公開中の番組

このページでは、これまでNHKが取材、放送した「にっぽん くらしの記憶」に関する番組をまとめてご紹介します。
これからの番組は、埼玉県川口市のNHKアーカイブをはじめ、各地のNHK放送局に設置してある専用端末でご覧いただけます。

1980年代

NHK特集 「いのちある限り 〜あるエイズ感染者の日々〜」 1989年2月6日放送(45分)

愛媛県今治市に住む赤瀬範保さん(52歳)は、治療に欠かせない血液製剤によってエイズに感染した血友病患者である。彼はエイズに対する偏見や差別をなくすために、日本で初めて自ら感染者であることを公表した。そして薬害を防げなかった厚生省や製薬会社の責任を問おうとしている。治療法がないために仲間が次々と亡くなっていく中、死の恐怖と向き合いながら、家族や友人たちに囲まれて心豊かに生きる一人の感染者の日々を追う。

ドキュメント人間列島 「家族・大いなる記録 冨岡家8万枚の肖像」 1984年4月4日放送(30分)

神奈川県藤沢市に住む冨岡畦草さん(58歳)は、昭和27年から東京や神奈川を中心に銀座や日本橋など、様々な場所で写真撮影を続けてきた。敗戦後、日本という国が無くなってしまうという思いから撮り始めた写真は、刻々と変化していく戦後日本を克明に記録した貴重な資料となった。この記録とともに冨岡さんは娘たちの成長の様子も撮影してきた。長女が生まれた日から29年間、毎日撮り続けた写真は8万枚になった。番組はこの写真をもとに、冨岡家とその歩んできた時代を描いた。

1970年代

明るい農村 「村の記録 嫁の座をつづる 〜群馬県太田市〜」 1979年4月25日放送(25分)

塚越アサ子さん(54歳)が太田市の地主の家に嫁いだのは、昭和21年で21歳の時だった。ひたすら農作業に明け暮れ、家族に尽くすのが当たり前とされてきた農家の「嫁」。減反が始まった昭和45年、全国の農家の間を回るノートが生まれた。1冊の回覧ノートに思いを綴り、励ましあってきた「嫁」の一人であるアサ子さんを通して、戦後の30年間、彼女たちが何を思いどう暮らしてきたのかをひもといていく。

きょうの料理 「正月料理(一)」 1978年12月11日放送(25分)

2007年11月で放送から50年を迎える「きょうの料理」。今回はNHKアーカイブスで保存されている一番古い番組をお送りする。懐石料理の第一人者として知られる辻嘉一さんが、和食の真骨頂を名調子とともに紹介する。「ごまのあめ煮」、「数の子の福味漬」、「たたきごぼう」、「はまぐりの黄金詰め」、「伊勢えびのむしり舟盛り」などを披露する。また、懐かしい料理講師の方々の映像もダイジェストでお送りする。

NHK短編映画 「その春は来る」 1975年12月15日放送(20分)

季節感が失せてしまったような原色のネオンがまたたく都会の片すみで、春を待ち望む少女の夢を描いた掌編。下町に暮らす少女の父は屋台のおでん屋さんだ。父の仕事は忙しく、なかなか一緒に遊んでもらえない。だから少女は遊園地へ行く夢を見てしまうのだが、家族連れが羨ましい。そして路地にやってきた紙芝居で、漁村の少年と父を描いた物語を見る。少女は「いつか春は来る」と思いながら、屋台を引いて働きに出る父を見送った。

明るい農村 村の記録 「人形芝居がやってくる」 1975年8月4日放送(29分)

津軽伝統の人形芝居を演じる金多豆蔵一座は、長年、津軽の人々に愛され親しまれてきた。馬力大会や夏祭りに欠かせない風物詩のひとつになっている。座長の木村幸八さん(62歳)は、子どもの頃から人形芝居に魅せられ、この道一筋に生きてきた。北津軽への泊りがけ公演をする一座に同行し、村人たちとの交流や幟りを掲げて村の中をふれ歩く子どもたち、舞台を楽しむ人々の表情などを、津軽の風土とともに描いていく。

明るい農村 村の記録「おはんのうた」 1975年7月28日放送(25分)

明治21年に生まれ山形の農村に生きた「おはん」は10人の子を産んだが、成人したのは5人。二人の息子は戦死した。彼女は訃報を聞いた日から3日3晩泣きとおした後、蚕の世話をしながら唄を歌い始めた。それを聞いて育った孫はやがて農民詩人となり、詩「おはんのうた」の中に祖母を生き返らせた。「おはんのうた」から明治・大正・昭和と、戦争で家族を奪われ、厳しい農作業の毎日を耐えて、大地と共に生きた女の一生を描く。

ドキュメンタリー 「最後の集団就職列車」 1975年3月28日放送(30分)

1955〜1975年(昭和30〜50年)の20年間にわたり、盛岡・上野間を走り続けた「集団就職列車」。その間76本が運行され、計4万6800人の若者を都会へと運んだ。高度成長期に「金の卵」と呼ばれた中学卒業の若者達。1975年(昭和50年)3月に盛岡駅を出発した最後の集団就職列車から、都会に出た若者達の軌跡を辿る。

ドキュメンタリー 「メッシュマップ東京」 1974年11月13日放送(60分)

膨張し続ける首都圏を、方眼で区切ってデータを表示する<メッシュマップ>で刻み、さまざまな指標を当てはめ、現状を浮かび上がらせていく。そうすることで、日々変貌するため、中々捉えることのできない、都市・東京の断面が見えてくる。
新しい手法で東京の実情を描いたドキュメンタリー。

ドキュメンタリー 「ケイコ 〜空白の29年〜」 1974年11月1日放送(26分)

満州で孤児になってから29年経ち、身元が不明だったケイコ(杉本ケイコ)さんが8月15日のNHKテレビに出演した。視聴者から多くの情報が寄せられたおかげで、義理の父が判明し、兄や姉にも再会できた。ケイコさん一家は昭和17年に中国へ渡り、父を鉄道事故で喪い、母は4人の子を連れて苦労したという。「やっと過去の自分に出会えたが、すぐにはなじめない」というケイコさんを通して、戦争に翻弄された人々の人生を描く。

ドキュメンタリー 「一時帰国」 1974年10月7日放送(38分)

4月1日272人の高校生を乗せて親善訪中の旅に出た「にっぽん丸」には、日中国交回復後、6か月の里帰りを終えた4家族も乗っていた。敗戦の混乱の中で中国に置き去りにされ、中国人に育てられて、結婚し、家庭を築いてきた人たちである。彼女たちが見る30年ぶりの祖国・日本は大きく変貌していた。肉親に会っても日本語で話せず、辛い思いをかみしめる人もいた。4家族の一時帰国を通して、日本と中国の戦争と戦後を考える。

新日本紀行 「アメリカ村 〜和歌山美浜町三尾〜」 1974年3月4日放送(30分)

和歌山県美浜町に"アメリカ村"と呼ばれている地域がある。正確に言えば"カナダ村"。350戸あまりの漁村だが、明治20年代からカナダへの移住が始まり、これまでに3000人あまりが移り住んだ。そして今、一旗あげて悠々自適の生活に入った人たちが、老後を過ごすために帰郷している。カナダからの年金や子どもたちの仕送りで生活には困らない。故郷での海老漁や春祭りなどを楽しむ老人たちの日々を描く。

明るい農村 「睦合村 出稼ぎ年表」 1974年3月4日放送(25分)

江戸時代から続く集落・睦合村は、現在の秋田県平鹿郡十文字町。そのかつての睦合村、十文字町睦合に暮らす一人の郷土史家、佐藤正さんが作った村の年表から、明治以来、経済的に自立して生活することができなかった、村の歩んだ困難な歴史を見つめ直す。

明るい農村 村の記録 「アオコの湖〜霞ヶ浦の1年」 1973年12月17日放送(25分)

昭和48年夏、琵琶湖に次いで日本で2番目に大きい湖・霞ヶ浦で植物性プランクトンのアオコが異常発生し、養殖したコイやワカサギが大量に死ぬという問題が起こった。実は、茨城県が飲料用や鹿島コンビナートの工業用水として利用価値の高い霞ヶ浦に塩分が入ることを嫌い、霞ヶ浦から海へ流れ込む常陸川の水門を閉鎖していた。アオコ発生の原因は、その閉鎖が原因であると、地元漁民たちは茨城県へデモを行った。霞ヶ浦を巡る県と漁民たちの1年間を追う。

新日本紀行 「十津川物語〜奈良・北海道」 1973年12月3日放送(30分)

奈良県の五分の一の面積を占めながら、96%が山林で、人口およそ8,300人の吉野郡十津川村。
明治22年の十津川の大洪水で、当時の十津川村の村民の三分の一が移住して出来た北海道の新十津川町。
番組は、この「村と町」を訪ね、その地域の風景と生活を描いていく。
時を超えて、"ふるさと"の記憶を重ね合わせるドキュメンタリー。

明るい農村 「減反詩集」 1973年11月19日放送(30分)

1960年代後半、米の生産過剰が問題となり、1970年(昭和45年)には、国により米の生産調整・減反が開始される。この減反政策は、村からの「出稼ぎ」に拍車をかけることになった。当時全国で2番目に出稼ぎの多かった県である秋田県の稲川町で、出稼ぎを拒否し、"農民は、農業で生きよ"と訴える長里昭一さんの書いた詩をもとに、減反で揺れる農村を見つめる・・・。

ドキュメンタリー 「空白の歳月 〜三池CO患者の10年」 1973年11月9日放送(29分)

1963年に起こった福岡県大牟田市の三井三川鉱・炭塵爆発事故は、458人もの死者を出し、839人が一酸化炭素中毒にかかった。生きながらえたものの、それから10年を経た後も、人知れず後遺症に苦しんでいた患者たち──。大牟田市営のリハビリ施設を舞台に、患者たちと家族の重い現実を描き、患者救済の困難さを訴える。

ドキュメンタリー 「友子儀式 〜北海道夕張市真谷地炭鉱楓坑〜」 1973年11月2日放送(29分)

北海道夕張市の真谷地炭鉱は事故が少なく、質の良い炭鉱として知られてきた。ここには江戸時代初期から、炭鉱夫同士が親分・子分の義理を結ぶ「友子制度」が、全国で唯一残っていた。「1人前の鉱夫」を意味する「友子」になると、親分と子分は強い絆で結ばれ、石炭掘りの技術の伝承から、結婚の世話まで行ったという。番組では400年も続いてきた古いしきたり「友子儀式」を再現し、そのナゾを探る。

特集 「阿智村 ある山村の昭和史」 1973年10月24日放送(45分)

かつて、養蚕と柿と段々畑の村・長野県下伊那郡阿智村は、激動の昭和に翻弄された村でもあった。戦時中の中国への開拓移民、最前線への出征、そして、戦後引揚者の再入植と挫折。そうした村の歴史を、当時小学校の先生だった写真家・熊谷元一さんが撮り続けた、9万枚の写真をもとに辿る。

ドキュメンタリー 「ゴミと床の間」 1973年10月5日放送(30分)

「ゴミは地域内処理が原則である」とうたう美濃部東京都知事。その美濃部知事が打ち出した、新宿副都心に新たな処理工場を建設するという構想は、地域住民の強力な反対にあう。
東京湾の夢の島埋め立て地は早期に満杯になることが予想され、ゴミ処理をめぐる状況は混迷していた。
突如発表された処理工場の建設計画を巡り、東京都と新宿区民、そして新宿区から出るゴミの処理をしている江東区の住民のそれぞれの言い分を、克明に記録したドキュメンタリー。

ドキュメンタリー 「老人危険地図」 1973年6月29日放送(30分)

京浜工業地帯に隣接する東京の品川地区では、ビル街が急増している。その間にひっそりと残る山の手の高級住宅街と、かつて歓楽街としてにぎわった北品川の一帯には、多くの老人たちが暮らしている。ガラクタに埋もれて暮らす87歳、息子夫妻に置き去りにされた寝たきり老人、9匹の猫と暮らす老女など。番組では老人の焼死事故急増をきっかけに、品川消防署が作った一枚の地図を手かがりに、都市の孤老たちの生活実態を追う。

特集 「巨大開発」 1973年3月19日放送(46分)

1971年(昭和46年)、青森県上北郡六ヶ所村に、全国最大規模の"むつ小川原開発"の計画が持ち上がった。計画が発表され、用地買収が始まっていた、開発前夜の六ヶ所村を一年間にわたって長期取材。新納屋地区と上弥栄地区のある家族を追いながら、反対派と推進派に分裂して揺れる村を記録したドキュメンタリー。

