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みんなの映画レビュー

今月のお題

5月のお題は、「子ども」と「動物」を描いた作品です。
今月のプレミアムシネマは、小津安二郎監督の「お早よう」や、大ヒットシリーズ「ALWAYS 三丁目の夕日」、「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を放送。子どもたちの姿を通して人々の日常をユニークかつ感動的に描いた作品です。また一方では「HACHI 約束の犬」、「102 ワン・オー・ツー」、「クイール」など心いやされる動物たちが登場する作品もいろいろ放送します。
子どもや動物が印象的な作品、あなたが好きな思い出のシーンについてなどお寄せください。
たくさんのレビューをお待ちしています。

みんなの映画レビュー
2012年5月のお題 「子ども」と「動物」を描いた作品

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5月のお題 「子ども」と「動物」を描いた作品 ほか、放送した作品の感想など

八十日間世界一周  puzzleさん
物語はロンドン一等地に住む謎めいた独身の資産家フィリアス フォッグ。時間に忠実に正確である旨を信条とする彼が、日課である社交クラブでのトランプゲーム中の雑談で「インドでとうとう鉄道が全線開通したそうだ。」という新聞記事のたわいない内容と、銀行での巨額盗難事件での犯人推理が妙な方向に転がって行き、フォッグは新聞の世界一周旅行の行程が正しいか否かで、ゲームのテーブルについていた名士同士で途方もない金額の『賭け』をする事になります。今此処で取り決めた時間に80日で帰って来たらばフォッグ氏の勝ち。取り分をもらう。今すぐに出発し、資産の半分を旅費に使用し、負けたら残り半分の貯蓄、つまり全財産を相手側に差し出すという約束をします。
雇ったばかりの執事パスパルトゥをお供に奇想天外な弥次喜多道中的旅が始まります。また銀行強盗犯を捕らえるべくスコットランドヤードから刑事が一名、交通の要衝であるスエズ運河に派遣されています。この刑事、手配書からフォッグが怪しいと思い込み、しつこいのなんのって。が、遠いロンドンから着する筈の肝心の逮捕令状が遅く、彼はまだ所持していません。ゆえに主人公一行に対し、粘着的につきまとい陰険な妨害工作に励みます。旅の予定地に付くまで全く予想だにしていなかった現地での様々なハンデを乗り越え、果たしてフォッグは僅か80日でロンドンの社交クラブまで無事にたどり着く事が出来るのでしょうか。
『八十日間世界一周』は1872年に発表されたジュールヴェルヌの小説で、本作は1956年にアメリカで映画化されたもの。原作のそもそもの背景は、1858年にフランスとエジプト共同で国際スエズ運河会社を設立。翌年『地中海』と『紅海』を結ぶ人口運河の大土木工事が起工され、1869年に開通した事が契機となっています。地図で、冒頭の社交クラブで話題になった行程を確認すると一目瞭然なんですが、ロンドンからドーバー海峡を渡り、フランスをイタリア半島に向かって直線で南下。そのままイタリア半島を北から南、つまり地図上で縦に縦断。地中海から、アフリカとアジアの境目と言われるエジプトの、スエズ運河に船で移動。そのままチューブの様に紅海を抜けて太陽の進行方向、インド、シンガポール、香港、日本(横浜)、アメリカ(サンフランシスコから)大陸を端のニューヨークに向けて一気に真横に進み、そのまま船で英国へ(汽車でロンドン行き)。なんだこうすれば世界一周だって夢じゃないかも!と考えるのは結構無理もない話。というのも当時の大英帝国、時は産業革命。誉れ高きビクトリア時代の英国貴族の最新ステイタスは、イタリアへ見聞を広める為に旅する事。そんなこんなで、どうやら英仏両方のマスコミがこぞって「ひょっとしたら想像以上に短時間で世界一周が出来ちゃうかも!」と煽るだけ煽ったらしく、そうした世論の世相を巧みに掬い上げて書き上げられたのが『八十日間世界一周』と言われています。
ヴェルヌの作品ではスペインでのフラメンコや闘牛の場面が丸ごとなく、だから<気球>のシーンは映画のみのオリジナルです。だけどこの空撮の名所旧跡めぐりの部分が本当に素晴らしい。ああ、見て良かった。上昇気流がどうの、なんて野暮な事言いっこなし!の名場面です。ビクターヤングの『Around the World』の曲にあわせて、ゆったりと上品に泳ぐ気球のリボンのお洒落さったらなく。ピレネー?アルプス?の山頂の万年雪でシャンパンをシャリーンと冷やして乾杯!って超素敵過ぎ。当時スクリーンで観た方々のワクワクする喜び、高揚感をうっとり想像してしまいます。もちろん突っ込みどころも満載ですが、そんな場面は脳内で訂正と補填をしておけばノープロブレム!!。豪華な綺羅星の如くの大スターを揃え、旅行というより果てしなく一直線に脇目も振らず『移動』しつづける脅威のお話で。お殿様である主人公やその他個性的な人物オンパレードの、波瀾万丈で手段を選ばずな無茶っぷりがインパクト大。日本では明治維新(1868年)。3時間で80日分、余裕綽々の典雅な新体験。如何ですか。
緑園の天使  Borachonさん
馬のレースの映画というとたくさんあるが、自分の知っている題名でいちばん古いのはたぶんこの映画だ。写真や断片的な場面は見たことがあるが、通して見たのは今回が初めてだと思う。1944,5年ころに作られたアメリカ映画で、舞台は1920年代のイギリス、田園地帯の小さな町スールズだ。

最初の場面はタイトルの背景で,旅行者らしい若者が田舎道を歩いていく。若者の風体は放浪者風だが、口笛を吹いて明るい雰囲気である。若者の名はマイ・テイラー、演じるのはミッキー・ルーニー。彼のほかの映画はほとんど知らないが、小柄の童顔は記憶にある。彼の出演映画で見たのは『ティファニーで朝食を』の日本人ユニヨシ氏と、あとは『ザッツ・エンターテインメント』シリーズくらい。このときはもうだいぶ歳をとって太っていたけれど、この『緑園の天使』の頃は24、5歳、でも、役の上ではもっと若い設定だろう。

