調査報告 ジャーナリストたちの現場から

被災地に向き合い続けたカメラマン徳田憲亮の軌跡(前編)

~東日本大震災に見る“寄り添う”報道の可能性~

公開:2023年11月21日

2022年11月10日、一人のカメラマンがこの世を去った。

徳田憲亮(享年53)。NHK釜石支局の通信員として2011年3月11日、未曽有の巨大災害、東日本大震災に遭遇した。高台から撮影した街を襲う巨大津波の映像は、今も人々の記憶に残る。港の堤を超えた津波が見る間に市街地を飲み込み、住宅や店舗が灰燼(かいじん)に帰す様子を克明に写した38分間に及ぶその映像は、当時ニュースで繰り返し放送された。また、そこに映る生き残った人々のその後の葛藤を描いた『NHKスペシャル3.11あの日から1年 38分間~巨大津波 いのちの記録』(2012年3月放送)も、被災地の現実を直視したドキュメンタリー作品として高く評価された。

徳田はその後も、地元に暮らす一人として被災地に向き合ってきた。不慮の病によって、その生涯を閉じるまで、人々を見つめ続け、悲しみや喜びを分かちあってきた。その原動力とはいったい何だったのか。

徳田が震災から12年間近く、地域の中でともに歩んできた取材相手たちの証言をもとに、その軌跡をたどり、“寄り添う”報道の価値と可能性を探る。

放送文化研究所 渡辺健策

徳田憲亮カメラマン(NHK釜石支局当時)

大分県別府市出身。岩手大学在学中にNHK盛岡放送局で照明担当のアルバイトをしていたのを契機に映像制作会社に所属し、映像取材も経験。2010年10月にNHK釜石支局の通信員として赴任し、翌2011年3月に東日本大震災に遭遇。2022年11月に病気のため死去するまで約12年間、岩手県釜石市、大槌町などの被災地取材を担当してきた。

≪亡くなった徳田へのメッセージ≫

岩手県釜石市と大槌町に暮らす人々が、亡くなった徳田への思いをつづった寄せ書き。 津波で亡くなった人の遺族や、復興支援に携わる人など、生前、徳田が取材で接点を持っていた人々50人以上が、それぞれの思いを込めて支局の同僚記者に託した。そこには、被災者を思いやる徳田の優しさや、地域に寄り添いともに課題に向き合ってきたことへの感謝の言葉など、単なる取材する側とされる側という関係にとどまらない「特別な思い」が詰まっている。

なぜ徳田は、被災地の人々と、ここまで深く信頼の絆を結び、心通い合う関係を築くことができたのか。

私は、東日本大震災が発生した2011年から、NHK盛岡放送局でニュースデスクを務め、当時、徳田の同僚の一人として取材出稿業務に関わっていた。NHKをはじめ大手マスメディアの社員や職員は、原則、数年ごとに転勤する。実際、私も被災地・岩手に居たのはわずか3年間だった。しかし、徳田はその後も地域の一員として住み続けながら、そこに暮らす人々にずっと向き合ってきた。

その彼が地域の人々との厚い信頼関係を積み上げてきた過程をたどることは、かつてないメディア不信に直面する私たちが、今後目指すべきマスメディアと受け手の関係性を見つめ直すひとつのきっかけになるのではないか。本稿では、そうした視点から、元同僚としての立場を離れ、ジャーナリズムの調査研究に携わる者の一人として、カメラマン徳田憲亮の12年間の取材活動の軌跡をたどり、“地域の人々に寄り添う”報道のあり方を考えたい。

≪被災者の思いを共感≫

藤原信孝さん

釜石市の観光ボランティアをつとめる藤原信孝さん。復興を目指す被災地の観光振興の課題をリポートしてきた徳田が、たびたび取材していた地元観光の活性化に携わる一人だ。藤原さんは、震災後まもない時期に、釜石市内で最も犠牲者の多かった鵜住居(うのすまい)地区で、被災地を訪れるツアー客に津波被害の惨状を語る観光ガイドを引き受けていた。その際に徳田からインタビューを受けた時のことを今も覚えている。徳田が自分の複雑な胸のうちを理解したうえで、問いかける言葉を慎重に選んでくれていると、その配慮を感じたという。

