ことばウラ・オモテ

定型表現

ある型をなぞって表現することを「定型表現」(決まり切った言い回し)と言います。 類似してはいますが、「定型詩」は、型をなぞるのではなく、一定の形式を守って作る詩のことで、意味合いが違います。

俳句は、5・7・5の17音で作るという形式があるので、定型詩の一種です。

この17音に限定された日本語というのは、厳しい制約です。
制約の中でどれだけ自由に表現できるか、たった17音で伝えるイメージを広げるにはどうしたらよいか? 俳句に特有の切れ字を差し引くと、使える音はさらに減り、季語は入れなければいけない、同じ語はなるべく使わない、そしてわかりやすく・・・

ほとんど、手足を縛られ、猿ぐつわをされ、そのうえ踊りを踊れと言われているような厳しさがあります。

しかし、季語はその季節を共有するための約束事ですし、ことばが持つ意味の膨らみ、1つの単語でも伝わる世界をどのように重ね合わせるかなど技法はさまざまです。
「一度俳句を作ってみなさい」と小学校時代に言われた経験はおありでしょう。

そして、実際に作ろうとすると、どう首をひねっても、ことばが浮かばず挫折してしまったことはないでしょうか。

ところが、なにげなく口にしたことばが場合によると5・7・5の定型になり、俳味を生むこともありそうです。

俳句作りが苦手な人には、昔から「根岸の里」という強い味方があります。
これは、季語を初めの5音に持ってきて、あとを「根岸の里のわび住まい」の7・5で納める方法です。
「うぐいすや 根岸の里のわび住まい」「木枯らしや 根岸の里のわび住まい」などと、ちょっとは俳句らしいものになります。
「根岸」は現在ではJR山手線の鶯谷駅近くで、かなり賑やかな住宅地ですが、江戸末から昭和の初めごろまでは閑静な土地で、大店の別宅が多かったと言います。

こういう「ずるい」俳句は定型詩の中でも「定型表現」に堕しているというものです。

定型で、似たような情景を詠んでいくとなると、「定型表現」に陥りがちです。

某文士は、店の名が入った「○○の今宵の酒の旨きこと」という色紙を数多く残したそうですが、これも「根岸の里」の応用編かもしれません。

最近はあまり見かけなくなりましたが、旅館の「はし袋」の裏に「○○音頭」「○○節」のような歌詞が書かれているものがありました。
有名な詩人が書いたものも多く、北原白秋は九州の各地に、野口雨情、西条八十もこのような「ご当地ソング」を残しています。
さすがに、「定型表現」にはなっておらず、その土地土地の特色をうまく読み込んだものが多いようです。

相撲の「甚句」はメロディーと一節の長さは変わらず、内容が千変万化します。
心地よいメロディーに、呼び出しさんの美声が乗ると、一見つまらないことばも生き生きしてきます。
「ご当地甚句」を呼び出しさんが、短時間で作る「妙技」を目の当たりにしたことがあります。
初めての土地で、観光パンフレットを見ながら、そして、土地の人に「ここはどんなところ?」「これはどっちがおいしいの?」などと聞きながらメモをまとめていきます。

そして、口の中でぶつぶつとメロディーに乗せながら、練っている様子です。うまくいかない時はメモを直しながら、再び練り直し。
30分もかからずに、10連ほどの甚句ができました。

「さすがですねぇ」と感心すると、「なに、ちょっとしたコツですよ」とおっしゃっていましたが、どうしてどうして、立派な甚句でした。

そのコツを少々聞いてみましたが、「甚句という定型」にはまりやすいことばを選ぶこと、みんなが聞いてわかるように簡単な、そして共感を得ることができる詞にすること、過去に「受けた」土地の甚句を参考にしていること、めでたいことばをどこかに折り込むこと。

あとは企業秘密だそうですが、同じような「定型表現」にならないように注意しているそうです。

「口の中で練習していましたよね」と聞くと、「甚句に乗せてみないとうまくできたと思ってもダメだからね。口からするっと出なきゃあね」と言うことで、「なるほど、モチはもち屋だ」と感心しました。

私たちが使っている口語表現は、ある面では「同じ言い回しを繰り返すこと」を嫌います。同じ言い回しが頻繁に出てくる話を聞いていると、「ほかに言い方はないのか、幼稚だ」と思ってしまうこともあります。
しかし、同じような状況で、毎回違う表現をすると、「いつも言うことが違う」と思うこともあります。
「聞き手」は非常にわがままです。同じ表現のくり返しを好む場合もあり、嫌う場合もあります。
観光バスのガイド内容は、毎回違うお客さん相手ですから、毎回同じことを繰り返してもよさそうですが、ベテランの名ガイドと言われる人ほど「定型内の非定型」を心がけていらっしゃるそうです。

「国会答弁は2種類だけで大丈夫」とおっしゃった国務大臣がいましたが、「個別の案件については軽々に言えない」「法と証拠に基づいてきちんとする」これは「定型」でだれもそれを外せとは言わない事柄です。

この「定型」のなかでどのように「定型表現」でない新しく心のこもった表現ができるか?が課題のようです。

考えてみると、私たちが使う日本語は「定型表現」と「非定型表現」の間を大きく揺れながら、人と人をつないでいるように見えます。

そうしてみると小学校時代に言われた「一度俳句を作ってみなさい」ということばは、人と話をするための基礎訓練として、「ことばの遊びかもしれないけれど、俳句という定型の中で型にはまったのではない表現ができるか体験しなさい」ということだったのかもしれません。

ブログやツイッターが盛んになり、「ことばが人をつなぐ」重要さが増してきた中で、今回の事件は、ことばが表す人の生き方、人への接し方について考えさせてくれました。

(メディア研究部・放送用語 柴田 実)