若者は町の入り口で一休み。一方、町の小さな学校では、複数学年が1クラスになっていて、子供たちが「これから楽しい夏休み、うれしいな」というような歌を歌っている。その中のひときわ目立つ顔立ちの少女が、主人公のベルベット・ブラウン。演じているのは、当時12,3歳のエリザベス・テイラーだ。後年の大スター、大人になった彼女の映画はたくさん見たが、12,3歳の彼女はすでにあの顔そのままの美少女、しかも顔だけではなくて演技もなかなかのものだ。乗馬の場面もあり、スタントも使ったかもしれないが、実際に乗って走るアップの場面もあって、流石と感心する。

少女ベルベットと若者マイの出会いがあり、二人と馬との出会いが描かれる。町のはずれの放牧場での馬との出会い、見事な馬だ。まるでパイレーツ(海賊)のような暴れ馬、ということで名前はパイ、それだけでなくジャンプでは足がなくなったようにうまく折りたたむ、まるで天使のよう、という会話があり、日本語の題名はそこからかもしれない。あるいは、天使は主人公の少女ベルベットのことか。原題は「National Velvet」、Nationalは馬の障害レース「Grand National」のことを指している。

メインのストーリーは、もちろん主役の二人と馬の活躍だが、若者マイの成長物語でもあり、もうひとつ、大人の物語も重要だ。ベルベットの両親に注目。とくに母がとても重要だ。そしてこの大人の物語は、メインのストーリーにしっかりつながっている。このころの子供たちはこういう映画を見て育ったのか、と、感無量になる。子供向け、家庭向けというイメージ以上の内容がある、と感心した。現在の大規模で派手なハリウッド映画とはちがうアメリカ映画がここにある、と思った。
チコと鮫  ハヤウさん
50年ほど前のイタリア映画です。

