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「ふるさとの悲劇」

日中戦争、そして太平洋戦争。「昭和の戦争」で命を落とした日本人は300万人以上に上りました。その中には、地方の町や村で暮らし、戦争に巻き込まれた人も数多くいます。街を焼き尽くした空襲。そして、日本固有の領土で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄。戦争は、日本各地のふるさとを絶望の地に変えていったのです。

今回の特集では、戦時中、日本各地で起きた悲劇的な出来事について取材した番組や証言を集めました。「昭和の戦争」は、私たちのふるさとに何をもたらしたのでしょうか。

1. 焼き尽くされた市街地~富山大空襲~

昭和20年8月2日午前0時過ぎ、B29の大編隊が富山市を襲いました。これは、多くの市民が、いったん解除された空襲警報に安どして眠りに就いたタイミングでした。そのため、多くの人が逃げ遅れる結果になったのです。富山大空襲は、日本の地方都市に対して行われた空襲の中で、最大の被害になりました。死者・行方不明者は3000人近くにのぼり、市街地の99%が焼き尽くされました。火の海を逃げ惑った人たちは、どのような光景を目にしたのでしょうか。

燃える富山市街地

証言 日本ニュース
神林範さん
富山空襲
元起巌さん
富山空襲
戦後編 第29号
転換工場のなやみ -富山<時の話題>
戦後編 第32号
何を求める? 戦災孤児たち<時の話題>

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2. 禁じられた避難~青森空襲~

戦前の青森市は、青函連絡船で北海道から運ばれてくる魚や農産物であふれ、北の玄関口として栄えていました。しかし、太平洋戦争終盤の昭和20年7月14日、アメリカ軍の航空母艦から飛び立った艦載機、約100機が陸奥湾に姿を現し、青函連絡船12隻全てが沈没、座礁する被害を受けました。青森市内でも機銃掃射などを受け、400人以上が亡くなりました。衝撃を受けた青森市民は避難を始めます。これに対して、県や市は、街を守るべき市民がいなくなることへ危機感を抱きます。新聞を通して一家で避難している市民に、「7月28日までに、自宅に帰らなければ、物資の配給を停止する」と呼びかけたのです。

そして、7月28日夜、62機のB29が青森市に次々と焼夷弾を投下しました。新型焼夷弾は発火しやすく、水をかければ飛び散る性質を持ち、市民の消火活動は全く無力でした。県や市の呼びかけに応じて、市内に戻った人が数多く犠牲になったのです。ここでは、青森で避難を止められ空襲に直面した人たちの番組と証言を紹介しています。

空襲で焼け野原になった青森市

番組 証言
禁じられた避難 ~青森市~ 竹花博さん
青森空襲
里見二郎さん
青森空襲
鳴海正子さん
青森空襲
証言
花田哲子さん
青森空襲
宮川美喜さん
青森空襲
葛西角也さん
青森空襲
大森喜久雄さん
青森空襲
証言
大澤憲一さん
青森空襲
三橋修三郎さん、やゑさん
青森空襲
塩崎勇蔵さん
青森空襲
細川千代太郎さん
青森空襲
証言
三國恭子さん
青森空襲
奈良正俊さん
青森空襲
沢田哲郎さん
青森空襲
北山美穂子さん
青森空襲

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3. 漁師は戦場に消えた~静岡県・焼津港~

太平洋に面した静岡県焼津市は、鰹節などの生産が盛んな日本有数の水産都市。昭和のはじめ、エンジン付きの鋼鉄漁船が導入されて、赤道近くまで鰹を追えるようになったことから大漁に沸き、大いに栄えました。

しかし、太平洋戦争が始まると、軍用船が不足した日本軍は、民間の船舶の徴用を本格化します。焼津でも、鋼鉄漁船の大半が軍の輸送船や監視艇として、乗組員の漁師ともども戦地に送られました。日本本土に向かうアメリカ軍の監視を命じられた漁師たち。戦闘の備えがない漁船は、次々に沈められていきました。終戦までに焼津から徴用された漁船は92隻。505人の漁師が命を落としました。ここでは、戦場に駆り出され、苛酷な運命をたどった焼津の人々の番組と証言を紹介しています。

フィリピンなどで鰹節生産に当たった焼津の人々

番組 証言
漁師は戦場に消えた ~静岡県・焼津港~ 田中栄太郎さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
長谷川寅吉さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
石野清彦さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
証言
斎藤満江さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
早川五男さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
曽根福二さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
村松貞子さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
証言    
増田秀雄さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
松村武司さん
静岡県焼津市・漁船が徴用になった町
   

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4. 悲劇の島 語れなかった記憶~沖縄県・伊江島~

沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。この島の住民は、昭和20年4月16日の米軍上陸後、日本軍と行動をともにしました。男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も救護班や婦人協力隊として任務を割り当てられたのです。そのため、爆雷を背負って戦車に突撃した少年や竹槍を手に敵陣に向かった少女もいました。

そして、住民たちはアメリカ軍に追い詰められると、避難した壕の中で、身内が身内の命を絶つ集団自決を行ったのです。結局、住民のおよそ半数、1500人以上が「生まれ島(ふるさと)」で命を落としました。ここでは、住民と兵士が一体となって戦い、おびただしい犠牲者を出した伊江島の人々の番組と証言を紹介しています。

砲撃を受ける伊江島

番組 証言
悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~ 知念金一さん
沖縄戦
並里千枝子さん
沖縄戦
比嘉正明さん
沖縄戦
証言 日本ニュース
大城シゲさん
沖縄戦
知念宗真さん
沖縄戦
山城竹さん
沖縄戦
戦後編 第24号
アーニイパイル劇場<時の話題>