新日本紀行 「幸福への旅 〜帯広〜」 1973年3月5日放送(29分)

雪に埋もれた北海道の原野の中をSLが走る、旧国鉄・広尾線の「幸福駅」。帯広から5つ目のこの駅の周りは、かつて北陸から入植した開拓地であった。幸福駅の周辺に住む人たちの小さな幸せを綴ったドキュメンタリー。

ドキュメンタリー 「少年は河を上った」 1973年2月23日放送(30分)

1972年(昭和47年)10月11日深夜、東京・荒川のモーターボート置き場からボートが盗まれた。犯行は19歳の少年工員。彼は奇妙な供述をした――<私はこのボートで郷里の鹿児島県徳之島へ帰るつもりでした>と。いったい彼はこの小さなボートで、徳之島までの1400キロを航海できると本当に考えていたのだろうか。少年の軌跡を追いながら、彼が暮らした<東京>と彼が生まれた<徳之島>の姿をルポする。

新日本紀行 「祖神秘祭(うやがんひさい) 〜沖縄・宮古〜」 1973年2月5日放送(30分)

集落共同体の姿を伝える、沖縄県宮古島の島尻地区と狩俣地区に伝わる祖神秘祭(うやがんひさい)。祖先を神として祭るという意味の言葉、うやがん。600年以上、島の女性たちによって続けられながら、秘密のベールにつつまれた、祖神祭りを記録したドキュメンタリー。

ドキュメンタリー 「ああ校歌」 1973年1月26日放送(30分)

小中学校の校歌はその地域が誇る自然や経済発展を歌うなど、時代や社会の価値観をストレートに反映した歌詞が多い。京浜工業地帯の学校では工場の煙に希望を託して、「再建日本の戦士とならん」と歌う。長野県伊那谷の学校は美しい自然を讃えるが、過疎化で廃校の危機にある。ヘドロで汚染した田子の浦、閉山した炭住街、開発が進むむつ小川原・・・。校歌に歌われた内容と現実の落差を見つめながら、激変する日本列島の断面を描く。

あすへの記録 「風光明美の値段」 1972年11月19日放送(50分)

公害補償とは別の視点から、自然破壊の代償の重さを描いたドキュメンタリー。瀬戸内海は、大小様々な島が点在し美しい景観と豊富な漁業資源に恵まれていたが、昭和40年代沿岸部の開発が急速に進み、工場や家庭からの排水が流れ込み海を汚染した。赤潮による漁業被害も深刻であった。番組では、瀬戸内海を例に取り、失われた自然を取り戻すためにどれぐらいの費用がかかるのか試算した。

ドキュメンタリー特集 「三人の未帰還兵」 1972年11月6日放送(50分)

第2次世界大戦が終わっても現地に居残った未帰還兵はかなりの数にのぼる。大戦末期、タイの泰緬鉄道建設に従事して記憶喪失となり、地元の人から「ミスター・ノー」(沈黙の男)と呼ばれて世話をされてきた元兵士、タイの農村で病床に伏し、望郷の思いにかられている人、ラオス政府軍の現役将校となっている人など、数奇な人生を歩んだ3人の未帰還兵を訪ね、戦争が日本人の心の中に残した傷痕を改めて問う。
※昭和47年度芸術祭参加作品

絵本 「ふきまんぶく」 1972年5月5日放送(29分)

東京の奥多摩・日の出町に住む絵本作家の田島征三さんは、家族とともに豊かな自然の中で農作業をしながら創作に励んでいる。自作の絵本を振り返り、「土」そのものの絵本を作りたい、と思うようになった。「ふきまんぶく(蕗のとう)」を生み出す神聖な大地、母のような大地を描こうと考えた田島さんは、絵本「ふきまんぶく」に取りかかる。田島さんの創作の日々を長期にわたってていねいに取材したドキュメンタリー番組。

明るい農村 村の記録 ふるさと買います 1972年4月17日放送(33分)

昭和40年代、高度経済成長期の農村では、離農による過疎化が進んでいる。一方、都会では農家で使われた道具や家具などに人気が集まり、民具ブームが起こっている。古い民具を手に入れようと、200人の客が待つところもある。丹後地方などの農家から古い民具を集めて繁盛している京都の民具商や、離農した空き家を買い取って手入れし、週末を古民家で暮らす大阪の人などを追い、都会人のふるさとへの思いと散逸する民具の保護を訴える。

ドキュメンタリー 「似島の怒り」 1972年3月17日放送(29分)

似島(にのしま)は、広島市の沖合約4キロに浮かぶ小さな島である。1945年8月、広島市内には原爆による多数の負傷者を収容する施設がなかったため、似島にあった旧日本軍の検疫所が臨時の野戦病院となり、市内から約1万人の負傷者が運ばれた。しかし、薬や看護の人手が足りず、多くの人が亡くなり、現地に埋葬された。1971年に似島で原爆犠牲者のものと見られる数体の白骨化した遺体が発見されたのをきっかけに、広島市による発掘調査が始まった。戦後26年経って、ようやく遺骨を手にすることのできた遺族や、今回の調査では遺骨が見つからず似島に眠る我が子を探し続ける親の姿を通して、ヒロシマの悲劇を描く。

ドキュメンタリー特集 「祈りの画譜 〜もう一つの日本〜」 1972年2月11日放送(40分)

神社や寺などに、人々の願いが込められ、奉納されている絵馬。その歴史は古く奈良時代にさかのぼる。また、絵馬には現世利益だけではなく、死者の幸せを願うなど、知られざる祈りの歴史があった。番組は、津軽の祠(ほこら)にあった一枚の絵馬から、日本人の心の奥底にある祈りの世界に分け入っていく。

ドラマ 「さすらい」 1971年12月16日放送(90分)

東北のふるさとを後に上京した一人の少年。大都会の様々な体験、人々とのふれあいを経て、大人になっていく──。その過程を即興的な演出で描くオールロケドラマ。
16mm、1秒24コマのフィルム作品。
芸術祭大賞受賞。

ドキュメンタリー特集 「解体 〜興安丸の一生〜」 1971年10月3日放送(60分)

戦前から日本―中国間を行き来していた大型客船・興安丸が、その役割を終えて解体された。戦前は関釜連絡船として多くの人を大陸に送り、戦後は開拓団の入植者や釈放された戦犯たちの中国からの引き揚げ船としてフル稼働した。日本へ強制連行された中国人の遺骨を運ぶこともあった。34年間に500万人を運んだという興安丸の波乱に富んだ歴史と、乗船した人々の様々な人生をドキュメントする。

人間列島 「ミー子とキャラおじさん」 1971年9月23日放送(30分)

かつて厚生省の賞勲局の役人だった、キャラおじさんは都会に一人で暮らす86歳の老人。そのキャラおじさんの文通相手は、ミー子という14歳の少女。ミー子とキャラおじさんの友情を記録したドキュメンタリー。

特集 「老人船団」 1971年9月15日放送(30分)

千葉県館山市相浜は戸数250戸、黒潮の打ち寄せる漁村である。若者たちは村を出て、遠洋漁業に従事する。しかし彼らは年をとると村に戻り、老人船団を組んで沿岸漁業に精を出す。敷き網漁と呼ばれる独特の漁だ。老人船団では皆で成田山へ参詣し、豊漁を祈願する。ここでは誰もが親方なので、団長はいない。収入は平等に分配する。老人船団に参加して20年の74歳の漁師を追い、海に生きる老人たちの心意気と仲間意識を伝える。

ドキュメンタリー 「つかのまの光芒」 1971年9月3日放送(30分)

夏の甲子園・決勝戦と同じ時期に、神宮球場では全国から集まった定時制高校の野球大会が開かれる。観客が少ない中でも熱闘が繰り広げられる。夜間練習に明け暮れる東京代表・本所工業高校ナインを主人公に、野球にかける青春を描く。

ドラマ 「幻化」 1971年8月7日放送(90分)

過去の体験から精神を病んだ男(高橋幸治)が、機内で一緒になった映画会社の営業マン(伊丹十三)とともに、原体験を求めて、戦時中、海軍基地だった九州・鹿児島を放浪する。その舞台は、かつて特攻隊の基地があった知覧、主人公の戦友が溺死した坊津、本土決戦の場といわれた吹上浜。耳元では<お前たちは戦後25年何をしてきたのか>という幻聴が響く。そして、熊本県阿蘇山火口で、二人の男が生と死をめぐって賭けをする──。

あすへの記録 「富士の見える日」 1971年7月7日放送(29分)

気象庁予報課に勤務する清水教高さんは昭和42年から毎朝、渋谷区幡ヶ谷の歩道橋から富士山を観測している。すると1年のうち富士が見える日は39日しかないことがわかった。明治期の記録によれば、1年間で100日は見えていたという。番組では、工場の煙や車の排気ガスによる大気汚染が富士山を隠しているだけでなく、小児ぜんそくや骨の異常など、子どもの健康にも悪影響を及ぼしているのではないかと警鐘を鳴らす。

ドキュメンタリー 「スガモ・プリズン解体」 1971年6月25日放送(30分)

1971年東京都の豊島区にあった東京拘置所が取り壊されました。この建物は終戦の1945年から13年間にわたり、戦争犯罪に問われた人々を収容する施設「巣鴨プリズン」として使われた歴史を持っていました。収容された4200人の戦争犯罪人の中には、日本を戦争へと導き、推進した指導者として罪に問われた、28人のA級戦犯も含まれます。このうち東条英機元首相をはじめとする7人は、後にこの収容所の中で絞首刑になります。番組ではこの敗戦の記憶を刻んだ建物が取り壊されるのをきっかけに、スガモ・プリズンの歴史をたどり、日本人の記憶から薄れつつある戦争の記憶と、戦争への責任意識に警鐘を鳴らします。

ドキュメンタリー 「特攻慰霊祭」 1971年6月18日放送(30分)

敗戦間際、鹿児島県・知覧から片道燃料と爆弾を積み出撃した特攻隊。ひとたび死を覚悟しながらも不時着などで生き残った元・特攻隊員が戦後26年、慰霊祭のために知覧を再び訪れる。元・特攻隊員たちの終わらない戦争を見つめる。

ドキュメンタリー 「4月1日・日本」 1971年4月9日放送(30分)

春の訪れを告げる自然、入学式、入社式、事件や事故、そして沖縄問題。1971年4月1日。
この日にNHKが報じたニュースは600件。そのニュース映像とコメントだけを使って作られた異色のドキュメンタリーが「4月1日・日本」である。次々に積み重ねられていくニュース映像と淡々としたコメントが、激しく激動する1970年代初頭の日本の姿を浮き彫りにしていく。

人間列島 「みちのくの椰子の葉陰で」 1971年4月8日放送(30分)

福島県いわき市の常磐炭鉱は、本州で最大規模の炭鉱として戦後の経済復興を支えてきた。しかし石油へのエネルギー転換で石炭は斜陽になった。「一山一家」と呼ばれた常磐の従業員とその家族はヤマを救うため、炭鉱から湧く温泉を利用したレジャー施設「ハワイアンセンター」建設に立ち上がり、娘たちはフラダンスを習い始めた。一方炭鉱はいよいよ閉山を迎える。ヤマに生きてきた人々の思いと人間模様を描く。

ある人生 「遥かなるモンテンルパ」 1971年3月27日放送(30分)

終戦8年後の昭和28年7月、フィリピン、モンテンルパの刑務所に拘置されていた日本人戦犯108人が特赦によって帰国が許された。そのうちの56人は絞首刑を宣告され、いつ訪れるか知れない処刑を控えていた死刑囚だった。長野県飯田市出身の代田銀太郎さん(57歳)もそうした元死刑囚の一人。帰国して18年、農業のかたわら地元の土建会社で黙々と肉体労働に勤しむ代田さんは、3年前から年若い人たちに混じって通信制高校に通っている。同じく元死刑囚の伊藤正康さんは陸上自衛隊に入り、エリート自衛官として戦後を生きてきた。一世を風靡した流行歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」の作詞者と作曲者だった二人の元死刑囚の対照的な生き方を追う。一緒に帰国した戦友たちでつくる「モンテンルパの会」に集まる人たちなどの思いを探り、戦後四半世紀を過ぎてなお拭い去ることのできない心の傷跡を覗く。

ドキュメンタリー特集 「けやきの証言」 1971年3月22日放送(45分)