隠れて育てた人食い鮫と少年、そして島にバカンスに来た少女の話しです。
詳細は覚えていませんが白黒でも澄んだ海の印象が残っています。

少年とシャチ、ドラゴン、ロボット、恐竜などの映画の原点かと思います。

リュック・ベッソンにも多分影響を与えたのでしょう。
グラン・ブルー冒頭 白黒の少年時代のシーンは チコと鮫を思い出させます。

DVD化されていないので先ほど NHKBSの映画リクエストでリクエストしました。
馬喰一代  森本恭司さん
戦後日本の再出発は当初日本を占領していたGHQの指導もあって日本社会の民主化と言う事に精力が傾けられた。この時にそれを受け容れる私達が家庭のレベルでよく民主主義の意味を知って受け容れたのであればまた違っていたのであろうが、ともすれば「民主主義」と言う言葉こそ先に門戸を開けて各家庭に入って来るも、その内容もよく分からずに言葉の持つ甘い響きにうっとりとしていた処があったのではないか。が、その民主主義と言う言葉の鼠算的な驚異的な広まりの中で兎角一家の長として家人とは何かにつけて一段高い処に居てその高みから家族が安心して暮らせる様に見護っていた父親の権威は済し崩しに失墜し、偏に物分かりがよく、時として家族から煙たがられていた親爺の存在は家族の輪にもっと溶け込んで親密なマイホームパパに民主主義と言う言葉の移入によって置き換えられてしまった事も確かな事であろう。そしてその風潮の中で父親の存在はずっと弱められて来た。が、この映画はと言うとそうやって一家の中での父親の存在が時の経つのと共に無きものと為り父親の居場所が無くなって来た事に反発して、封建的と言うのでは無いが未だ父親が父親としての存在を明らかに見せ付け、一家の中心に親爺がでんと座っていた昭和の初めの物語として登場する。それは例えばジョン・フォードやハワード・ホークスが映画を撮っていた頃のアメリカ映画の父親像をも想わせる節がある。その役割こそ三船が演じる馬喰の片山米太郎に相違無い。が、この片山米太郎と言う男―曲がった事の大嫌いな性格で、情に脆く、馬にも人にもその手を抜かない愛情の深さと気風の良さは馬喰仲間からも一目も二目も置かれている頼りに為る兄貴分である。その破天荒振りも度を越さない範囲の中では。が、時として他人を端から信じ過ぎて、騙されたと分かった時には相手はとっくに姿を晦ました後だったと煮え湯を飲まされたり、学の無い弱みも手伝って口より先に拳固で勝負と喧嘩っ早い事が玉に瑕な処が気持ちのいい程竹を割った様なこの男を彼を知る周りの世間がその憐れみと共に眼を背けてしまうのもまた事実だ。そんな富島松五郎をも想わせる北海道は北見に生きる米太郎が妻はるのを若くして病で持って行かれた後、細君の遺言を自らの生きる糧にと博打と喧嘩三昧の生き方から足を洗って一人息子、大平の成長だけを愉しみに逞しく生きていく父性愛の物語である。其処に描き込まれる汲んでも汲んでも汲み切れない人の情が、生活の雑事の中で忘れていた温かいものを観る者の胸の内に吹き込んでくれると共に、前を向いて一生懸命生きていれば何時か必ず報われる時が来ると自らの人生の生の歩みを後ろから後押しし元気を貰える映画と為っている。その最大の山場は何と言っても死ぬ迄貧乏所帯が約束された家で息子に遺して遣れるものなど何も無い中で、上の学校へ行きたいと言う大平(伊庭輝夫)の願いを叶える為に手塩に掛けて育てた競走馬のフシミを北見競馬で走らせ、その優勝賞金で息子を札幌へ出して遣ると言う件である。レース直前に重い病に罹りレースの出場さえ危ぶまれていたフシミがよく立ち直り正に一生一度の大舞台で火が着いた様な意地の走りを見せゴールを切ると共にその燃え盛る競走馬としての性が燃え尽きて非業の死を遂げると言う命の灯の燃え尽き方の中にいなせで粋な事だけが売りだがそれだけでは世間はだんだんに相手にしてくれなくなるばかりか厄介払いの種にさえ為る馬喰としての生き方や、日本社会の中での公開当時大きく変わろうとしていた親爺の家庭での立場に怯む事無く一家を構えた中での父親の立場とはこうしたものだと言うやがてはそれ迄の役目を終えて消えて行く者の、見栄では無く心底生きて来た自分の生き方に何の疑いも持てていないからこそ張れる本物の意地が北見競馬の喧嘩の華として炸裂する。それは生涯の喧嘩友達であり同じ馬喰としての職に最初は在りながら馬喰としての仕事に見切りを付け馬喰を喰い物にする高利貸しに為ってしまった小坂六太郎(志村喬)との丁丁発止の鍔迫り合いに最後のけりを付ける時でもあった訳だが、その生き方の違いは正しく銃にものを言わせていた時代から法によって人を裁く時代の訪れを知るアメリカ西部劇の描く世界と変わる処が無い。映画はそんな廃れゆくものに哀歓を籠めて描くと共に哀歓だけでは無い滅びゆくものの性を競走馬のフシミは充分に象徴していて、その事が観ていて心地良い。そしてその事は他人の社会に生きる証を自分の所属する社会のルールにも求めるのでは無く、最も身近でよく分かっている家族に恥じる事無く立ちはだかってそれを護っていくにはどう生きるべきかと言う家族の絆の原点に立ち返る中での原点回帰に自身の生き方と意地を映している事がその総てだ。その父性愛の貫き方の中に大平の存在が在る事は言う迄も無い。
名犬ラッシー・LASSIE (57年~66年)  モコ山さん
テーマを考えていたら私の子供時代のテレビ画が浮かびました。本映画は当時、ホーム・ドラマでの人気番組。某石鹸会社のヒットCMのあと、オープニング・シーンの"ラッシー”とジェフが呼ぶと柵を飛び越えて飛んでくる場面が・・・懐かしいですね。賢いコリー犬ラッシーとミラー一家の物語。主役のジェフ/初代はトミー・レテイクからコリー犬共々何回か交替し、引き続かれた。なによりも毎回、犬と一家を巡り、さまざまな事件を起こしながらも心が通う温かな内容でしたね。原作はエリック・ナイトの短編小説『ラッシー・家路LASSIE COME HOME』で内容は飼っていたコリー犬が経済的理由で遠方の金持ちに売ったがラッシーが本能におもむきジェフのいる家をたどる物語。アメリカでは54年~74年の長きに渡り放映、日本では57年~66年に放映、その後、2005年に映画でリメイク公開(アイルランド・イギリス・フランス合作)配役はピ-ター・オトゥール/サマンサ・モートン/ジョン・リンチ。そういえば先程のトミー・レテイクは映画『帰らざる河』に出ていたとか・・どんな役柄だったのか・・名犬ラッシー・・・同世代のファンには素敵な映画でした。
シマウマがダービー優勝?  Cyuさん
面白かったわよと女房が言った。シマウマがダービーで優勝するという。えっ?と思ったが、興味を惹かれて見た。「レーシング・ストライプス」2005年のアメリカ映画である。サーカス団に置き去りにされたシマウマの赤ちゃんが、牧場の父と娘に育てられる話だ。母親は競馬で死んだから、調教師の父親は競馬を離れ、牧場を始めた。シマウマは、隣にある競馬場を見て育ち、自分も競馬馬になるものだと思っている。牧場のポニーやヤギ、ニワトリ、ペリカン、蝿が、喋って動き、シマウマの夢を応援する。娘は競馬で死んだ母親に憧れていて、シマウマでの競馬を望んだ。娘の熱意に押されて、競馬を離れていた父親も、シマウマを調教する。もちろんダービーは優勝だ。メルヘン、楽しい映画だ。夢を忘れない、そういうことなんだろう。そういえば、ミドリマキバオーという、競馬馬に見えない馬のコミックがあったのを思い出した。
ホーム・アローン  更紗さん
「子ども」を描いた映画っていうことで、やっぱりこの映画かな。
1990年アメリカ映画です。クリスマスの時期、いや、それ以外でも結構放送されてる。吹替がクレヨンしんちゃんの矢島晶子さんなのよね。
あらすじは、みなさんもうご承知だと思うんだけど。クリスマスをパリで過ごすことになった、シカゴのマカリスター家の一家7人と、伯父さん一家8人の総勢15人が、出発の朝、まさかの全員寝坊で、大慌てで空港に迎い、ギリギリで搭乗するも、あろうことかマカリスター家の末っ子・ケビン(8歳)を置いてっちゃう。
慌しいのはわかるし、人数点呼の時、ケビンと同じ帽子の近所の子が紛れ込んで数え間違えちゃうのもわかるけど、やっぱりここんちの親ちょっと酷いなぁって思っちゃった。特におっかさんの空港カウンターでのわがままっぷり、そりゃ~子ども置き去りして動転するのはわかるけど、イラっとしちゃった(笑)。

ケビンは兄ちゃん姉ちゃんに邪険にされてたり、両親からもあまり構ってもらってなかったからか、ひとり残されても悲しむわけでもなく、むしろこの家の中で思いっきり弾けちゃって、暴れる暴れる(笑)。
しかしこの家が大きくて、間取りは多いし、広いし、この家に私食いついちゃいました(笑)。でもアメリカじゃ子どもひとりにしちゃいけないんでしょ?虐待?
ピザを注文して受け取る時、昔の白黒ギャング映画の音声を操作して、配達の人にお金渡したり、スーパーでレジの人に一人だってことを怪しまれないように振舞ったり、この子賢く立ちまわるのよね~。
そんなところに二人組の空き巣がやってきて、ケビンが家の中のものを利用して撃退するわけなんだけど、空き巣さんがかわいそうになるくらいコテンパンにやっつけちゃう。兄ちゃんに部屋にあった爆竹やら、地下の洗濯室のアイロンやら使って、その発想に大笑いでした。
空き巣さんは捕まるし、家族はちゃんと帰ってくるし(みんなちょっとだけ優しくなってたのがホッとした)、それに怖いと思ってたお隣のおじいさんが実はいい人で、離れていた息子さんと和解、再会できたり、空き巣さん以外ハッピーエンド(笑)の、やっぱりクリスマスの頃見たい、とにかく面白い映画です。

4月のお題 「新しいスタートと出会い」 ほか、放送した作品の感想など

やっぱり面白い・・・  あつぽんさん
蒲田行進曲、本当に面白い。泣けるし笑えるし感動しました。
この話は結局、銀ちゃんとヤスと小夏の3人が3人とも好きだという複雑でいてとても純粋な愛の話ですね・・・。

