校が「いざ!」の際の避難所

3.11東日本大震災、その時……

 

「お! 地震だ!」

「おおっ! おっきいぞ!」

2011年3月11日金曜日の午後。私は東京のオフィスで青森県からの来訪者と雑談をしていた。

すると、2時40分を過ぎた頃、4階のオフィスが激しく揺れ出した。しかも、かなり大きな揺れが長く続く。

「わ、わたしは帰ります!」と、初老の来訪者があわてながら言い出し、私も一緒に階段で駆け降りて外に出た。

見送る来訪者の背中は、坂道を転げ落ちるかのような勢いで、振り返りもせずに去って行った。

居並ぶビル前には、大勢が不安げな顔つきで出ていた。

 

オフィスに戻ると、同僚らはテレビの前に集まっていた。その後はテレビに釘付けになった。

そして、大津波の襲来である。

つぎつぎにテレビに映し出される三陸各地の沿岸へ、見たことのない大津波が押し寄せて来る。

「うわぁ、早く逃げて!」

「Uターンして!」

ヘリコプターから映し出されたテレビ映像は、どす黒く盛り上がった海水の大津波を映し出した。その津波の進行方向の道路に、クルマがぐんぐんと向かって行く。

 私たちは、もはや仕事は手に着かない。電話も鳴らない。

 一瞬停電はしたものの、回復後はテレビをつけっぱなしで凝視し続けた。

「テレビ局って、いろいろなところに中継のカメラを設置しているんだね」

「そうね、防犯も兼ねているんじゃない」などと、同僚らは話し合っている。

言われてみれば、沿岸部の各地の漁港や空港から、リアルタイムで次々に津波の襲来がテレビに映し出されてくるからである。

そして夜中に、東京勤務で私と同じ千葉方面に住む友人2人がオフィスに泊まりにやってきた。

電車が止まり、帰宅が困難になったからである。

私たちとともに雑魚寝を決めた。

 

 秋津小学校のコミュニティルームと体育館が避難所に

 

 akitu.otosiyori.JPG2011年東日本大震災の際、秋津小学校コミュニティルーム和室に避難してきたお年寄と介護の方々

その頃にはオフィスに泊まる私のパソコンに、秋津コミュニティの仲間らから秋津の様子のメールが入っていた。

「お年寄りを中心に、コミュニティルームに避難してきた」

「中には車いすのお年寄りや、簡易便器も持参の人もいる」

「学校に設置の防災倉庫から、寝具や乾パン、水などの非常食を運び込んだ」

「校庭や団地内の通路などが液状化の泥水でいっぱい」

時々刻々と秋津の様子が何人もからのメールで知らされる。

「帰宅できない親の子ども達は、先生が体育館に集めてお世話をしている」

「11階建てのマンションの住民たちも、余震が怖い、停電でエレベーターが動かないとのことから、体育館に避難してきた」

後にわかったのであるが、秋津小学校コミュニティルームに避難してきた約30人は、秋津にあるグループホームのお年寄りと職員らだった。

また、秋津コミュニティのサークル仲間が買い出しにスーパーに走り、お米を炊いておにぎりや豚汁、カレーなどをつくり提供した。

スーパーはどこも買い出し客で混雑し、品物棚もがら空き状態だった。で、3か所を回り調達した。

これらの資金は、秋津コミュニティの仲間に赤十字秋津分団長がいたこともあり、同分団の現金で保管していた防災積立金が充てられた。

秋津コミュニティでは、日頃の活動で炊事をしていて、大きな鍋やかまどなども持っていた。

グループホームのお年寄りには、普通食が食べられない人もいて、お粥やパンなどで個別に対応した。

いっぽう、体育館に泊まった約100人の住民の中の20名ほどの子ども達は、2日目の土曜日に親に無事に引き取られ、お世話をした先生らは解散した。

しかし、体育館の住民ら約40人は、2日目も泊まり、3日目の日曜日に解散した。

コミュニティルームのお年寄りらも、3日目に解散した。

このように、3日間とはいえ、住民は校舎内の開放施設であるコミュニティルームを避難所として住民自治により運営し、学校では先生が職務として子どもたちのお世話に専念できたのである。

つまり、住民と学校とのスムーズな役割分担が、自然に行われたのである。

 

kitaku.kodomo.JPG2011年東日本大震災の際、秋津小体育館に避難した親が帰宅難民になった児童たち

学校と地域との協働が、避難所としての学校機能を高める

 

ではなぜ、秋津では、学校と住民とのスムーズな役割分担が、自然に行われたのか。

それが、長年の学校と地域との多彩な協働の成果であることは間違いないであろう。

このことは、3.11大震災と大津波で被災した仙台市内の40校の校長に対する聞き取り調査の結果からも推察できる。

仙台市教育委員会によるこの調査では、多くの住民が学校での避難所生活を余儀なくされた仙台市内の40校の校長に対し、以下の質問がなされた(出典:野澤令照仙台市教育委員会教育次長 2011年6月)。

Q:避難所において自治組織が立ち上がる過程は順調だったか

この問いに対し、学校と住民との協働を推進する国の施策である「『学校支援地域本部』が設置されている20校」では、「順調だった」という回答が95%(19校)もあり、「どちらともいえない」は5%(1校)で、「混乱が見られた」はなんと0%(0校)だった。