異変から、都市で起きている大気汚染の問題を見つめていく。
折りしも、この1970年には、日本で最初の光化学スモッグによる被害の報告が環境庁から発表された。この年、目やのどの痛み、呼吸困難などの光化学スモッグ特有の症状を訴えた人は、全国で4万8千人。汚れた東京の空の下、樹齢100年のけやきは、硫黄酸化物など有害物質による汚染にじっと耐えていた。物言わぬ「けやき」からの静かなる警告。

ある人生 「津軽の糸」 1971年1月23日放送(29分)

津軽三味線の名手、高橋竹山。幼い時に失明し、津軽三味線の世界に入った竹山は、厳しい修行に励むことで、独自の芸域を切り開き、津軽三味線の名を、日本のみならず世界にも広めた。高橋竹山の津軽三味線への思いとその素顔に迫るとともに、独自の三味線の旋律が生まれた津軽の風土を描く。

現代の映像 「沖縄の20歳」 1971年1月15日放送(30分)

沖縄で成人式を迎える17000人の若者たちは、占領下の厳しい現実の中、この20年を生きてきた。本土復帰を前に若者たちは何を考え、何を訴えようとしているのだろうか。平和ガイド、仲間たちと大規模なミカン栽培に乗り出す青年たち、父親である米兵に捨てられた混血児、米軍基地の労働者、コザ事件で爆発した怒り・・・などを追いながら、日本とアメリカの間で揺れる沖縄の若者たちの現在を伝える。

ある人生 「海をかえせ」 1970年12月19日放送(30分)

四日市海上保安部の田尻宗昭氏は、進む海の汚染に危機感を抱く。そして、取り締まりに対する行政の消極的な態度に業を煮やし、自ら研究し、汚染の告発にこぎつけていく。公害のない海の復活を願って、発生源の企業と闘い、関係機関に精力的にはたらきかけていく田尻氏の姿を追う。

ある人生 「白いリンゴ」 1970年11月14日放送(30分)

戦後の殺虫剤や除草剤などの農薬の普及は、収穫量を伸ばし、農作業の軽減化をもたらした。その一方で、体への影響や環境汚染が各地で問題に…。青森県のリンゴ農家では、当時、本来赤いはずのリンゴが白くなるほど農薬を使っていた。板柳町の開業医、渡辺(わたのべ)忍さんは、有機リン剤などの大量使用で農薬中毒に苦しむ農家の診療にあたるとともに、長年にわたる農薬の人体に対する影響の研究を踏まえ、発言する。

ドキュメンタリー 「新宿〜都市と人間に関するリポート」 1970年11月3日放送(60分)

生きもののように鼓動し,動めく都市、その代表的な顔「新宿」。当時、新宿駅西側に広がっていた都営淀橋浄水場の跡地で、「新宿副都心」の建設計画が進められていた。計画の審議過程とその実施、戦前からの住民たちの歩み、誕生したばかりの新宿駅西口広場の騒然たる状況などを、混沌とした時代背景の中で描く。そして「都市」とはいかなるものかを問いかける。

新日本紀行 「阿波踊り考 〜徳島市〜」 1970年8月31日放送(29分)

"踊るあほうに見るあほう"。全国から観光客が集まる、四国・徳島の阿波踊りの魅力は何か? 長い歴史を支えてきた民衆のエネルギーを細かく分析しながら、その真髄に迫る。

現代の映像 「スポットライトの青春」 1970年8月7日放送(29分)

日比谷公会堂は昭和4年から41年間、東西音楽の殿堂、芸能界のひのき舞台として市民に親しまれてきた。またここは、激動の昭和史の舞台でもあった。戦中には肉弾三勇士が讃えられ、戦後にはGHQの進駐1周年の祝賀会。浅沼稲次郎・社会党委員長が演説中に右翼少年に刺殺されたのも、60年安保で亡くなった樺美智子さんの国民葬が行われたのもこの舞台だった。ここでスポットライトをあびた若者たちを追い、青春の軌跡をたどる。

現代の映像 「ツーマッチ」 1970年7月24日放送(30分)

当時、東京都調布市・深大寺近郊で開催された「ツーマッチ(TOO MUCH)──自由広場」と題する野外コンサートを舞台に、ロック・反戦平和・ヒッピーなど、60年代後半から70年代の若者たちを描く。

現代の映像 「空がこんなに青いとは」 1970年7月10日放送(60分)

放送当時、全国合唱コンクールで3年連続全国優勝していた大阪の北恩加島(きたおかじま)小学校は、中小の鉄工所や製材所が密集する工場地帯にあった。空はどんより曇り、子どもたちは毎日煙と騒音に囲まれて生活している。昭和45年度の課題曲「空がこんなに青いとは」の練習に打ち込む子供たちを主人公に、公害の一断面を描く。

ある人生 「汚水博士」 1970年6月27日放送(30分)

多摩川は山梨県を水源として東京都と神奈川県を流れて東京湾へと注ぐ一級河川です。
多摩川の水は昔から生活用水として使われてきましたが、高度経済成長の始まった1960年代から多摩川の水質は家庭排水の影響で悪化し続けました。
番組は多摩川の水質改善を目指し、東京都の水資源の確保に執念を燃やす東京都水道局の研究者、小島貞男さんを取材しました。

現代の映像 「10年の軌跡〜日米安全保障条約〜」 1970年6月12日放送(30分)

1960年から1970年までの10年間、政治や経済の分野で日本は大きな変化があった。岸内 閣での安保調印と国会強行採決。池田内閣の所得倍増計画。佐藤内閣になるとベトナム戦 争が激化し、日本でも空母エンタープライズの寄港反対闘争が起きた。またオリンピックや万国博覧会が行われたのもこの時期だった。番組はNHKに残る映像を再構成、この激動の10年は日本にとってどんな時代だったか検証する。

現代の映像 「大観衆 万国博と日本」 1970年5月29日放送(30分)

1970年、大阪で華やかに開催された日本万国博覧会。会場に日本各地から押し寄せる人たちの熱気と万博事業を成功に導こうと奮闘する万博協会の人々の姿を描いた番組。日本中が万博に沸いた当時の様子が記録されている。

現代の映像 「ウォーナーリストの戦後」 1970年5月15日放送(29分)

第二次大戦中に、1人のアメリカ人が、日本の文化財をリストにまとめて、爆撃を避けるべきだと主張した。このリストにより空襲を避けることができた文化財は多い。番組は、戦後25年の時点で、この知られざるリストを追跡し、日本の文化財保護のあり方を問いかけている。

新日本紀行 「現代若衆宿 〜三重県鳥羽・答志島〜」 1970年4月20日放送(29分)

三重県鳥羽市答志島(とうしじま)では、中学校を卒業した若者が、結婚して一人前になるまで、他所の家で共同生活をする、「若衆宿」と呼ばれる慣習があった。若者たちは、宿の主人と杯を交わし、生涯義理の親子として付き合っていく。先輩達からは、日々の生活の中で、島の伝統や一人前の男になるための作法を学ぶ。この年もまた、新たに11人の若者が若衆宿で生活を始める。その一方、一人の若者が島の女性と結婚し、若衆宿から独立する。番組は、当時15ほどあった答志島の若衆宿とそこに暮らす若者たちの姿を記録していく。

ドキュメンタリー 「豪雪地帯」 1970年3月22日放送(50分)

4メートルを超える積雪にみまわれる新潟県北魚沼郡入広瀬村の1年間を記録したドキュメンタリー。この村では出稼ぎ者が多く、人口は減るばかりだ。秋になると山奥の住民が集団下山し、農民アパートで暮らすようになる。村では分娩室も完備した豪雪センターを作り、子どもたちの通学のためにスクールバスを走らせた。除雪作業を進める一方、出稼ぎ防止のために工場誘致も行っている。豪雪とたたかう村人たちの必死の姿を描く。

現代の映像 「沖縄全軍労」 1970年2月27日放送(29分)

ベトナム戦争の最中、島全体が米軍基地であるような沖縄では経済活動も米軍に頼り、反戦平和と基地をめぐる世論は二分されている。その中で、基地で働きながらもベトナム戦争反対と基地撤去を求めている労働組合・沖縄全軍労の立場は複雑である。スト権はなく、1年前に団体交渉権をやっと確保した。全軍労委員長・上原康助さんの活動の日々を追いながら、困難な解雇撤回闘争に挑む組合を描いたドキュメンタリー。

現代の映像 「24時間都市」 1970年2月13日放送(30分)

高度経済成長を背景に、当時のソニー副社長の盛田昭夫氏は「24時間都市宣言」を行い、産業や生活形態による時間の活用を提唱していた。
実際、深夜トラックや工場の24時間交代制が日常のものとなり、都市では深夜族が急激に増え、新宿などの盛り場は不夜城と化していた。番組は深夜トラックの運転手たちの間で人気となった歌手・西条慶子の録音風景、徹夜で働く保線区員の姿、深夜のアングラ劇場など"眠らない都市"の姿を描く。

現代の映像 「八郎潟始末」 1970年2月6日放送(30分)

昭和32年、国際競争に負けない大規模稲作の農家育成のために始められた秋田県の八郎潟干拓事業。十数倍の競争率から選ばれた農民のエリートたちが入植し、39年には1戸あたり10ヘクタールの水田を持つようになった。ところがコメ余りによる減反政策の中で、この事業は中断。日本の米作のモデル農村としての八郎潟は忘れられ、畑への転用が論議されている。未来のモデル農村の空中分解を通して、日本農業の基本問題を考える。

ある人生 「万博とび頭」 1970年2月4日放送(30分)

1970年に開催された大阪万博のランドマークとして建設されたのが、高さ127メートルの「エキスポタワー」。この塔の建設を支えたのが、危険な高所で活躍するとび職人たちであった。リーダー・嶋田雪雄さんは、とび職人として40年の経験を持ち、ナニワの名物とびとして知られていた人だった。エキスポタワーの建設を通して、嶋田さんの生き方を描く。

特集ドキュメンタリー 「いつもでない一日 〜北見北斗高校の強行遠足〜」 1970年1月11日放送(50分)

北海道立北見北斗高校の強行遠足が37回目を迎えた。男子は70キロ、女子は38キロのコースを完走しなければならない。男子の場合、制限時間は12時間半。14%が落伍する。この伝統ある学校行事にどう参加するか。トップを目指してひたすら走る男子生徒から、ギターを弾きながら歩くグループもあれば、ビリでのゴールインを競ってあの手この手の一群まで、彼らは個性にあふれている。強行遠足に現代の高校生気質の一端を見る。

1960年代

にっぽん くらしの記憶 昭和30年代スペシャル 2007年8月12日放送(80分)

スタジオに漫画家の黒鉄ヒロシさん、そして女優の宮崎美子さんを招き、昭和30年代を振り返る。
「山の分校の記録」
栃木県栗山村のある集落。ここの分校の子供たちがある日、町の学校を訪れる。そこで子供たちは初めてテレビを見る。そしてある日、この分校に、テレビが運ばれた。番組は子供たちの食い入るような目、素直なテレビからの影響、そしてその感動を伝えた。

現代の映像 「原油タンクのある風景」 1969年12月12日放送(28分)

鹿児島県喜入町は、放送当時、静かな漁村から一転して、巨大なタンクが立ち並ぶ原油貯蔵基地に生まれ変わろうとしていた。タンカーが入港すれば、町には年間2億円を超す税収入が見込まれるという。当時の喜入町長を主人公に、財政か自然保護かで、住民がとまどい、揺れ動く姿を描く。

ドキュメンタリー特集 「ある湖の物語」 1969年11月8日放送(60分)

信州・諏訪湖…長野県の山岳地帯、天竜川の上流にあるこの湖は、太古の時代から人々にとって"母なる湖"であった。
戦前、諏訪湖の周辺は世界一の生糸王国といわれていた。しかし、その陰には、4万人もの女工たちの様々な歴史があった。そして戦後、生糸にかわり精密機械工業が進出、「東洋のスイス」とうたわれる。
工業の目覚しい発展は、湖を汚し、アオコと呼ばれる植物プランクトンの大量発生に悩まされる。
明治、大正、昭和にかけて、諏訪湖とその周辺の地域が辿った歴史を見つめるドキュメンタリー。

第24回芸術祭優秀賞受賞。

特集ドキュメンタリー 「富谷国民学校」 1969年11月1日放送(60分)

