「皇」居前広場のゼロ年 爆発した民衆のエネルギー

昭和20年8月15日、皇居前広場に敗戦を告げる玉音放送が流れた。国民がひざまずいて涙したその場所は、まもなく進駐軍の軍靴と勇壮な音楽が鳴り響くパレードの舞台となり、さらに翌年には政府を批判する25万の国民の叫びが渦巻いた。激動の戦後日本の縮図、皇居前広場のゼロ年。

戦争中との変化

戦争中は、戦勝記念に天皇が白馬に乗って二重橋正門鉄橋に現れ、国民が万歳を叫ぶなど、きわめて「神聖な空間」であった皇居前広場。しかし、広場に面した第一生命ビルに連合国軍総司令部(GHQ)が置かれると、その位置づけは大きく様変わりした。米軍兵士が日本人女性とデートを楽しんだり、進駐軍のパレードに日本人が喝采を送ったり、またある時は、庶民が野球を楽しんだりする「開かれた空間」になった。さらに、終戦の翌年にメーデーが開催されると、民衆運動の最大の舞台となっていった。

平澤日記と証言 南向村年表 1945年8月~1946年8月

1945年(昭和20年)

8月15日

玉音放送

終戦を告げる天皇のラジオ放送が流れて以降、人々が皇居前広場につめかけ、敗戦をわびた。

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    潮地ルミさん
    大正14年(1925)生まれ。青年学校の教員を務め、疎開先の千葉県で終戦を迎える。8月19日に皇居前広場に行き、ひざまずいた。

    潮地ルミさんいとこと一緒に土下座した皇居前の記憶

8月23日

広場で13人自決

8月26日

特殊慰安施設協会(RAA)結成式

政府は各地方長官に進駐軍向けの慰安施設を設立するよう指令し、多くの女性が集められた。皇居前広場で開かれた結成式では日本民族の純潔を守るための「防波堤」であるとする声明文が読み上げられた。

9月17日

進駐軍、第一生命相互ビルに移転

1946年(昭和21年)

2月19日

天皇の地方巡幸始まる

3月2日

米軍、第一騎兵師団パレード

戦勝国の力を誇示するため皇居前広場で行われた最初のパレード。これ以降、米軍だけでなく、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インド軍によって、頻繁に行われた。

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    筒井利男さん
    昭和8年(1933)、大阪生まれ。大阪大空襲で家族の消息が分からなくなり、同じ境遇の仲間と列車に乗って上野駅の地下道にたどり着いた。

    筒井利男さん戦勝国の力を見せつけられたパレード

5月1日

戦後初のメーデー

前年12月に労働組合法が制定され、11年ぶりに開催された大会には50万人が参加。これ以降、昭和25年まで皇居前広場で開催が続いた。

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    杉浦正男さん
    大正3年(1914)生まれ。印刷工として労働運動に加わり、逮捕されて横浜刑務所の独房で終戦を迎える。10月6日に釈放された後、仲間と労働組合を結成。

    杉浦正男さん50万人が埋め尽くした皇居前

5月12日

世田谷区民が皇居の台所に押し入る

深刻な食糧危機と、旧軍や政府関係者による物資隠匿の摘発事件が続出する中、東京・世田谷で開かれた米よこせ大会に参加した区民113人が、皇居の食糧事情を確かめようと台所に入った。

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    加藤秀子さん
    昭和10年(1935)生まれ。母・美代は、世田谷米よこせ区民大会に参加。そのまま皇居に向かうトラックの荷台に乗り、台所に入った。

    加藤秀子さん皇居の台所で母親たちが見たものは…
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    梅津政之輔さん
    昭和6年(1931)生まれ。戦前から労働運動に参加していた父・四郎と母・はぎ子。戦後、隠匿物資の摘発や世田谷米よこせ区民大会の開催に奔走する。

    梅津政之輔さん公平な分配を天皇に頼もうと 両親は皇居へ

5月19日

食糧メーデー

食糧危機を解決できない政府への憤りから、25万人が広場に集まった。労働組合や社会党、共産党の代表だけでなく赤ん坊を背負った主婦・永野アヤメが演台に立ち、政府を糾弾した。

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    橋本ミチ子さん
    夫・橋本実(故人)が国民学校5年当時、食糧メーデーに参加。演台のマイクの前に立ち、「僕たちに給食をください」と訴えた。

    橋本ミチ子さん10歳の少年も演壇に立ち訴えた
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    大和昭一さん
    昭和2年(1927)生まれ。出撃前に終戦を迎えた元特攻隊員。復員後上京し、医薬品会社に就職。労働組合に入り、食糧メーデーに参加した。

    大和昭一さん元特攻隊員が見た日本人の変貌
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    梅津政之輔さん
    昭和6年(1931)生まれ。戦前から労働運動に参加していた父・四郎と母・はぎ子。戦後、隠匿物資の摘発や世田谷米よこせ区民大会の開催に奔走する。

    梅津政之輔さん私たちの時代が来る 母の喜び
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    中田史郎さん
    大正15年(1926)生まれ。終戦を迎えた18歳のとき、戦争への疑問から共産党に入り、メーデーに毎回参加。血のメーデーでは警官の発砲を目の当たりにした。

    中田史郎さん乳飲み子背負った女の叫びで 時代が動いた

7月4日

米独立記念日パレード

11月3日

日本国憲法公布記念祝賀都民大会

戦後初めて、天皇と皇后が広場に姿を現し、10万人の歓呼に応えた。吉田茂首相の発声で万歳三唱が行われる。

1948年(昭和23年)

1月1日

一般参賀始まる。

二重橋が開放され、元日と二日をあわせて13万人が訪れる。

1950年(昭和25年)

5月1日

メーデー

冷戦が深まりGHQのレッドパージ(赤狩り)が本格化する中、政府の予想を越える60万人が参加。これが、皇居前で開かれた最後のメーデーとなった。

6月24日

国民公園管理規則の改正

「政治的又は宗教的目的を有すると認められる集会及び示威行進」には公園の使用を許可しないことが定められ、皇居前広場での集会やデモが原則禁止される。

1952年(昭和27年)

5月1日

血のメーデー事件

メーデー参加者の一部が、「人民広場」を国民の手に取り戻そうと使用を禁止されていた皇居前広場に結集。警官隊と衝突して、死者2名、逮捕者1200人超を出す事態に。これ以降、皇居前広場が政治的集会に使われることはなくなった。

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    中田史郎さん
    大正15年(1926)生まれ。終戦を迎えた18歳のとき、戦争への疑問から共産党に入り、メーデーに毎回参加。血のメーデーでは警官の発砲を目の当たりにした。

    中田史郎さん警察の銃口は 目の前で火を噴いた
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    中田徳郎さん
    昭和10年(1935)生まれ。高校生だった昭和27年、青年行動隊の一員として血のメーデーを目撃した。

    中田徳郎さん騒動の渦中 高校生が見た衝突の瞬間

5月3日

平和条約発行記念式典

4千人の警官が厳重に警戒する中、戦後初めて天皇が広場で肉声を発し、「国家再建の志業を大成する」ことを宣誓した。