志穂美さん真田さんたちの華やかさも改めてため息です。
セント・オブ・ウーマン/夢の香り  Borachonさん
今年2月、NHK-BSで放送されたときに見た。そのときはこの映画について何も知らなかったが、あとで調べたら賞もたくさんとっていて、有名な映画だった。

映画はナレーションなどの説明もなく、ゆっくりと静かに始まって、登場人物のおかれた状況が次第に明らかになっていく。そのペースが、自分の理解の進み具合と合っていて、とても心地よく感じた。最近は自分が老化したせいか、こういう映画が少ないように思う。

主人公は二人、その一人はボストンの寄宿制名門高校の生徒チャーリー・シムズ(クリス・オドネル)、もう一人は退役軍人のフランク・スレード中佐(アル・パチーノ)。じつは二人とも問題を抱えている。
二人が出会う場面、それはスレード中佐が初めて登場する場面でもあり、とても印象的だ。チャーリーと同じ気持ちになって、スレード中佐に注目してしまう。そして、チャーリーがスレード中佐の問題にどのようにかかわることになるのか、スレード中佐がチャーリーにどう影響を与えるのか、これがこの映画のすべてといえる。

題名の「Scent of a Woman」というのは直訳すれば「女の香り」、いろいろな解釈も可能だけれど、映画を見終わった後にあらためて考えると、前向きな将来を感じさせる、とてもいい題名だとわかる。

お奨めの場面がたくさんある。スレード中佐がホテルで出会った女性とタンゴを踊る場面、ホテルでのチャーリーとスレード中佐の緊迫の場面、そしてラストの高校での査問場面、見終わった後の満足感は格別で、繰り返して何度でも見たくなる。

ホテルでのダンスの場面は、あまりストーリーに影響はないようにも思えるが、題名の意味とかかわりがあり、ラストの場面の伏線の役目も果たしていて、内容的にとても重要だ。この女性とスレード中佐との会話も知的で洗練されていて、チャーリーといっしょになって聞き込んでしまう。この場面での楽屋落ち的なセリフも注目。

そして音楽、最初に見たときチャップリン映画の音楽だということはわかったが、どの映画かわからなかった。『ライムライト』だったかなと思ったがちがっていて、『街の灯』のほうだった。『街の灯』は放浪者チャーリーと盲目の花売り娘の物語で、『セント・オブ~』も、主人公の一人の名前がチャーリーで、もう一人のスレード中佐は失明している。原作のある物語なので偶然かもしれないが、映画の作り手はチャップリンに敬意を払っているように思える。「City Light Films」というプロダクション名もそれを感じさせる。

