男前列伝






























曾我蕭白×ARATA

男・35歳「顔」を見つめる
曾我蕭白―大胆な空間把握と、細密で精確な描写が同居する作品で、江戸時代絵画史に異彩を放つ個性的な絵師だ。蕭白の代表作「群仙図屏風」「達磨図」「唐獅子図」には喜怒哀楽を超えた人間の本性が描かれている。達磨のむき出した白目とすがるような顔つき、唐獅子の怒りの果ての困惑の顔、なぜあれほどまでに本能むき出しの顔を描き出せたのか?蕭白がその代表作の多くを描いたのは35歳の頃。今、同じく35歳の俳優ARATAが、当時蕭白が漂泊した伊勢を訪ね、ゆかりの場所で作品と対面する。いくつもの「顔」を演じ分けている俳優の自らに照らし合わせるように、蕭白が数々の面妖な「顔」を描き分けることで描き出そうとした狂気に迫る。

松本喜三郎×山本耕史

つくりものに「いのち」宿らせる
幕末から明治にかけて、そのリアルさで人々の度肝を抜き一世を風靡した「生人形師」松本喜三郎。「生人形師」とは、生きた人間かと見紛うような人形を作り、見せ物小屋で料金を取って興行した人物だ。喜三郎は、子供の頃から、故郷熊本の夏祭りで「つくりもの」制作で頭角を現していた。その後、驚異的な「人間観察力」を武器に驚く技術をひっさげ、大坂・江戸へ。生人形で「遊女の入浴」など誰もが見たいけれど見られない場面を作りあげては、大喝采を浴びた。たかだか「人形」に、これほどまでに人々を魅了する「いのち」を宿らせることができたのはなぜなのか。俳優山本耕史が「役者=役にいのちを宿らせるひと」の目線で、熊本の祭りや、子孫が大切に保管する品々などを訪ね、探る。

金子正次×中村獅童

待ってろよ!舞台の「真ん中」に立つ
映画「竜二」の脚本を自ら書き主演し、公開数日後に癌で33歳の人生を閉じた俳優・金子正次。“銃弾”も“殺し合い”もなし、セリフで凄みを出した「竜二」は、やくざ映画を大きく変えた名作だった。死を目前にして金子はなぜ、傑作を書き得たのか。人口僅か600人の瀬戸内・津和地島で生まれた金子。高校を中退し、演劇に傾倒していった。「待ってろよ!」が口癖でいつか映画主演を、とトライを続けた金子を、中村獅童が訪ねる。梨園で後ろ盾を持たぬため歌舞伎座の主役を勤められない自らを金子に重ね、鼓舞してきた獅童。金子の故郷の島や、青春を送った松山を訪ね、「いつか主役に」という強烈な思いがどう実現したのか、その軌跡をたどる。

熊谷守一×市川亀治郎

“独楽”と“独歩”ひとりたのしむ
“独楽”(独りを楽しむ)という言葉を座右とした画家・熊谷守一。人前に出る事を嫌い、いかなる賞も辞退、仙人のように生きた。97歳で死ぬまでの30年間は自宅の敷地から出ることなく庭で草花や昆虫を飽きず見つめては、独自の表現で迸るように描いた。市川亀治郎は部屋に“独歩”という書を飾り、独りで静かにいる時間を大切にする読書家だ。生き方は対照的ながら「独」を愉しむことでつながる亀治郎が、「わずか15坪の庭にすべてがあった」と語られた庭を舞台に守一の一日を追体験。すべての創造の源となった庭で、守一にはどのような時間が流れていたのか、その秘密を解き明かす。

岡本太郎×田島貴男

嫌われものであれ!
「芸術は爆発だ!」その独創的な作品と過激な言葉で、日本の芸術を変えようと闘った男、岡本太郎。代表作「太陽の塔」も、周囲の反対を押し切った太郎の闘争から生まれた。その太郎が、生前に「太陽の塔 あれはカラスだよ」と、つぶやいたという。太郎は、自宅のアトリエで一羽のカラスと暮らしていた。カラスを愛し、一緒に散歩にも出かけた。孤独で、獰猛なカラスに自分を重ねていた太郎は、生涯、孤独な気持ちを抱え続けたという。オリジナル・ラブ田島貴男は、そんな太郎に惹かれた。常に新たなジャンルの音楽に挑み、自らの音楽性を変化させ続けてきた田島は、孤独に闘い続ける太郎の姿に心を動かされた。孤独な太郎が、なぜかくも盛大に芸術を爆発させることができたのか?田島貴男が、岡本太郎の素顔に迫る。

小島一郎×松重豊

ダレモマネデキナイコト
凍える息、うなる海、肌を刺す烈風。厳しい自然の中で、渾身の想いでシャッターを押し、しびれるほどの身体感覚を印画紙に焼き込んだ写真家が、昭和30年代の青森にいた。「写真界のミレー」とうたわれた小島一郎。ふるさと津軽の日常に目を向けたモノクロ・艶消しの風景は、超現実を浮かび上がらせるようだ。小島の代表シリーズ『津軽』は、30代前半の5年間に集中して撮影された。その後東京に進出するも成功せず、失意のうちに青森へ。その年の夏39歳で心臓麻痺で急逝した。小島の唯一のまとまった作品となった『津軽』には何が撮しこまれているのか。小島は『津軽』に何をみていたのか。眉間に皺を寄せたコワモテと188cmの身長で「当代随一の怪優」と呼ばれる松重豊が、津軽に向かう。