いっぽう、「『学校支援地域本部』が未設置の20校」では、まったく違った。

「混乱が見られた」は40%(8校)もあり、「どちらともいえない」は25%(5校)で、「順調だった」は35%(7校)と、先の学校支援地域本部が設置されている学校よりも、3分の1程度と少なかったのである。

また、自由記述にはこのような内容の違いがある。

・「『学校支援地域本部』が設置されている20校」――「『先生は学校のことと家族のことを考えてください。避難所は私たちにまかせて』と学校支援ボランティアからの声には胸がつまりました」。これは、ご自分の家族らも被災しているかもわからない先生からの意見である。

・「『学校支援地域本部』が未設置の20校」――「物資を配布するにも,避難者の顔もわからず混乱しました。権利を振りかざして物資を奪っていく人たちや,どさくさに紛れて決められた数量を守らない人がいても見過ごすしかありませんでした」。

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2011.3.11震災時の学校支援地域本部があるなしの違いの仙台市の避難所になった学校調査。

出典:野澤令照仙台市教育委員会教育次長 2011年6月

この2つのタイプの違いは、秋津でのふだんからの学校と地域の長年の協働の成果により理解できる。

その協働の成果には、このようなことがある。

1.多くの保護者や住民が授業や行事に参画することで、互いの名前と顔が一致して信頼し合う人々が増えていること。

2.教職員の忙しさを、保護者や住民は目に見えて理解でき、「支援したい」という気持ちを顕在化させていること。

3.住民たちの間に、教職員も保護者や住民と同じ「人の子」だという気持ちが生まれ、勤務時間外の休暇など、教職員の「権利を擁護する」住民が増えていること。

4.校舎内施設を含む学校施設の地域開放により、住民自らが自助・共助により運営する住民自治の意識が高まっていること。

これらの目に見えない、ふだんからの協働意識の高まりが、実際の3.11の「いざ!」の際にも活かされたと思うのである。

 

避難所としての学校機能を高めるには~校舎内施設の開放と学校での住民自治による防災被災訓練

 

秋津では、住民による自主防災意識の高さ=ソーシャルキャピタルを醸成してきた実践がある。

秋津コミュニティでは、毎年夏休みに「防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプ」を行っている。

きっかけは、1995年1月17日早朝5時46分に起きた阪神・淡路大震災である。

秋津コミュニティのお父さんたちは、震災後のボランティアとして何人もが阪神に駆け付けた。

「学校に、多くの住民が避難したんだって。でも、早朝なので校舎の鍵がかかり、窓ガラスを割って避難したところもあったんだって」

「停電で、夜は暖房がなく、しかも窓ガラスが割られているために、1月の寒さで凍えたんだって」

「断水でトイレも詰まり、飲み水以外の水がなく、食器洗いや洗濯もできなかったんだって」

こんな報告をお父さんらが言っていた。

「そうか、学校を避難所に指定しているだけでは『いざ!』の際には機能しないんだ」と思ったのである。

そこで、同じ年の9月に秋津小学校コミュニティルームが開設したことから、防災被災訓練を兼ねた一泊キャンプを2年後に開始した。

しかも、コミュニティルームの鍵は、多数の役員が持っている。だから、早朝や夜中、土日や夏休みなどの休日でも、「いざ!」の際には教職員をわずらわすことなく開錠し、4教室ではあるが避難できるのである。

3.11の被災地からの報告でも、「校舎内には保健室などもあり、緊急治療に役立った」とのことであった。

一般に、体育館の鍵は、体育館を使う校区の社会体育の団体が持っている。

今後は全国どこの地域でも校舎内にも避難するために、鍵を地域が預かることが大切だろうと思うのである。

 

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東日本大震災後に避難所になった岩手県陸前高田市立米崎小学校りんご学童クラブで秋津コミュニティの仲間が紙芝居。2011年4月18日

 

さて、今年も各地で地震が頻発し、また西日本豪雨をはじめ台風による被害も多発している。そして、被災地では、学校が避難所になっているところも多い。

とくにこの夏は猛暑が続き、熱中症はもちろんであるが、不衛生による感染症も心配である。

3.11後の4月に、東北の被災地を秋津コミュニティの仲間と支援に行った。

あるお寺には明治の大地震後の赤痢による多くの死亡者の慰霊碑があった。

そこには、このような碑文が彫られていた。

「弔 海嘯 赤痢 亡霊」と。

「海嘯(かいしょう)」とは、大津波のことである。

「天災は忘れた頃にやってくる」との戒めを、あらためて心に刻みたいと思う。

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 海嘯・赤痢の「弔」の碑。東日本大震災後の被災地支援の際に。陸前高田市華蔵寺(けぞうじ)。2011年4月18日

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学校を拠点にまち(地域)育て

岸裕司さん(「秋津コミュニティ」顧問)

「秋津コミュニティ」顧問。文部科学省コミュニティ・スクールマイスター。1986年から習志野市立秋津小学校PTA会長を含む役員を経験し、以後、学区の生涯学習に取り組んできた。「学校開放でまち育て-サスティナブルタウンをめざして」(学芸出版社)など著書多数。

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