日本人は何をめざしてきたのか

2013年度「地方から見た戦後」

2013年7月6日(土)午後11時~翌0時30分

第1回 沖縄 ~“焦土の島”から“基地の島”へ~

地上戦でかつてない犠牲者を出した沖縄。戦後、捕虜収容所から解放された人々の前に広がっていたのは、アメリカ軍によって囲い込まれた広大な軍用地だった。いま移設問題で揺れる普天間基地の場所も、戦前は田畑と村だった所に、アメリカ軍が滑走路を建設していた。朝鮮戦争後、“銃剣とブルドーザー”と呼ばれる土地強制収用が厳しさを増す。これに抗議の声を上げたのが、演習場建設のために農地を奪われた伊江島の人々だった。阿波根昌鴻が中心になって沖縄本島に乗り込み“乞食行進”を展開。これが引き金となり、大規模な反基地闘争“島ぐるみ闘争”の火が付いた。しかし、相次ぐ抗議にも、土地が還ってくることはなかった。その後、海兵隊の基地となった普天間、1972年の沖縄返還後も基地は固定化され、墜落事故、アメリカ兵による犯罪など、過重な基地負担に苦しみ続けている。普天間基地と伊江島の人々の証言を軸に、基地の島・沖縄の戦後史を描く。

2013年7月13日(土)午後11時~翌0時30分

第2回 水俣 ~戦後復興から公害へ~

戦前、日本の植民地・朝鮮半島北部で化学コンビナートや水力発電所など一大コンツェルンを築いた日本窒素肥料株式会社。
敗戦後、命からがら引き揚げた千人を越える社員で水俣はあふれた。終戦のわずか2か月、彼らが中心となり水俣工場の再稼働が始まる。チッソは戦後復興と食糧増産という国策と結びつき急成長。そして戦後11年目の1956年、水俣病は公式に確認されたが、経済成長政策のもと対応は後手に回り被害は拡大。チッソの城下町だった水俣の運命も大きく変わっていく。
復興はなぜ公害へと至ったのか。地域の人々はどのような運命をたどったのか。
社員、患者、市民など様々な人々の証言を通して、水俣の軌跡をたどる。

2013年7月13日(土)午後11時~翌0時30分

第3回 釧路湿原・鶴居村 ~開拓の村から国立公園へ~

村内に釧路湿原をかかえ、丹頂鶴の繁殖地として名高い鶴居村。主産業は酪農で、今、TPP参加問題に揺れる。引揚者の入植地としてスタートした村の戦後は、激動の歴史だった。湿地や原生林の開拓に入植者の多くが挫折する中、鶴居村は政府助成による酪農地化を推進。大規模工事で湿原は牧草地に。農家は酪農に未来を託し巨額投資を行っていった。しかし、自然保護を求める声が高まると、今度は牧草地を買い上げて湿原に戻す構想が打ち出される。二転三転する国策、そして環境問題。葛藤を続けた村の戦後を証言で描く。

2013年7月27日(土)午後11時~翌0時30分

第4回 猪飼野 ~在日コリアンの軌跡~

日本で在日コリアンが最も集住する大阪市生野区。かつて「猪飼野」と呼ばれた地域には、戦前、日本の植民地だった朝鮮半島南部、主にチェジュ島から渡ってきた人とその子孫が多く住む。戦後、彼らは、南北分断、帰国運動など東アジアの激動に翻弄され、差別や偏見に苦しみながら日本で生きてきた。民族教育を求める声は、阪神教育闘争などを乗り越えて、どのように進められてきたのか。そして、地元の日本人は、こうした在日社会とどう向き合ってきたのか。
在日二世から三世へと移り、日本に帰化する人も増えている今、在日コリアンの街、旧猪飼野地域の戦後史を見つめ、日本人が多様な民族や文化とどう関わってきたのかを問いかける。

2014年1月4日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年1月11日(土)午前0時45分~午前2時15分(金曜深夜)