植田正治×石橋凌

ブレずに「写真する」
砂丘を舞台に人物をオブジェのように配置したハイカラな演出写真で“ueda-cho(植田調)”と国際的に人気の高い植田正治(1913-2000)。石橋凌はその熱烈なファンである。バンド時代のアルバムジャケットはもちろん、鳥取砂丘での結婚式も撮影してもらった。
生まれ育った鳥取を生涯離れず「自分の好きなものしか撮れない」とアマチュアを通した植田。だが、20代半ばで確立した演出写真を貫くのはたやすいことではなかった。最大の障壁は、プロパガンダ写真しか許されなかった第二次世界大戦下と、それに続くリアリズム大流行の時代。自分の心にそむく写真は撮れない植田は不遇だった。「僕の場合作風ががらっと変わるなんてことなかったですね。ずっと同じことをやってきた」と後日語ったが、作風を貫き通すには、脂の乗りきった30代での、活動を封じた時代との格闘があったのだ。
石橋が鳥取を再訪し、ブレない心で自ら信じる作品世界を守り通した植田正治の男前ぶりに迫る。

井上有一×山本太郎

<愚>に徹し<貪>を通す
井上有一(1916-1985)の書はエネルギーに満ちている。最も頻繁に書いた字は「貧」。人生の様々な段階で書いた64点の「貧」は、肩を落とした人間のように見えたり、左に向かって全力で走っているように見えたりと、字というよりもその時々の心情を写した「自画像」のようだ。俳優・山本太郎は、井上の「貧」に心を奪われた。井上は、どうしてこんなに奔放で多様な字を書くに至ったのか。その原点には、教師になってまもなく東京大空襲に罹災した経験がある。教え子を亡くし自らも死の淵から蘇生。すべてを失った井上は書を否定し抽象絵画に傾倒した。しかし10年の模索のあと、ひとつの言葉が彼を書に引き戻す。「愚徹」―井上の造語で「愚かでつまらなく思えることを、徹底して行う」という意味。井上は、大きな紙にひとつの字を渾身の力で繰り返し書くことを始めた。
16歳でのデビューの頃「25歳までに納得する仕事ができなければ死ぬしかない」と思い詰めていたという山本太郎。36歳の今も不器用に人生の模索を続ける彼が、「愚徹」の美学を全うした男前・井上有一の生き方をたどる。

月岡芳年×佐野史郎

最後の浮世絵師 変われない己を貫く
幕末から明治にかけて活躍した月岡芳年(1839-1892)。芥川龍之介、江戸川乱歩、三島由紀夫も絶賛した「最後の浮世絵師」は、「血みどろ絵」と呼ばれるショッキングな浮世絵で人気を博した。 しかし、明治初期、浮世絵が次第にすたれ仲間が次々と廃業していく中、30代前半の芳年は神経衰弱に陥ってしまう。それでも描き続けたのが、妖怪や幽霊が登場する恐ろしい場面。そして40代後半、半裸の妊婦が逆さ吊りにされて鬼婆に狙われる『奥州安達が原ひとつ家の図』でセンセーションを巻き起こして見事に復活を遂げる。描き続けたのは、妖怪や幽霊。時代がどんなに変わろうとも、人の中にある“恐ろしい”という感覚に、人間の悲しさ、美しさを見つけ、新たな表現に挑み続けたのである。
その芳年に、琴線を揺さぶられているのが俳優・佐野史郎。「この世界に深入りするのは恐い」と佐野史郎はいう。佐野が、ゆかりの地を訪ね、作品を見つめ、時代が激変するなかで、恐ろしい絵を求めた芳年の思いをあぶり出す。

村山槐多×三上博史

ためらうな 恥じるな 裸になれ
村山槐多は、正規の美術教育を受けることなく18歳で画壇デビュー。天才出現と謳われたが、狂おしい恋と放浪に明け暮れる無軌道な生活の果て、画業5年足らずで世を去った。18歳で描いた代表作『尿(いばり)する裸僧』は、「ためらわず、裸になり、自分をさらけだす」彼の美学そのもの。托鉢の器に向かって尿をほとばしらせる僧は槐多自身、全身に彼独特の「深紅」が燃え上がるように塗られている。
俳優・三上博史は、15歳のときアングラの旗手・寺山修司に見出され、映画デビュー。近年は舞台でも特異な役柄に力を入れている。共に早熟なデビューを果たした二人の出会いは、どんな火花を散らすのだろうか。