東京・渋谷の富ヶ谷小学校の倉庫から学童疎開を記録したカビだらけのフィルムがでてきた。フィルムを修復すると、そこに映されていたのは子どもたちにとっての戦争であった。「学童疎開」という、戦争が生み出した特別な状況で育った子どもたち。両親との別れ、飢えの記憶・・・。彼らは当時この戦争をどう受け止めていたのか。そして戦争から四半世紀を経て、30代になった彼らはあの時代をどのように振り返るのか・・・。

ドキュメンタリー 「拝啓・青年諸君」 1969年10月27日放送(55分)

大手スーパーが急成長を始めた時代。
スーパーにとって、未知の分野であった食肉業界の「流通革命」を目指し、挑戦する若者たちがいた。
入社5年目で億単位の商談を任せられた若手社員、配属された大卒の新入社員、本土復帰前の沖縄からパスポートを持って集団就職した少年たち…。
仕事に賭けた青春…その生きがいとは何か。
「猛烈社員」と呼ばれることを嫌いながらも、彼らは経済大国ニッポンを内側から支えた企業戦士でもあった。
1969年、大学紛争や沖縄返還運動、翌年に万国博を控えた激動の時代を背景に、一つの青春を生きた若者たちのエネルギッシュな姿を描く。

現代の映像 「マンガ1969」 1969年10月10日放送(29分)

マンガ・ブームが起こった1960年代後半、新しく登場した劇画(シリアスな長編ストーリー・マンガ)が若者たちに支持され、マンガ雑誌が続々と創刊され、マンガ喫茶が流行した。大学ではマンガ研究会が花盛りで、大学のバリケードの中でもマンガは必読書だった。番組では、さいとう・たかを、白土三平、佐々木マキ、サトウサンペイなどの作品をとりあげ、マンガ・ブームを若者たちの反体制志向と重ねながら描く。

特集ドキュメンタリー 「沖縄の勲章」 1969年10月5日放送(60分)

太平洋戦争の末期、県民の4人に1人が犠牲になった激戦地・沖縄。戦後24年が経ち、琉球政府援護課では軍人・軍属以外に「一般戦闘協力者」の戦没者に勲章を与えるため、調査を始めた。それは沖縄戦の傷跡を確認する作業になった。一家が全滅し一人生き残った少年、日本兵に避難場所から追われた老人、泣く子を捨てさせられた光景を目撃した女性…。叙勲を手がかりに、本土復帰前の沖縄で戦争体験を掘り起こした貴重な記録。
※この番組では、初回放送の番組に出演した方の了解が得られなかった部分を、一部カットしています。

現代の映像 「夏の終わり」 1969年9月5日放送(30分)

夏を満喫する人々で賑わう湘南、そこにヨットレースを目標に黙々と練習に励む二人の若者がいた。海をこよなく愛し、印刷所で働きながら、少ない給料をつぎ込んで、念願の2人乗りヨットを手に入れた26歳の青年。鎌倉のレースを目指して、彼がパートナーに選んだのは、学生運動に関わる大学生であった。高校を卒業後、すぐに社会に出た青年と大学生。本来交わる場の無い二人を、海とヨットが結びつけた。レースに向け必死に練習する二人。そしてレースの日がやってきた。

現代の映像 「プラスチック昆虫記」 1969年7月11日放送(30分)

高度経済成長期、都会では子どもたちの遊び場が失われていった。昆虫もプラスチックの模型が幅をきかすようになった。地下鉄で通学し、ビル街のわずかなスペースや室内で遊ぶしかない子どもたち。体力の減退や肥満、背柱側わん症などが目に付くようになった。遊び場を失った都会の子どもたちの変化を追う。

ある人生 「回天の遺書」 1969年7月2日放送(30分)

人間魚雷「回天」は、第2次世界大戦末期、極秘に開発された特攻兵器である。操縦席を取り付けた魚雷に兵士が乗り込み、敵の戦艦に体当たりするというものだった。当時、山口県大津島にあった秘密基地に技術者として勤めていた毛利勝郎さんは、「回天」で出撃していく兵士たちから遺書を託された。番組は、預かった29通の遺書を届けるために、全国の遺族を訪ね歩いた毛利さんの戦後を描く。

ドキュメンタリー 「この幼きもの」 1969年6月14日放送(45分)

睡眠薬・サリドマイドによって手足が極端に未発達な子が世界中に生まれた、いわゆるサリドマイド禍。日本ではサリドマイド児のうち184人が学齢期を迎えた。そのひとり、山口県新南陽市の吉森こずえちゃんは、徳島大学医学部付属病院の医師たちが開発した義手を使いこなすため、厳しい訓練を受けてきた。念願の小学校入学を果たし、クラスメートに囲まれて通学するこずえちゃんの日常を追う。
※第1回ベルリン未来賞銀賞・受賞

ドキュメンタリー 「ふたりのひとり 総集編〜天野要・要吉の記録」 1969年5月5日放送(60分)

個性とはどのように形成されるのだろうか。山梨県秋川村に誕生した一卵性双生児の兄弟は、太陽と土の中で泣き、笑い、遊び、けんかをしながら、たくましく成長していく。そして二人がそろって小学校に入学するまで、5年間にわたる長期取材で綴ったドキュメンタリー。

現代の映像 「出稼ぎ遺族」 1969年5月2日放送(30分)

1969年(昭和44年)4月、東京の荒川方水路新四ツ木橋の工事現場で8名の作業員が死亡する事故が起きた。そのうちの7人は青森県南津軽郡大鰐町から来た「出稼ぎ」労働者であった。亡くなった7人のうち、5人の遺族が住む大鰐町居土地区に遺族を追いながら、農村の現実に迫る。

現代の映像 「歩道橋考」 1969年4月18日放送(30分)

歩行者の安全を守るため、1965年頃から都市部を中心に次々と建設された歩道橋。しかし一方で、高齢者や体の不自由な人達にとっては、階段の登り降りが負担になるという批判も出て、大分県では歩道橋をめぐる裁判も起きた。横断歩道橋を見つめながら、車優先の現代社会のひずみを問う。

現代の映像 「ある商戦」 1969年4月11日放送(29分)

流通産業は、いまや戦国時代。流通コストの削減、セルフサービス制などの商法で登場したスーパーはデパートをもしのぐ勢いである。そして、スーパーは消費者から歓迎され、流通産業の主役になろうとしている。大阪市のベッドタウンとして発展してきた豊中市で、大スーパーに対抗して商店側が共同で、手作りの小スーパーを作り、様々な知恵で生き残りを図る。日本で初の試みであるこの動きを通じて、流通産業の将来図を考える。

NHK劇場 「ふるさと」 1969年3月27日放送(50分)

都会の生活に疲れ、故郷に帰ってきた青年・達二。達二の突然の帰郷に家族は戸惑いと喜びを感じ、波紋が広がる・・・
心に傷を抱えた若者が、埼玉県秩父の町を舞台にふるさとの人々との交流から新たな一歩を踏み出すまでを描く。昭和40年代の秩父の懐かしい農村の風景や町なみが記録されたオールロケのドラマです。

ある人生 「私とホー・ティ・キュー」 1969年2月1日放送(30分)

激化するベトナム戦争──。そんな中、南ベトナムの13歳の戦争難民、ホー・ティー・キューが、福島県原町市に住む住職、石川周覚(しゅうかく)さん一家の里子となって来日した。お互いに言葉が分からない中、キューさんは石川さんの教えで日本語をゼロから習得していく。"家族"の一員としてうち解けるまでの4か月間を描いた記録である。

ドラマ 「迷子の天使」 1969年1月2日放送(60分)

念海家には夫・満寿三と妻の禎子・息子の宏一と犬、そしてたくさんの猫が暮らしている。禎子が、迷い込んできた猫や、よそで飼えなくなった猫を次々と引き取るので、自然と増えてしまったのだ。そんな禎子にあきれながらも、満寿三も宏一も猫たちをかわいがり、時には小さないさかいはあっても、仲のよい一家である。そんな念海家を隣家の娘・洋子は羨ましく思い、自分を養女にして欲しいと言い出して・・・。

現代の映像 「マイカー農民」 1968年12月27日放送(29分)

最近の農家では、跡継ぎの長男を村に留めるために家を改築し、新車を買うようになった。都会風の暮らしができないと、村の娘も出て行ってしまう。車のために農協から借金をして、出稼ぎに励む。新車が家に届くと、一家で車にお神酒をふるまい拍手を打つ。ポンコツ車の部品を集めて組み立て、販売する"車馬喰"と呼ばれる青年たちも現れた。宮城県北部の穀倉地帯に押し寄せたモータリゼーションの波を通して、農村の抱える問題を描く。

現代の映像 「出かせぎの海 〜第八昌徳丸遭難以後〜」 1968年12月20日放送(29分)

青森の八戸港は4百隻のイカ釣り船と8千人の釣り子(漁師)が集まるイカ漁の中心地である。8月26日、第八昌徳丸はイカの積み過ぎで遭難し、27人の釣り子が亡くなった。遭難から3ヶ月、番組では出稼ぎ漁師たちの厳しい現実と、遺された遺族の切羽詰った暮らしを描く。徹夜で働く体力さえあればすぐに一人前の釣り子になれるイカ漁には、若者たちが多い。最年少の15歳で亡くなった少年は、7人の家族を支えていた。遭難事故の背後にある過酷なイカ漁の現実を追う。

ドキュメンタリー 「高速」 1968年11月16日放送(60分)

当時、東名高速道路が開通し、本格的なハイウェイ時代が到来したが、ドライバーはまだ高速に慣れていなかった。連続追突事故の発生を契機に、高速運転がはらむ落とし穴を、科学的な実験を駆使して検証、高速走行への対策の必要性を提起する。
(明治百年記念芸術祭 奨励賞受賞)

現代の映像 「フェイル・セーフ」 1968年9月27日放送(30分)

高速で運行される東海道新幹線こだま号の運転台、それを管理する総合司令室。"フェイル・セーフ"と呼ばれるコンピュータ化された安全装置のコントロール下で働く運転手の姿を、蒸気機関車の機関士の仕事と対比させながら描き、労働の質の変化、安全思想の変貌を探る。

ある人生 「屯田兵の遺産」 1968年9月7日放送(30分)

北海道の上湧別町に住む花木さん一家は、10組の夫婦からなる41人の大家族。明治30年に北海道にやってきた屯田兵の一人、花木銀松さんの子孫である。銀松さんは36年前、借金8000円を残して亡くなったが、一家は結束してこれを返済した。皆で質素を心がけ、元旦には独自の「憲法」を発表。外での酒やタバコ、ダンスを禁じ、父の命日、4日には全員でお経を読む。屯田兵魂が今も息づく花木さん一家をドキュメントした。

ある人生 「浮かれの蝶」 1968年5月4日(30分)

日本最古の手品は、かつて"めくらまし""和妻"と言われた。3代目の帰天斎正一さん(87)は、紙を切って蝶とし、それを扇の風で生きている蝶のように操る奇術師である。彼はこの芸を明治天皇やマッカーサー将軍にも披露した名人だが、まだ後継者がいない。後継者と芸をめぐる老和妻師と弟子たちの哀歓を描く。

ある人生 「三里塚四十年」 1968年4月13日放送(30分)

千葉県成田市の三里塚──。上島六弥太(かみしま・ろくやた)さんは、三里塚にある宮内庁の御料牧場で、数々の名馬を育ててきた。定年後も牧場を経営していたが、そこへ突然、成田空港建設が持ち上がる。馬への愛着と空港建設との間で揺れ動く、上島さんの心情を描く。

ある人生 「さよならB−6」 1968年4月20日放送(30分)

明治38年以来走り続け、まもなくその使命を終える最後のB−6蒸気機関車と、27年間機関士として働き続け、あと1ヶ月で定年を迎える頑固一徹のベテラン機関士・小川さん。鉄道に従事する労働者の仕事への誇りと強い仲間意識、その職場に別れを告げる悲哀とを、ファンに囲まれてゆっくり走る蒸気機関車に重ねあわせながら描く。

ドキュメンタリー 「ある帰郷」 1968年3月23日放送(40分)

戦後23年もたって、沖縄戦のさなかで戦死したとされていた男性が、実は生きていたことが判明した。彼は沖縄で結婚し6人の子供がいた。その一方で、故郷である瀬戸内の島にも妻と子を残していた。番組は、男性の戦死公報取消しの過程や、23年ぶりに帰郷した男性とそれを複雑な心境で向かえる故郷の人々の姿を描いた。