藤原信孝さん:当時は全国から大手の旅行会社がバスを連ねて、被災地支援ツアーとかいう名目で、お客さんを大勢連れてきていました。私たち観光ガイドは、バスに同乗して道案内をしたり、遺体が見つかった時の状況をお伝えしたりする仕事を頼まれて、やっていました。普通は観光だから気持ちの良いところを案内するんですが、とにかく悲惨な事が起きた場所を案内するようなニーズがいっぱいあったんです。そんな状況について、徳田さんが「どういう気持ちでやられてます?」って聞いてきたので、「俺はもう、本当はやりたくないんだ」っていった覚えがあります。鵜住居で実際に被災した人も大勢いるから、その人たちの目もある。私自身は家が海から離れていて被害を受けていなかったから、「おまえ何を分かったようなことを言っているんだ」って思われるのではないかと気になっていました。「だから俺は津波の語り部みたいなことはしたくないんだ。でも、そうは言ってもやる人が居ない、誰か説明しなければならないから、苦し紛れにやっているんだ」と徳田さんに話したんです。徳田さんは、こちらの複雑な気持ちをよく分かっていて、寄り添うように、慎重にインタビューしてくれていると感じていました。私たちの心に土足で入り込んでくるようなことは絶対にしませんでした。

取材で接してきた被災地の人々の徳田に対する評価として共通しているのが、「控えめで穏やかな性格」という人物評だ。マスメディアの取材者は、一般的な傾向として、取材相手にグイグイと迫ってくる“押しの強い”タイプが多い。それに比べて徳田は、他の取材者の後ろに立って遠慮がちに撮影していることが多かった。取材を受ける当事者側から見てもその違いは明らかで、中には「徳田さん、あんな後ろに居て、ちゃんと映像撮れているか。大丈夫かな」と取材相手から心配されることもあった。それはカメラを構える際の位置取りだけでなく、取材スタンス全般にも通じるものがあった。

徳田の母親によると、これは少年時代からの彼の性格に由来するらしい。子どもの頃から「俺が俺がと自分を前面に出すタイプではなく、常に控えめな立ち位置にいた」という。震災で家族を失った遺族や、復興が思うように進まない被災地の人々には、その控えめな性格が「優しさ」と「思いやり」という形で受け入れられた。また、それは長い時間をかけて、被災者の心の奥底にひそむ“複雑な思い”への「共感」という、特有の取材スタンスにつながっていった。

≪“切り取らない”ありのままの姿を≫

釜石市在住の小笠原人志さん。小笠原さんは、当時大槌町役場に勤務していた娘を津波で失った。同じように町役場で亡くなった方の遺族たちとの集う会に参加していた際、カメラマンとして取材に来ていた徳田と知り合った。どんな時も被災者のありのままの姿を見つめ続けていた徳田は、他の取材者と違って、胸のうちまで明かせる貴重な存在だったという。多くの取材者があらかじめ考えていた自分たちの筋書きと結論を持ち、その構成にあてはめようと、インタビューを“切り取る”ように撮っていくのと明らかに違ったのだ。

小笠原人志さん:マスコミにも色んな人がいるので、取材を受けた時に本当に自分の気持ちをきちんと伝えられたのか、疑問に思うこともあります。ただマスコミの期待に応えただけなのではないか、質問された時に「こういう風に言わせたいんだな」と感じて、期待に沿うように答えることが本当にいいのだろうかと、自分なりに違和感を持っていました。
それに比べて徳田さんは、いつも自分たちの気持ちに寄り添ってカメラを回してくれていました。いつもありのままに答えるだけでいい。それが他の人と違う。色んな人からたくさんの取材を受けましたが、そのたびに取材が終わって「どうだったかな」と考えてしまいます。徳田さんの取材の時には、「あの人なら、また来てもらってもいいな」と思っていました。

マスメディアの取材姿勢に対する疑問の声は、これまでにも被災地でたびたび指摘されてきた。しかし、それはごく一部の心ない取材者の傍若無人な振る舞いに対して向けられたものだと私は受けとめていた。しかし今回、徳田の軌跡をトレースするために話を聞かせてもらった被災者の多くが、マスメディアが伝えてきた被災地に関する報道は、自分たちが日頃感じている地元の受けとめ方とは微妙にニュアンスが異なることを指摘している。被災地の外から来た取材者の発想は「おそらくこういうことなのだ」というステレオタイプな決めつけや仮説から出発していることが多い。取材を受ける被災者側は、マスメディアの取材者が求めている「答え」を言うまでインタビューが終わらないから、やむを得ず、その意図を忖度(そんたく)し、期待されている内容の話をするのだという。