第5回「福島・浜通り 原発と生きた町」

福島県東部の浜通り。原発事故で、今も多くの人々が避難生活を余儀なくされている。
東京電力福島第一原子力発電所の敷地には、戦前、陸軍の飛行場があり、戦後は塩田が開かれた。現金収入の少ない生活は厳しく、農閑期には多くの人々が出稼ぎに出た。福島県は戦前から只見川や猪苗代の水力発電によって電気を東京に送る電力供給地だった。戦後、浜通りの双葉町と大熊町は原発を誘致し、1971年、第一原発の稼働を迎える。新たな雇用が生まれ、人々は出稼ぎをせずとも暮らせるようになったが、初期の運転トラブルに対する疑問から反対運動も生まれた。国は1974年電源三法を制定し、巨額の交付金を配付。町の財政が潤うなかで反対の声も次第に小さくなっていった。しかし、1990年代になると、交付金で建てた公共施設の維持費などで町の財政が悪化。さらなる原発の増設を求めていった。
そして迎えた2011年3月の原発事故—。浜通りの人々は、今、原発と共に生きてきた戦後をどのように見つめるのか。

2014年1月11日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年1月18日(土)午前0時45分~午前2時15分(金曜深夜)

第6回「三陸・田老 大津波と“万里の長城”」

「津波太郎」。岩手県宮古市田老(たろう)は、そう呼ばれる。豊かな漁場にめぐまれた漁業の町は、繰り返し津波に襲われてきた。昭和8年の大津波では死者911人―三陸最悪の被災地であった。加えて、幾たびも山津波や大火に見舞われた。田老の戦後は、自然災害にあらがい、防災と取り組んでまちをつくりあげてきた歳月でもあった。
象徴的なのが、防潮堤の建設だ。昭和の大津波の1年後、村長関口松太郎の奮闘によって始まった大工事は、やがて県の事業となり、国費もつぎ込まれ、24年をかけて完成した。それは、波に逆らうことなく、二本の川に津波をそらす構造になっていた。
しかし、1960年にチリ津波が来ると、国は構造物によって、津波を防ぐという「チリ津波特別措置法」を制定。田老にも二つ目となる防潮堤が建設される。それは、波に立ち向かい、抱きかかえるような形だった。こうして、総延長2.4キロ、海面からの高さ10メートルのエックス字型の大防潮堤が完成。世界に例を見ないコンクリートの威容を、田老の人々は「万里の長城」と誇った。
しかし、東日本大震災では、二つ目の防潮堤は、津波により根本から壊され、地域に甚大な被害をもたらした。高さ10メートルの最初の防潮堤は崩壊を免れたものの、「防潮堤の2倍はあった」という津波は乗り越えていった。田老は、200人近い犠牲者を出した。
田老の人達は、巨大堤防でどのような町作りをめざしてきたのか。番組では防潮堤の建設の経緯を軸に、つねに自然災害と対峙して生きてきた田老の人たちの営みを証言で見つめていく。

2014年1月18日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年1月25日(土)午前0時45分~午前2時15分(金曜深夜)

第7回「下北半島 浜は核燃に揺れた」

かつて青森県下北半島は貧困のどん底に喘いでいた。辛酸を嘗めた戦後開拓。冷害。希望を託したビート栽培も自由化で頓挫した。沿岸漁業も規模が零細で、中学生が夜はイカ漁に出るしかない状態だった。60年代の「むつ製鉄」、70年代の「むつ小川原開発」と工場誘致も相次いで失敗。1960年代半ばの高校進学率は20%で、若者たちの多くは集団就職で村を離れていった。
そうした暮らしが変わり始めたのは、1980年代の核燃料サイクル基地の六ヶ所村への誘致だった。村を二分した激しい対立が繰り返されたが、結果として、原子力マネーは村を変えた。
いま六ヶ所村は全国でも数少ない地方交付税の未交付団体。若者たちは、希望すれば地元で働くことができるようになった。後に続けと、東通村は原発、むつ市は使用済み核燃料の中間貯蔵施設、大間町はフルMOX原発建設へと舵をとった。下北半島はいまや有数の原子力産業集積地になったのである。
全国でも類を見ないほどの大きな変貌を遂げた下北半島、その戦後史を関係者の証言から綴る。

2014年1月25日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年2月1日(土)午前0時45分~午前2時15分(金曜深夜)