現代の映像 「お父のボーナス 〜消費ブームの中の農村〜」 1967年12月22日放送(30分)

この年「史上最高の豊作」で潤った農家は、海外旅行や家の新築に忙しい。農協では「豊作を無駄にするな」と呼びかけるが、都会並みの暮らしを求めて乗用車やカラーテレビなどが急速に普及し、花嫁支度も豪華になっていった。他方、食管制度に支えられる米作りに将来の不安を隠せない農家や、現金収入を求めて内職や出稼ぎを始める農家もある。秋田県仙北郡千畑村の佐々木さん兄弟を中心に、消費ブームに沸く農村の動きを追う。

現代の映像 「ある出稼ぎ老人の死」 1967年12月8日放送(30分)

1966年10月、東京・品川区の路上に倒れていた老人が救急車で病院に運ばれ、まもなく死亡した。そして身元不明の死者とされ、法の手続きのままに大学の解剖実習の材料とされた。10ヵ月後、夫の行方を捜す妻が、警察署で身元不明者のリストを閲覧中に夫の氏名を発見したため、ようやくこの男性の身元が判明した。老人は、救急隊員に姓名を名乗り、身元がわかる所持品をみせたのに、なぜ身元不明の死者として処理されたのか? 妻が上京してこの事件の真相に迫るうちに、寒々とした大都会の人間関係が明らかになる。

現代の映像 「人か鳥か 〜東京湾新浜開発の論理〜」 1967年11月24日放送(29分)

千葉県と東京都の境を流れる江戸川の河口に位置する「新浜」。ここに広がる広大な三角州は、スズガモをはじめ、多くの水鳥が渡来する日本でも有数の野鳥生息地だった。昭和40年代初頭の大規模な開発の流れの中で、新浜は埋め立てられて造成地になることになった。これに反対した大学生を中心に、新浜の野鳥の宝庫を守ろうという運動が広がり、開発計画は見直しを迫られた。ところが、主に沿岸で漁業を営んでいた地元の住民たちは、開発計画に大きな期待を寄せていたのだ。番組は開発が迫る新浜を舞台に、野鳥を守ろうとする人々と、地元住民との対立を描く。

詩をつくる工場 「働く仲間のうた」 1967年11月23日放送(25分)

1965年、愛知県の働く若者たちの手で、「詩をつくる工場」というガリ版刷りの詩集が生まれた。2年経って仲間は100人を超えた。工員、保母、紡績工、ラーメン屋の店員など職業も様々。仲間同士のカップルも初めて誕生した。小さな詩集に綴られた彼らの詩を通して、働く若者たちの本音と群像を描く。
語り:奈良岡朋子、米倉斉加年

特集ドキュメンタリー 「和賀郡和賀町」 1967年11月1日放送(30分)

岩手県の穀倉地帯に位置する和賀町。都会に出ている人々が一斉に帰省してくるお盆の夏の日――。日本の典型的な農村を舞台に、村の日常のくらしを通して、高度成長期の農業や農村が抱える問題をカメラは見つめる。

あすをひらく 「よみがえる隅田川」 1967年9月3日放送(30分)

源流は清らかなせせらぎだが、河口の沿岸に1700もの工場を抱える隅田川は工場廃液や下水、ゴミなどで汚染され、、日本一汚い川と言われている。この川の水に金魚を放つと3時間で死んでしまう。「死の川」の代名詞となってしまった隅田川を生き返らすことはできるのか。東京都の都市公害部水質汚染課で行っている水質調査や浄化対策、通産省資源技術試験所の実験や研究を通して、隅田川の将来を展望する。

NHK劇場 「光る繭」 1967年8月24日放送(50分)

結婚式場で働く宮川伸子は、アパートで一人暮らし。育ての親の祖母を亡くして、形見の蚕を自分の部屋で飼うことにした。同じアパートに地下鉄の労働者・中村厚が入居し、蚕のために桑の葉を探し回る伸子の手伝いを始めた。アパートの大家・石田いまは、機関士だった夫を事故で喪い、息子の和男が機関車で遊ぶのも嫌う。下町のアパートの住人たちが、家族の死をきっかけに揺れる姿を描く。伸子は何故、蚕を飼うのだろうか・・・。

現代の映像 「奄美からの報告」 1967年8月11日放送(29分)

奄美大島が本土復帰してから13年。ところが農業収入は低迷し、平均所得は本土の半分しかない。外国支配の8年間で本土との格差や差別に敏感になった奄美では、本土へ復帰しても生活が楽にならないという悩みを抱えている。植物検疫法に基づく省令によって、病害虫が付いたパパイヤやバナナは本土へ持ち込むことができない。当時は病害虫を防除するための研究も遅れていた。本土復帰後も続く奄美の農家の苦しみを描く。

ある人生 「鳶二代」 1967年7月1日放送(30分)

日本初の超高層「霞ヶ関ビル」。36階建てビルの工事現場で働く小林利正さん(39歳)は二代目トビ職。高層ビルという高度な建築技術の実現を現場でささえるトビの姿を伝える。

現代の映像 「前掛けと青春」 1967年4月21日放送(30分)

東京新宿の総合食料品店では、毎年店員同士が結婚し独立する、「のれんわけ」が行われ、この年の4月にも10人以上の店員の「のれんわけ」が予定されていた。九州から上京し、懸命に商売を学んできた一人の青年を中心に、地方の若者たちが同じ職場の女性と結ばれ、独立していく様子を描く。過密化し膨張していく東京で、生活の基盤を築き堅実に生きていこうとする若者たちをみつめていく。

特集ドキュメンタリー 「半年もぐら」 1967年3月25日放送(30分)

青森県下北半島に位置する東通村は、昔から兵隊と出稼ぎの供給地といわれてきた。当時、村には現金収入を得る仕事はほとんどなかった。番組は、この村から半年間東京に出て地下鉄工事現場で働く人々を描く。

「日本の稲作」 1967年3月21日放送(60分)

真冬の客土から、秋の収穫までのコメ作りを、日本列島の四季の移り変わりの中につぶさに記録。転換期の日本の稲作の現状を伝える。
(ベルリン国際テレビ農事番組コンクール・黄金の穂賞受賞)

現代の映像 「わが家の灯」 1967年3月10日放送(30分)

高度成長は、庶民に住宅難をもたらし、狭く環境の悪い賃貸住宅に暮らす人も少なくなかった。そんな中、マイホームを手にするために、一致団結したタクシー運転手たちがいた。東京のタクシー会社の労働組合に作られた住宅部が、共同購入した土地に、自分たちの手で家を建てることを考えついたのだ。休日を返上し、皆で協力して家作りが始まった。困難にぶつかりながら、家族のため、慣れない家作りに挑む父親たちの姿を追う。

ある人生 「ぼた山よ・・・」 1967年2月18日放送(30分)

8歳でヤマに入り、50年間にわたり炭鉱で生きた山本作兵衛さんは、60歳になって絵筆をとり、肉体に染みついた地底の生活を描き続けた。その作品の世界には、炭鉱の中に生きた人々の歴史が読みとれる。

ある人生 「新宿駅長」 1967年1月28日放送(30分)

国鉄新宿駅長は、東京駅、上野駅と並んで現場の国鉄マンにとってあこがれのポストの一つだった。1年後に定年を迎えた石川正三駅長を主人公に、乗換も含め一日の乗降客200万人というマンモス駅を舞台にした多忙なスケジュールを描く。

ドキュメンタリー 「坑道 片すみの百年」 1966年11月28日放送(50分)

筑豊炭田の100年の歴史。坑道を解体し封鎖する作業を縦軸に、明治以降、炭坑に生きた人々の姿を回想する。
第21回芸術祭奨励賞受賞

NHK劇場 「大市民」 1966年11月24日放送(60分)

「NHK劇場」は1965年〜69年までドラマを放送した枠です。特に最初の2年間は「愛のシリーズ」と題して、様々な愛の形を探るドラマを探りました。これは、そうした「愛のシリーズ」の1本です。
大規模団地に住む村上家は、夫婦と息子一人のごく平凡なサラリーマン家庭。いつもと変わらない月曜日の朝。父は会社に、息子は友人と海に出かける。母は掃除洗濯と家事に追われる中、法事に出かける隣人の赤ちゃんをあずかるが・・・。
高度経済成長期のニュータウンに住むある家族の生活を描き、「本当の幸せ」とは何かを問いかけます。

ある人生 「親父どん」 1966年10月29日放送(30分)

名古屋に住む洋服店主・福留学さんは、東海地区の鹿児島県人会事務局長である。鹿児島から集団就職する少女たちの多くは紡績工場に勤める。福留さんは彼女たちに「親父どん」と呼ばれ、離職・転職相談や人生相談に乗り、県人会や集団見合いを開いてきた。鹿児島のためなら手弁当で奔走する福留さんの奮闘振りと、集団就職の若者たちの生活を描く。

現代の映像 「50万人の器」 1966年6月17日放送(30分)

将来、沿線住民50万人をめざして建設をはじめた電鉄会社。その田園都市線・開発計画プロジェクトの実現をめぐって入り乱れる、プランナー・会社・地域住民それぞれの思惑。

現代の映像 「ベトナム帰休兵」 1966年4月22日放送(30分)

1965年に始まったベトナム戦争。10年に及んだこの戦争に従軍したアメリカ軍兵士はのべ314万人。そのうち5万8千人が戦死した。戦時中、兵士たちに与えられた休暇は、1年半から2年従軍してわずか5日間。多くの兵士がこの休暇を日本で過ごした。明日の生死をも知れぬ極限状況の戦場から、つかの間開放される平和な時間・・・。番組はこのわずかな休息を日本で過ごす若いアメリカ軍兵士に密着し、ベトナム戦争の一つの側面を描く。

ある人生 「離島新聞20年」 1966年4月9日放送(30分)

長崎県の離島・対馬で20年間、小さな新聞に情熱をかけてきた斉藤隼人さん(57歳)。発行部数は1200部で、部下の記者はただ一人。社長の斉藤さんは取材から営業までのすべてを取り仕切っている。子どもの将来や後継者問題などの悩みも含めて、その孤軍奮闘振りを伝える。

現代の映像 「オンマ 〜韓国孤児を育てるある日本人の記録〜」 1966年3月25日放送(29分)

韓国のソウル市で理髪店を営む永松かずさんは、大分県出身の39歳。独身だが、32人の子どもたちから「オンマ」(韓国語で"おかあちゃん")と呼ばれている。永松さんには6歳の時、母に連れられて渡った満州で孤児となり、農家を転々として生き延びた体験がある。十数年前から、朝鮮戦争で孤児になった韓国の子どもたちを育てるようになった。彼らの教育のため、日本に一時帰国して募金活動に奔走する永松さんの姿を追う。

ドラマ 「ミュージカル わが心のかもめ」 1966年3月22日放送(60分)

当時20歳の吉永小百合さんと加藤剛さんの「純愛」を描いたミュージカル。2003年、テープが再発見された。聞き取りにくかったセリフの一部を改めて吹き込んでもらうなどして、38年ぶりに蘇った番組。映画スター吉永さんにとって、初めてのテレビドラマだった。
小さな旅行代理店で働いていた東千江(吉永小百合)は、ある日人形劇団の演出家・石橋潔(加藤剛)と出会う。潔は千江に求婚するが、千江は父親の借金を肩代わりしている男性と結婚させられてしまう。間もなく、千江は交通事故に遭い、記憶を無くして・・・

テレビ指定席 「20歳」 1966年1月15日放送(60分)

「テレビ指定席」は1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットをあてたドラマで、お茶の間の人気を博していた番組です。
新宿の雑踏でお金を拾って警察に届けたタケシとチエは、いずれも20歳。母一人子一人のタケシは夜学に通って旋盤工をしていたが、工場がつぶれて失業中。「いくら働いても希望がない」とふてくされている。幼くして両親を失い、弟妹の面倒を見てきた鳥取出身のチエは浜松の工場で働き、姉と慕う同郷の女性に結婚相談をしにきたところだった。偶然に出会ってチエの「姉さん」を探すことになった二人は、様々な人や事件に出会い、自分の歩むべき道を確かめていくことになる…。

ある人生 「まかしとき」 1965年12月19日放送(30分)

1961年8月、「釜ヶ崎事件」と呼ばれる1万人規模の暴動が起こった大阪の西成区。その後労働対策の一環として作られた「西成労働福祉センター」で職業紹介部長をつとめる郡昇作さん(64歳)は毎日、大忙しである。朝6時から集まってくる業者と労働者の間を走り回り、1日に2000件もの仕事のあっせんをさばいていく。「働く人に悪人はいない」と信じて、釜ヶ崎の労働者たちを辛抱強く支援する郡さんの足跡と日常を描く。

