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今月は『紅白歌合戦』の後編です。
『紅白歌合戦』は2009(平成21)年で60回の節目を迎えますが、回数を明記するようになったのは第4回(昭和28年大晦日)からです。第1回から3回までは、正月にスタジオから伝えるラジオ番組でした。年々人気が上昇し観覧希望も増えたために、テレビ放送開始となる第4回から劇場公開することにしました。しかし、大きな劇場はどこも正月公演などでふさがっており、たまたま大晦日に空いていた日劇を借りることになったのでした。正月よりはトップ歌手を確保しやすくなりましたが、果たして大晦日の夜に観客は来てくれるのか、スタッフは皆不安だったといいます。いよいよ本番当日。その日の東京は雪が舞っていました。ところが、客足はにぶるどころか、日劇の周囲には開場を待つ人で長蛇の列ができていました。この回から取り入れた入場行進、選手宣誓、優勝旗授与などの演出と女性軍のきらびやかな衣装がテレビ放送を大いに盛り上げ、番組は大成功を収めたのです。以降、『紅白』は年末恒例の歌謡番組として定着しました。しかし、人気が上昇し「国民的行事」とまで言われるようになると、何かと批判の声も上がるようになり、制作者たちも様々な困難を乗り越えなくてはなりませんでした。『紅白座談会』の後編は、注目される番組ゆえに工夫を重ねてきた制作者たちの思いを語ります。

![[第9回]アーカイブス・カフェ座談会
紅白歌合戦 座談会(後)
時代を映し、時代とつながる](img/feature_1.jpg)
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川口幹夫さん(81歳・ディレクター) 昭和25年入局。福岡局を経て、テレビジョン局芸能部で1953(昭和28)年の『第4回紅白』(テレビ放送1回目)から12年にわたって担当。チーフ・プロデューサー時代の1963(昭和38)年には、史上最高視聴率81.4%を記録。ドラマ部長、番組制作局長、放送総局長、NHK会長を歴任。 |
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山川静夫さん(74歳・アナウンサー) 昭和31年入局。青森局、仙台局、大阪局を経て、アナウンス室で『ひるのプレゼント』『ウルトラアイ』やBS『山川静夫の“華麗なる招待席”』など数多くの人気番組を担当。『紅白』は1972(昭和47)年と翌年に総合司会、1974年から連続9回、白組司会を務めた。 |
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島田源領さん(59歳・ディレクター) 昭和46年入局。鹿児島局、福岡局を経て番組制作局演芸番組班。1976(昭和51)年の『第27回紅白』に応援バラエティ担当として参加。以降、総合演出、チーフ・プロデューサー、芸能番組部長、エグゼクティブ・ディレクターとして20年間あまり『紅白』に関わってきた。 |
──『紅白歌合戦』を取り巻く環境が変わったのはいつごろからでしょう?
山川 ちょうど僕が白組司会の7年目となる1980(昭和55)年から、視聴者の価値観が多様化していきましたね。昔はコタツ、みかん、一家団らん、そして『紅白』だったのが、だんだんテレビが一部屋一部屋にあるっていうようになってきて、家族もばらばらになってきたんですよ。だから視聴率もだんだん下がってきて僕の白組司会の9年目(第33回、1982年)には70%を切ったんです。それは何かが悪かったというわけじゃないんですよね。時代なんですよ。
川口 だから、視聴率が下がっただけで「もう終わりだ」というふうなことを言うのはあまりにも作る側を馬鹿にしていると思います。制作者はいつの時代も、パーセンテージではなく、少しでもテレビを見てくれる人たちの心に残れば、ということを考えて、一生懸命作っているんですから。
島田 70年代までは、『紅白』だけじゃなくて、テレビの音楽番組っていうのは、人気のある歌謡曲の人たちさえ出ていれば視聴率も取れるし、その人たちのレコードも日本中で売れていました。テレビが音楽情報を独占しているような時代だったんですね。ところが、ウォークマンとかCDとかいろんな形が出てきて、音楽の楽しみ方も随分変わってきたし、視聴者ニーズもジャズ、民謡、クラシックなどジャンルが広がってくると、いつもお付き合いをしていた歌謡曲の常連さんだけでは応えきれなくなってきたんです。
山川 阿久悠さんが言っていました。「最近の歌は空を飛ばなくなった」ってね。昔は九州から北海道まで飛んだけど、このごろの歌は飛ばなくなったと。あれは名言ですね。だからそれをどうするかですね。
島田 CD100万枚売れましたって言っても、その歌を100万人しか知らないかもしれないですものね。みんなヘッドホンで聞いているから、広がらないんですよ。そうした多様化にどう応えていくかというと、時間も延ばさなきゃいけないし、歌手の数も増やさなきゃいけないだろうし、日本だけじゃなくアジアでものすごく評価されている曲もやんなきゃいけないんじゃないかみたいなことになるんです。
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──それで島田さんがチーフ・プロデューサーを担当した平成元年(第40回)から2部制にしたのですか?