『セント・オブ~』の中での、『街の灯』の音楽の使われ方、これがまたとても気に入った。それらしい旋律が何回か出てくるが、そのたびに微妙に違う。少しずつ変化していって、最後の場面ではじめてオリジナルのとおりになり、ああこれはやはりチャップリンだ、とわかる。内容的にも、もしチャップリンが見たらきっと気に入るのではないか、と思わせる。『ライムライト』での、「人生は、恐れさえしなければ素晴らしいもの。必要なのは勇気と想像力、そして少々のお金」というセリフのとおりの内容だからだ。
presents~合い鍵~  あっちゃんさん
人はどういうときに「出会い」を思い出すのでしょう。ひょっとしたら、別離のときこそ、「出会い」を強く思い出し、その出会いがもたらしたその後の出来事を懐かしみ、あるいは、後悔するのではないでしょうか。映画「presents~合い鍵~」は、ひとりの女性の「情事の終わり」の日を描きながら、過去を回想するという形で、合い鍵を渡されることから始まった恋がどれほど大切なものであったかを描いた佳作です。ボーイフレンドから突然の別れを告げられ、当惑し、悩み、苦しみ、別れようとするボーイフレンドを必死になって引きとめようとする女性を、広末涼子がさわやかに演じています。映画を見ているわたしたちは、映画の進行にあわせて、ぐいぐいと物語の中に引き込まれ、いつしか、広末涼子と同じ景色を見て、同じ音を聞いて、同じ感情を分かちあうようになるのです。これほど感情移入のしやすい映画はないかもしれません。広末涼子は等身大の女性を演じながら、どこか、自身の人生と姿を役の中に投影し、語られるセリフのひとこと一言に、彼女の生の感情が付け加えられているようにも思えるのです。また、画面いっぱいにアップになったときの広末は、当惑している女性の心の微妙な動きを、言葉ではなく、顔の皮膚の下の筋肉の微妙な動きだけで見事に演じきっています。広末涼子というとコミカルな映画には出演しているというイメージがありますが、この映画では大女優がひとり舞台を演じているかのようにも見え、どこにでもいる「素直な女性」になりきっているのです。普段は見過ごされている、彼女の美しい鳶色の瞳や、すらりとのびた鼻筋も白い頬も、すべてが「美しい心」が化身してひとりの女性になった結果なのだと思わせるのです。この役を、もしも他の女優が演じたとしたら、あるいは失敗作になったかも、と思わざるを得ないのです。この映画を見終わったとき、「出会い」とは瞬間の出来事ではなく、永遠に続く時間という流れの中で、美化されることもあるし、また、思い出したくないことにもなるような、記憶の中にしか存在できないものなのだと改めて考えさせてくれるのです。
『ヒミズ』~「頑張れ、住田!」~  森本恭司さん
2011年3月11日に発生した東日本大震災によって東北地方が壊滅的な被害を受けた映像は誰もが鮮烈に記憶されている処であるが、津波によって全てを呑み干されてしまった痕の屍と身を晒した被災地を抉り取る様にカメラを向け、其処からたとえ千回殺されても死に切れないで、浮かばれない魂をこの映画の中に曝け出す姿を描破して止まない。暴力的表現によって暴力を以って浮かび上がって来るものから或る一つの真理を語ろうとする映画がある。その暴力的描写の積み重ねの中から人は何故生きるのか、それでも人は生きるのかと言う或る一つの真理を探り出そうとしている事はこの作品からも窺える。暴力とは一体どんなものを暴力と呼ぶのだろう。もちろん他人の肉体や財産を傷付け物理的に破壊する事に違いは無い。然れどその最たるものこそは津波によって壊滅しその露わな姿を露呈する処と為った街の爪痕であり、それを巻き起こした自然災害に他ならない。一つの町を呑み干し其処に住んでいた住人の生活を奪う。この戦場にも似た、それでいて人の為すエネルギーを超然と超えた処での破壊の実態を前に人はおろおろとするばかりで為す術が無い。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と言う言葉があるが、数ある暴力の内でも肉体は愚かその心のうち迄も傷付け以後長きに亘ってその精神的負担がストレスと為って人の生活と生き方を支配するに至る程巣食ってしまう事に勝る暴力は無いだろう。『ヒミズ』で描かれるのはそんな暴力である。普通の生活がしたい―そんなありふれているかも知れないが普通である事が当たり前では無くなってしまった社会の中で私達は初めて日常生活を送れる事の意味と有り難さを、非日常と言う狂気と戦慄の現場を通して肉体ばかりか心まで冷え切った荒廃した惨状の中で思い知らされる。そんな嘗ては予想だにしなかった非日常が日常に為ってしまった世界の中では普通で居られる事が夢の次元にさえ為ってしまう。当たり前の生活が出来ない。生活が破壊されその機能を失った住田の家庭では高利貸しからの借金で首も回らなくなり父親はその儘借金苦の中で失踪。母親は男を作って生きて行く為に駆け落ちし取り残されたのは中学生の祐一のみ。思い出した様に父親が帰って来るもそれは当座の生活をして行く為の金の無心に過ぎず、最早生活能力を失い金に振り回される生活に疲れた男は息子に「死にたければ死ね。その方が俺も楽に為る」と言う。我が子に向かって死ねとは何だ!息を潜める様な生活の中で怒りが天辺から来てその気に衝かれた祐一は父親を撲殺してしまう。底無し沼に落ちて行く様な生活の中で自分も死出の旅に出る覚悟を決め込むも、この世に生れて来た証にと人の為に為る事をしてから死のうと自分でも許せない悪人を刺しに包丁をペーパーバッグに忍ばせ街を徘徊する祐一。それは正しく自らの死に場所を探しての彷徨である事に間違いは無い。そんな生活から立ち直らせ祐一に「もう一度生きろ」と立ち直らせる切っ掛けを作ってくれる茶沢景子の真っ直ぐで直向きな愛―映画で祐一と茶沢景子を演じる染谷将太と二階堂ふみの伸び伸びと人が生きると言う命題について溌剌と演じているその姿勢がいい。よく鬱病の患者に「頑張れ」と言ってはいけないと言われる。これは既に事の次第はどうあれ頑張っているのだから、頑張っている相手に頑張れと言うのは逆効果で相手の人間性を否定する事にさえ繋がるからという事らしい。これは「頑張れ」と言い放つ人の目線とそれを受け取る相手の間に生じる目線の高さの相違が為せる業なのだろう。要するに言葉を発する人間が自分の立場でしかものを言えておらず高飛車なのだ。それ程に一度奈落の底に落ち込んだ者にとってはすり鉢状に為った生き地獄の内に身を焼き尽す釜の底から這い上がって来るのは並大抵では無い事だし、心が一度干乾びて目の粗いサンドペーパーで擦り付けた痕の様にざらついた心模様の中ではそれと同じ、若しくはそれ以上の荒療治をする中でしか本当に立ち直る事など出来るものでは無い。心に一旦出来た傷の大きさは肉体を傷付けられたそれよりもその何倍も大きくその後後遺症として残るのではないか。住田の受けた心的外傷の大きさと其処からの生きるも地獄、死ぬも地獄と言う苦痛の中で苦痛を受け続ける事で自分の犯した罪と向き合い、罪を贖う為にたとえ苦しくても生き続ける事が罪を償う唯一の道と、茶沢景子と共に生きていく道を選ばせる。それはずっと悶々として自らを巣食っていた心の迷いが解けて、生死の間を彷徨う死と鬩ぎ合いの心の痛みの中から、生きて行く為の心の支えを見付け出した時でもある。そしてそれはこのドラマにとって唯一の救いであると共にその苦痛の中で初めて住田が癒された時でもある。「頑張れ、住田!」―そう劇場を出た後叫びたくなったのは私だけではないだろう。
新しいスタートを見て、思うこと  ひろきわさん
昭和30年代、NHK放映「西部の男パラディン」。
面白いとは思わなかったが、チェスのナイトをあしらった名刺を使う黒づくめ、大きな鼻の主人公が強烈な印象を残してくれた。
おねだりの末、チェスの簡易盤も手に入れた。
カウンターでウィスキー、チェスとカードに興じる自分を想像。
社会人となり、宴席に熱燗、騎士は消え、つまむは麻雀牌、今では体を気遣い、焼酎お湯割り、梅まで入っている。

新社会人を見るたびによく思う。
「初心忘るるべからず」。
今では、この難しさがつくづく身にしみてばかりだが・・・。
しかし「臨機応変であれ」。時には自己弁護に使ってしまう・・・。
時の過ぎゆく早さに呆然とするが、せめて残された人生、憧れたパラディンの義侠心とダンディー精神は全うしたい。
NHK諸氏、子供の頃の番組の影響ってこんなに大きいのですよ。
まさに呪われた呪縛・・・!  あつぽんさん
「太陽がいっぱい」は有名な作品なのに
全編通してみるのは今回初めてでした。

死体があんな形で船につながっていたのは
本当に「呪い」とも「呪縛」ともいえる恐ろしさであり、
完全犯罪は必ずどこかで失敗するという
因果応報にも感じました・・・。

それにしてもアラン・ドロンの美貌にはため息です。
「招かれざる客」と「ドライビングMISSデイジー」  sleepyさん
1982年にポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダーがデュエットした「エボニー・アンド・アイボリー」という歌はピアノの黒鍵と白鍵は鍵盤上でパーフェクト・ハーモニーで共存しているのに、我々はなぜ肌の色を克服できないのかという名曲です。