第8回「山形・高畠 日本一の米作りをめざして」

有機農業の米作りを中心に独自の道を歩んできた山形県高畠町。戦後の歩みは、猫の目のように変わる農政のなかで、農家が自立を模索し続けた歴史だった。
敗戦後の希望に燃えた米増産時代から急転回の「減反」。農業の近代化に伴う「機械貧乏」や「出稼ぎ」。時代の荒波を乗り越えようと、高畠の青年たちは国が推進する規模拡大の道ではなく、有機農業へと進んだ。その活動は有吉佐和子の「複合汚染」で紹介され、安全な食を求める都会の消費者たちとの産直提携が誕生した。しかし、高畠でも農家の高齢化や兼業化が進み、多くの農家は農薬や化学肥料に頼り、農薬の空中散布が広がっていく。健康被害が明らかになる中、1986年、その是非を巡って、町を二分する激論が行われた。その後、町は、空中散布の中止へと舵を切る。そして日本一おいしい米作りをめざしていく。
いま、TPP参加へと向かう中、高畠町でも急速に兼業農家の離農が進み、地域農業崩壊への不安が広がっている。そんな中、専業農家が力をあわせ、離農する農家の田圃を代わりに耕して、地域の農業を守ろうという新たな動きも生まれている。時代の激流のなかで、安全でおいしい米作りをめざして格闘してきた高畠の戦後をみつめる。

2014年度「知の巨人たち」

2014年7月5日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年7月12日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第1回 原子力 科学者は発言する~湯川秀樹と武谷三男~

ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹とその共同研究者、武谷三男。戦時中、原爆開発に関わった二人は、戦後「科学者の社会的責任」を唱え、原子力の平和利用のあり方を模索する。
武谷は、広島を訪ね、原子力が二度と軍事利用されない研究の枠組みが必要だと考え、原子力研究の「自主」「民主」「公開」の三原則を主張した。1956年原子力委員会の委員となった湯川は、海外からの原発の早期導入を進める方針に対し、自主的な基礎研究を重視するよう主張し、辞任。晩年まで、核兵器の廃絶、核なき世界を訴えた。
湯川たち物理学者は「原子力」とどう向き合い、その未来をどう見つめたのか。

2014年7月12日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年7月19日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第2回 ひとびとの哲学を見つめて~鶴見俊輔と「思想の科学」~

終戦の翌年、創刊された『思想の科学』。鶴見俊輔や武田清子ら同人たちは、「敗戦からより多くを学ぶこと」を目的に掲げ、「公園の片隅の砂場」のような雑誌をめざした。それから、半世紀、どんな立場の人でも"来るもの"は拒まず、多元的な意見を闘わせてきた。
番組では、創刊メンバーの鶴見俊輔さん、武田清子さんから最後の編集者・黒川創さんまで、半世紀にわたって『思想の科学』に集った人々を全国に訪ね歩く。戦争に協力した過去を見つめる知識人、平和を願った人々、自立した生き方を求める女性たちなど、戦後日本の市民たちの姿が浮かび上がる

2014年7月19日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年7月26日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第3回 民主主義を求めて~政治学者 丸山眞男~

出征、そして被爆体験を経て8月15日を迎えた丸山眞男。日本の超国家主義を分析し、「無責任の体系」と鋭く批判した論文で戦後の論壇をリードした。
敗戦直後、丸山は、東大で教鞭を執るかたわら、静岡県の「庶民大学三島教室」に通い、民主主義を広めようと努めた。60年安保闘争では「市民派」として積極的に発言したが、東大紛争では、戦後民主主義の申し子ともいうべき学生たちの厳しい批判にさらされた。
民主主義を「永久革命」ととらえ、自律した個人の確立と、他者を認め合う「他者感覚」の重要性を訴え続けた丸山。その政治学は日本社会をどのようにとらえ、戦後日本に何を提言していたのか。東京女子大に残る未刊行資料、丸山自身の録音テープ、そして石田雄さん、三谷太一郎さんら丸山政治学の弟子たちや丸山批判を展開した森田実さんらの証言を軸に探っていく。

2014年7月26日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年8月2日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第4回 二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~