島田 長く続いた昭和は、名曲をいっぱい生んだ時代じゃないですか。だから、2部構成にして、前半は昭和の名曲をふりかえり、後半は新しい平成の時代っていうふうに、2つにちゃんと分けてやろうじゃないかということだったんです。昭和を総括するにはね、やっぱり美空ひばりさんをVTRでもいいからやろうよとか、山口百恵さんもやろうよという形になったんですよ。だから、あの年は、夜7時20分スタートで長時間編成にする事に関しては、そんなに議論はなかったです。ただ、その時川口さんにはしかられたんです。「『紅白』は、やっぱり9時からやるもんだ」って(笑)。
島田 僕の一番の間違いは、翌年の平成2年に「海外4か国、衛星生中継」なんていう馬鹿なことをやっちゃったことですね。バブルがまだ残っているころなんですが、あの時、シンディー・ローパーを呼んできたりね。当時の会長がリハーサルの時に来て、「マイケル・ジャクソンぐらい呼んでこれないのか。100万ぐらい出すぞ」と言って、いなくなっちゃったんです(笑)。あの100万というのは、ドルだったのか、円だったのか?(笑)。そんなこともあったんですけども、やっぱりね、あのNHKホールのお客さん3000人を前にして、そこにスクリーンを下ろして中継を映すというのはいけませんよ。目の前のお客さんは引くから。
山川 ほんとほんと。司会者からも、中継するとシラ〜ッと観客が冷えていくのが分かるんですよ。それをまた盛り上げるっていう時が非常に疲れちゃうんですよね。
島田 ですからやっぱりね、あのNHKホールっていう小屋の中で、審査も何も全部、完結するっていう形にしなきゃだめだと思って、平成3年には戻したんです。中継は全部やめたんですよ。とにかくホールの中で、歌手のみなさんが1年で一番いい顔をして歌って、お客さんの熱気と共に盛り上がって終わればいいって。『紅白』というのは、ほっといたって出演者はみんな、この歌が終わったらもう除夜の鐘だって思って通常の番組とは違う思いで歌うわけですから。
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山川 形を追求するあまり、マンネリだとか、いろいろ変えろって言うけれど、僕らがやってきた70年代ごろからね、マンネリマンネリって言われてきたんですよ。だけど川口さんがそのころ、おっしゃってましたよね。「マンネリという批判があるが、『紅白』の良さはこのマンネリの中にあるような気がする。祭りは同じ事を何百年も続けているが、これを誰もマンネリとは言わない。とにかくこのマンネリの本質にあるシンプルな要素を軽視すると、結局それは短命に終わってしまう」というふうにね。
川口 「偉大なるマンネリ」っていう言葉があるんですよ。マンネリというとすぐ変えようと言うけれども、これは変えようがない、変えないほうがいいんだっていう事がね。
島田 僕が演出した平成3年に、恒例だった選手入場をやめたんですが、それはやっぱり焦ったんですね。つまり、民放の番組を見ていても、テンポがあるじゃないですか。ですから必ず番組冒頭の3分で1曲目の音を出さなきゃ、もう持たないんじゃないかみたいなことが気になったんです。しかし、昔から行っていた選手入場は1つのセレモニーなんですよね。オリンピックでも必ず選手入場はあるし、聖火をつけるんですよね。そういう事っていうのは、毎回やったってマンネリじゃないですよね。
山川 セレモニーを省略すると、相当時間が稼げるんですよ。でも、入場行進や選手宣誓なんてね、ばかばかしいけれどいいもんです。変化はやっぱり歌自体にあるし。マンネリのような1つのパターンというものを維持していると、逆に歌が変わるだけでムードは変わるものです。今年の歌手、今年の歌を代表していれば、時代を映し、時代と繋がるわけです。だからその“時代の鏡”足りうるかどうかっていうことが『紅白』の価値だと思うんですよ。
川口 これから新しい『紅白』を作らなきゃいけないだろうけれども、その場合もね、あんまり理屈が走ったらだめですよ。理屈じゃない、みんなが盛り上がってくれるものを作ったほうが遙かにいいものできる。それを作らないと新しい『紅白』は生まれないと思うんです。そのみんなが一つにまとまってくるものは何か、それをどうやって作るのかっていうことをね、若いみなさんにこれから考えてもらえばいいんです。バラエティーというのは底の浅いもんじゃないですよ。いっくらでもやり方があるんだから。テレビが持っている可能性、未知の面白さを探し出して、ぜひ花を咲かせて欲しいと思いますね。
おわり


お問い合わせ:NHKアーカイブス
URL: http://www.nhk.or.jp/archives/
「河合正嗣・微笑みの絵画展」
