

『NHK特集』は、1976(昭和51)年に誕生し、89(平成元)年3月までの13年間に1378本が放送された。『NHK特集』はNHKが組織の総力をあげて制作するドキュメンタリー番組として、同時代の波頭を追いながら、その底流をも克明に記録、テレビジャーナリズムの中核をなす番組として、内外で高い評価を得た。
『N特』は、テレビの可能性を追求する「実験性」と「スクープ性」を求めた。それは、“サムシング・ニュー”と標語化された。『N特』をめざして、さまざまなテーマに挑戦する提案が、NHKの組織全体から寄せられた。大型シリーズ番組だけでなく、単発番組でも、地球規模に取材・展開する手法が確立されていった。
『NHK特集』は、1976(昭和51)年4月15日午後8時、「氷雪の春〜オホーツク海沿岸飛行〜」から始まり、1989(平成元)年3月28日の「カリブ海の大リーグ志願者たち」まで13年間にわたり、1378本の番組を送り出した。『NHK特集』は、夜のプライムタイムに放送された大型ドキュメンタリーを主体とした編成であったが、報道・教育・教養からドキュメンタリードラマまで、幅広くまた深く一貫してテレビの可能性、表現領域の拡大に努めた。端的にいえば、『N特』は、「昭和」という時代の13年間を、同時代史として記録し、同時に歴史の検証と次代への予見を続けた。
「組織の壁に風穴を開け、新しいテレビの創造に挑戦しよう」。これまでの縦割り組織の壁を越え、NHKの総力をあげて制作していく番組として、『NHK特集』は生まれた。推進母体として設置された「NHKスペシャル番組班」は、全国から企画提案を集め、全職員のエネルギーを結集する新しい組織原理によって番組を作りはじめた。
基本方針は「実験性」と「スクープ性」とされた。実験性とは、今までやれなかった技法や内容に大胆に挑戦していくこと。スクープ性とは、特ダネはもちろんのこと、今までその価値に誰も気づかなかったテーマを発掘することも含まれていた。この『N特』の基本精神は「サムシング・ニュー(何か新しいこと)」と標語化され、番組制作者たちの行動原理として引き継がれていく。
1975年、テレビ史にとって、画期的な技術革新が起こった。それは一人でも持ち運びができるカメラや録画機の登場だった。『N特』が「実験性」と「スクープ性」を発揮していくうえで、この小型VTRは大きな武器となった。
『N特』の記念すべき第1回は「氷雪の春〜オホーツク海沿岸飛行〜」。オホーツク海に押し寄せる流氷を、上空のセスナ機から小型VTRの長時間録画機能を生かして撮影し続けたものだ。
また、この小型VTRによって修行僧の生活を記録し、禅の世界を奥深く描いた「永平寺」は、イタリア賞(テレビドキュメンタリー部門)を受賞した。
こうして、『N特』は、さまざまな技術と手法を駆使して、新しいテレビジョンの可能性を開拓していく。
『NHK特集』は、当初毎木曜日に週1本(50分)放送されていたが、1978(昭和53)年度から月曜日・金曜日の放送となり、1984(昭和59)には日曜日午後9時からの放送が追加されたことにより、週3本体制となった。地方局の参加も含めて、制作体制を強化し、番組内容も一層多彩になり、よりタイムリーな編成が可能となった。特に『日曜N特』は、おもしろさに、深みがある「おもしろ深み」が追求されて、週3本のバラエティあるラインナップが一層可能となった。『NHK特集』がとりあげた番組は大きく4つに分かれる。
『N特』はまず、現代の日本を形成してきた歴史的背景に目を向け、世界とのかかわりのなかで日本および日本人の歩んできた足跡を検証した。「明治の群像」では、条約改正や日露戦争の収拾に苦闘した明治の日本を描き、「ミツコ」は19世紀末の国際社会をひたむきに生きた日本人女性の生涯を描いた。
「ドキュメント昭和」「激動の記録」では、第2次世界大戦に至る歴史をたどり、戦争への道を歩んだ日本の過去を検証した。
さらに「日本の戦後」は、GHQの占領政策をたどることにより日本の歴史的条件を示し、「あの時・世界は…〜磯村尚徳・戦後世界史の旅〜」では、戦後世界史の節目となった事件を取り上げ、その現代的意味を問い直した。
1980年代、日本は、土地・医療・教育など社会構造のゆがみが強く意識され、国際関係でも貿易・食糧などの深刻な課題を抱えていた。
このようななかで「日本の条件」は企画され、視聴者に日本の進路を問いかけた。「その日・1995年日本」は、10年後の日本と世界を予測し、雇用・老後・医療などの身近な問題をドラマの手法を取り入れて考えた。