テレビ指定席 「駅」 1965年12月4日放送(60分)

東京オリンピックが開催された1964年に、東京―大阪間に東海道新幹線が開通し、高速鉄道時代の幕開けを告げた。
しかし、当時の上野駅は、集団就職や出稼ぎなど、いくつもの人生が行き交う駅として変わらぬ姿を見せていた。上野駅を舞台に、盛岡行きの列車が発車するまでの1時間のうちに、3組の世代の異なる男女が織りなす人間模様をオールフィルムロケで描いたドラマ。

現代の映像 「33.3分の1」 1965年12月3日放送(30分)

33.3分の1の確率で公団住宅に当たった3家族―銀行マンの佐藤さん、夫婦とも教員の蛭田さん、庭園設計技師で有楽町に事務所を持つ安藤さん一家の入居前後を追った。佐藤さんは銭湯から内風呂に入れるようになってご機嫌だ。安藤さんは設計の専用スペースができて、仕事への意欲を高めている。蛭田さんは25回目で抽選に当たり、教え子たちを部屋に呼んで悦に入るが、妻は子どもの保育問題でおおわらわ。こうした悲喜こもごもを描く。

ある人生 「執刀」 1965年10月17日放送(29分)

国立大阪病院の外科部長を務める長田博之博士55歳。臨床医として30年にわたり現場一筋に過ごしてきた長田さんは、これまで1300人のがん患者を手術してきました。しかし、最善を尽くしながらも、すでに手遅れで亡くなっていく患者が多いという現実の中で、長田博士は医療の限界に苦悩します。死の淵に立つ患者を1人でも多く救いたいと切に願い、医師の務めは病気を診るだけでなく、患者という人そのものを見るべきだという信念を実践する、誠実な一人の医師に寄り添い、当時の医療現場を見つめた番組です。

若さとリズム第1回 1965年10月16日放送(30分)

当時の新進気鋭の歌手たちが出演した、明るく楽しい歌番組。歌は「君に涙とほほえみを」「ドンナドンナ」「夜空のトランペット」ほか。
出演は弘田三枝子、鹿内タカシ、布施明、ジャニーズ ほか。

現代の映像 「野菊のたより〜ある21歳の青春」 1965年9月3日放送(30分)

岡山県英田郡粟倉村の萩原繁美さんは祖母と二人で暮らしている。今は耕運機を買うために刈入れまでの1ヶ月間、出稼ぎをすることにしたが、将来は農業一本で生きていこうという夢を持っている。短歌の雑誌で知り合った大分の農業青年と文通を通して励ましあい、「働くのが楽しくてたまらない」という萩原さんの、農業に生きる青春を記録した。

現代の映像 「塵芥都市」 1965年8月27日放送(30分)

高度経済成長で都市に人口が集中し、増え続けるゴミの処理に東京は頭を悩ませてきた。8年前に作られた夢の島からは対岸にハエの大群と臭気が流れ、交通渋滞でゴミ収集車の積み残しも増えている。ゴミ焼却所の建設には住民の反対運動が強い。悪臭対策に取り組む都の清掃研究所や用地買収交渉などを追いながら、過密都市東京の深刻なゴミ問題をさぐる。

ある人生 「スリ係警部補」 1965年7月25日放送(30分)

人ごみの中に光る鋭い眼。その眼が追いかけるのは、今まさに他人の財布に手をかけようとするスリの姿。スリは現行犯でしか逮捕できない。犯人にめぼしをつけ犯行の瞬間まで粘り強く尾行していく。この地道なスリ捜査に執念を燃やす一人の刑事がいた。犯人検挙2千人以上、警視庁刑事部捜査第三課すり係の曽根正人警部補。全国のスリから「鬼の曽根」と恐れられる曽根警部補に密着し、犯人検挙の瞬間まで追ったドキュメンタリー。

ある人生 「臥蛇の入道先生」 1965年4月18日放送(30分)

鹿児島から南西に250キロ、トカラ列島に属する臥蛇島(がじゃじま)は周囲9キロ、平均70メートルの断崖絶壁に囲まれた島である。鹿児島から船で24時間かかるこの島に1953年から1966年にかけ教師として赴任していたのが、島民から入道先生と呼ばれ親しまれた比地岡栄雄(ひじおか・えいお)さん。比地岡先生は子供たちに勉強を教えるだけでなく、島民のために簡易水道を作り、現金収入の無い島に畜産やシイタケ栽培も奨励した。絶海の孤島で、島の人々の生活向上のために孤軍奮闘する離島教師の記録。

現代の映像 「埋もれた戦後」 1965年4月16日放送(29分)

福島市のサラリーマン・大槻市郎さん(54歳)は、元満州国軍の軍事顧問だった。敗戦後は11年間、戦犯として抑留生活を送った。彼は戦時中に犯した罪を償うため、日本に連行された中国人労働者の遺骨を集めて中国に送還することを生涯の仕事としている。日曜日ごとに遺骨を探し歩くその姿は、20年間、口をつぐんできた村人たちを協力者に変えていった。大槻さんを通して、戦争に向き合って生きるひとりの日本人を描く。

ある人生 「荒地の記録」 1965年4月11日放送(30分)

秋田県由利郡大内村の佐々木作治さん(55歳)は満州開拓農民時代の記録を綴っている。得意だった絵も入れて、ノートはすでに5冊になった。満州に渡ったのは昭和15年。記録には敗戦直後、ソ連兵に追われる間に3人の子どもを亡くした壮絶な42日間の逃避行が生々しく描かれている。由利郷開拓団の元団員たちは仲間の消息を訪ね、23回忌の準備を始めた。国策だった満州開拓の裏で、大きな犠牲を払った開拓民の戦争体験をたどる。

現代の映像 「失業者同盟」 1965年4月2日放送(30分)

石炭から石油へのエネルギー革命の中で、筑豊炭田も閉山が続く。経済的に厳しい状況の中で、住民の3割が生活保護で暮らす、廃坑の町。そこで、永久失業者として生きようとする大正鉱業失業者同盟員たちが、"城"である同盟村を作る過程を描く。

ドキュメンタリー・ドラマ 「遭難」 1965年3月21日放送(54分)

大きな遭難事件として今も語られる、愛知大学山岳部の薬師岳遭難事件の遺族を描いたドキュメンタリー・ドラマ。1963年(昭和38年)1月、愛知大学山岳部の13人のパーティは、正月登山として北アルプスの薬師岳を目指す。ところが後に「38豪雪」と呼ばれた猛吹雪の中で登頂を断念。下山途中にルートを誤って全員が遭難死した。番組では、遺体が発見されない息子を探して独力で捜索を続けたひとりの父親の姿を、捜索隊や北アルプスの名ガイド、山小屋の人々を交えて再現した。
脚本・たなべまもる。演出・岡崎栄。

テレビ指定席 「記念の樹」 1965年2月20日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットをあてたドラマで、お茶の間の人気を博した番組です。
会社勤めをしているきぬ子は、母と義姉とその子どもとの4人暮らし。列車事故で亡くなった兄は子煩悩で、子どもの写真を撮ってはアルバムを作っていたが、今はきぬ子がそれを引き継いでいる。職場の同僚とのデイトにも子どもを同伴するほどに子育て中心の生活だ。ところが義姉に再婚の話がもちあがった。子どもは誰が育てるのか・・・。

ある人生 「定年機関士」 1964年12月20日放送(29分)

昭和39年は東京オリンピックが開催され、新幹線が開通した年である。この年の暮れに、秋田県の国鉄の機関士、高橋三次郎さん(56歳)は定年を迎えた。39年間蒸気機関車一筋に生きた高橋さんは、数年前に指導者の立場になっていたが、今回、最後の運転を願い出た。助手を務めるのは機関士見習いの長男章さん。技術の全てを伝える父と、吸収しようとする息子。蒸気機関車は二人の夢を乗せて力強く走りだした。

ある人生 「杖と六法全書」 1964年12月13日放送(29分)

78歳の家本為一さんは、お金が無く弁護士を雇うことのできない被疑者のための国選弁護を専門に引き受ける、ベテラン弁護士である。報酬は少なくその暮らしぶりは質素だ。しかし家本さんは意に介さずに、杖をつきながら熱心に調査に歩き、被疑者に親身な声をかける。そして法廷では方言でユーモアたっぷりの熱弁をふるう。そこからは、弁護士のあるべき姿が見えてくる。

ある人生 「風変わりな保証人」 1964年11月29日放送(29分)

茨城県大和村にある総合病院の院長、延島(のぶしま)市郎さんは、昭和39年までの5年間で73人のタイ人留学生の保証人を引き受けました。延島さんは自らがアメリカに留学した時、言葉の壁もあり大変苦労した経験があります。そして東南アジアを視察した際、多くの若者が日本に留学を希望しているものの、日本に身元を引き受ける保証人が居ないため留学できないという現状を知ったのです。延島さんはそれ以来、留学生の保証人をすすんで引き受けるようになりました。番組では留学生から「おとうさん」と慕われる延島さんと、タイからの留学生たちとの心の交流を描きます。

現代の映像 「火と水 新潟地震に取材して」 1964年6月28日放送(30分)

1964年6月16日午後1時過ぎ、新潟県粟島南方沖を震源とするM7.5の大地震が発生。被害は新潟、山形、秋田など9県に及んだ。日本海沿岸一帯が津波に襲われ、液状化現象が起こった。石油コンビナートでは石油タンクが炎上し続け、周辺にも延焼した。この消火には7日間かかった。大逆流で信濃川は決壊し、流域一帯は浸水。番組では地震後に襲いかかった"火と水"に対して、被災地の人々がいかに闘ったかを記録している。

テレビ指定席 「おとこ同志」 1964年5月23日放送(60分)

サラリーマンの父と教育熱心な母、大学受験の兄と中学受験の妹にはさまれた中学生の信二は、一見のんきに見えるが、それなりに悩みもある少年だ。1ヶ月の小遣いはもっと欲しいし、「勉強、勉強」とうるさい母が何とかならないかと思う。友だちが不良高校生につきまとわれることも案じている。信二は父に「男同士の話」を打ち明ける。成長期の少年の目から見たマイホームと中学生活を、コメディタッチで描いたドラマ。

現代の映像 「遠い旅路〜サーカスに生きる人々」 1964年4月26日放送(30分)

あるサーカス一座の鹿児島公演の模様を追い、戦争により旧満州で肉親と生き別れ、引き揚げてきたトロンボーン奏者を主人公に、テント暮らしの"さすらいの家族"たちの人間模様とその絆を描く。

日本の伝統 「かすり」 1964年4月17日放送(30分)

日本でかすりが本格的に普及したのは、江戸中期に沖縄から新しい技術が伝わってからだという。茨城県結城市とその周辺の結城つむぎ、奄美大島を中心とした大島つむぎ、新潟県の小千谷ちぢみの製作過程などを紹介しながら、かすりの魅力をさぐる。

現代の記録 孤独な遊戯 〜パチンコ文化論〜 1963年12月28日放送(30分)

年間3000億円産業に発展したパチンコ。番組では夜店のゲームだったパチンコが戦後、一大産業になってきた歴史と、パチンコの発明者・正村氏をはじめ業界の裏方である釘師やパチンコ店員、景品替えの独特な仕組み、パチンコ愛好家なども紹介する。昭和30年代後半、すでに全国11000軒、110万台にパチンコが普及した事実をふまえ、パチンコが日本文化に定着した理由をさぐる文明論的なルポ番組。

テレビ指定席 「ドブネズミ色の街」 1963年12月28日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットを当てたドラマで、お茶の間に人気を博していた番組です。
高度成長期の下町を舞台に、密集したバラック街に住む小学校6年生の子どもたちがたくましく生きる姿を通じ、"右肩上がり"の時代の希望のあり方を探っていく・・・。

テレビ指定席 「魚住少尉命中」 1963年12月7日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットを当てたドラマで、お茶の間に人気を博していた番組です。
沖縄戦に敗れ、本土空襲が激しさを増していた敗戦間近の昭和20年7月。アメリカの輸送船攻撃のため、人間魚雷・回天特別攻撃隊が出撃する。回天特攻隊員の一人、魚住少尉は、「1隻でも輸送船を沈めることが出来れば本土攻撃をわずかでも防ぐことになる」と自ら志願した。8月、攻撃隊はアメリカの大型輸送船団に遭遇、魚住少尉の人間魚雷が発射される。敵艦に向かう極限の時間の中で魚住少尉の胸に去来する思いとは・・・。