1960年代、マルティン・ルサー・キング牧師がワシントンで「アイ・ハブ・ア・ドリーム」演説し、ノーベル平和賞受賞した公民権運動の時代を背景にした映画が2本、今年のプレミアムシネマ「アカデミー受賞作品特集」で上映された『ドライビングMISSデイジー』と『招かれざる客』です。

1967年『招かれざる客』とは一人娘が結婚相手としてハワイからサンフランシスコの自宅に連れてきた高名な黒人医師シドニー・ポワチエですが、劇中で妻のキャサリン・ヘプバーンが夫のリベラルな新聞社主のスペンサー・トレイシーにディナーの客が増えることを告げ「ゲス・フーズ・カミング・トゥ・ディナー」と謎かけ、これが原題です。ロサンゼルスから黒人医師の両親が再婚相手が白人令嬢とは知らず訪ねてくるのです。ディナーに招かれた両親の当惑した発言も重要、名作『アラバマ物語』もそうですが、白人側からの一方通行的な人種差別批判ではなく、スタンリー・クレイマー監督は黒人側からの抵抗感を同情的ではなく対等に探っていきます。その母親が肌の色を問題としない自然な性的衝動を理解できなくなった父親の世代の意識を咎め、母親同士は純粋に肯定的意見で一致します。

1963年『野のユリ』で黒人初のアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエは同じ年に『夜の大捜査線』では黒人エリート刑事役、『招かれざる客』と同じ表情と堂々とした態度を見せます。黒人俳優の地位は向上し、『ドライビングMISSデイジー』ではモーガン・フリーマンが脚光を浴びます。

1989年『ドライビングMISSデイジー』の舞台は人種差別意識が根強いジョージア州アトランタ、1948年からマルティン・ルサー・キング牧師の時代も背景に25年間に渡るユダヤ系老婦人デイジーと文盲の黒人運転手ホークが人種と偏見を超えて心を通わせ、人間の絆を深め、自宅で認知症になったデイジーは寄り添うホークの手を取り「ユウア・マイ・ベスト・フレンド」と告白します。