もちろん、マスメディアの取材者の多くは、東日本大震災の教訓を後世に伝え、被災地の現状を社会に訴えたいという思いで被災者に向き合ってきただろう。その熱意は、とても大事なものだと思うし、私自身も、被災地の復興や将来の防災に少しでも役立ちたいという思いで取材・出稿業務に携わってきたつもりだ。しかし、取材を受ける被災地の人々は、まったく異なる受けとめ方をしていたのだと知って、がく然とした。自分たちがしてきたことは、いったい何だったのかと。

小笠原人志さん
(NHK「こころフォトスペシャル あの日から8年 いま誓うこと」2019年3月9日放送)

小笠原人志さん:娘が勤めていた旧役場庁舎に行ってマスコミの取材を受けると、決まって言われるのが、「手を合わせているところを撮らせてください」ということ。取材は拒まないと決めたので、必ず応じるようにしていますが、正直言って、手を合わせろと言われて合わせても、それはやらせというかポーズであって、私たちがそのときに亡くなった娘に思いをはせることはありません。それでも、「いま何を思われたのですか」「娘さんとどんな話をしましたか」と尋ねられると、仕方なくそれらしい答えをしてきました。でも、それはとっさに考えたその場の答えであって、私の本心ではない。気持ちは複雑です。でも徳田さんから、何かポーズを取ってくれと言われたことは一度もありません。
被災地取材に限らず、テレビを見ていて事件の被害者などにもよく向けられる「今のお気持ちは」という質問を聞くたびに、聞かれた人は同じ思いをしているんだろうなと考えてしまいます。もう少し取材相手の気持ちに寄り添って取材することはできないのだろうかと感じてしまいます。

徳田への信頼の厚さは、私たち他の取材者に対する不信の裏返しであったのだ。小笠原さんによると、なかには、亡くなった娘の部屋の撮影を依頼され、遠慮してほしいと断ったのに、テレビクルーが強引に上がり込んで撮影しようとしたこともあったという。

結論ありきの“切り取る”報道とは一線を画していた点で徳田を評価する声は、地元に根ざした取材活動をしてきた記者仲間からも上がっていた。「復興釜石新聞」の編集長を務めていた川向修一さん。震災直後から避難所や仮設住宅などを回り、被災者に欠かせない生活情報や地域のニュースをきめ細かく伝えてきた地元ジャーナリストの一人だ。徳田は、2014年11月、被災者の貴重な情報源となっている復興釜石新聞のことをテレビリポートで伝えた。

川向修一さん(NHK『おばんですいわて』2014年11月4日放送より)

川向修一さん:震災直後に被災地に来るマスコミは、人の気持ちに土足で上がり込むような 心ないことをする人が少なくありませんでした。徳田さんはそういう人たちとは全く違うタイプでした。
私自身が被災者でもあったので、取材する側と取材される側の両方の立場になって、どっちの気持ちも分かる複雑な立ち位置になった。そういうスタンスから見ていて徳田さんのことは、寄り添うという言葉をそのまま実践している人だと思っていました。「寄り添う」って言葉はある意味、被災地報道ではやった枕ことばとしてかならず付けられるようなフレーズですが、実際、本当に被災者に寄り添って取材している人はそんなに多くありませんし、簡単にできることでもない。それを体現していた一人が徳田さんだと思います。ガツガツしていない遠慮がちな性格なので、正直言って取材者としては大丈夫かなと思う心配な一面もありましたが、東京から来たテレビクルーが強引な取材をするのと対極に位置するような存在でした。
型にはまった記事はきれいに見えるが、それは現実とは違う。地域に住んでいる側、取材を受ける側から見ると、そうだよねと納得できるものではない。誇張をしない、切り取りをしない、自然な流れの中で被災者や住民を描くというのが本当の姿を伝えることになると思います。
地域の一員として、相手の知り合いとして話を聞くと、深い部分の本音にも触れることができる、その一方で相手の気持ちを思って書けなくなることもある。どこまで表現していいか、迷う事が結構あります。その人の気持ちをおもんぱかると余計にそうなる。結局、最後は人格によるのではないでしょうか。人が人に話を聞くので、その人柄を取材される側も見てどこまで話すか考えるし、聞いた側もみずからの人としての判断でどこまで書くか考えるのです。

≪被災した子どもたちの心の支え≫

菅野祐太さん
(2019年11月17日放送「証言記録 東日本大震災 岩手県大槌町 子どもに安心の学び舎を」)

