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放送ヒストリー 2021年04月28日 (水)

#318 太平洋戦争下、「南方」で行われた放送を振り返る

メディア研究部(メディア史研究) 村上聖一


 今から約80年前、太平洋戦争では、日本の陸海軍が一時、東南アジアの広大な地域を占領しましたが、占領地に軍が多数の放送局を設置して、ラジオ放送を行っていたことはあまり知られていないと思います。『放送研究と調査』では、戦時中に放送が果たした役割を検証するため、3回シリーズで、その「南方」と呼ばれた占領地で行われた放送について振り返っています。

 1回目の3月号、「南方放送史」再考①~大東亜共栄圏構想と放送体制の整備~」では、放送開始までの経緯について検証しています。ここでは放送の概要を見ておくことにしましょう。

 地図は、1944年12月の時点で日本軍が東南アジアの占領地に置いていた放送局の場所を示したものです。これ以外にも小規模な放送局があったことから、その数は30を超えました。当時の日本放送協会の放送局(内地で放送を行っていた放送局)の数が40余りでしたので、軍が占領地での放送にいかに力を入れていたかがわかります。

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 写真は、ジャワ島(現在のインドネシア)のバンドン放送局です。立派な外観ですが、日本軍が建設したものではなく、戦前のオランダ植民地時代の放送局を接収して使っていました。

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 こうした放送局は軍が管理しましたが、実際に番組制作を担ったのは、もっぱら日本放送協会から派遣された職員とそのもとで働く現地の住民でした。放送に求められたのは、▽現地の日本人向けの情報伝達、▽連合国軍に向けられた対敵宣伝、▽占領地の住民の民心安定、の3つの役割でした。

 しかし、開戦によって突然、「南方」に送り込まれた放送局の職員が、言葉も習慣も異なる住民向けに番組を作るのは非常に難しかったと思われます。職員の多くはこれまで海外向けの放送に携わったことがない人々でした。

 さらに、放送を出したものの、そもそも現地ではラジオの受信機がほとんど普及していませんでした。このため各放送局では、写真のようなラジオ塔(放送を受信してスピーカーで周囲に流す設備)を街のあちこちに立て、現地の人々に何とかして番組を聴いてもらおうとしていました。

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 シリーズでは、史料から浮かび上がるそうしたラジオ放送の普及策に加え、放送局が具体的にどのような番組を放送していたのか、また、日本の敗色が濃くなる中、放送局の職員はどのように対応していたのかといった点について、詳しく分析しています。ぜひご一読いただければと思います。