「世界の中の日本 アメリカからの警告」は、3夜連続の長時間編成で、アメリカのいらだち・怒りを伝えた。この番組では、アメリカ人のリポーターがアメリカの声を取材してリポートするなど、アメリカのABCやPBS(公共放送サービス)との共同制作による新しい試みが行われた。
「世界の中の日本」は、その後「土地は誰のものか」の3本シリーズで土地問題を取り上げ、視聴者から3日間で2万3000本にのぼる電話での反響が寄せられた。これを受けて、さらに5本のシリーズが制作された。
『N特』は、科学技術・軍事・資源・環境などの「負」の側面にもいち早く着目している。
「核の時代」は、冷戦体制の中で米ソ両大国が進める核戦略を明らかにし、全面核戦争の恐怖を描くとともに、戦争抑止力としての核の将来を展望した。
「核戦争後の地球」は、世界の科学者が予測する核戦争とその後の世界を、最新のテレビ映像技術を駆使して描いた。この番組は世界の視聴者に衝撃を与え、イタリア賞など数多くの賞を受賞した。
「シーレーン・海の防衛線」は、音による潜水艦の探知技術やアメリカ第7艦隊の活動を紹介し、石油資源の輸送防衛戦略に焦点を当てた。
「21世紀は警告する」は、人口爆発と食糧・資源の枯渇、環境の破壊と種の絶滅、孤独な若者の増加と家庭の崩壊など、人類の行く手に広がる暗雲の存在を指摘し、地球共生の視点から人類の未来に警鐘を鳴らしたシリーズである。
「シルクロード」シリーズは、1980(昭和55)年4月7日放送の「シルクロード第1集 遥かなり長安」から89(平成元)年3月26日放送の「海のシルクロード最終集 長安に還る〜遥かなる長江の道〜」まで、あしかけ10年にわたって放送された。全42本、『N特』の中で最長のシリーズである。
ユーラシア大陸の内陸部を横断して西のローマまで、砂漠と廃墟、オアシスと人々の生活をたどる旅は日本人の心をとらえ、「シルクロード」は『N特』の代表作となった。
「シルクロード」がつけた道筋は、その後の「大黄河」「地球大紀行」などの大型文化・自然ドキュメンタリーの豊かな流れに連なっていく。
『NHK特集』は1976(昭和51)年4月に始まり、1989(平成元)年3月で終了し、4月からは新しく『NHKスペシャル』がスタートした。『NHK特集』は、人々の最大関心事、国民的課題に応えながら、新しい時代への胎動・波頭を常に追求した。『NHK特集』がその時代、その時に、何を伝えてきたかは、その全放送記録に明らかである。放送記録を見ると改めて、「ドキュメンタリーの分野でこれだけの長期間、これだけの量、これだけの質の番組を制作」してきた『NHK特集』の「同時代の記録者」としての役割が再確認される。
平均視聴率は、「NHK特集 13年間の記録」によれば、1980年度には14.4%、週3本となった1984年度は13.9%だった。また『NHK特集』が受賞した賞は、イタリア賞、国際エミー賞、芸術祭賞など137を数える。
『NHK特集』は、「NHKの顔」として、また同時代のテレビ人の憧れの番組ともなって、放送文化にその足跡を印した。1378本の全放送記録は、昭和時代の巨大な文化資産となった。
『NHK特集』は、あるとき突然に生まれてきたのではない。このプロジェクト制作方式による大型企画番組を生み出すには、前史ともいうべき番組群があった。
折しも1968(昭和43)年、日本は明治維新から100年を迎えた。69年の人類の月面着陸、東大安田講堂の封鎖解除騒動があるなど、世情は落ち着かず、時代は大きな転換点を予感していた。
この時期、テレビ普及は2000万台を超え、カラーテレビも順調に普及していた。そんな中、NHKは次々に大型企画シリーズを放送した。
『明治百年』(1968.9〜12、15回)は、西洋文明がどのように日本に移植されたかを、政治経済から、医学・音楽・絵画・建築・軍隊など13の分野にわけてその過程を明らかにした。『明治百年』は従来の部局から担当者を集めて初めてプロジェクト方式を取り入れた。『70年代われらの世界』(1970.4〜75.11、47回)は、「若者たちの道」「地球管理計画」「未踏社会への道」など、壮大な文明論と未来への提言の番組だった。
『未来への遺産』(1974.3〜75.12、17回)は、「文明はなぜ栄え、なぜ滅びたか」をテーマに制作され、7つの取材班が44か国、150か所の文化遺産を取材した。この大型番組の開発した手法、プロジェクト運営の方法などが、やがて『NHK特集』に結実していくことになる。
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