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5. 爆撃された教室~大分県・保戸島~

瀬戸内海と太平洋をつなぐ豊後水道に浮かぶ小さな島、保戸島。この島も戦争に巻き込まれ、大きな悲劇に見舞われました。島の高台には、海軍の対潜水艦監視廠が設けられていました。そして、昭和20年の7月25日、米軍の航空母艦を飛び立った艦載機3機が保戸島を襲ってきたのです。

米軍資料によれば、目標はレーダー基地。しかし、爆弾が投下されたのは、およそ500人の子どもが通う「保戸島国民学校」でした。爆弾は1年生と5年生の教室を直撃。多くの子どもが崩れ落ちた校舎の下敷きになりました。さらに、米軍機は、逃げ惑う子どもたちに機銃掃射を浴びせました。この攻撃で児童125人、教員2人が犠牲になりました。そして、今も怪我の後遺症に苦しんでいる人もいます。ここでは、小さな島で起きた悲劇を追った番組とその証言を紹介しています。

大分・保戸島国民学校の子どもたち

番組 証言
爆撃された教室 ~大分・保戸島~ 三浦春松さん、タズ子さん
保戸島空襲
島田弥喜雄さん
保戸島空襲
島田繋夫さん
保戸島空襲
証言
安藤キヨ子さん
保戸島空襲
三木功さん
保戸島空襲
田邉国光さん
保戸島空襲
鈴木研治さん
保戸島空襲
証言 日本ニュース
矢内米子さん
保戸島空襲
伊東フミ子さん
保戸島空襲
大倉シマ子さん
保戸島空襲
第167号
国民学校の防空演習<吾ら斯く戦う逞し銃後>
日本ニュース      
第185号
大阪女子防空監視隊<戦う前線銃後>
     

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6. B29墜落 "敵兵"と遭遇した村~熊本県・阿蘇~

昭和20年5月5日、B29の編隊が九州北部を爆撃。帰路についたB29は熊本県阿蘇地方で、日本の戦闘機の攻撃を受け、1機が墜落しました。乗り組んでいた11人の米兵たちは落下傘で脱出しましたが、その様子を多くの村人たちが目撃していました。そして村人は身近にある鎌や竹やり、猟銃を手に米兵を追ったのです。

当時、阿蘇地方でも、少なからぬ人が夫や息子を戦場で失っていました。そして、銃後を守る女性や子どもにも厳しい軍事訓練が課せられていました。その「敵」が突然、目の前に現れたのです。米兵のひとりは抵抗する態度を一切示さなかったにもかかわらず村人に殺害されました。また、逃走したものの追い詰められ、拳銃で自決した米兵もいました。B29から脱出した11人のうち4人が死亡、7人が殺される寸前で捕虜となりました。捕虜になれば助かると教育された米兵と「鬼畜米英」と教え込まれた村人。ここでは、突然、米兵と向き合うことになった人たちの番組と証言を紹介しています。

阿蘇上空で撃墜されたB29の搭乗員

番組 証言
B29墜落 "敵兵"と遭遇した村 ~熊本県・阿蘇~ 佐藤暢三さん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
井ツギヨさん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
宇都宮シズ子さん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
証言
佐藤正則さん、佐藤一三さん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
後藤重明さん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
佐藤一三さん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
高宮達生さん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
証言 日本ニュース
吉田千喜代さん
熊本県阿蘇・B29が墜落した村
第125号
本土空襲機搭乗員 軍律に照し処分
第212号
米機撃墜
第222号
北九州敵機撃墜
日本ニュース      
第248号
B-29帝都夜間爆撃
     

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7. "還らざる島"からの脱出 北方四島の戦争

北海道と千島列島に挟まれた北方四島の島々。択捉島、国後島、色丹島、そして歯舞群島。豊かな漁業資源に恵まれた北方四島には、昭和の初めから大手水産会社がカニや鮭、クジラなどの水産資源を求め、次々と缶詰などの工場を建設しました。北海道や東北・北陸などから多くの人が移り住み、1万7千人余りが暮らしていたのです。

昭和20年8月15日、北方四島は空襲に遭うこともなく終戦を迎えましたが、終戦後の8月28日、ソ連軍が択捉島に上陸。その後、わずか9日間で四島全てに上陸しました。

島民たちの住まいはソ連に接収され、逃亡の恐れがあるとして、漁業を営むことさえ禁じられたのです。このころ1万7千人いた四島の島民のうち、およそ半数が命を賭して、北海道への脱出を図ったと言われていますが、どれだけの命が失われたのかわかっていません。戦争終結にもかかわらず行われたソ連軍の侵攻。ここでは、北方四島からの脱出を試みた人々の番組と証言を紹介しています。

番組 証言
"還らざる島"からの脱出 北方四島の戦争 得能宏さん
北方四島の元島民
能登ミアさん
北方四島の元島民
桜井和子さん
北方四島の元島民
証言
寺嶋利三郎さん
北方四島の元島民
鈴木寛和さん
北方四島の元島民
富山イチさん
北方四島の元島民
鈴木としさん
北方四島の元島民
証言
中田勇さん
北方四島の元島民
若松富子さん
北方四島の元島民
池田英造さん
北方四島の元島民
永塚良さん
北方四島の元島民
証言 日本ニュース    
柴田チヤさん
北方四島の元島民
戦後編 第36号
国境の街 稚内<時の話題>
   

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