もう1つ、徳田の取材活動に関して被災地で今も高く評価されているのが、震災で親を亡くしたり、傷ついたりしている子どもたちへの対応だった。

大槌町で被災地の子どもを支援する活動をしているNPO法人カタリバの菅野祐太さんは、最も慎重な配慮が求められる被災地の子どもへの接し方を見て、徳田の他の取材者とは本質的に異なる取材スタンスだと感じたという。

菅野祐太さん:被災地のメディアの取材は苛烈で、応援で来た人も含め取材者はいつも多かった。一番よく尋ねられたのが「誰が家族を失った子か?」ということ。取材対象になる生徒を探そうと一生懸命でした。特に3月11日が近づくと美談を探そうとするのがメディアの人たちの常でした。
中には、私たちも質問することを控えているような琴線に触れる質問を生徒本人にぶつける人もいて、そこまで聞くことはないのにと心配することがよくありました。
東京の人がほしい映像を撮って、東京の人に消費されていくというのがメディアの実態だった。しかし、メディアとうまく付き合わないと、被災地のことが社会に伝わらないから、取材にどうつきあっていくかが課題でした。
そんな時に大きな役割を果たしたのが徳田さんでした。徳田さんは一時的に来た取材者ではないとすぐわかりました。被災者との距離感が適切だったからです。被災者は、誰もが震災のことを話したくないわけではなく、なかには状況が整えば話したい人もいる、その状況が大事なんです。東京から来てさっと取材を済ませていく人とは違い、ふと横に立つように居て一緒に話を聞いていてくれる。地元の住民の一人として寄り添っていてくれるので、利害関係でなく、普通に話せるのが徳田さんの魅力でした。

≪地域の一員として人々に向き合い続ける≫

徳田にだったら安心して胸のうちを伝えることができるという特別な信頼関係は、どのように築かれたのか?今回話を聞いた多くの取材相手が「いつも地元に居てくれたから」ということを一番の理由に挙げていた。実は、徳田は九州出身なのだが、盆休みや年末年始もほとんど実家には帰らず、釜石で過ごしていた。近くの神社に初詣に行った地元の人が参道で破魔矢を持った徳田とすれ違い、彼は地元出身なのかと思い込んでいたというエピソードもあった。それほど徳田は、地域に溶け込んでいた。

なぜ徳田は、釜石に住み続ける決意をしたのか?

大分県別府市出身の徳田は、高校時代までを地元で過ごした後、岩手大学進学とともに盛岡市に移り住み、演劇サークルで活動しながら大学に8年間在籍。その間にライトマン(照明担当)のアルバイトをしていた縁で、NHK盛岡放送局で働くことになった。

震災の前の年の2010年秋、釜石支局の当時の通信員が引退するのに伴い、当時の映像取材の管理職から勧められ、後任として釜石へ。カメラの撮影技術や原稿の書き方を学んで、支局に着任した。そのわずか半年後に東日本大震災に直面したことになる。

大学時代に同じ演劇サークルに所属し、その後盛岡局でも一緒だった徳田の1年後輩にあたる、番組制作会社の佐々木達矢カメラマンは、徳田の釜石赴任について、当初は何か目的意識を持って主体的に行ったわけではなかったと振り返る。

佐々木達矢カメラマン

佐々木達矢カメラマン:徳田さんは、管理職から勧められて、断る意思があるわけでもなく、何となく受け身で流されることが多い性格なので、勧められるままに釜石に行くことになった。劇団でも、どんな配役でも断らない、むちゃぶりにも応える性格だったので、それと同じように釜石行きも断らなかった。本人も周りの私たちも、せいぜい2,3年くらいの一時的なことだろうと思っていました。進んでいったわけではなく、勧められるままに従って行っただけなので、前任者からいろいろなことを教えられても、ただ聞いているだけで、みずから積極的に何かを学ぶというわけではありませんでした。そういう受け身の姿勢は役者の時にもありました。周りの状況に合わせるというのが徳田さんの行動パターンでした。
そんな徳田さんの人生が変わったのは、3.11のあの日があったから。実はその2日前、津波注意報が出たときに、徳田さんはあまり動けなかった。まだ慣れていなかったこともあって、映像取材が何もできてなくて、いわば空振りの状態でした。徳田さんとしては、それを後悔する気持ちがあったと思います。だからこそ、3月11日の津波の後、徳田さんと2日間連絡が取れず安否不明だったときに、「むちゃをして水門を撮影しに行って被災したのではないか」と、局内の人たちは心配していたのです。
他の沿岸の取材者たちとは、翌日になって徐々に連絡が取れて安否を確認できましたが、徳田さんだけいつまでも連絡が取れなかったので、大丈夫なのかと皆が案じていました。そこへ釜石から来た車の運転手が、徳田さんから頼まれたという映像テープを局に届けに来て、「徳田さんは生きている」と初めてわかったのです。無事と分かって、泣き出す人もいました。