中原淳一×市川春猿

理想美を生き抜く力に
昭和初期、瞳の大きい独特な少女の絵で一世を風靡した中原淳一。食べる物にさえ困る時代に、自らが編集する雑誌で女性が美しく生きるための提言を続けたが、その人生は困難の連続だった。男性が少女の絵を描く事が奇異の目で見られた戦前。戦中は軍部から「退廃的な絵」だとして雑誌の掲載を禁じられた。人気の絶頂期に心筋梗塞で倒れ、その後20年以上もの闘病生活を送る。それでも「美しく生きる事こそが、人が幸せに生きる事だ」という信念を貫いた。
その美学に迫るのは、歌舞伎の中堅女形・市川春猿。女性を演じるため日々の生活の中でストイックに己の心身を磨き続ける春猿が、中原を慕う80代の女性ファンの同窓会を訪ね、彼が生涯追い求めた理想の美の真髄を探りだす。

青木繁×津田寛治

現実を超えてこそ美がある
夭折の洋画家、青木繁。九州・久留米の質朴な武士の家系に生まれ、フランス印象派の影響が色濃い画壇にあって日本の神話に題材を求めロマン溢れる絵画を生みだした。そこには「現実を超えるものこそ、美しい」という美学があった。
画壇に衝撃を与えた代表作『海の幸』に恋人の顔を書き加えた青木。彼女はその後も次々に作品に登場し「現実を超える美」の象徴的存在となった。しかし青木は、実人生では、彼女と生きることを選ばなかった。
青木が、現実の愛が結実するのを捨ててまで貫いた美学の根底には、何があったのか?自らも恋人や妻など愛しい女性を題材に絵を描き続けてきた俳優・津田寛治が、青木が育ち、没した九州に探る。

本阿弥光悦×石井竜也

その気にさせて美を創る
安土桃山から江戸初期の京都で、陶芸に書に幅広く卓越した才能を見せた本阿弥光悦だが、その真骨頂は「コラボレーション」。自らの才能に、別の才能をぶつけて合作。「本物」×「本物」で化学反応をひきおこし、誰も見たことがない世界を創りだした。「孤高な芸術」とは対局の美学だ。
マルチ・アーティスト石井竜也は、光悦の冴え渡った眼と感覚に敬意を払う。「説得力がないとこんな仕事はできない。一流のアーティストをその気にさせる達人だったに違いない」。
石井が、本阿弥光悦が晩年を暮らした京都・鷹ケ峯などを訪ね、光悦はどのようにして一流の才能を見いだしコラボレーションに至ったのか、その美意識と「人たらし」の手法に迫る。

手塚治虫×トータス松本

愛すべき人間 そのすべてを直視せよ
手塚治虫(1928-1989)は、「マンガは子供向けの娯楽」という世間の偏見に立ち向かい、大人の読者もうならせる〈ストーリーマンガ〉を大成した。それは、マンガに人間の真の姿を描き出そうという、手塚のこだわりゆえに成し遂げられたこと。手塚は語っている。「人間は、残忍でウソツキで、嫉妬深く、浮気者で派手好きで、同じ仲間なのに虐殺し合う──醜い動物です。しかし、それでもなお、やはり、ぼくは人間がいとおしい」。
手塚が大きく変貌したといわれる作品が『バンパイヤ』。主人公のトッペイ少年は人を憎むとオオカミに変身する。また、もうひとりの重要なキャラクター、ロック少年は、過去の作品では正義の少年を演じてきたが、ここでは悪魔的な性格に「変身」している。登場人物たちを「変身」させることで、人間の内にひそむ〈悪〉や〈憎しみ〉に光を当てた。人間のすべてを直視し、「醜い部分もあるからこそ人間なのだ」というメッセージを発したのだ。
手塚マンガを愛読して育ったミュージシャンのトータス松本(44歳)が、人間の真の姿を表現するために生み出した「変身」という仕掛けを手がかりに、手塚の〈男前の美学〉を探る。

中川一政×光石研

燃えつづけて 大器晩成
孤高の画家、中川一政(1893-1991)。大胆な筆致の『薔薇』をはじめとする作品で人気が高く、日本画・陶芸・書・短歌・エッセイなど多彩な活動でも知られている。
しかし、実はデビューから40年近くもの、名声を得られなかった。本の装丁や挿絵でしのぐ苦闘の日々を過ごす。やがて56歳で神奈川・真鶴町にアトリエを構え、意を決して「独学の修行」を始める。港にイーゼルをたてて風景を20年間描き続けたのだ。その画風が大きく花開いたのは、70代も半ばを過ぎてからのことだった。「芸術は美しくなければならない」という常識を否定し、「芸術は<生術>、生きていることが最も肝要」とした美意識は、同じ景色を20年間ひたすら描いたからこそ会得できたもの。だから、揺るがなかった。
同じく独学で芝居をはじめた俳優・光石研(49歳)。仕事に恵まれなかった30歳のころ、中川の書を知った。『大器晩成』『正念場』。型にはまらない、生きているような文字に惹かれ「このように演技すればいいのだ」とスランプを脱した。
人生を決してあきらめず、自分が信じる方法を貫き通した中川一政の人生を、光石が体感する。