戦後、日本人に最も愛された歴史小説家、司馬遼太郎。その作品を、“22歳の自分への手紙”と述懐した司馬は、学徒出陣し、22歳で戦車兵として敗戦を迎えた。
“どうして日本人はこんなに馬鹿になったんだろう”―
8月15日に抱いた関心が原点となり、司馬は、幕末から明治の国民国家の歴史をたどっていく。しかし、ノモンハン事件について多くの聞き取り調査を行いながら、昭和の戦争を書くことなく、この世を去った。
なぜかー。生前のインタビューや半藤一利さんや編集者たちの証言などから探っていく。さらに、古代史研究者の上田正昭さんや在日の友人・姜在彦さんらの証言からは、司馬の、アジア共生への思いが浮かび上がる。
「日本人とは何か」を問い続けた司馬の思索を、戦争体験、アジアの視点からたどる。

2015年1月10日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年1月17日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第5回 吉本隆明

戦後の言論界を走り続けてきた思想家・吉本隆明。膨大な仕事は、文学から政治、宗教、社会思想、そしてサブカルチャーに至るまで幅広い。六〇年安保では学生達の先頭となり国会に突入、六八年の大学紛争時には、代表作『共同幻想論』を発表、個としての思考の自立を説き、大学生たちの圧倒的な支持を得た。高度消費社会を前向きにとらえ、大衆の行動に意味を見出した。同時に、常に常識を疑い、権威と闘い、時には物議を醸す発言もした。社会学者・西部邁さん、上野千鶴子さん、橋爪大三郎さん、作家・高橋源一郎さん、ミュージシャン遠藤ミチロウさんら、幅広い層からの証言で紡いでいく。

2015年1月17日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年1月24日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第6回 石牟礼道子

作家・石牟礼道子、87歳。『苦海浄土』で水俣病を文明の病として描き、日本の近代を問うてきた。その原点は、水俣の美しい自然と人々に囲まれた幼時の記憶だ。代用教員だった戦時中、兄を沖縄戦で亡くし、終戦で180度変わった教育を体験。「戦災孤児」を題材に、昭和21年最初の短編を書く。その後、筑豊を拠点にした「サークル村」に参加し、詩人・谷川雁や作家・上野英信、森崎和江らと交流。さらに「女性史学」を提唱した高群逸枝に大きな影響を受けた石牟礼は、主婦として、近代以前から続く市井の人々の暮らしを描き続けてきた。「不知火海総合学術調査団」で行動をともにした歴史学者の色川大吉さんや、「水俣病研究会」に参加した法学者・富樫貞雄さん、漁師・緒方正人さん、そして息子の石牟礼道生さん、さまざまな関係者の証言と、膨大な創作資料から、石牟礼道子の知の軌跡を描いていく。

2015年1月24日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年1月31日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第7回 三島由紀夫

戦後の日本を代表する文学者としてノーベル賞候補にもなった三島由紀夫。2015年に生誕90年・没後45年を迎える。三島は、太平洋戦争と戦後復興を経験し、大学紛争に揺れる激動の時代を生きながら、話題作・問題作を次々に発表した。そして昭和45年、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹し命を絶つ。
三島は昭和という時代に何を見たのか。親しく交流したドナルド・キーンさんや美輪明宏さん、三島が結成した“楯の会”会員や、三島と激論をかわした東大全共闘メンバーなど、様々な証言からその思索に迫る。さらに、近年、研究が進む創作ノートからは、遺作『豊饒の海』の幻のラストシーンの構想が明らかになった。三島は、遺作の結末をどのように書き変えたのか。文学者・三島由紀夫が残したメッセージを戦後史の中で考える。

2015年1月31日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年2月7日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第8回 手塚治虫

クールジャパンの筆頭、漫画とアニメ。その扉を切り開いた手塚治虫。敗戦直後17歳の若さで漫画家としてデビュー。得意としたのは長編のストーリー漫画。手塚は、生命の尊さや科学技術への疑問など、深くて重いテーマを表現するジャンルにまで漫画を高めようとした。藤子不二雄や石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら後継者が輩出し、世界に類のない漫画文化が築かれていく。昭和38年、わが国初のTVアニメ『鉄腕アトム』を制作。それが大ヒットすると後を追ってアニメ番組が量産され、演出の手法も飛躍的に進歩した。しかし、アニメ制作での赤字が膨らんで自分の会社を倒産させてしまう。「手塚の漫画は古い。もう終わった」と言われた時期もあった。それでも創作への情熱を失わず、独自の生命観や未来像を描き続けた。
番組では、漫画家の松本零士さん、萩尾望都さん、かつて手塚担当の編集者だったスタジオジブリ代表の鈴木敏夫さん、哲学者の梅原猛さん、手塚の実弟の手塚浩さんらの証言で見つめていく。