埼玉県川口市にあるNHKアーカイブスは、この2月で5周年を迎えます。それを記念したさまざまな催しのひとつとして、来年度のアーカイブス年間テーマ「ともに、いきる」に基づいた展示『河合正嗣・微笑みの絵画展』を開催します。河合正嗣さんは、芸術祭優秀賞や国際エミー賞招待作品に選ばれたNHKのドキュメンタリー番組・プレミアム10「この世界に僕たちが生きてること」の主人公です。河合さんは、筋ジストロフィーと闘いながら、病院などで出会った看護師さんや患者さんたち110人の微笑みを絵にしています。「110人」という数には、「ヒトとヒト」という意味が込められています。微笑みは、どんな試練にあっても、ヒトとヒトを結びつける力を持っています。河合さんの絵は、私たちに「ともに、いきる」ことの素晴らしさを教えてくれます。期間は2月2日〜3月23日、NHKアーカイブス2階の出会い広場で開催します。
![今月の主な放送[アーカイブス関連番組]](../../img/sche_2.gif)
※放送日時、内容は変更する場合があります。最新の番組表はこちら。
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NHKアーカイブス(毎週日曜放送) 2月17日(日)総合/23:40〜1:00 ■ 海外の日本「ブラジルに生きる」(29分/1968年) |
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■ ドキュメンタリー'90「ニッポン出稼ぎ〜ブラジル日系人 それぞれの選択〜」(44分/1990年) | |||
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あの人に会いたい(毎週日曜放送) 2月17日(日)教育/11:20〜11:30 ■ 辰巳柳太郎(俳優) |
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新日本紀行ふたたび(毎週土曜放送) 2月16日(土)総合/11:00〜11:34 ■ 「祝子(ホシャ)どんの夜神楽〜宮崎県・高千穂〜」(1982年)より |
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蔵出しエンターテインメント(毎週月〜水曜放送)衛星第2/19:45〜20:32
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![今月のおすすめ[番組公開ライブラリー]](../../img/lib.gif)
※全国のNHK放送局でご覧いただけます。
2月のテーマは「恋」
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ドラマ新銀河 「妻の恋 1」 (1995年9月25日放送・19分) |
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ぐるっと海道3万キロ 「涙で書いたラブレター〜沖縄・恋の交差点〜」 (1987年3月16日放送・30分) |
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ドラマスペシャル 「安寿子の靴」 (1984年10月13日放送・90分) |
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「越中おわら風の盆〜高橋治原作「風の盆恋歌」より〜」 (1988年9月4日放送・60分) |

A:著作物を改変する場合は、原則として、著作者本人の許諾が必要です。JASRACの管理楽曲であっても、使用報告だけでなく、放送前に、原曲の作詞家に個別に許諾を得てください。
著作権法では、「著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする(第20条)」という『同一性保持権』が定められています。替え歌を作る際には、原則として事前に作詞家ご自身の許諾を得ることが必要です。ただし、教科書での用字用語の変更などやむを得ないと認められる場合は許諾無く改変することができます。

NHKが『紅白』の映像を完全な形で保管したのは第23回(1972)からです。10年ほど前に、第5回(1954)から第13回(1962)の録音を名古屋市の岩田寛男さんが、第14回(1963)と第15回(1964)の録音を元NHKアナウンサーの大井安正さんが、第16回(1965)から第22回(1971)までの映像を元NHKアナウンサーの宮田輝さんが、それぞれ寄贈してくださいました。これらは個人的に収録し保管していたもので、『紅白』の記録の空白を埋めてくれました。現在では貴重な記録として、番組公開ライブラリーなどで大いに活用されています。さて、次回は『おかあさんといっしょ』を特集します。(N)
発行:2008年2月1日 第17号
〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
NHKライツ・アーカイブスセンター
発行人:菅野 栄/編集長:根本佳則
編集:MAXプロジェクト/SOCIALSOFT.INC
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