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放送ヒストリー 2020年05月13日 (水)

#248 テレビドキュメンタリーの技法研究など無意味だとささやく悪魔A,B,Cへの反駁

メディア研究部(メディア史研究) 宮田章

 

『放送研究と調査』4月号5月号では、NHKのテレビドキュメンタリー(TD)の基礎を築いた『日本の素顔』(1957~64の制作技法について論じた。「三つ子の魂百までも」と言うが、『日本の素顔』という初期TDの展開の中で、TD制作の基本的な技法が、すでにかなりの程度出揃っていることがわかる。興味のある方は一読されたい。

 研究と執筆は基本的に孤独な作業なので、心が弱っている時には、TDの技法研究など無意味だと悪魔がささやきかけてくることがある。彼らのささやきと、それに対して筆者が行った反駁をここに記しておきたい。

 

 悪魔Aのささやき:「テレビはメディアだろう。メディアとは「仲立ち」で、自分の関与なしで発生した情報を視聴者に伝えるパイプのようなものだ。テレビ自身が情報を作ってはならん、まして「制作技法」なんぞあってはならん」。 悪魔Aへの反駁:「テレビは確かにメディアの一つだ。しかし歴史的な事実としてテレビ局の中には制作部門がずっと存在しており、そこでは番組制作という情報の生産行為がずっと行われてきた。そこには作り手がいて、様々な制作技法がある。おれはそれを研究しているだけだ。「制作技法などあってはならん」というのはおまえの意見で、「ある」というのは事実だ」。

 悪魔Bのささやき:「テレビは視聴者あってのものだろう。視聴者が求める番組を作ればいいんだ。テレビに主体的な作り手など不要だ」。 悪魔Bへの反駁:「自分に迎合してくるだけの相手を尊敬できるか?テレビ番組の作り手が視聴者には真似のできないアイデアや技法をまだ少しは持っているからこそ、テレビはまだ少しは見られているのではないか?制作技法研究は、テレビ局がまだ少しは持っている「強み」の研究だ」。

 悪魔Cのささやき:「おまえのような制作現場を離れた人間に、ドキュメンタリーの作り方についてあれこれ言われたくない。大学教授や研究者が書いたものが実際の番組制作に役立ったことは一度もない」。 悪魔Cへの反駁:「現場を離れた人間に言われたくないという気持ちは元作り手として理解できる。大学教授や研究者が書いたものが実際のドキュメンタリー制作に役立ったことはないと言いたい気持ちもわかる。しかしそれは日本において特にそうなのであって、海外では、制作現場と研究者をつなぐ客観的な制作技法論が90年代以降盛んだ。日本にもあっていいだろう。「やはり無益だ」と言うのは勝手だが、読んでから言ってくれ」

 

特に眠れぬ夜など、彼らは繰り返しささやきかけてくる。このように言語化することで悪魔祓いとするのである。