2015年度「未来への選択」

2015年1月24日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年1月31日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第1回 高齢化社会 医療はどう向き合ってきたのか

急速に高齢化が進む日本。戦後、高齢者のケアはどのように進められてきたのか。
貧しい農村部では、戦後も老人にとって医療はお金がかかる贅沢なものだった。そんな状況を変えようと岩手県沢内村では1960年に“老人医療費無料化”を実施。保健師が各家庭を回って予防活動を活発に行った結果、病気を減らすことにも成功した。
1973年、国はこの“老人医療費無料化”を制度化し全国に拡大する。その結果、病院に老人が押し寄せ、医療費が急激に膨れ上がる。沢内病院の元院長加藤邦夫医師(84)は「われわれは医療と予防と保健を組み合わせた包括的なケアを目指した。無料化だけが一人歩きしたのは残念だ。」と語る。
1980年代には介護が必要な老人が次々に病院に「収容」される事態となり、「寝たきり老人」が社会問題化する。多摩市で老人病院を開業した天本宏医師(72)は、地域に住む高齢者を在宅で支える仕組みづくりを独自に模索し始めた。厚生省は1989年に「介護」の充実をうたった「ゴールドプラン」を打ち出し、医療から介護への転換を図る。その頃、女性の立場から社会全体で介護を支えるべきだと訴えたのが評論家の樋口恵子さん(83)だった。「これからは核家族化が進み、老老介護の時代が来る。“嫁”に介護を頼る現状を変えなければならない。」
そして2000年に介護保険が導入された。しかし高齢化は猛スピードで進み、今後急激に増えると予想される認知症の高齢者には対応が追い付いていないのが現状だ。天本宏医師は、「これからの高齢社会は、モデルなき挑戦だ。これからも現場から発信していく」と述べる。
医療から介護・福祉へ―。高齢化社会に戦後日本がどのように向き合ってきたのかを描きながら未来へのヒントを探る。

2015年7月4日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年7月11日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第2回 男女共同参画社会 女たちは平等をめざす

戦後、女性の参政権が認められ、新憲法に男女平等が掲げられた。しかし、家事育児は女性の役割とされ、職場では結婚退職制や若年定年制が行われていた。60年代に入り、こうした雇用差別に裁判を起こす女性たちが現れる。
70年代、世界的なブームとなったウーマンリブが日本にも広がって、男性中心の社会を批判し、女性の解放をめざしていく。
国連の女子差別撤廃条約を批准するため、1985年に男女雇用機会均等法が制定される。労働省婦人少年局長の赤松良子さん(85)は、労使の狭間で苦渋の選択をした当時を振り返る。「財界や企業の猛反対で妥協せざるを得なかった。労働者側からは腰抜けだと、激しい非難の的になった」。均等法施行後も男性社員との格差はなかなか埋まらず、昇進を求める女性たちの裁判などが相次いだ。
1999年、仕事も家庭も男女が協働して担い、女性があらゆる分野で社会参画することをめざす男女共同参画社会基本法が制定された。参議院議員の堂本暁子さん(82)は、「当時は連立政権で、土井たか子さんと私、政治の中枢に二人の女性がいたことが法制定の強力な後押しとなった」という。堂本さんはその後、DV防止法にも深く関わった。
番組では、男女平等を進めてきた女性たちの姿を、職場の問題を中心に取材、世界の動きや政策決定の過程をまじえながら、証言で描いていく。

2015年7月18日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年7月25日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第3回 公害先進国から環境保護へ

