伊達市月舘町の織物職人 大峽健市さん
キャラクター

大峽健市さん
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唯一無二“究極の織物”を求めて

古い織機たちに囲まれて

昭和30年代生まれの古い織機たち
昭和30年代生まれの古い織機たち
ガシャコン、ガシャコン、ガシャコン、ガシャコン・・・・
豊かな山並みが連なる福島県伊達市月舘町のある織物製造工場へ足を踏み入れると、全身がすさまじい音で包まれる。所狭しと並んだ古めかしいジャガード織機たちが元気に働く音のシャワーの中で、織物職人、大峽健市はいつもひとり耳を凝らす。微妙な音の変化で機械の調子や縦糸と横糸の張り具合を聞き分けるのだ。数千本ある糸のひとつが切れたことも分かるという。
織機の調子を音で聞き分ける、大峽健市
織機の調子を音で聞き分ける、大峽健市
いかつい鉄のフレームが重厚感たっぷりのジャガード織機たちは、みな昭和30年代生まれ。メーカーは既に廃業しているため、メンテナンスはすべて大峽が行っている。工場の一角に設けたDIYスペースで、自らネジなどの部品を作る。
工場内のDIYスペースで部品を自ら作る
工場内のDIYスペースで部品を自ら作る
「油さえ切らさなければだいたい回るんで。死ぬときまで、あと30年くらいは大事に使っていきたいなと思ってはいます。」
こうして織機たちと半世紀近く様々な織物を作ってきた大峽。60歳を超えたこの織物職人に、いま国内外の有名ブランドから熱い視線が注がれている。

「織り」の神髄を教えてくれた師・柳悦孝

昭和48年ごろ、師匠の柳悦孝と一緒に
昭和48年ごろ、師匠の柳悦孝と一緒に
山形県米沢市にある明治20年創業の織物製造業者4代目として生まれた大峽は、昭和44年、高校を出るとすぐにこの世界に入った。日本の織物産業が、ちょうど高度成長期のピークを迎えていたころだ。競争は激しい。人と同じ事をしていたら生き残れない。当時、大峽の家は主に帯の生産を手がけていたが、大峽は19歳で染織研究の第一人者であった柳悦孝(やなぎよしたか)に師事。柳の教えは厳しかった。大峽は柳から出される課題の織物を仕上げては訪ね、指摘された問題点を改善してはまた訪ねを繰り返し、次々に新しい織りの技術を習得していった。
様々な織物を研究していた頃の記録ノート
様々な織物を研究していたころの記録ノート
特に仕上がりの「風合い」については、「どっちが良い?」、「なぜ君はこっちが良いと感じる?」といった問答がとことん繰り返され、大峽の中で目指すべき「風合い」のイメージができあがっていったという。
「ちょっと言葉にするのは難しいんですけれども。風合いっていうのは、触ったときの肌触りですよね。スリップせずソフトで、着たときに着心地がいいっていうか。よろいみたいに堅かったら肩がこりますよね。そうじゃなくて、柔らかくて体にあったもので、軽くて、さらに長持ちしてっていう。そういったことを習ってきました。」
そして、「風合い」の善し悪しを決めるのは、縦糸と横糸のバランスがすべてだと、とことんたたき込まれた。


柳の元へ通い始めて7年が経つころ、大峽は、帯の他に広幅の服飾生地の生産も手がけるようになっていた。しかし、新しい織物を売り出すとすぐに他社にまねをされ、売り上げは思うように伸びない。柳に相談すると、思いがけない言葉が返ってきた。「君、まねされるような仕事をしているんだからいいんでないか?今後は、他人が分解してもまねできないものを作ればいい。君は山形の米沢生まれだが、庄内刺し子が有名じゃないか。刺し子をやってみたらどうか?」と。

誰にもまねできない布を目指してたどり着いた「刺し子織」

幾何学模様が美しい東北の「刺し子」
幾何学模様が美しい東北の「刺し子」
2年半かけて完成させた「両面刺し子」
2年半かけて完成させた「両面刺し子」
柳がデザインして大峽が作った「柳格子」
柳がデザインして大峽が作った「柳格子」
幾何学模様が美しい東北の「刺し子」
幾何学模様が美しい東北の「刺し子」
「刺し子」とは、衣服に布を重ねて美しい幾何学模様の刺しゅうを施すことで温かさと強度を増す技法で、寒さの厳しい東北地方で培われた庶民の知恵。布が大変貴重だった時代に衣服を大切に長く着るために、ほつれた部分に当て布をしたことから生まれたといわれ、さまざまある伝統柄に無病息災、円満、吉祥といった祈りが込められている。
2年半かけて完成させた「両面刺し子」
2年半かけて完成させた「両面刺し子」