爽やかなエンディングのヒューマニズム劇の映画はアカデミー作品賞に輝き、日本では仲代達矢さんと奈良岡朋子さんで舞台上演され、ホーク役に挑む仲代達矢さんが稽古に励む姿や富山での初日の模様がNHKのドキュメンタリーとして放送されました。
私の好きな「出会いと別れ」  ひろきわさん
一線を退く先輩諸氏の送別会に涙し、翌週にはフレッシュ新入社員の歓迎会をこなす。
桜咲きそして散り、春はまさしく別れと出会いの季節である。
大好きな西部劇での印象的な「出会いと別れ」。
保安官ワイアット・アープと歯医者崩れの無法のギャンブラー、ドック・ホリディ。2人の出会いから、OK牧場の決闘までを詩情豊かに描いた「荒野の決闘」、決闘から後日復讐談、2人の別れまでの「墓石と決闘」。お互いを見定めあう緊迫感溢れる出会いのシーン、施設のドックを訪れるシーン。全くトーンの違う映画なのに自然につながる。ホリディ役の俳優も良かった。連休には、炎の人ゴッホが拳銃を手にしたようなカーク・ダグラス、強烈個性の「OK牧場の決闘」、この三作品を連日味わうことに決めました。
KOTOKO  森本恭司さん
本当に美しいもの、愛すべきものに籠められる「美」の実態と言うのは、ほんの僅かな力が加重されてもその形を崩し、危うく儚いものなのだろうか。陽春の日に立って私達の眼を眩惑する陽炎の揺らめきの様に、不確かで、形そのものの実態など全く在りはしないのだけれど、それだけにその実態の無い事に虚しさが残るばかりだ。そんな譬え様も無い程愛くるしい、少なくともこの映画のヒロイン琴子にとっては何事にも代え難い「美」の象徴である生きると言う事への積極的な応援歌と、息子、大二郎へのどっかとその場に居座り決して微動だにしないシェルターの様な愛の形が此処には在る。琴子自身の手によって手慰みの如く積み重ねられるアームカットの現実と、自らの腕にカッターナイフを振り下ろし肉体を切り刻む中でしか自らの思い描く「生きる」と言う実態の無い生命の象徴に手探りで姿・形を与える事の出来ない生活。此処から監督、塚本晋也の映画に懸ける姿勢が見えて来る―。塚本ワールドが花開いたのは『鉄男』から始まった。金属片によって腐食されていく中で肉体が改造されて行くイメージ。このイメージの投影を幻灯機に掛けて見詰める様に何度も何度も重ねる中で塚本が描こうとした狙いは何だったのか。ポール・ゴーギャンが「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」を描いた絵画世界の中にポール・ゴーギャンの自己への篤い想いと、人が単にパンと水のみの為に活きるのでは無く人が命の灯を灯し続ける理由をその生の摂理の中に描き留めた様に、塚本晋也は自らの肉体が傷め付けられ苦痛を伴ったイメージの積み重ねの中で自己が現在この世に在って尚存在し続ける理由を探ろうとする。それは殆ど薬物依存の中で自らの肉体を冒され麻薬中毒状態の朦朧とした感覚の中に敢えて我が身を置く事で陶酔とも官能ともつかないその間の感覚を這いずり回る中で覚醒し不安定な現実の中で自己の存在理由を「美」の本質を探り当てる様に自己への深い愛情と共に見詰める中にその事を確認しようとする行為だ。だから塚本ワールドは取り分け自身について語られる事がその総てと言う点で非常に閉ざされた世界であり、自らの肉体が冒される中、自己陶酔に耽る中でしか自身を捉える事が出来ない分だけアナーキーでナルシストな世界だと言っていいのかも知れない。そしてその事はこの映画の中での琴子の琴子自身によるアームカットと決して無縁では無い。そんな風に自身の肉体を執拗に傷め付ける中でしか自らの存在理由を問う事が出来ない琴子にあって唯一落ち着いて心の平静を保つ事が出来ているのは唄を唄っている時だ。八重山民謡の子守唄として唄われる「月ぬ美しゃ」の唄のメロディに籠められる揺蕩う様なエロチシズムにも似た官能の世界が崩れ琴子の絶叫と共に精神のバランスが崩れる時―それは奇しくも『鉄男Ⅱ/BODY HAMMER』での小舟が波の間に間に漣に揺さ振られる様にバランスを崩した不安定で揺蕩う様な家族団欒の姿と、それに続くざわざわと幼い頃の記憶の淵に置き棄てられていた「忌まわしい過去」の記憶を草叢の中に呼び起こされ覚醒される谷口の心の平安を打ち破る闘争本能の内にやつとの人間銃器としての意地と意地、プライドを懸けた死闘を想起させる。人は常にその日常の生活の中にストレスを懐いて生活している。そしてそのストレスが私達の神経を逆撫でするのは殆ど不意打ちだ。その事を良しとするか悪しき事とするかは別として人がこの世に在りまた生き続ける限りストレスは付いて回る。殆ど憑きものの様に。そして体に付いたその憑きものを落とす様にストレスを振り払う為の闘争がこれまた生きて行く限り付いて回っている事もまた事実だ。この作品では琴子に世の中が二つの世界と為って見えると言う事の中にストレス社会の現実を曝け出すがストレスを抱えて生き続ける事が彼女にとっての性である以上、彼女はその自縛の中から逃れる事は出来ない。よって自分の体を傷め付ける中にその生を確認する作業も無くなる事は無いだろう。だがそれこそが彼女がこの世に生かされている性の証であり、たとえ彼女の懐く業の中で肉体を切り刻む事によってしか愛を語る事が出来ないにしても、肉体を傷め付ける事によって眠っているその感覚を覚醒し呼び覚ます事によって語られる愛と言うものは殆ど過剰な迄の自己防衛の中で陶酔と官能の中で高められる彼女の純粋な気持ちの率直な表れと言える。結果として琴子は新たなスタートを切ろうにも切る事が出来ないが、自己の性に固執する余り新たなスタートを切る事が出来なかった『欲望という名の電車』のブランシュの様に精神病院に繋がれる事でやっと訪れる心の平静も、新たなスタートを切る事が出来ないと言う処に彼女の不安定な愛の形を貫き護ろうとした琴子の矜持を感じずには居られない。
ノッティングヒルの恋人  更紗さん
1999年のアメリカ映画です。
「ローマの休日」ハッピーエンド版ってとこかな。
出会いはなるべくベタな方がイイかもしれない。
ありえへん!っていうようなシチュエーションの方がドキドキ感が増すように思いますね。
街歩いてて、しかもジュース持って、出会いがしらにぶつかって、なんて、ありえな~い!!
ありえない!と思いつつ、こんな出会いをしてみた~い!!って思うもの。
大女優アナを演じるジュリア・ロバーツのなんとチャーミングなこと。
そして、アナと恋におちる小さな書店の店主・ウィリアムを演じるヒュー・グラントがなんか魅力的なんですよね。そんなにイケメンじゃないところがいいのかもしれない。
ちょっと気弱そうで、誠実。
外見だけだと、元祖・草食系男子って風情よね。
結ばれて、一旦は心ならずも別れるんだけれど、1年後開かれたアナの記者会見に記者としてもぐりこんじゃったウィリアムと再会!
「ローマの休日」を見たとき誰しも思ったであろう、あのラストシーン、記者会見場でのアン王女とブラッドレーさんが結ばれたらなぁ~、っていうのがこの映画ではなんということでしょう(笑)、叶っちゃうのよねぇ~。
ありえない!でもこういう映画、みんな好きよね。
エルビス・コステロのSHEがとても心地よく映画を包んでくれて、幸せな気分になれる逸品だと思います。
新しいスタートと出会い  Cyuさん
今月の、みんなの映画レビューのお題だ。春、新学期、新しいスタートの時期だ。とはいえ、学生や新卒者の新しいスタートで、思い浮かべる映画はない。何かに苦しんで、いろいろあったが、新しいスタート、というのは、ドラマチックだから、映画にありそうだが、頭の中に浮かんでこない。それに、新しいスタートで出会い、というのは、この時期、いっぱいあるが、それが映画にというのは、思いつかない。