日本の環境問題への取り組みは、高度経済成長期の「公害」の発見からはじまった。三重県四日市では、石油化学コンビナートから出る亜硫酸ガスにより、住民が喘息に悩まされた。漁師の野田之一さん(83)は語る。「最初は四日市が賑わうから両手を挙げて賛成したけど、こんなことは想像もしなかった」。四日市を教訓として、住民達がコンビナート進出を阻止したのが静岡県三島沼津の住民だった。主婦の山本保子さん(81)は「勉強会を繰り返しました。子どもたちを苦しめるわけにはいかなかった」という。
行政は公害の対策として、1967年には公害対策基本法を成立させた。さらに1971年には環境庁を設立。この頃、良好な環境を享受するのは基本的人権であるという考え方「環境権」が共有されるようになる。北海道の伊達市では、火力発電の建設をめぐり、環境権を旗印に市民たちが闘った。結果として、市の条例に環境権がうたわれるようになった。そして日本は徐々に環境を重視する社会へと変貌していった。
1992年、ブラジルリオで地球サミットが開催、環境問題は日本だけにとどまらないものとなる。とりわけCO2削減の問題は世界共通のテーマとなり、京都会議でその枠組みが決められていった。公害の発見から地球環境問題へ。戦後七〇年、日本人が向き合ってきた環境の取り組みを一般市民、科学者、行政担当者など様々な立場の証言から立体的に構成していく。

2015年7月25日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2015年8月1日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

第4回 格差と貧困 豊かさを求めた果てに

戦後の日本は、格差や貧困に、どのように向き合ってきたのか。
敗戦後、新憲法の25条は、「健康にして最低限度の文化的生活を営む」権利を保障した。この生存権の理念を実現すべく、病床から生活保護の充実を求めて裁判を起こした朝日茂さんの「朝日訴訟」(1957年)。支援の輪とともに、日雇いや中小零細企業の労働者を支援する個人加盟の労働組合が全国に広がる。
1965年、国は貧困世帯の調査を打ち切り、地方への補助金や公共事業などの経済対策で所得再分配を行う政策を推進。正社員になれば安定した生活がおくれる日本型の「企業社会」が作られていく。高度経済成長期、低所得者層の社会調査を続けてきた経済学者の江口英一は1972年に“働いても働いても最低限の生活が送れないワーキング・プアーworking poorが存在する”と指摘。しかし、世界第2位の経済大国となり「一億総中流」の意識が広がる中で、格差と貧困は注目されることはなかった。そしてバブル崩壊後、派遣法が改正されて非正規雇用が大量に生まれると、ようやく人々は格差と貧困を社会問題として「再発見」する。
敗戦から2008年の年越し派遣村まで、生活保護と雇用の現場で声を上げてきた市民たち、そして社会保障政策を担ってきた官僚や政治家などの証言をもとに、格差と貧困の戦後史を描く。

2016年1月9日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2016年1月16日(土)午前0時~午前1時30分(金曜深夜)

第5回 教育 “知識”か“考える力”か

GHQの下スタートした戦後日本の民主主義教育。中学が新たに義務教育になった。三重県・尾鷲の中学教師、内山太門さん(95)は、「それまで中学に行く人は微々たるものだったから活気づいた」と語る。全国で地方独自のカリキュラムが模索され、山形の「山びこ学校」で生活綴り方を進めた無着成恭さん(87)は語る。「子どもたちが作文を通して、自分たちの身近な問題を真剣に考えるようになった」。
国民の教育水準を飛躍的に向上させ、高度成長をひた走った日本。尾鷲中でも、「金の卵」を育てようと、職業教育に注力する。その一方、“落ちこぼれ”や“無気力”など問題が発生し、“詰め込み教育”が自ら考える力をつぶしているとの批判が生じ、尾鷲中学では、校内暴力事件がおこった。
1980年代以降、国も“詰め込み教育”からの脱却を模索。中曽根政権下の臨教審提言を受けた文部省は、“ゆとり教育”へと転換。「総合的な学習の時間」を創設し、教える内容は3割削減する方針を打ち出す。しかし、学力や国際競争力の低下を危惧する声が高まった。2002年、文科省は「確かな学力」を向上させる「学びのすすめ」を発表。文部科学事務次官だった小野元之さんは語る。「このままでは日本が危ない。文科省は学力を軽視しません」。2011年から、再び学習内容拡大へと舵を切り直した。
その間、日本の公教育予算の対GDP比はさがり、現在OECD参加国の中で最低レベルに。また、子供をとりまく経済環境も深刻化している。問題に取り組むNPO代表の青砥恭は調査を行った結果、「親の経済的な差がそのまま学力の差につながっている」という。
あまねく平等な教育を、と始まった戦後教育。その変遷を、文部官僚、教師などの証言をもとにたどっていく。

2016年1月16日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2016年1月23日(土)午前0時~午前1時30分(金曜深夜)

