国内放送事情

電波監理委員会をめぐる議論の軌跡

~占領当局、日本政府、放送事業者の思惑とその結末~

民主党を中心とする政権が発足し、原口総務大臣の方針に基づいて、放送規律にかかわる行政機関の見直しが検討されている。こうした議論にあたっては、1950年代に放送規律や電波監理を担当する電波監理委員会が存在したことから、その組織形態や活動内容が参考にされることが多い。ただ、委員会の制度設計は、GHQや日本政府、放送事業者のさまざまな思惑が絡み合う中で行われただけに、その過程すべてが解明されているわけではない。本稿では、電波監理委員会設立をめぐる議論を当時の史料に拠りつつ記述した。

占領期における放送の規制・監督機関設立をめぐる議論は、1945年末から1950年にかけて行われたが、その振幅は大きかった。当初の制度設計は、公共放送の民主化に力点を置いた「放送委員会」を設立するものだったが、1947年10月のGHQの示唆(ファイスナー・メモ)以降、民間放送の設立を前提にした法整備が求められるようになったことから、民間放送の監督や電波割り当てをどの機関が行うべきかという問題が浮上する。そして、放送行政と電波行政を分離して規制するのは合理的ではないとする考え方がGHQ・日本政府双方に広がり、「電波監理委員会」が放送・電波行政を担当する形態へと変化していった。

ただ、当時の吉田政権としては、放送・電波行政について、内閣のコントロールが効きにくい行政委員会に委ねることは容認しがたいものであり、▽委員長に国務大臣を置く、▽委員会の議決を内閣が変更できるようにする、といった手段を講じて電波監理委員会への影響力維持を目指した。これに対しては、GHQ内でさまざまな意見があったものの、結局、あくまでも内閣からの独立性が高い委員会を作るべきとする主張が通り、これに基づいて1950年6月、電波監理委員会が発足した。

本稿では、NHK放送文化研究所などが所蔵する史料に拠りつつ、さまざまな主体がどのような狙いを持って制度設計に影響力を行使したのか検証するとともに、放送に関する規制・監督機関をめぐって、どのような論点が存在するか整理を行った。

メディア研究部(メディア動向)村上聖一