柳から出された前代未聞の提案は、大峽を人生の転機となる挑戦へと突き動かした。大峽は、2年半の試行錯誤を経て「両面刺し子」という布を完成させる。機械織りで扱うのは非常に難しい太めの糸で、二重の布が「刺し子」のように縫い合わされた珍しい構造の織物だ。空気の層が入るために温かく、ふんわり柔らかな風合いが心地よい。普通の平織りと比較して3〜5倍長持ちするという。昭和54年、大峽はこの「両面刺し子」で日本民藝館展の最高位である「日本民藝館賞」を受賞。現在も大峽の定番中の定番となっている。
柳がデザインして大峽が作った「柳格子」
柳がデザインして大峽が作った「柳格子」
翌、昭和55年、大峽は米沢よりも東京へ出やすいという理由で、古くから養蚕と機織りの町として知られる福島県伊達郡月舘町(当時)へ工場を移転。柳の元で実に25年間にわたる研さんを積み上げ、「刺し子織」の幅を広げていった。しかし、あの日を機に、すべてが順調だった生活は否応なく一変した。

避難生活の中で描いた「福島の桜」

柿のへた茶碗に使う黒土
会津若松で描きためた桜の図案
大峽がモチーフにした三春の滝桜
大峽がモチーフにした三春の滝桜
織機で完成した桜柄の刺し子織
織機で完成した桜柄の刺し子織
東日本大震災に伴い、福島第一原発事故が勃発。大峽の工場は原発から50キロ圏内にあった。家族から強く勧められた大峽は、自主避難を決意。妻とともに山形、滋賀を転々とすること4か月。その間、織機たちが気になって遠方から何度も月舘町へ様子をみに帰った。
やがて、2011年8月、会津若松に腰を落ち着けると、運搬しやすい手織機だけ避難先へ持ち出した。しかし、注文は一切途絶えたまま時間だけが過ぎていく。この先いったいどうなるのか?不安を抱えながら、大峽は展示会に出品する織物のデザインに着手した。注文を受けて作るのではなく、自分が作りたいと思って織り上げる作品。そのために選んだ図柄は、福島への思いを込めた「桜」だった。
柿のへた茶碗に使う黒土
会津若松で描きためた桜の図案
大峽がモチーフにした三春の滝桜
大峽がモチーフにした三春の滝桜

その後、除染が進んだ月舘町へ2年ぶりに戻った大峽は、織機1台1台丁寧に油をさすとあの桜柄を織り始めた。
「自分の仕事に戻ったときは、もう何とも言えない安心感というのか。あとはなんていうのかな、自分の思いのこもった品物が作れるっていうか、そのうれしさっていうのは、まず計り知れないものがありました。」
織機で完成した桜柄の刺し子織
織機で完成した桜柄の刺し子織
桜柄の刺し子織は、ハンカチや風呂敷に加工されて東京のセレクトショップで販売され、人気商品のひとつとなっている。

自分でなければ作れないものを作っていきたい

弟と息子と3人で営む鉄工所
大峽の刺し子織が使われたジャケット
写真提供:Sasquatchfablix.
工場へ戻ってから半年後、ある企業の復興支援プロジェクトから注文を受けたのを機に、大峽の「刺し子織」は一気に注目されるようになる。若者に人気のファッションブランドや大手の服飾メーカーから、服地製造の注文が舞い込み始めたのだ。2015年には、経済産業省が認定する、日本が世界に誇るべき優れた地方産品「The Wonder 500」に選出され、海外ブランドとの取引も始まった。
弟と息子と3人で営む鉄工所
大峽の刺し子織が使われたジャケット
写真提供:Sasquatchfablix.

「海外の方、本当にいいものを知っている方に使っていただければ、すごく嬉しいですね。柳先生の教えの何十年の積み重ねが、今花開いているような感じはします。震災前はただ注文受けて作ってただけ。震災後は自分のもので勝負したいっていうか、そういう思いはあります。」
こう力強く語る大峽は、オイルをさされて調子を上げる織機のようだ。すべて絹糸で作る刺し子織、綿と絹など異なる素材を組合わせた混紡の刺し子織、更には立体感のある刺し子織など、新境地へ足を踏み入れようと挑戦心に満ちている。
「今まで作られていないもの、立体感のあるもので、糸のちがうもので、そういう織物を作りたい。たぶん、それを作ることで柳先生のことを一歩でも二歩でも追い越すんでないかな〜って、思っちゃいますけどね、自分の勝手な想像で」と、大峽はうれしそうに笑う。きっと柳も草場の陰で誇らしく笑っていることだろう。
大峽健市さん
福島県伊達市月舘町

フォトギャラリー

動画ギャラリー

福島発!風合いばつぐん刺し子織
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1分版福島発!
風合いばつぐん刺し子織
桜に込めた思い〜福島発刺し子織〜
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5分版桜に込めた思い
〜福島発刺し子織〜
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