さて、レビューをどうする、というところで、思いついたのが「或る夜の出来事」だ。偶然に出会った男女が、結婚する。出会いと新しいスタートである。
長距離バスに乗った2人、クラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールだ。長距離バスで、たまたま隣り合った座席に座り、気がついたらコルベールはゲーブルの肩に頭を乗せて寝ていた。この出会いから、途中の安宿でのジェリコの壁あり、クローデット・コルベールが結婚式から逃げ出してなど、ドタバタがあり、2人が結ばれ、2人は新しいスタートを切った。
★遥かなる山の呼び声 『シェーン』  モコ山さん
名作は沢山ありますがこの映画、実は私が学生の頃、大好きな従兄弟に連れていかれて見た思い出の映画です。パラマウント53年、監督はジョージ・スティ-ブンソン音楽はビクター・ヤングでしたね。ワイオミングの美しい山岳地帯をバックに旅烏のシェーンが開拓農民のスターレット夫妻、息子ジョーイの家に世話になり、悪徳牧場主と対決する。そして殺し屋ウイルソンを倒す。息子ジョーイはシェーンに憧れるがシェーンはどこともなく去ってゆく。"シェーンカムバック"が山岳にこだまするラスト・シーンは実に素晴らしい。
アラン・ラッドの名演技はもとより、開拓者のヴァン・ヘフリン、その妻のジーン・アーサーそして子供役のブランドン・デ・ヴィルデの演技が光る・・・・単なる西部劇ではなく、なにか根底に刹那さが残る映画です。なんと言ってもビクター・ヤングの音楽が美しい。抜粋:「果てしなき旅路、夢見は憩いの地、夕陽の彼方に新たな望みをかけ、遥かなる山の呼び声に従い行こう」と訳されている。ヤング好みの甘さのあるメロディーが心地よいですね。若い人たちにお奨めの作品です。
エリザベスタウン  ダーマさん
人生最悪の頃に出会った「エリザベスタウン」には本当に救われました。個人的な話ですが、信用していた人にこっぴどく裏切られ、職場では同年代の女性2人組にさんざん嫌がらせをされ、転職しようにも試験はことごとく落ち、食事も喉を通らず六キロ痩せたあの頃。有名な映画評論家の方のCMで「今、幸せな人は見なくて結構です」という言葉に惹かれて映画館に走った思い出の映画です。
主人公は仕事で「大」失敗し、自殺する準備をしています。そこへ、エリザベスタウンに帰省していた父が突然亡くなったとの連絡が入ります。長男として、父を迎えに行き、責任を果たしたら自殺しようと旅立ちますが、、、という内容ですが、なんといっても、旅の途中で出会ったキャビンアテンダントのクレアに、彼は救われるのです。
名前の通りに、透き通るような美しさのクレアはしっかりと彼に向き合い、新しいスタートに導くのです。
私もクレアに助けられました。彼女の姿、言葉、信念を見ていると、目の前に厚くかかっていた霧が一気に晴れていくのが分かりました。
顔を上げて頑張る力をもらい、この映画を見た二ヶ月後には今の夫と出会い、今では娘も生まれ、幸せにやっています。この映画に出会わなければ、本当に絶望して、新しいスタートをきれなかったかもしれません。思い出に残る一本です。
落ち葉は風を恨まないー『座頭市』  森本恭司さん
盲人である事は他人より謂われの無い蔑視を甘んじて受けるに値する事なのか。恐らくは食べる事以外は何の愉しみも無いであろう、私達が普通に生活をする自由を奪われた牢の中の食事でさえ市は雑居房で椀の汁物を石畳の上に棄てられてしまう。犬の様に這い蹲って残された僅かばかりの飯に喰らいつく市。だが周りは今眼の前で起きている出来事を見ようとはしない。見て見ぬ振りをしているのである。それはそんな不条理な出来事を論って指摘した処で自分には何の利益も無い処か、とんだとばっちりが我が身に降り掛かって来る事をよく知っているからだ。大した腹癒せにも為らないだろうが無情に過ぎて行く無駄な時間の中ではほんのちょっとした暇潰し程度の座興には為る位だけの事で公然と行われる苛めの実態。その有り様は今日の姿と何ら変わらない。ハンディキャップを背負って生きる事が強いられる者にとっては人が見て見ぬ振りをし苛めが平然と横行する中を漫然と私達が生きている社会に貼り付く様に蔓延っている世の中と言うのは高が一寸先も見る事が出来ない深い闇に覆われた社会なのか。その事を市が出会った二人の男ー即ち一人は鶴と名乗る正義の男(片岡鶴太郎)であり、今一人は武士の魂を売り渡してしまったが自らの死を以って自分の人生に決着をつける程には身を持ち崩す事も出来ず、生き恥を晒して用心棒稼業の中で漸く喰い扶持に在り付いている浪人(緒形拳)が物語る。正義の男は幕府を批判し追われる中、少しでも住みやすい社会を創っていこうと世直し運動に身を捧げ、浪人は主君から禄を得られずとも武士としてのプライドが邪魔立てをして身を持ち崩す事が出来ない儘に闇の世界の妖しい光に導かれてダース・ベイダーの様に闇の世界の覇者であるやくざの五右衛門(奥村雄大)に雇われる。が果たしてその実態はと言えば未だ死ぬに死に切れず死に場所を求めて彷徨っているに過ぎない。一見全く違う対照的な二人の様に見えるその中身はと言えば互いに鏡に映した表と裏、神社の境内護る二匹の狛犬の様に人の弱い部分を代弁し弱いからこそその弱い部分を見せまいと強がって何とか生きている人の姿を映して見せている。だが兎角人の世は生き辛い。正義の男や絵を嗜みながら最果ての無い死に場所を求めて旅を続ける浪人の様に虚空を睨んで生きている様な強さがあれば未だ違うのだろうが、普通に生きている私達の場合はなかなかその様にはいかない。だから弱い者同士が群れる中で一家の生計を立てようとする。この映画で言えば貧しさに喘ぐ中で親が育てられなくなったり早死にしたりで何かの事情で生きて行く場所を見失ってしまった見寄りの無い子供達を引き取って、この映画のもう一人の闇の世界の覇者である赤兵衛(内田裕也)の宿場で自らが母親代わりに為っている薄幸の少女、おうめの生活がそうであった様に。浪人は市と一夜の宿を共にした時に座興から市の水筒として使っている竹筒に「落ち葉は風を恨まない」などと洒落て戯れ言を悪戯書きしていくが、矢張り落ち葉は風を恨むものなのだろう。葉の生きる場所は樹に青々と生い茂って路を歩く人に強い日差しを遮って木陰を作ってこそ葉の葉としての生き方があると言うもの。それが濡れ落ち葉と為り固い地面に烙印を押す様に叩きつけられたり何かと世知辛く生きる事に儘ならない世間の冷たい風に弄ばれる様に、曲げたくも無い腰を曲げ身を低くして人の歩かぬ裏街道を歩く事を余儀なくされては何時しか人の心の温かみも疾うに忘れ、心も芯から冷えて裏社会に生きる世間の風を恨むと言うもの。鶴と名乗る正義の男、絵を嗜む浪人、そして弱い者同士肩を寄せ合って健気に生きているおうめー市がこの物語で出会い、そして拘わっていく人の人生はみんな何処か哀しい。そして哀しみを必死で耐えようと少しずつ自らの身に無理を強いている。それは自分達が生活を営むその場に抜き差しならぬしがらみがあるからであろう。漢字だと縁と言う字に集約されてしまうので平仮名で記すが自らの身や心の拠り所とする事を「よすが」と言う。人は独りで死んでいくのだけれども、独りで生きているのではない。其処には何かしら人々の助けがあったり情の通い合いがあったりする訳で、最近では言われなくなったが人の世に生きて行く上で最低限の法がある様に人と人との関係を縛るしがらみは当然あるのであるがそれにも況して人と人を半ば運命的に結び付ける「えにし」の力をこの物語での市の出会いの中に感じる。それは謂われの無い差別が漫然と横行する中での人の苦しみや哀しみを掬い取り、円空が生涯に12万体もの仏を彫り続けた旅の様に仕込杖を抱えての道中の中に人と人の出会いと触れ合いを通して未だ眼が見えた2歳の頃の母親の記憶を手繰って母親の優しさにもう一度会いたいと言う或る幸せの形を希求する旅と為って結実している。