文研ブログ

メディアの動き 2021年01月18日 (月)

#293 "遠くない過去"から学べること ~論稿「『新型コロナウイルス』はどう伝えられたか」について~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎


 1918-1919年のインフルエンザ(通称「スペインかぜ」)がもたらした疫禍を描いた『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』で、著者のアルフレッド・W・クロスビーは、当時のアメリカの記録を丹念に調べる中で「まるで大船団が恐ろしく強烈な潮流の上を横切ろうとしている光景を、丘の上から見おろしているような感じがする」と述べ、続く文章で「船乗りたちはほとんどその流れに気づかず、舵をしっかり握りしめ、羅針盤を覗きこみ、決められた進路を忠実に守ろうとしている。だが彼らの軌跡は、自分たちの位置から直進しているように見えても、我々から見れば彼らに見えない潮流によってはるか下流の方に押し流されている」(西村秀一 訳、みすず書房 出版)と書いています。

 この文章を読んで、新型コロナウイルスによって、少し先の予定さえも立てることができなくなった現実に直面しているにもかかわらず、「決められた進路を進むことができる(もしくは、しなくてはならない)」という思い込みから抜け出すことができないままでいる今の日本の状況を言い表しているように思えたのは私だけでしょうか。そこに書いてあるのは過去の出来事なのに、あたかも現在のことを表現しているような記述に出会うと、生きていくうえで歴史を学ぶことが不可欠であることを思い知ります。

 『史上最悪のインフルエンザ』とは扱っている病気も時代状況も異なりますが、放送文化研究所で毎月発行している「放送研究と調査」では、2020年1月から7月の間になされた新型コロナウイルスについてのテレビ報道と、それに関するソーシャルメディアの反応を記録・考察した論稿「『新型コロナウイルス』はどのように伝えられたか」を掲載しています。2020年12月号掲載の【第1部】では、朝・昼・夕・夜の時間帯から、NHKと民放の計25番組を選び、それらの番組が、どの時点で、どのようなことを、どの程度報道したのか、またそれらの報道に対し、ソーシャルメディア(主にTwitter)がどのように、どの程度反応し、両者の間でどのような連関があったのかを検証しています。2021年1月号掲載の【第2部】では、「PCR検査」を事例に、ソーシャルメディアと連関する中でテレビが果たしたと考えられる機能を仮説として取り上げています。

 今月7日、東京では2447人、全国では7570人といずれもその時点での過去最多の感染者が確認され(NHK新型コロナウイルス特別サイトより)、1都3県を対象に再び緊急事態宣言が発出。その後、他の府県にも対象が拡大されるなど、国内の新型コロナウイルスの感染拡大は依然収束の目途が立っていません。時々刻々と事態が変わっていく中で、数か月前のテレビとソーシャルメディアの記録をまとめ、発表することにどのような意味があるのか、研究に関わった一員として今も考えています。その問いに対する答えはまだ十分に得られたとは言えませんが、現時点では「遠くない過去からも学べることがある」という、至極当たり前なことではないかと思っています。

 というのは、人間というのは、少し前に起こったことについては、ある程度記憶しているし、理解していると思いがちですが、往々にして知っているつもりでいてよくわかっていないことがあると思うからです。例えば、新型コロナウイルスに関わるTwitter投稿が一体どのくらいの数あり、その中でテレビ報道に関するツイートはどの程度の割合を占めるのか、Twitterはどういうテレビのトピックに反応し、どういうトピックには反応しないのか、また投稿をするのはどういう人たちで、どのような内容が幅広く共有されるのか、といったことを私はほとんど知りませんでした。しかし、今回の研究を通じてそれらに対する一定の答えを初めて得ることができ、それまでテレビとソーシャルメディアの関係について抱いていた、得体のしれない、どちらかといえばネガティブな、漠然としたイメージが、現像液につけた印画紙から画像が浮き出てくるように、少しずつ輪郭を露わにしてきたように感じました。それらはあくまでも数か月前に起きた個別の事象で、必ずしも現在起きていることに敷衍できる一般性があるわけではありません。けれども、9か月前に続いて再度「緊急事態宣言」が出された今、これからのテレビとソーシャルメディアの関係を考えるうえで学べることもあるのではないかと思っています。

 新型コロナウイルスに関するテレビ報道とTwitter投稿の関係について、現時点で必ずしもその全容がつかめているわけではありませんが、多分にズレや齟齬を含んだ、いびつなものだということが分かってきました。テレビ報道が意図していない部分でTwitter投稿に大きな反応が見られたり、誤解や意図的な曲解に基づいた情報拡散がなされたり、テレビ側が伝えたいことが思ったように伝わらない状況が生まれています。一方で、テレビとソーシャルメディアが連関することで、従来マスコミが独占的に手掛けていた一方的な情報流通ではありえなかった、いびつかもしれないけれど、一種の“コミュニケーション”の可能性が生まれているようにも思えます。その存在が最早前提となりつつある中で、恐れすぎるだけではなく、リスクを正しく踏まえたうえで、テレビを含む既存メディアが、ソーシャルメディアとどのようにしたらよりよい関係を築くことができるのかについても今後考えていく必要があります。おそらくそれは「テレビだけではどうしようもできないことと、どう向き合っていくか」という難題であることは間違いありませんが、そこを避けて通ることはできません。

 ネットという大きな流れに巻き込まれ急速にメディア環境が変わる中で、テレビが今後社会の中でどのような役割を果たしていけるのか、そこにはどのような課題や可能性があるのか。この1年間にテレビがソーシャルメディアとの間で経験したことからなんらかの教訓を学び取るうえで、本稿が少しでも役立つことを願っています。

 冒頭に挙げた『史上最悪のインフルエンザ』は、今からおよそ100年前の出来事を約30年前に書いた本です。筆者のアルフレッド・W・クロスビーが、当時のアメリカ社会を冷徹に「恐ろしく強烈な潮流を横切ろうとしている大船団」と評し、自らの立ち位置を「丘の上から見下ろしているような感じ」と書いているのは、そこに、ものごとを客観的に見て評価するのに十分な70年という時間が横たわっているからだと思います。一方、私たちは新型コロナウイルスに巻き込まれてまだ1年という時間しか経っておらず、その渦中にいるため、十分に客観的な見方をすることができません。言い換えれば、それは「強烈な潮流を横切る」だけが唯一の現実ではなく、今から軌道修正をし、あるべき未来を手繰り寄せる可能性をまだ手にしているということでもあります。