現代の記録 「平均」 1963年11月30日放送(30分)

現代は世論調査が大流行中。一世帯あたりの貯金の額や、学校のテストの平均点、消費財の所有率など、様々な調査で出てくる平均値は、日本人の平均像を表しているのか。またこうした平均値は日本人の意識にどのような影響を与えているのだろうか。
サラリーマンや団地が急増し、日本人が横並び志向を強めた時代に、日本社会の'平均'を考える。

テレビ指定席 「ポプラの歌」 1963年8月31日放送(60分)

東京で自動車修理工をしていた常男は故郷に帰り、家業の養豚や米作りをしている。彼は最近、不機嫌で怒りっぽい。付き合っていた女性から「農家の嫁はイヤ」と結婚を断られたからだ。そんな常男の村へ、若い女性たちが田植えの手伝いにやってきた。養豚が大好きな気の強い娘や、養子縁組ができる男性を探している娘もいる。心ざわめく青年たち・・・。農村に生きる若者たちの結婚をめぐって揺れる思いを描いたドラマ。

テレビ指定席 「下町」 1963年7月6日放送(60分)

人々のぬくもりが伝わってくる東京の下町で、頑固者の菓子職人の父と気風のいい母が営む和菓子問屋の一家が繰り広げる人間模様。結婚適齢期の美しい姉妹に幼なじみの工員の青年や世話好きの仲人などがからみ、切ない恋心と結婚話に揺れていく・・・。

現代の記録 「停留所」 1963年6月22日放送(30分)

東京の下町・錦糸町駅前の停留所のラッシュ、雨の中の指ヶ谷電停、旧王子電車三の輪線など、都会の停留所には様々な表情がある。一方、岡山―津山間のバスは、人だけでなく郵便物や物資、文化などを運ぶ手段となっており、こうしたバスの停留所は地域の交流の場として重要な役割を果たしている。"庶民のなかの停留所"を各地に訪ねる。

夢であいましょう 「上を向いて歩こう 特集」 1963年6月8日放送(30分)

若い世代を対象に、歌と踊りとコントがミックスされた、しゃれたバラエティー番組。
出演:金井克子、黒柳徹子、田辺靖雄、谷幹一、中嶋弘子、E.H.エリック、坂本九、藤村有弘、坂本スミ子

日本の素顔 「修学旅行」 1963年5月26日放送(30分)

昭和35年、文部省によって正式な学校行事と位置づけられた修学旅行。これは年間500万人の生徒が参加し、300億円が使われる大きな教育事業である。しかし東京見物や、京都、奈良の文化財の詰め込み見学、観光地めぐりなどに終始している学校が多い。義務教育の中で一番金のかかる行事になっているが、現地での実地教育とう本来の目的は果たせているのだろうか。さまざまな修学旅行の実態をルポし、再検討していく。

現代の記録 「都市と水路」 1963年5月18日放送(30分)

高度経済成長の中、工場や生活廃水によって水質の汚染が深刻化していく都市の水路。 番組は、オリンピック開催直前の東京や大阪の水路の現状を見つめなおしたうえ、その実態を明らかにしながら、開発によって失われていく都市の水路のあり方を考えていく。

日本の素顔 「在日留学生」 1963年4月7日放送(30分)

東京新宿の国際学友会寮で、留学生たちによる食堂ボイコットが続いている。ことの発端は食堂の30%値上げ問題だが、背景には東南アジアの留学生たちが抱える厳しい生活実態がある。留学生予算が乏しい日本では、生活費の確保に追われる留学生が多い。日本人学生との交流が少ないことを嘆く声もある。こうした留学生をめぐる問題を千葉大留学生寮や新星学寮などに訪ね、日本の留学生制度をいかに温かい血の通ったものにするかを考えていく。

現代の記録 「地下たび」 1963年3月9日放送(30分)

ヨーロッパでは履物は皮製だが、日本では古代から地面をつかむ履物が発達してきた。その代表格が地下たび。大正時代に生まれた地下たびは、大震災後の作業にぴったりで全国に広まり、太平洋戦争の戦場でも大活躍した。今でも畑仕事から高層ビルの建設現場、炭鉱労働など、あらゆる場所で使われている。日本人の足元を見つめたドキュメンタリー。

現代の記録 「駅の顔」 1963年3月2日放送(30分)

「38豪雪」と呼ばれた昭和38年冬の雪深い青森駅や、廃線間近の無人駅、東京のベッドタウンとして大きく変貌しつつある東武東上線上福岡駅、「若者たちの町」としてすっかり定着した今日からは想像もできないのどかな原宿駅など、全国各地の様々な駅に集まる人々や駅員たちの表情を描く。原宿駅は当時、山手線の中で最も乗降客が少ない駅だった。

現代の映像 「新橋駅前 西東」 1963年2月10日放送(30分)

市街地改造法の初めての適用を受け、新橋駅前東口に誕生した高層雑居ビル。しかし、西口の旧住民たちは、このビルは庶民の願いとかけ離れた「お役所仕事」だとして、このビルに続いて西口に計画されている内容の修正を要求した。自分たちが望む商店や街とは何か。そこで生活する人々の反対運動をとおして、あるべき都市計画とは何かを考える。

テレビ指定席 「海の畑」 1963年1月19日放送(60分)

江戸時代からノリ養殖で栄えてきた東京・大森。しかし東京湾は空港や工場建設で埋め立が進み、工場廃水で汚染が目立ってきた。ノリ養殖の漁師たちは立ち退きを迫られている。ノリ一筋に生きてきた石浜右衛門は、「わしの一生は終わったも同じ」と嘆く。次男の茂は家業のために進学を諦めたことに不満で、工場勤めを始めた。同業者たちも補償金や転職をめぐって揺れている。石浜一家の行く末は・・・。嵐寛寿郎はこれがNHKドラマ初出演。

テレビ指定席 「遠い島から」 1962年12月15日放送(60分)

いまだに電気はなく、船は月に1便しかやってこないという人口300人足らずの離島が、とうとう無医村になってしまった。村長は島民の期待を一身に背負い、「医者を何とか連れ帰る」という使命を帯びて、東京にやってきた。東京へ働きにきている島出身の若者にも再会するが、彼はすっかり東京の人間になっていた。村長は新聞社に駆け込んで窮状を訴える。新聞社には記事を読んだ医師希望者が大勢つめかけるが・・・。

現代の記録 「死者の来る場所」 1962年12月8日放送(30分)

下北半島の恐山や佐渡ヶ島の北端、願部落の「サイの河原」、山形の山寺・奥の院、栃木の岩舟山、青森の川倉地蔵堂など、日本各地には死者の霊がやってくるとされる場所がある。日本人にとって死者は近くにいる。年月が経つと遠くへ行ってしまうが、あの世とこの世はくっきり別れていない。死者の霊は招けば帰って来るのだ。霊地の現実の姿から、日本人の心にひそむ「死」とあの世のイメージ、その独特の死生観を探る。

テレビ指定席 「町が呼んでる」 1962年12月1日放送(60分)

東京・下町で水上生活者が多く住む町の小さな眼科診療所に、一人の元気な女医さんがやってきた。山の手育ちのお嬢さんだった三好先生は、つましい庶民の暮らしや人間関係のいざこざに戸惑うが、患者さんや子どもたちに慕われてすっかり町になじんでいった。ところが結婚問題が浮上。ここを辞めて自分ひとりが幸せになっていいのだろうか…と悩み始める。女医さん役は河内桃子。はつらつとした「女赤ひげ先生」を演じている。

日本の素顔 「水子塚」 1962年11月11日放送(30分)

水子塚とは中絶された胎児をとむらう墓のことである。日本はこの15年間で、西欧諸国が百年、二百年とかかった少産少死の安定人口を実現させた。しかし、年間100万から150万にのぼるという人口妊娠中絶に問題はないのか。胎児の中絶の是非をめぐって、様々な立場の産婦人科医や加藤シヅエ・参議員議員などが意見を出し合う。一部に誤解を招きそうな表現も出てくるが、当時の熱い議論に時代の空気がにじみ出ている。

現代の記録 「新中仙道」 1962年11月17日放送(30分)

中仙道は日本橋から始まる五街道の一つだ。五街道は江戸時代に定められ、お伊勢参りにも使われた東海道、現在の山梨県につながる甲州街道、日光東照宮へと続く日光街道、今の福島県白河市へとつながる奥州街道、そして、内陸へと向かって行き、東海道と合流する中仙道の5つだ。中仙道は江戸時代、大名から庶民に至るまで幅広く使われた。昭和30年代の中仙道の様子や暮らしを描くとともに、道路の持つ社会的意義を改めて探る。

テレビ指定席 「汚れた小さな手」 1962年11月10日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットを当てたドラマで、お茶の間に人気を博していた番組です。
高度成長時代、発展していく大企業を横目に下請けの町工場は劣悪な条件に追いやられてゆく。主人公はそこで働く18歳の女子事務員と農村出身の工員。二人はその工場の唯一の娯楽・ピンポン大会で対戦したのをきっかけに親しくなる。ある日、同じ工場で働く彼女の兄を中心に待遇改善を目指す労組結成の機運が高まる。会社側の論理と工員達の狭間で、二人は翻弄され、引き裂かれる。厳しい労働環境の中で苦しむ若者の現実を見据える・・・。

現代の記録 「老いた島々」 1962年10月6日放送(30分)

若者たちが出かせぎに出て、住民の6割を高齢者が占める島で、無期限の留守番を続ける老人たちの日々。訪ねるのは高知県沖ノ島、山口県沖家室島、岡山県白石島など。昔は家族ぐるみで働いていたが、今は老人の愚痴を聞いてくれるのは海しかない。残された老人たちの寂しさがつのる日常を描く。

現代の記録 「都会っ子」 1962年8月25日放送(30分)

高度経済成長期の都会には人口が集中して、コンクリートに囲まれた団地暮らしが増えている。それにともなって交通量が急増。交通事故の犠牲になる子どもも多い。遊び場が減少し、電車の中で遊んだり、テレビを見て時間をつぶしたり、たくさんの玩具に囲まれてひとり遊びする子どももいる。母親べったりで、塾通いに忙しいのも都会の子の特徴だ。行き場のない都会の子どもたちの孤独と閉塞感を描いたドキュメンタリー。

テレビ指定席 「若者たち」 1962年6月16日放送(60分)

集団就職で東京に働きに出てきた若者たちの世界を、仕事の悩みや仲間同士の交流、恋愛などを通して描いたドラマ。達夫は職人気質の厳しい親方の下で働く見習い工。仕事に行き詰まりを感じていた。「若い根っこの会」に出入りして同世代の仲間に出会い、染物工場で働く民子と心を通わせるようになった。そして新しい職場を求めるようになっていく・・・。

現代の記録 「BGの周辺」 1962年4月21日放送(30分)

華やかな職業婦人というイメージで当時盛んに使われたBGという言葉、英語では不正確な表現という理由でOLという言葉にとって代わられた。ある調査では就職目的の第1位が「社会見学」と出るなど「腰掛」と批判される反面、意欲的に働く女性たちからは低賃金の補助作業とされることへの反発も強い。番組では彼女たちの本音をユーモラスにつづる。

テレビ指定席 「巣立ち」 1962年4月7日放送(60分)

テレビ指定席は1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットを当てたドラマで、お茶の間の人気を博していた番組です。
高校3年生の勉と母・民江は二人暮らし。父親がいないという理由で、勉は就職を希望した会社から不採用を通知される。勉の将来に胸を痛める民江。しかし民江にはもう一つ、胸につかえていることがあった。それは勉との親子関係にまつわっていた・・・。終戦後17年、戦争の傷跡をひきずる母と子の愛情を描いた物語である。

テレビ指定席 「大空にはばたけ」 1962年1月6日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットをあてたドラマで、お茶の間の人気を博した番組です。
やんちゃな小学生・健二の家には両親がいない。下町の小さな家で、工員の兄と高校生の姉と3人で仲良く支えあってけなげに暮らしている。ところが姉は親がいないからか、就職試験に落ちてしまう。兄は憧れていた幼なじみに縁談が持ち上がったと聞いてショックを隠せない・・・。

