放送史

<放送史への証言>

ドラマづくりは阿吽(あうん)の呼吸

~深町幸男氏に聞く~

昭和30年代後半は、映像メディアで娯楽の王座にあった映画が凋落し、代わって急成長してきたテレビがその場を奪おうとする時期でした。「放送史への証言」では、『夢千代日記』の演出などで知られる元NHKディレクターの深町幸男氏に、映画助監督時代の経験や、脚本家や俳優との出会いについてお聞きし、その後のテレビドラマ隆盛の道をどのように切り開いていったのかを伺いました。

深町氏は、昭和28年に映画製作会社の新東宝に入社し、8年間助監督として勤めました。

新東宝時代は、いろいろな監督がいて、1カットを撮るのに2、3時間かける人もいれば、時代劇と現代劇を同時進行でこなす人もいました。深町氏は、清水宏監督が「スタジオは、空気が流れていないから嫌いだ。ロケーションが好きだ」と話していたことを、鮮明に覚えています。深町氏は「空気の流れ、つまり作為的なセリフや演技を排除した、人間と人間の阿吽の呼吸を、どう撮っていくかが、私がドラマを制作することの根本にある」と話しています。

深町氏は昭和38年にNHKに入局します。当時ドラマ制作の現場には、和田勉、吉田直哉、岡崎栄、後輩として佐々木昭一郎などの各氏がいました。深町氏は「何か新しいものを作っていこうと、お互いにガシッ、ガシッときしみあって歩き出そうという時代に、我々が、たまたま居た、ということでしょう」と振り返っています。

演出家にとって、脚本家との出会いも大事なことです。

深町氏は『夢千代日記』などで、いっしょに仕事をした早坂暁氏について、「原稿が遅く、脚本も、たびたび変えられた。彼は別名、遅坂嘘吉と呼ばれていた」と苦笑していますが、「それでも彼には、それを乗り越える天才的なひらめきがあった」と話しています。

また、先ごろ亡くなった俳優の緒形拳氏からは、生前、自筆の色紙を贈られています。色紙に書かれていたのは「尚半(なお なかば)」という2文字です。深町氏は、「まだだよ、なお、これからもまえへ進んでいかなくちゃダメだよ」と受け止めて、自分を激励していると言います。

昭和62年にNHKを定年退職しましたが、テレビ、映画、舞台と、制作したドラマの数は、定年後の方が多くなりました。回りには「自分は90歳まで演出する」と話しているということですが、ドラマづくりに夢中になっている人間は、そんなものかもしれません。

メディア研究部(メディア史)松本 安生