徳田が高台から撮影した津波映像
「NHKスペシャル 3.11あの日から1年 38分間 ~巨大津波 いのちの記録」
(2012年3月5日放送)

そのとき届いたテープに記録されていたのが、高台から撮影したあの38分間の津波映像だった。そのカメラワークと、いつになく大声で叫ぶ徳田の実況を見て、佐々木さんは驚いたという。

佐々木達矢カメラマン:あの高台から撮影した38分間の映像素材を見て、徳田さんが津波を撮影しながら叫ぶように実況コメントをしていたことに驚きました。役者として声を出す時のような張り上げた声で、巨大津波を目の前にして素直なリアクションだと思いました。同時に、カットを切らずにずっと回し続けながら実況コメントしていたのは、見たことのない徳田さんの姿でした。あれだけの津波を目の前にしたら、多くのカメラマンが黙って、ただただ撮り続けるでしょう。あれだけの長回しで実況していたのは、素人に近い状態だったからこそできたことかもしれません。
震災の前と後で徳田さんは、別の人のように変わったと思います。あまり自分のことを語らないので本人からはっきり聞いたわけではありませんが、釜石に行く時はとりあえず勧められるままに何となくだったわけですが、震災後はもう10年くらいは帰ってこないんだろうなと、言ってみればある種の「覚悟」みたいなものを感じていました。

佐々木カメラマンが感じたという徳田の「覚悟」とは、どのようなものだったのか。盛岡局と連絡が取れなくなっていた安否不明の2日間に、徳田に何があったのか?

その手がかりとなる証言は、偶然、得ることができた。徳田がたびたび取材でお世話になっていた釜石市両石(りょういし)地区の町内会長、瀬戸元さんと妻の保子さんに徳田との思い出話を聞きに行った時のことだ。徳田さんといえば、震災発生まもない頃の朝早く、歩いてうちに来たことをよく覚えていると瀬戸さん夫妻は切り出した。

瀬戸元さん保子さん夫妻
当時不通だった鉄道のトンネル

瀬戸元さん:徳田さんとは以前から顔見知りではあったけど、特に親しく付き合ったのは震災がきっかけでした。中心部から歩いて両石へ来て、誰か取材できる人を探していました。私は当時、町内会長をしていたので、地区の人から家の場所を聞いたらしく、被害の状況を聞きたいとやってきたんです。

瀬戸保子さん:あの日、徳田さんは、夜明けとともに歩いてきて、次は鵜住居に行くと言っていました。でも道路が寸断されて歩けないから、ここから先は線路伝いに歩いて鵜住居に向かうと。いったん送り出した後、そういえば何も食べていないんだろうなと気がついて、線路のトンネルの辺りまで追いかけて行って、彼のリュックサックにおにぎりを入れてあげました。トンネルの中に消えていく徳田さんの後ろ姿が、今も目に焼き付いて忘れられません。

私は驚いた。あの安否不明だった2日間に、徳田が歩いて両石や鵜住居の被災状況を取材していたとは知らなかった。釜石市内でも特に甚大な被害を受けた地域だが、歩いて行けば片道8キロくらいある。震災直後の映像は、膨大な量の素材があり、盛岡局のニュースデスクが目にしていたのはそのごく一部だ。誰とも連絡が取れず、一人で行動していた2日間、徳田はファインダー越しに何を目にしていたのか?

NHK盛岡放送局に問い合わせると、そのとき徳田が撮影した映像素材は3本あり、いまも保管されているという。事情を話して内容を見せてもらえないかという私の依頼に、責任者は快く承諾してくれた。

津波に襲われた直後の街の様子を写した3本の素材映像。それを見れば、徳田がみずからの「覚悟」を決めた経緯を知る手がかりがつかめるかもしれない。私は、かつての勤務地、盛岡に向かった。

(後編へ続く)

  • 渡辺健策
  • 1989年NHK入局。報道局社会部、首都圏放送センターなどで記者として環境問題を中心に取材。
  • 2011年から盛岡放送局ニュースデスクとして東日本大震災の被災地取材に関わり、その後、総務局法務部などを経て2022年から現所属。

被災地に向き合い続けたカメラマン徳田憲亮の軌跡(後編)-NHK

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