第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて

戦後、日本は、障害のある人たちとどう向き合ってきたのか。
戦時中「米食い虫」「非国民」と呼ばれ抑圧されていた障害者。戦後、困窮する傷痍軍人への対策をきっかけに初めて公的な障害者福祉の制度が生まれた。1960年代、重度の障害がある子どもの親たちの訴えがきっかけで、国や自治体は「コロニー」と呼ばれる大規模な施設の建設を推進。障害者施設を充実させていった。
ところが1970年代、障害者たちは、閉鎖的で自由のない施設での生活に不満を訴え始めた。都立施設に入所していた三井絹子さんは「施設は社会のゴミ捨て場だ」と、都庁前にテントを貼り座り込んで抗議。そうした動きを後押ししたのが1981年、国連の「国際障害者年」。障害者も他の人と同じように地域で暮らすべきだという「ノーマライゼーション」の思想が流入、国の政策も施設から地域へと移り変わっていく。元厚生省障害福祉課長の浅野史郎さんは、「これからは地域福祉だ」と制度作りに邁進。宮城県知事に転身後は、知的障害者施設の“解体宣言”を公表した。
今年4月、「障害者差別解消法」が施行される。障害による差別をなくすため自治体や企業、一人一人の意識改革が求められる。高齢化が進み、誰もが病気や障害と無縁でなくなりつつある今、戦後の障害者政策を当事者や政策立案に関わった人たちの証言をもとにたどり、障害のある人もない人も共に暮らせる社会へのヒントを探る。

2016年1月23日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2016年1月30日(土)午前0時~午前1時30分(金曜深夜)

第7回 難民・外国人労働者 異国の民をどう受け入れてきたのか

難民問題に世界が揺れる今、日本にはおよそ200万人の外国人が暮らしている。私たち日本人は“外国人”とどのように向き合ってきたのか。
戦後、外国人政策は、朝鮮半島や台湾など旧植民地出身者への対応から始まった。1970年代、“第二の黒船”と呼ばれたインドシナ難民を受け入れ、90年代には、自動車産業を下支えした日系ブラジル・ペルー人へ門戸が開放される。そして、いま、外国人の技能実習制度やシリア難民など多くの課題を抱えている。国際的な要請、経済界の動向…時代の波に翻弄されながら、日本は、外国人との“共生”の道をどのように模索したのか。入管行政一筋の元法務省官僚・黒木忠正さん、坂中英徳さん、在日コリアンで指紋押捺を拒否した李相鎬(イ・サンホ)さん、日系ブラジル・ペルー人が集住する保見団地(愛知県)など多角的な証言で外国人政策の戦後を見つめる。

2016年1月30日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2016年2月6日(土)午前0時~午前1時30分(金曜深夜)

第8回 エネルギー消費社会 新たなエネルギーを求め

石炭から石油へ、化石燃料の確保に力を入れ、エネルギー消費社会となった戦後日本。1973年の石油危機は、大きな見直しを迫った。エネルギーの多元化を目指し、原発の誘致を進め、再生可能エネルギーの開発「サンシャイン計画」に着手。計画を進めた通産省の堺屋太一さん、太陽熱発電の実験プラントを誘致した香川県仁尾町の人々、太陽光発電の技術開発に取り組んだ京セラの稲盛和夫さんの証言をもとに追う。
90年代になると、新エネルギーで発電した電気を電力会社が買い取る制度が始まる。岩手県葛巻町や北海道の生協では、風力発電を始める。また、地球温暖化が進む中で、大量消費のライフスタイルを見直す消費者も現れた。
その頃、ドイツでは電気を全量買い取ることを電力会社に義務づけ、新エネルギーが一気に拡大。日本では元環境庁長官の愛知和男さんらがドイツ方式を日本に導入しようと立法するが、買い取り義務は一定枠と制限された。次第に日本企業は太陽光発電市場から後退し、風力発電も伸び悩んでいく。
そして、2011年の東日本大震災。福島県では2040年までに再生可能エネルギー100%を掲げ、会津電力など地域密着型の発電事業が進んでいる。政府は全量買い取り制度に大きく舵を切り、2030年までに総発電量に占める再生可能エネルギーの割合を、原子力発電より多い20%強にする目標を掲げた。
私たちは新たなエネルギーを求め、どう歩んできたのか、戦後史の中で見つめる。