文研ブログ

2022年12月 8日

放送ヒストリー 2022年12月08日 (木)

#433 戦後のNHKと児童文学作家・筒井敬介 その3 ~「初期『おかあさんといっしょ』失われた映像を探る」に関連して~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎

 児童文学作家の筒井敬介さんとNHKのかかわりについて2回にわたって紹介してきました。11月号の調査研究ノートで触れたように、これまでは主に『おかあさんといっしょ』を始めとする、幼児向け番組に焦点を当ててきましたが、筒井さんが手掛けたのは子ども向けの仕事だけではありません。
 今回は、筒井さんのご自宅に残されていた資料とNHKアーカイブスに保管される2本のラジオ番組を通して、筒井さんの幅広い仕事の一端とその原点を振り返ります。

(*本ブログに掲載される写真のコピーは禁止されています。)

社会問題へのまなざし

NHK新聞 (小西理加氏 所蔵)

 写真は、放送の普及促進を図るため1957年に発行された「NHK新聞」で、第12回芸術祭出品ドラマを手がけた作家を紹介する記事です。筒井さんの作品は『名づけてサクラ』というタイトルのラジオドラマで、同年10月25日に放送され、作品奨励賞を受賞しました。
 芸術祭への出品は、ラジオにしても、テレビにしても、歴史の浅い放送が社会的に評価されるために重要な意味を持っていました。(記事で紹介されている作家の中には、筒井さんのほかに有吉佐和子さんや木下順二さんの名前も見られます。)
 『名づけてサクラ』は筒井さんのオリジナル脚本で、戦後間もないころに進駐軍との間に生まれた、いわゆる「GIベビー」をテーマにしています。
 主人公サクラは黒人兵と日本人女性の間に生まれた女の子です。養護施設で育てられていましたが、養子縁組でアメリカに送られてしまいます。しかし、アメリカでの辛い生活に耐えきれず実の母親を探しに密航してくるという物語です。
 放送から30年後の1987年、『名づけてサクラ』は再放送されていますが、この再放送では筒井さんをスタジオに招いて当時の様子をインタビューするパートが追加収録されており、脚本執筆のきっかけや作品を仕上げるために重ねた取材のエピソードが語られています。(一部、現在では使用することが不適切とされる表現が用いられていますが、放送当時の価値観を伝える必要があると考えそのまま表記しています。)

――きっかけになったのは養子縁組です。 混血児の養子縁組ということが大変ジャーナリズムをにぎわしたし、いろんなことがありましたね。それに対する私の非常に不満があるわけですよね。/非常に混血児がひどく扱われて、色目で見られて、それをアメリカ養子縁組させたということが、じゃあそれから先どうするんだと。それはまるで棄民政策*注じゃないかと。捨て子と同じじゃないかと。/一体向こうに行った子どもたちはどうなっているんだと。そしたらもう一言「労働力だよ。労働力しかないんだよ」と、向こうがもらってくれるっていうのは。/それから婦人科の医者の話が出てきますね。本当に赤ん坊を産む時に、母親が知らないでいて、出てきたのが混血児だったという事例はね、僕は実際に集めたんです。こういうことがあったんです。それからやっぱり横須賀と横浜、下士官住宅ですね、昔の。つまり海岸の兵隊の下士官が表で生活しているわけですよね、奥様と一緒に。その住宅が全部、その当時で言えばオンリーさんというような人たちに占領されているようなところも取材に行ったですね。

 当時すでに子ども向けの作家のイメージが強かった筒井さんが、このように社会的なメッセージのある作品を書いたのは、戦時中に強いられた体験の反動によるものだと言います。

――僕がこれを書いたのは、40になってきっちりぐらいの時に書いたんだけれども、暗い、暗い青春ですね。ぼくらの青春ってのは本当に戦争だったから、押しつぶされていた青春がちょうど35から40ぐらいでやっと出てきているんですよね。そういう何か、素材とか世の中に対して何かぶつかっていこうっていうね、そういう熱がやっぱり(番組を)聞くとありますね。自分のことながらそれがありますね。

子どもも大人も区別しない

 『名づけてサクラ』のような重たいメッセージのあるドラマと、『おかあさんといっしょ』のような幼児向け番組の間には大きなギャップがあるように感じられます。筒井さんはどのような思いでこれらの仕事に向き合っていたのでしょうか。『名づけてサクラ』の再放送から7年後、1994年に放送された『わが故郷わが青春』というラジオ番組に筒井さんは出演し、生まれ育った東京・神田の町の思い出に触れながら、自らの原点について次のように話しています。

――つまり人の言うことを聞かないっていう事ですよ。非常に人の言うことをよく聞くね、惣領とかですね、それからお店の若旦那とか言うのもいますよね。 落語にも出てきたりなんかするような。僕はね、何しろね、逆のことばっかりやってね、しょうがない人間だったんですね。/江戸には、お上に対して「お上はえらいものだ」とお上にすり寄っていく人間と、それから「何が何でもお上にはおれは頭下げないぞ」という、その2つじゃないだろうけれども、僕はやっぱりお上が嫌いだったですね。

 さらに自らの作品について以下のように述べています。

――ユートピアがあるってことは非常にはっきりしているんですよね。 つまり、自分はこういう具合のところで、こういう具合に生きていきたいというイメージがはっきりしている。/だから僕の頭の中にはね、子どもも大人もなかったんですよ。 子どもも大人もなくて、楽しいものを書こう。自分のイメージをうんと広げよう。広がりゃしなかったですけどね、この年になるまで。しかし広げようという気持ちを持ちえたんですね。

 子どもも大人も区別することなく書かれた筒井さんの作品からは、生きることさえままならない時代を体験したからこそ「伝えたい」という強い思いが感じられます。先人たちがかつて体験したものとはまるで異なるものの、しかし同じように生きることが困難な今だからこそ、筒井さんの作品を読みとき、そこから学ぶことがあるように思えるのです。

筒井敬介さん 筒井敬介さん

*筒井さんが当時の養子縁組を「棄民政策」と批判した背景には、敗戦直前に北海道の開拓事業に志願した自身の体験があります。アジア・太平洋戦争末期の昭和20年3月、「本土空襲激化に伴う大災の罹災者の疎開強化」の方針が閣議決定され、戦災者の生活安定と食料の増産などを図るため、北海道は主要な集団帰農の受け入れ先として指定されました。しかし開墾する土地が少なく、参加者が農業未経験、さらに農業資材が皆無に近い状態だったことなどから営農は不可能に近かったといいます。
 筒井さんは先述の『名づけてサクラ』再放送のインタビューで次のように語っています。「なぜ北海道の移民になって行ったかっていうと、東京都に食料が入らなくなって、いつ暴動が起きるか分かんないから、民衆を北海道に捨てなきゃならないわけですよね。棄民政策ですよ。そういうものなんですよね。」政府によって切り捨てられた当事者としての意識が、筒井さんに『名づけてサクラ』を書かせたのかもしれません。