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2016年07月12日 (火)

番組担当ディレクター・取材見てある記 vol.2「親子じゃないけど、家族です 富山型デイサービス」より

地域づくりアーカイブスの「福祉・生活支援」のカテゴリーに、「親子じゃないけど、家族です 富山型デイサービス」というタイトルの動画があります。
今回は、取材にあたった吉永亮二ディレクターから取材現場で感じたことやエピソードを聞きました。

この動画では、富山市にあるデイケアハウス「にぎやか」を紹介しています。ここは、赤ちゃんから高齢者まで、障害のあるなしに関係なく、誰もが利用できるデイサービス施設。認知症があるお年寄りの散歩に障害のある男性が付き添ってサポートしたり、脳に障害がある女の子が車いす利用者の世話をしたりするなど、支えたり、支えられたりしながら、日々を過ごしています。その人らしい、ありのままを受け入れ合う場には、毎日たくさんの利用者が集まり、誰もが安心して暮らせる地域の日常を共に育んでいます。

吉永ディレクターは、「にぎやか」を訪れて利用者やスタッフと共に時間を過ごし、理事長の阪井由佳子さんから話を聞き、「共に生きる」ということについて、考えさせられたと言います。取材を通して感じた「こぼれ話」をお届けします。

「共に生きる一歩を踏み出し合える場所」吉永亮二ディレクターの話


番組にも登場する7歳の西野美結ちゃんは、生まれたときから脳に障害がありますが、手足の不自由な利用者が乗っている車いすを引いたり、自分の手で食事ができない人の手助けをしたりして、にぎやかの日々を過ごしています。その様子を見て、2歳の永田心花(ここな)ちゃんが、「ここなも、やる!」と、真似して利用者のお世話をしていました。

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車いすの移動を手伝う美結ちゃん


通常、福祉施設の多くでは、スタッフと利用者の関係は、「スタッフ=援助・支援する人」「利用者=援助・支援される人」と固定されています。しかし、にぎやかでは、利用者がスタッフの仕事を手伝うことがあります。つまり、「援助・支援する人」と、「援助・支援される人」の立場が逆になることがあるのです。また、美結ちゃんのように利用者が利用者を手伝うこともあります。そして、にぎやかでは、誰もが「やってあげる」という感覚ではなく、「やって当たり前」の感覚で、自分ができることをしています。道徳の授業のように「障害者を助けてあげなければならない」と頭で理解するのではなく、多様な人と人との付き合いの中で、自然と学びと役割が生まれているのです。にぎやかには、こういった“共生のタネ”が日常にころがっていて、人々が関わり合う中で、それが確かな“芽”に育っています。人が活き活きと安心して暮らしていくうえで、とても大切なことだと思います。

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利用者の体温を測ろうとする心花ちゃん


「障害者」という言葉を辞書で引けば、【何らかの原因によって長期にわたり日常生活または社会生活に相当な制限を受けざるを得ない人のこと】とあります。彼らの暮らしを「不自由」という言葉に言い換えられるかもしれません。にぎやかにも、障害者はたくさんいます。ところが、彼らと過ごす時間の中に、「障害って何だろう?」と思えてくる瞬間があるのです。健常者は障害者に対して「できないだろうから、助けてあげなくては」と思い込みがちですが、にぎやかに行くと、障害者が施設を案内してくれたり、利用者やスタッフを紹介してくれたり、居心地の良さを提供してくれました。私たちが取材を進めやすいように、取材クルーとにぎやかのメンバーを、さりげなく、つないでくれていたのです。その表情は、とても輝いていて、「彼らは本当に不自由なのだろうか?」という問いを突き付けられました。

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取材陣をもてなそうと、認知症の桃井ひろ子さんが書いてくれた手紙

理事長の阪井さんによると、利用者たちは過去に、障害を理由に学校でいじめを受けたり、仕事がうまくいかなかったりと、社会の中で傷ついた経験をたくさん持っていました。でも、にぎやかでの6日間の取材中、彼らが過去をひきずった悲しい顔を見せることはありませんでした。みんな、苦しい過去も楽しい今も、すべてありのままの自分として受け入れ、スタッフも利用者も互いにそれを理解し合っている気がしました。何事にも囚われず、のびのびとした人間関係は、とても豊かで「自由」です。障害があるからとか、ないからとか、できるからとか、できないからとか、人間を枠に当てはめて考える自分が馬鹿らしく思えてきました。そんなことにこだわる意味を感じなくなりました。