テレビ指定席 「海を渡る人々」 1961年12月9日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットを当てたドラマで、お茶の間に人気を博していた番組です。戦後、増え続ける日本の人口を支えるだけの経済的基盤がなかった時代。離職を余儀なくされた男が、新天地を求めて南米パラグアイへの移住を決意する。しかし、妻は反対し、子供を残し実家に帰ってしまう。そこへ男に同情した女性が現れ、二人は結婚し、子供を連れてパラグアイに向かう。移住に揺れ動く家族や周りの人々の心情を描いたドラマ。

NHK短編映画 「電話(その周辺の記録)」 1961年11月23日放送(30分)

生活に便利で必要不可欠な電話。ところが増え続ける需要に供給が追いつかない。雪深い山村では、電話がないと陸の孤島になる。何年も待ってようやく念願の電話が架設された時には、村人たちは電話を囲み酒盛りをして祝う。盛り場で恋のかけひきに使われる電話、和風で優雅な電話ボックスに設置された京都の公衆電話、酔っ払いにからまれるのが悩みのタネの電話交換手たち…。電話をめぐる様々なエピソードに時代の縮図を見る。

テレビ指定席 「生活の河」 1961年9月17日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットをあてたドラマで、お茶の間の人気を博した番組です。 だるま船が都市輸送に重要な役割を果たしていた時代、隅田川の水上生活者の一家が船の生活と陸の生活の選択に悩みながら、支えあって生きる姿を描いたドラマ。 長年、運搬船の船頭をしてきた頑固者の祖父は、子や孫たちにも船の生活を継がせたいと願い、就職や結婚、教育をめぐって若い世代とのいさかいが絶えない・・・。

日本の素顔 「妻の座」 1961年9月17日放送(30分)

戦後、新憲法の発足により女性の地位は向上し、妻の座も大きく高められた。しかし、ほんとうに妻の座は解放されたのか。秋は結婚シーズン。一方、妻の座を捨てて離婚する人も少なくない。今回は、家庭内における妻の実情を、封建性が抜けきらないといわれる農村の妻、漁村の妻、商家の妻、近代的だといわれる都会の団地生活の妻にそれぞれスポットをあてて、今日の妻の座を探っていく。

日本の素顔 「レジャーの断面」 1961年7月30日放送(30分)

レジャー時代は、大量生産と技術革新にともなって登場してきた。しかしレジャーブームの裏には、レジャー産業側の強い働きかけがあったようだ。番組ではレジャーの実態と、レジャーにともなうさまざまな問題にスポットをあてる。

NHK短編映画 「隠れキリシタン」 1961年7月20日放送(35分)

長崎県下には、今でも信仰迫害の徳川時代そのままにキリスト教信仰を守っている、いわゆる隠れキリシタンがいる。彼らは観音像を聖母マリアに見立て、仏教徒を装いながら、昔ながらの信仰方式を継承している。カトリック教会と関わりを持たず、祝い日には密かに集まって祈りをささげ、オラッショ(祈りの言葉)を唱える。現代の隠れキリシタンを平戸島の根獅子部落と五島奈留島の松山部落に訪ね、その実態を記録した。

日本の素顔 「サラリーマン」 1961年4月16日放送(30分)

現在日本には650万人のサラリーマンがいる(昭和35年度の総理府統計)。この5年間に200万人も増加している勘定になる。人はなぜ、サラリーマンになりたがるのか。サラリーマンといえば、安定した生活、終身雇用、ホワイトカラーのきれいな仕事・・・。彼らの80%が「理想は趣味にあった快適な生活」と答えている。しかしサラリーマンの将来はどうなるのだろう。その日常生活を通して平均的な日本人の生活感覚を描いていく。

テレビ指定席 「春の雪」 1961年4月9日放送(60分)

「テレビ指定席」は、1960年代前半、社会の片隅に生きる庶民にスポットをあてたドラマで、お茶の間の人気を博した番組です。
古いしきたりが残る酒造の旧家を舞台に、2組の男女が因習を乗り越えて幸福をつかもうとする姿を描く。仲むつまじい次男夫婦は1年前からいわゆる「足入れ婚」をしているが、家の格式にこだわる父に反対されて正式な結婚ができない。「足入れ婚」とは'試し同棲'で、「嫁」が気に入らなければ実家に帰すという前近代的な風習である。長男には相思相愛の恋人がいるが、父は自分が決めた「嫁」との婚礼を進めようとする。彼らの行く末はいかに・・・。

日本の素顔 「行商」 1961年1月22日放送(30分)

商品を背負って家々を売り歩く行商。昭和30年代は、さまざまな行商の姿が全国で見られた。彼らはどのように商売をしていたのか。中には組合をつくって年間百億円を売り、1県の経済の動向を決めるような大きな力を持つものから、個人単位の零細なものまで、行商にも規模や業態にかなりの違いがある。一般の流通機構のワク外に存在する行商の実態を分析し、その背景や意義を解明する。

NHKテレビ映画 「山の分校の記録」 1960年4月22日放送(50分)

栃木県栗山村の土呂部(どろぶ)という集落の分校に、今から40年前、テレビが初めてやってくることになった。ここで学ぶ31人の子どもたちは、テレビが映し出すそれまで見たこともない外の広い世界に瞳を輝かせる──。カメラは1年にわたりテレビが子どもたちの生活をどう変えるかを追うとともに、山村の暮らしを克明に記録する。

NHK短編映画 「街の女性の服と色と・・・」 1960年2月29日放送(18分)

戦争ではすべての色が失われるが、平和な時代に色はよみがえる。街を彩る女性の服を、色の視点からとらえた番組。衣類や小物に使われる色、その年の流行色はどう決まるのか。色と売り上げの関係を調べているデパートの流行色研究室の試みや、年齢や職業によって好みが左右される色の科学などを、昭和30年代のファッションとともに紹介する。
スタジオゲスト:泉麻人(コラムニスト)

日本の素顔 「幼き受験生たち〜受験にっぽん」 1960年2月7日放送(30分)

第1次ベビーブームの世代が小学6年生になった1960年(昭和35年)。学歴社会を生き抜くための進学熱が高まる。さらに、エスカレーター式に進学できる私立小学校の人気も増し、幼稚園の幼い子どもたちも受験戦争に巻き込まれていった。1問でも多くの正解をするため、試験用紙と格闘する受験生たち。加熱する受験戦争を描く。

1950年代

日本の素顔 「自衛隊」 1959年12月20日放送(30分)

自衛隊は1954年(昭和29年)に設立された。昭和30年代、日本はまだ戦後復興の途上にあり、産業や生活基盤の整備が優先課題になっていた。また、世界では東西両陣営が厳しい対立を繰り広げていた。そうした時代状況のもとで、平和憲法下の自衛隊の増強や装備の現代化は、大きな論議を呼んだ。番組は、自衛隊設立から5年後の隊員たちの生活や訓練などの様子に加えて自衛隊についての当時の国民感情も多角的に描き出した貴重な記録である。

テレビドラマ 「平和屋さん」 1959年11月20日放送(77分)

戦争の記憶が遠のく時代に、戦場体験にこだわる男の屈折した気持ちを描いたドラマ。紡績会社に勤める速見庸三は、フィリピンから生還した元兵士。今の幸福な暮らしを、死んだ戦友から非難されるように感じて、落ち着かない。そんな彼を、妻や妹たちは「戦争ボケ」と笑う。ところが彼の前に会社の入社希望者として、戦犯で処刑された軍人の娘が現れた。彼女は父のために職もなく、家も借りられない。速見は心を動かされていく・・・。

日本の素顔 「泥海の町〜名古屋南部の惨状」 1959年10月4日放送(30分)

1959年、全国で5000人以上の死者を出した伊勢湾台風。
9月26日に名古屋市西方30キロメートルに到達、高潮と満潮が重なり、海水は15キロメートルも陸地に押し寄せ、浸水した面積は120平方キロメートルに及んだ。
その水位の高さは6メートルにも達したところもあり、水が完全に引くにはおよそ2か月もかかった。
愛知県だけで死者・行方不明者3260人、被害家屋23万戸に達した現地の惨状を集中的に取材。

日本の素顔 「子どもの見た夏休み」 1959年8月23日放送(30分)

昭和30年代の子どもたちの様々な夏休みの過ごし方を、彼らの生の声で描く。両親の期待をになって、夏休み返上で補習授業を受ける子どもたち、病気の両親に代わって夜店で働く兄弟、遊泳禁止の淀川で泳いだり、デパートを遊び場にする子、休みの間開放された教室へ遊びに行く子たち、「家は退屈、夏休みは10日くらいでいい」とつぶやく少女…。子どもたちは学校では学べない社会の知恵を、夏休みに学ぶ。

ここに鐘は鳴る 「沢田美喜」 1958年3月23日放送(30分)

時の話題の人をスタジオに招き、ゆかりの人々に再会する番組「ここに鐘は鳴る」。この日の主人公は、戦後直後に多数生まれた混血孤児のための養育施設「エリザベス・サンダースホーム」を作った澤田美喜さん。澤田さんは財閥の家に生まれ外交官の妻になって海外生活を送り、イギリスで孤児救済活動に目覚めた。スタジオにはホーム設立時の関係者やアメリカ人の養父母、成長した子どもたちが多数集まり、苦しかった時代を語り合う。

NHK短編映画 「タクシーの運転手」 1957年12月12日放送(15分)

師走の東京を走るタクシー運転手。彼らの収入は歩合給が大半を占める。1日に350キロ走っても、9千円稼ぐのは容易ではない。土日の競馬場をねらったり、ネオンの街で待ったりするのは常套手段である。雨が降れば駅構内に急ぎ、客を拾う。早朝から未明まで交代で24時間勤務し、懸命に稼ごうとする2人の運転手の日常を描く。

NHK短編映画 「新しい札幌」 1957年10月1日放送(20分)

「文化は東北を飛び越えて、東京から北海道につながる」と言われるくらい、若々しさと新しさが自慢の北海道。その表玄関・札幌には、できたばかりのテレビ塔がそびえ、全国一高い展望台へ観光客を運ぶエレベーターがお目見えした。ポプラ並木で知られる北海道大学から、夜の狸小路商店街、広々した麦やポップの畑、月寒牧場など、若い大地に躍進する札幌のみどころを紹介する。

NHK短編映画 「佃島」 1957年3月14日放送(20分)

東京下町の隅田川河口に浮かぶ佃島の生活を描いた記録映画。昭和30年代初期の祭囃子や神輿の掛け声がなつかしい時代を思い出させる。

テレビドラマ 「どたんば」 1956年11月10日放送(87分)

福岡県の中小炭坑で起きた落盤事故。現場に取り残されたカナリヤと4人の炭坑労働者を主人公に、安否を心配して駆けつける関係者。必死の救援作業で3人が救出されるまでを描く、テレビ草創期の迫真の生放送スタジオドラマ。

NHK短編映画 「東海道を行く」 1956年11月2日放送(20分)

国道1号線をトラックで東京から大阪まで走りながら、道路と鉄道を通して高度経済成長を支えた日本の輸送事情を見ていく。「できばかりの日本一のハイウェー」横浜新道を通り、箱根越えをすればカミナリ族のバイクに追い越され、荷物を満載した「裸トラック」とすれ違う。砂利道はまだ残っているが、各地では新しい橋が架かり道路も建設中だ。急増する交通事故、深刻な水害、工場地帯の活況など、変わり行く沿線の暮らしも浮かびあがる。

NHK短編映画 都市シリーズ 福岡 1956年4月1日放送(20分)

人口54万、古来より九州の政治・経済・文化の中心地だった福岡。
梅の名所・大宰府天満宮は菅原道真ゆかりの地である。天守閣のない城は在りし日をしのばせる。古い商都の名残りはひさしの低い格子戸に見られる。国鉄博多駅は明治42年に鹿児島本線が開通した当時の由緒ある建物だ。職人気質は博多人形や博多織作りに脈々と受け継がれている。古い伝統が色濃く残る側面と、戦災の痕から近代的な街に変わろうとする新しい福岡の両面を紹介する。

NHK短編映画 都市シリーズ 名古屋 1956年3月1日放送(20分)

人口130万人、日本第3の都市・名古屋。道幅100メートルの桜通りは建設中。戦禍で焼かれた名古屋城に金の鯱はない。市民の間では名古屋城の再建協力の気運が高まる。
街角にはきしめん屋が軒を並べる。高さ180メートルのテレビ塔で結婚するカップルも・・・。地下鉄工事も始まり、経済的に躍進し始めた名古屋の街を紹介する。