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みんなで食卓を囲む


私が育った大阪府豊中市では、小学生のころは、障害がある子ない子も同じ教室で過ごしていましたが、今はこうした「ごちゃ混ぜ」の空間が少なくなっている気がしています。従来の福祉制度でも、高齢者と障害者、乳幼児などの施設は別々に作られていました。認知症の高齢者と障害者が関わり合うことで、ケガなどのトラブルを懸念するといった安全上の理由もあったそうです。もちろん、安全を確保し、管理することは、大事だと思います。一方で、人間関係の摩擦を減らそうとしたり、支え手の効率を追求しすぎることで、人と人とが対等に付き合う機会が薄れ、「共生」の感覚や感情を経験する場がなくなっていると思うのです。多様な人が一つの場所に集まるからこそ、それぞれの生きがいが自然と生まれていく。それが、にぎやかという空間です。


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利用者も配膳や皿洗いなどを積極的にお手伝い


阪井さんによれば、設立した当初のにぎやかは、「地域の迷惑者」だったと言います。利用者の中には、朝早くから大きな叫び声を出す人がいたり、近所の家の呼び鈴を鳴らすいたずらをする子どもたちがいたからです。

しかし、設立から19年もの年月が経つと、地域に住む人たちの家庭事情も変化します。たとえば、母親が認知症になった家庭。母親は、やり場のない気持ちをうまく表現できず、毎朝大きな声をあげるようになりました。そうした日常は家族にとっても、大変です。母親を支えたいと思う気持ちがある一方で、家族は仕事を優先せざるをえず、母親への十分な時間がとれず、煩わしく感じてしまう気持ちが強くなっていきました。やがて母親は家族の中の「迷惑者」となってしまったのです。その家庭は、設立当初はにぎやかに対して厳しい見方をしていましたが、家族が暮らしていくために、にぎやかが必要な場となったわけです。

「共に支え合う」「共に生きる」と言葉で言うのは簡単ですが、それを実現していくことはとても時間がかかります。以前、取材した方から「知ることによって優しさが生まれる」という言葉を学んだことがあります。無関心からは何も生まれず、知ること、わかることから、互いを思いやる優しい気持ちが生まれ、「共に生きる」ための一歩が生まれるという意味です。この一歩を踏み出すことが、誰もが安心して暮らせる地域づくりの始まりなのではないかと思います。にぎやかは、その一歩を踏み出しあえる場所なのだと思います。


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認知症の女性に、障害のある男性が付き添って散歩


地域づくりアーカイブスの動画では、にぎやかを「親子じゃないけど、家族です 富山型デイサービス」というタイトルで紹介しています。これは、理事長の阪井さんの言葉を引用しました。

「親子が共に暮らすこと」。それは、とても当たり前のようでいて、とても難しくなってきていると思います。お父さんが単身赴任で家にいなかったり、お母さんが夜遅くまで働いていたり、おばあちゃんが施設に入っていたり、親子がそろってご飯を食べる時間をとることすらできない家庭が少なくありません。

にぎやかの利用者やスタッフたちは、「疑似家族」です。ところが、そこには「腫れもの」がありません。本来の親子がそうであるように、互いに「うっとうしいなあ」と正直に言ったり、ケンカをしたり、本心をさらけだして話します。1人の悩みをみんなで話し合います。利用者とスタッフにも垣根はありません。スタッフは利用者に「してあげる」存在ではなく、スタッフが利用者の前で「しんどい」と言えば、利用者がスタッフを気遣ってコーヒーを入れる、そんな関係です。

互いに愛情があり、尊重し合っているからこそ、家族のようにぶつかり合いながら、認め合い、赦し合う。にぎやかが作り上げる「疑似家族」の日常は、家族の時間を取りづらい現代社会で、大きな役割を果たしているのかもしれません。

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